日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第17回 シンクロナイズドモンスター

第17回 シンクロナイズドモンスター

平成二十九年八月(2017)
京橋 テアトル試写室

 

 怪獣映画にもいろいろあるが、これはちょっとユニークな怪獣もの。
 アン・ハサウェイふんする主人公、ニューヨークでライターの仕事をクビになり、恋人とも別れて、故郷に帰ってくる。
 なにもない寂れた田舎町で、親はもういない。廃屋同然の実家をなんとか寝起きできるようにする。
 三十過ぎて、田舎で仕事もない。たまたま道で出会った男が幼馴染、これが酒場をやっていて、そこでウェイトレスとして働くことに。
 なにもかもいやになって、飲んだくれ、朝方、町外れの公園でひとり暴れる。と、ちょうどその時間に韓国のソウルに巨大な怪獣が突如出現して町を破壊する。
 朝に彼女が公園で暴れたのと、ソウル市内の怪獣になにか関連があるのか。
 TVのニュースで怪獣を見て驚く。なんと彼女が頭をボリボリかく癖、怪獣が彼女とまったく同じ動き。
 ある一定の時間、アメリカの田舎町の公園、そこに彼女が入ったとたん、ソウル市内に怪獣が現れる。つまり怪獣は彼女の分身なのだ。
 そのことを知った酒場の幼馴染、彼女に気があるのに袖にされ、自棄になるが、この男もまた、公園に入ると、ソウルに巨大ロボットが出現することがわかる。
 別れた恋人が迎えに来て、よりを戻そうとする彼女に、嫉妬に狂った幼馴染が言う。俺の言うことをきかないと、ソウルを無茶苦茶にするぞ。一見お人よしの酒場の主人だが、実は陰湿で狂暴なクソ男だった。
 彼を阻止しようにも、町の中で怪獣と巨大ロボットが戦ったら、ひどいことになる。そこで、彼女がとった解決策。これがスカッとするのだ。

 

シンクロナイズドモンスター/Colossal
2017 カナダ・スペイン/公開2017
監督:ナチョ・ビガロンド
出演:アン・ハサウェイジェイソン・サダイキスダン・スティーヴンス

『映画に溺れて』第16回 キングコング 

第16回 キングコング

平成十八年一月(2006)
渋谷 渋東シネタワー3

 

 一九三三年の『キングコング』は大ヒットとなり、続編、リメイク、パロディなどたくさん作られ、ゴジラとも対決している。
 これを二十一世紀のコンピュータグラフィックスを駆使してリメイクしたのがピーター・ジャクソン版。
 時代設定はオリジナル版と同じ大恐慌時代、一九三三年のニューヨークの町が画面いっぱいに広がる。立ち並ぶビル、走る車、歩く人々、すべて本物の三十年代。リアリズムで奥行きを作り、膨らませている。
 ジャック・ブラックふんする映画プロデューサーは出資者たちから中止を通告され、フィルムの返還を求められ、大慌てで南の島を目指して船出する。ところが主演女優が降りてしまい、町で拾った失業中のボードビル女優を船に乗せる。プロデューサーが助手に降板女優の代りの主演候補、当時の実在女優の名を次々あげていくとき、フェイ・レイはどうだと聞くあたり、にんまりする。フェイ・レイはオリジナル版の主演女優である。
 たまたま船に乗り込んでいた劇作家。冒険家役の主演男優。そして個性的な船員たち。見習いの少年。やがて船は南の島に到着。この島はコナン・ドイルの『失われた世界』である。古代の恐竜がうようよしていたり、おぞましい虫たちが人を襲ったり。そして一行はキングコングと出会う。次々と命を落とす男たち。
 やがて、コング捕獲後の帰国。ニューヨークの劇場での興行。暴れるコングと軍隊との対決。エンパイアステートビルからの落下。オリジナルにほぼ忠実に進むが、映像の凄さ、徹底したリアリズムには圧倒される。さすがに『ロードオブザリング』のピーター・ジャクソンだけのことはある。

 

キングコング/King Kong
2005 アメリカ/公開2005
監督:ピーター・ジャクソン
出演:ナオミ・ワッツジャック・ブラックエイドリアン・ブロディ

『映画に溺れて』第15回 マタンゴ

第15回 マタンゴ

 

昭和三十八年八月(1963)

大阪 梅田

 

