『映画に溺れて』第178回 マーウェン
第178回 マーウェン
令和元年七月(2019)
日比谷 TOHOシネマズシャンテ
第二次大戦中、ベルギー上空を飛行中のアメリカ軍人ホーギー大佐はナチスの砲弾によって撃ち落され、川に不時着するも、敵兵に囲まれ絶対絶命。そこへ武装した五人の美女が現れ、ナチスを皆殺しにする。が、よく見るとホーギー大佐の顔はプラスチックのようにつるつるで、関節には継ぎ目が。美女たちもまた、ほとんどバービー人形なのである。
と、人形を動かして、くわえ煙草でカメラを構える男。ここは彼、マークが自宅の庭に作った六分の一の模型の世界マーウェン。マークは自分の分身である人形のホーギー大佐や彼を慕うバービーたちを使って戦時中の物語を創造し、様々な場面を写真に撮っているのだ。
現実世界でのマークは記憶障害者である。酒場で五人の男に絡まれ、暴行され瀕死の重症を負い、一命はとりとめたものの、脳の負傷で過去を思い出せず、イラストレーターだった記憶もなく、今は妻や子供にも去られ、近所の食堂で下働きをしながら、人形たちと暮らしている。
瀕死の彼を助けてくれた女性ウェンディと自分の名前を組み合わせてマークはこの世界をマーウェンと命名した。空想世界でホーギー大佐をつけ狙う五人のナチス兵士は、彼を暴行した五人の犯人たちがそのまま投影されている。バービー人形たちも、それぞれ、負傷後の彼と交流のある女性たちである。
向かいに引っ越してきた優しそうな美人ニコル。彼女と言葉を交わし、親しくなったマークはさっそく新しいバービー人形を購入してニコルと名付け、美女軍団に加えるのだが。
人形たちが動き、しゃべり、銃撃戦を繰り広げる空想場面の特撮、さすがにロバート・ゼメキス、見事である。そして、この映画は実話が元になっていて、マーク・ホーガンキャンプは今も人形たちの冒険物語を写真に撮り続けているとのこと。
マーウェン/Welcome To Marwen
2018 アメリカ/公開2019
監督:ロバート・ゼメキス
出演:スティーブ・カレル、レスリー・マン、ダイアン・クルーガー、メリット・ウェバー、ジャネール・モネイ、エイザ・ゴンザレス、グウェンドリン・クリスティー
『映画に溺れて』第177回 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
第177回 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
令和元年六月(2019)
新所沢 レッツシネパーク
ハリウッド版のゴジラ映画は一九九八年にローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』、二〇一四年にギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』が公開されたが、どちらも私は気に入らなかった。いったいどこがゴジラなんだ。という不満だけが残ったのだ。
それで三作目の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』には大して期待しなかった。ところがである。まず、映画として面白かった。世界各地で大型生物が出現する。これは地球を汚染し環境を悪化させている元凶の人類を駆逐するため、自然そのものが大古の生物たちを蘇らせたという設定。ゴジラだけでなく、モスラ、ラドン、ギドラなどが次々目覚める。怪獣を攻撃して退治しようとする軍隊、それに反対し怪獣の生態を研究し共存をはかろうとする学者組織、そこに怪獣を利用して人類滅亡を企てる狂信的な環境テロリストグループが入り乱れる。
子供の頃にゴジラやモスラに夢中になった世代にとって、なによりうれしいのは、前二作のハリウッド版と違い、本作は東宝怪獣シリーズへのオマージュになっており、オリジナル版への敬意が感じられることだ。
ゴジラやモスラが登場する場面では、懐かしいテーマ曲が流れ、それだけで私の世代はわくわくする。
渡辺謙扮する芹沢猪四郎博士は重要な役だが、『ゴジラ』第一作で平田昭彦が演じた芹沢博士と初代監督の本多猪四郎の名前を組み合わせている。
三つ首のギドラと戦って不利なゴジラにモスラが加勢するのは、昔の東宝怪獣バトルそのもの。あの東宝怪獣映画を最新のCG技術とハリウッドの贅沢な資本で再現したらこうなるのか。大人も満足できる出来栄えである。
おもちゃそのものの戦闘機が着ぐるみの怪獣にぶつかっていく昔の特撮も、私は決して嫌いではないが。
ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/Godzilla: King of the Monsters
2019 アメリカ/公開2019
監督:マイケル・ドハティ
出演:カイル・チャンドラー、ベラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、渡辺謙、サリー・ホーキンス、チャールズ・ダンス、チャン・ツィイー