 これは小学四年生の夏休み。夏休みや冬休みには父や祖母が映画館に連れていってくれる。父も祖母も映画が好きだった。そして私は休みの映画がなにより楽しみだった。

 特撮ながら、『マタンゴ』には巨大怪獣が出てこない。それなのに、子供心に怪獣映画よりも怖かった。海を漂流中、助け出された男が語る体験談。という体裁になっている。

 数人の若い男女が大きなヨットで遊んでいて、嵐で遭難し、無人島に流れつく。人はいないが、そこには不気味な生き物がいる。

 先に流れ着いた漂流者の書置きがあり、キノコを食べてはいけないと警告されている。だが、食べ物がなくなり、とうとうひとり、またひとりと、島に生えているキノコを口にする。食べると、全身に不気味なできものができて、徐々にキノコに変身してしまうのだ。

 島の不気味な生き物は、以前の漂流者がキノコに変身した姿だった。

 食べた者をキノコに変える毒キノコ、それがわかっても、飢えの苦しみから、キノコに手を出さざるを得ない。一口食べると、麻薬のように気分がよくなり、やめられなくなる。という恐ろしい物語だ。

 そして、語り終わった男は……。

 当時は二本立てで、もう一本が加山雄三の『ハワイの若大将』だった。

マタンゴ』は大人になってから、大井武蔵野館で再び観た。子供のときには気がつかなかったが、遭難する七人の男女の中には黒澤明の作品に出ている土屋嘉男、太刀川寛、久保明もいる。怪奇映画であり、心理ドラマでもあったのだ。

 

マタンゴ

1963

監督:本多猪四郎

出演:久保明水野久美、小泉博、佐原健二、太刀川寛、土屋嘉男

「映画に溺れて」第14回 ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃

第14回 ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃

平成十四年一月(2002)
新所沢 レッツシネパーク

 

 うちの子供たちが幼い頃、『とっとこハム太郎』というTVアニメが大好きで、それが劇場用映画になった。観たいというので、連れていった。ハムスターを擬人化した幼児向きのアニメーションだ。二本立てのもう一本が『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』だった。私はゴジラハム太郎もまったく期待していなかった。あの当時、何本かゴジラ映画を観ていたが、どれも大変つまらなかったのだ。


 ところが、金子修介監督は、大人の鑑賞に耐えるゴジラを作った。これは昭和五十四年のゴジラ第一作の続編であり、その間に作られた諸々をすべて無視している。ゴジラの襲撃から五十年経ち、日本は繁栄を誇っているが、世紀末にはアメリカをゴジラに似た怪獣が襲い、日本の識者の間ではあれはゴジラとは認められていないが、再び、日本にも怪獣が訪れる可能性も出てきた。(このあたりは当時のハリウッド版ゴジラが駄作で不評だったことを皮肉っている)


 宇崎竜童扮する国防軍の司令官は少年の頃、ゴジラの襲撃で両親を亡くしている。五十年前のゴジラは、軍の力で退治したとされているが、実際にはひとりの科学者が作った化学薬品によって滅んでいた。軍の権威を守るため、その事実は隠蔽されている。(第一作の平田昭彦、芹沢博士のエピソード)
 日本を再びゴジラが襲い、国土を守るための三体の聖獣が甦ってゴジラと戦う。それがモスラ、バラゴン、キングギドラ。このあたりが過去の怪獣対決のパロディ。
 よくできているのが、怪獣災害のリアリズム。怪獣被害に遇う端役ともいうべき人たちをベテラン俳優が演じて恐怖を強調する。怪獣の記念撮影をしようとして潰される人。ヘリコプターで取材中にとばっちりで炎上する記者。などなど。
 我が家の子供たちも、このゴジラ映画には大喜びであった。私も第一作に次いで、このゴジラが好きである。

 

ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃
2001
監督:金子修介
出演:新山千春、宇崎竜童、小林正寛天本英世佐野史郎

 

『映画に溺れて』第13回 ゴジラ

第13回 ゴジラ

平成二年三月(1990)
三鷹 三鷹オスカー

 

 ゴジラの第一作は終戦からそれほど年月が経っていない時期に作られた。
 私が最初に観たゴジラは一九六二年の『キングコング対ゴジラ』であり、その後、ずうっと第一作を映画館で観る機会はなかった。
 結婚してから、私は妻と三鷹オスカーの三本立てにしばしば通い、第一作の『ゴジラ』とはそこで出会った。三本立て、あとの二本は『モスラ』と『空の大怪獣ラドン』ですごいプログラムである。三鷹オスカーは小津安二郎三本立て、ウディ・アレン三本立て、ブライアン・デ・パルマ三本立て、ミュージカル三本立て、SF大作三本立てなど、映画好きにはたまらない名画座だった。
ゴジラ』を観て驚いたのは、これが決して子供向きの幼稚な特撮怪獣映画ではなかったことだ。
 おそらくは広島と長崎に落とされた原爆のイメージである。ゴジラそのものが、原水爆実験によって目覚めた大古の怪物という設定なのだ。
 そして、ゴジラに破壊される東京、逃げ惑う人々、これは米軍による東京大空襲の再現のようである。
 俳優もスタッフも、みんな戦争を体験した世代で、その理不尽な悲惨さを身にしみて知っている人たちなのだ。
 だが、この映画はそんな反戦映画ではない。わくわくするような娯楽映画である。暴れ回る怪獣の恐ろしさ。それに反して老教授の志村喬はほとんど『生きる』の渡辺さんのごとくで、ユーモアを振りまいている。教授の娘をめぐって、宝田明平田昭彦の恋の鞘当て。パニック映画であると同時に人間ドラマでもある。
 大人の鑑賞に耐え、そのことが後々数多くの続編を生み出すことになる。

 

ゴジラ
1954
監督:本多猪四郎
出演:宝田明河内桃子平田昭彦志村喬

 

『映画に溺れて』第12回 キングコング対ゴジラ

第12回 キングコング対ゴジラ

昭和三十七年八月(1962)
大阪 梅田

 

 私のゴジラ映画初体験は小学校三年のとき、父と観た『キングコング対ゴジラ』だった。
 第一作『ゴジラ』が公開されたのが一九五四年、ということは、私が生まれた翌年にゴジラが世に出たわけだし、話題作でもあったから、当然ながら幼い私もゴジラの存在は知っていた。が、なかなか映画館で観る機会はなかった。
 一方『キングコング』もアメリカの巨大なゴリラの話として、事前に知っていたと思う。TVで古いアメリカ映画はしょっちゅう放送されており、それを見ていたかもしれない。
 その有名な二大怪獣が対決するのだ。わくわくして、観に行く前からうれしくて仕方がなかった。

 夏休みの宿題の絵日記に、私は大きな岩を持ち上げているキングコングを描いて、先生に褒めてもらった。そのことは鮮明に記憶している。
 大人になってからわかったのだが、ゴジラキングコングは実は大きさがかなり違うのだ。人間と比べると、どちらも大きいが、ビルを踏み潰すゴジラはビルによじのぼるキングコングよりもはるかに巨大なはずだ。それを同じ大きさにして戦わせる。
 コンピュータグラフィックスのない時代、コマ撮り撮影も手間がかかるので、キングコングゴジラも、着ぐるみの中に人が入っている。だからほぼ同じ大きさなのだった
 その後、モスラキングギドラなど、怪獣同士がやたら戦うだけの映画が次々と量産されると、私は怪獣ものにはまったく興味がなくなってしまった。
 それはそうと、キングコングゴジラが取っ組み合って海に落ちるラストシーンは、あのライヘンバッハの最後の事件が参考になっているのだろうか。

 

キングコング対ゴジラ
1962
監督:本多猪四郎
出演:高島忠夫佐原健二藤木悠浜美枝若林映子平田昭彦

『映画に溺れて』第11回  大魔神

第11回 大魔神

昭和四十一年四月(1966)
大阪 八尾 八尾会館

 

 祖母が映画好きだったおかげで、幼少時にはしょっちゅういっしょに映画館に通ったが、何を観たか、あまり記憶にないのだ。ほとんど時代劇だったが。
 六十年代の小学校入学時には、家にはすでにTVがあったので、映画館に行く回数はぐっと減る。それでも、年に何回かは映画館に連れて行ってもらい、小学生以降に観た映画はかなり憶えている。
 中学生になったばかりのとき、祖母と最後に観たのが近鉄八尾駅前の商店街にあった古い小さな映画館での『大魔神』と『ガメラ対バルゴン』の大映二本立てだった。
 東宝の『ゴジラ』から始まる怪獣ものは、大ブームとなり、ゴジラモスララドンなど次々と出て、TVでは『ウルトラQ』も始まった。東宝に続けと便乗して怪獣映画を作ったのが松竹のギララ、日活のガッパ、大映ガメラ
 当時の子供はたいてい怪獣が好きだったが、さすがに中学生ともなると、怪獣には飽きてきて、私のその日の目当てはガメラではなく『大魔神』のほうだった。