『映画に溺れて』第176回 居眠り磐音
第176回 居眠り磐音
雑誌に連載された小説が単行本として出版され、やがて文庫化される。というのが、かつての出版の流れだった。それがいきなり最初から文庫本で出る、いわゆる文庫書下ろしの時代小説。先鞭をつけたのが佐伯泰英である。
代表作『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズは平成十四年に双葉文庫で開始、五十一巻まで続き、その第一巻『陽炎ノ辻』が映画化された。磐音を主人公とする壮大な歴史絵巻の序章である。
時は明和九年、三人の若者が江戸詰めを終えて、豊後関前藩に帰国する。坂崎磐音、河出慎之輔、小林琴平、彼らは幼馴染で、琴平のふたりの妹のうち舞が慎之輔の妻となり、奈緒が磐音の許嫁であることから、親友であり義兄弟でもある。
が、帰国早々惨事が起こる。悪意ある噂が誤解を生み、親友三人が剣を交え、二人が命を落とす。心ならずも友を斬った磐音は家を捨て、藩を離れ、奈緒への思いを心に秘めながら、江戸での浪人暮らしとなるのだ。
裏長屋に住む磐音が大家金兵衛の世話で両替商今津屋の用心棒となり、初日に不逞浪人たちの押し込みを退治したので、主人の吉右衛門から重宝がられる。
今津屋襲撃の背景には当時の貨幣事情があり、通貨の統一をはかろうとする老中田沼意次。これに加担する今津屋に対し、反対派が手先のならず者を雇って今津屋に脅しをかけてきたのだ。この争いに巻き込まれる磐音。
気性は温厚だが、剣の腕は立つ。道場の師に「磐音の構えは春先の縁側で日向ぼっこをしている年寄り猫のようじゃ」と言われるほど、手応えのない居眠り剣法である。が、ひとたび立ち会えば、相手に斬り込ませて、これを倒す。
松坂桃李が磐音を爽やかに演じて、久々に好感のもてる時代劇である。
居眠り磐音
2019
監督:本木克英
出演:松坂桃李、木村文乃、芳根京子、柄本佑、杉野遥亮、佐々木蔵之介、谷原章介、中村梅雀、柄本明
飯島一次さんの講演
毎回ご好評をいただいている飯島一次先生の江戸シリーズ第4弾。ご自身も時代小説作家である飯島先生から、江戸時代のちょっとした雑学やウンチク、背景となった地の紹介など、時代小説が一層楽しくなること間違いなしのお話をしていただきます。今回もどうぞおたのしみに!
日時
令和元年10月6日(日)午後2時~4時
会場
ひきふね図書館 2階プロジェクトコーナー
定員
50名 (受付先着順 ※空きがあれば当日参加可)
参加費
無料
申込方法
9月11日(水)から午前9時から受付を開始します。
催し名・氏名・電話番号を添えて、次のいずれかの方法によりお申し込みください。
・電話 03-5655-2350
『映画に溺れて』第175回 僕たちのラストステージ
第175回 僕たちのラストステージ
令和元年五月(2019)
舞浜 シネマイクスピアリ
サイレント時代のチャップリンやキートンは何度かリバイバル上映で観る機会があったのだが、一九三〇年代のハリウッドで大人気だった極楽コンビのローレルとハーディの作品は残念ながら映画館では未見である。
今回の新作『僕たちのラストステージ』はローレルとハーディが主人公。戦後、映画出演の仕事もさっぱりなくなり、興行主の誘いにのって、英国各地を巡業した晩年の実録。
安ホテル、小さな劇場、まばらな観客。中にはふたりの実演を見て驚く観客もいる。まだ現役だったのかと。
町では売れっ子凸凹コンビ、アボットとコステロの新作映画の大きな絵看板。それを寂しく見上げるローレル。彼が脚本を書きロンドンの映画会社に売り込もうとするロビンフッドのコメディは見込みなし。
それでもふたりの芸は健在で、行く先々で観客は大笑いしてくれる。アメリカからそれぞれの妻を呼び寄せ、だんだん客の入りもよくなり、待遇も改善される。
スコットランドでの大成功。大入り満員の客席を沸かせ、いよいよロンドンの大劇場に進出が決まる。が、その矢先にハーディが心臓発作で倒れる。チケットの売れ行きはよく、舞台に穴はあけられないので、興行主は代役を提案。ローレルは渋々承諾するのだが。
病気を押さえ、命がけで滑稽なダンスを踊り続けるハーディ。大爆笑の客席の中で、ひとり涙をこらえながら見ているハーディの妻ルシール。
痩せて小柄なスタン・ローレルと太って大柄なオリバー・ハーディ。ローレル役のスティーブ・クーガンは表情がそっくり。ハーディを熱演したジョン・Ⅽ・ライリーはほとんど首のない二重顎まで生き写し。一九五〇年代の英国の風景も美しい。
ローレルとハーディの短編映画は今ではインターネットなどで観ることができる。
僕たちのラストステージ/Stan & Ollie
2018 イギリス・カナダ・アメリカ/公開2019
監督:ジョン・S・ベアード