 時は戦国時代、暴君に親を殺された娘が、山の神像に祈る。巨大な石像で、普段は埴輪のような穏やかな顔だが、怒ると恐ろしい鬼のような形相に変わり、大魔神となって動き出す。
 怪獣ではなく、一種の神様、『アルゴ探検隊の大冒険』に出て来る青銅の巨人のようなものか。これが悪殿様とその家来たちを踏み潰し、叩き殺す。当時は時代劇もまだ人気があったから、出て来る俳優も本格的な着物やちょんまげが似合う人たちで、そこに怪物が現れるというのは、なかなか魅力的であり、単なる子供だましではなかった。

 祖母がこの映画に連れて行ってくれたのは日曜日で、今でも憶えているのは、その日にTVの『ウルトラQ』があり、映画に行くと好きなTVが見られなくなる。さんざん迷って『大魔神』にしたが、今でもいい選択だったと思う。

 

大魔神
1966
監督:安田公義
出演:高田美和、青山良彦藤巻潤、五味龍太郎

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第14回 新世界

 金栗四三(中村勘九郎)はオリンピックでの戦いを終え、ストックホルムから帰国しました。日本では明治天皇崩御し、元号が大正に変わっていました。四三はオリンピック土産に、ヤリ投げのヤリや砲丸、円盤などを持ち帰ってきました。
 高等師範学校に戻ると、四三によるオリンピック報告会が催されました。敗北を告げる四三でしたが、その努力を身近に見てきた学友たちは結果を責めるはずもありません。しかし一人の女性が
「敗因は何だと思われますか」
 と四三に詰め寄るのです。その女性は永井道明(杉本哲太)の弟子であり、東京女子師範学校助教授である二階堂トクヨ(寺島しのぶ)でした。敗因は一つではないという四三。食事、練習法、天候。しかしどれも言い訳にしかすぎないから、胸の奧にしまって、ただもくもくと、と言いかけたところに永井が吠えます。
「それじゃ駄目なんだよ」
 永井は言います。敗北から学ばなければ意味はない。10年後、50年後、欧州人と肩を並べるために今何をすべきか。しかし四三は叫びます。
「俺には四年しかなかです」
 次のベルリンオリンピックまで四年しかない。四年後も出るつもりなのかとあきれる永井。しっかりと返事をする四三。
「ベルリンのスタジアムの旗竿に、必ず日の丸ば、あげたかです。ストックホルムの悔しさ、恥ずかしさを晴らすため、明日から粉骨砕身してマラソンの技を磨こうと思っちょります」
 部屋に帰ると、四三は「今度こそ勝つために」とノートの表紙に書き記します。四年後のベルリン大会に向けて、対策を練ろうというのです。舗装路対策、出だしのスピード。
 この頃、東京には、電話の普及によって電信柱が各所に立てられるようになりました。電柱は40,50メートル間隔で立っています。四三はこれに目をつけました。四三の練習方法はこうです。まず電柱の最初の五本を軽く流し、次の五本を全力疾走。次の五本は流します。これを何度も繰り返し、速度の変化に体を慣らしていきます。名付けて「電信柱練習法」です。
 そのころ美濃部孝蔵(山本未來)、後の古今亭志ん生は師匠の円喬に稽古をつけてもらっていました。
「旅に出てみないか」
 と円喬は言います。ほかの師匠について、地方を回るという話でした。
「お前さんにはフラがある」
 と円喬は孝蔵に言います。フラの意味は、ちょうど底に汽車が通りかかったため、聞き取れませんでした。
 孝蔵が新橋から汽車に乗ろうとするところに、円喬は忙しい寄席の間に、走って駆けつけます。汽車が発車する間際、円喬は孝蔵を預かる小円朝に訴えかけます。
「フラがあんだよ。こいつは大化けするんだからよ。立派に育ててくんないと、あたしゃしょうちしないよ」
 四三と共にオリンピックに参加していた三島弥彦(生田斗真)が半年ぶりに帰国しました。女性記者に初めて負けた感想を尋ねられます。
「すっきりしたよ」
 と、弥彦は答えます。
 弥彦は天狗倶楽部の面々と酒を飲んでいました。
「久しぶりに野球でもやるか」
 と、誘いますが、皆は乗ってきません。皆は落ち着き先を考え始め、天狗倶楽部を解散しようと考えていたのです。
「それなら僕はアメリカへ渡ろう」
 と弥彦は言います。兄に頼んで銀行のアメリカの支店に就職し、アメリカの(スポーツの)強さを見極めてやる、と宣言します。これには仲間たちも感服。
「我らは、スポーツを愛し、スポーツに愛され、ただ純粋にスポーツを楽しむ。元気の権化、T・N・G。奮え、奮え、天狗」
 と、気勢を上げるのでした。
 四三は弥彦と話していました。四三は言います。
「俺たちは精一杯やりましたよね。一回りも二回りも大きな西洋人に混じって、へこたれんで戦いましたよね。日の丸とニッポンのプラカードを持って堂々と歩きましたよね。あれは嘘じゃなかですよね」
「ああ、まぎれもない現実さ」
 と、答える弥彦。
「よかった」と安心する四三。「誰も証明してくれんけん、今こうして東京で暮らしとる自分は嘘の自分で、本当の自分はまだストックホルムにいるのじゃなかて」
「確かめに行くかね」
 という弥彦。弥彦が四三を連れて行ったのは映画館でした。ストックホルムオリンピックの記録映画が上映されていたのです。映画を見ながら二人は笑い合うのでした。
 そして四三は兄の命令で熊本に呼び戻されます。悪いようにはしないという兄に連れられ、四三は見合いをさせられます。そしてなんと見合いの相手はあのスヤ(綾瀬はるか)だったのです。

 

頼迅庵の歴史エッセイ3

3 「働き方改革」と柳生久通

 

 平成31年4月1日は、新元号「令和」が発表された日です。おそらく、平成の小渕官房長官(当時)のように、菅官房長官の画像も今後折りに触れて映しだされることでしょう。
 実は、この日は「働き方改革」による改正労働基準法の施行日でもあります。今回の改正のポイントは、「労働時間法制の見直し」と「雇用形態に関わらない公正な待遇の確保」の2つです。
 このうち、労働時間法制の見直しの大きな柱は、残業時間の上限規制ということでしょう。厚労省のパンフレットによれば、残業時間の上限を法律で規制することは、70年前(1947年)に 制定された「労働基準法」において、初めての大改革となるそうです。
 今までは法律上の残業時間の上限はありませんでした。労使が合意すれば、事実上青天井だったのです。ですが、4月からは、原則として月45時間・年360時間を残業時間の上限とし、 臨時的な特別の事情がなければこれを超えることはできなくなります。

 ところで、勘定奉行に異動した柳生久通はどうしたでしょうか。
 久通は仕事に熱心に取り組みます。それはそうでしょう。折角自分を評価し抜擢してくれたにも関わらず、わずか1年で横滑りせざるを得なかったわけですから。老中松平定信の期待になんとか応えようと考えたとしても不思議ではありません。
 しかしながら、仕事熱心が高じたのか、使命感に燃えたのか、お城からの退出時間が遅いのです。山本博文氏の「武士の人事」(角川新書)によれば、当時の勤務時間は八ツ(午後2時頃)の太鼓がなれば終業だったようです。ところが、久通は七ツ半(午後5時頃)まで残業をするので、部下たちは日が暮れてから帰るということになってしまいました。トップが帰らなければ部下は帰れない、という現象は今も昔も変わらなかったようです。当時は歩いての通勤ですから、遠距離の人はさぞ難儀したことでしょう。

 ちなみに、同じく「武士の人事」では、「よしの冊子」からの引用で、八ツになると「みな帰りたいと思い、奉行が退出するのを待つだけで、さして仕事をするわけではない」(162ページ)という状況だったようです。この辺りも、今も似たような組織があるかも分かりませんね。久通も含めて、当時の勘定所の人たちが、現在の「働き方改革」を知ったら何と思うでしょうか。
 さて、その柳生ですが、結局、文化14年2月26日に留守居に異動するまで、結局29年間も勘定奉行の職にありました。むろん、歴代最長記録です。部下たちの難渋いかばかりだったでしょうか。

 そこのワーカホリックのあなた、この話を読んで自分を慰めないでくださいね。これは今から250年以上も前のことなのですから。そして、残業時間の上限規制はもう始まっているのですから。