出演:スティーブ・クーガン、ジョン・C・ライリー、ニナ・アリアンダ、シャーリー・ヘンダーソン、ダニー・ヒューストン、ルーファス・ジョーンズ
『映画に溺れて』第174回 ビリーブ 未来への大逆転
第174回 ビリーブ 未来への大逆転
平成三十一年三月(2019)
青山 ギャガ試写室
アメリカ映画を観ていて、すごいと思うのは、時代色を徹底して出していること。まるでタイムマシンを使ってあの時代に戻ったように、町の風景、走る自動車、屋内のセット、何十人、いや何百人と出て来る登場人物ひとりひとりの服装や髪型。隅々まで目が行き届いている。
一九五〇年代半ば、ハーバード大学法科大学院。入学式に向かう若い男性たち。全員がスーツに短髪。この時代、一般社会では長髪の男性は存在しない。そんな中、男たちに交じって歩く女子学生ルース・ベイダー・ギンズバーグ。
ごくわずかな新入女子学生たちを学長が会食に招いて言う。「男子学生を押しのけてまで入学してきた君たちの望みは?」
弁護士志望のルースは理解ある夫に恵まれ、首席で卒業。が、どこの弁護士事務所も女性を雇わない。仕方なく、大学で法律を教える仕事に就く。
七〇年代、世間はそれなりに進歩している。特に男性の髪型。若者に交じって長髪の中年男がちらほら。学生の服装もスーツからジーンズへ。が、女性の社会的地位は相変わらず低い。仕事は限られ、クレジットカードも夫の名義でしか取れないのが現状なのだ。
ルースは夫からある訴訟記録を見せられる。母親の介護をしている男性が介護費用控除を認められなかった。親の介護をするのは女性の仕事だからという理由で。男は外で働き、女は家事をするのがまだまだ当時の常識である。
女性差別が当たり前の時代に、女性差別を取り上げても勝ち目はない。が、男性が差別されている案件ならば。これを勝ち取れば、女性差別を訴え、女性の権利を主張する裁判にも勝算はある。が、負ければこの先、性差別は延々と続くだろう。
実在のルース・ベイダー・ギンズバーグは九〇年代に最高裁判事に任命され、その後、ずっと現職を続けている。
ビリーブ 未来への大逆転/On the Basis of Sex
2018 アメリカ/公開2019
監督:ミミ・レダー
出演:フェリシティ・ジョーンズ、アーミー・ハマー、ジャスティン・セロー、キャシー・ベイツ、サム・ウォーターストン
『映画に溺れて』第173回 ブラック・クランズマン
第173回 ブラック・クランズマン
黒人を差別し、迫害し、ときには見せしめとしてリンチで惨殺する。白人至上主義者の団体KKK。
ブラックパワーが叫ばれ始めた一九七〇年代初頭、アフロヘアーの黒人青年が警察官となり、あるきっかけでKKKへの潜入捜査を実行する。黒人と見たら迫害するKKKに黒人でありながら、いったいどうやって潜り込むのか。
ロン・ストールワースが警官になったとき、コロラド州のその町には他に黒人警官はひとりもいなかった。最初、資料室で腐っていたが、抜擢されブラックパンサーの政治集会に潜入する。これがうまくいき、専任の潜入捜査官に。
ある日、新聞広告に地元のKKKが団員募集している記事を見つけ、黒人嫌いの差別主義者を装って電話で応募すると、相手方に受け入れられる。が、黒人の自分が行くわけにいかず、同僚のユダヤ系捜査官フリップがストールワースになりすまして、KKKと接触。以後、ストールワースが電話、フリップが現地、二人三脚でKKKの実態を調べ、犯罪を未然に防ぐ努力をする。
黒人でありながら、KKKの会員証を持つロン・ストールワースの自伝の映画化。いつ正体がばれるかと、はらはらどきどきの連続だが、実話なのだ。
白人至上主義のKKKを美化した『国民の創世』が公開されるや、映画に興奮した白人たちによる黒人へのリンチ殺人が衆人環視のもと多数行われたとのこと。
この映画の中でも、フリップの潜入先の集会で映写される『国民の創世』で、悪い黒人が正義のKKKに成敗されるシーンに団員たちが歓声をあげる。
名作といわれ、日本でもファンの多い『風と共に去りぬ』もまた、アメリカの黒人から見ると不快な差別映画であるという。
ブラック・クランズマン/BlacKkKlansman
2018 アメリカ/公開2019
監督:スパイク・リー
出演:ジョン・デヴィッド・ワシントン、アダム・ドライバー、トファー・グレイス、ローラ・ハリアー、ライアン・エッゴールド、ヤスペル・ペーコネン、アレック・ボールドウィン、ハリー・ベラフォンテ
書評『義元、遼たり』『氏真、寂たり』
書名『義元、遼たり』著者 鈴木英治 定価 1800円
書名『氏真、寂たり』著者 秋山香乃 定価 1900円
発売 ともに 静岡新聞社出版部
発行年月日ともに 2019年9月20日
書名『義元、遼たり』著者 鈴木英治 定価 1800円
書名『氏真、寂たり』著者 秋山香乃 定価 1900円
発売 ともに 静岡新聞社出版部
発行年月日ともに 2019年9月20日
「海道一の弓取り」と称され、東海に覇をとなえた戦国大名今川(いまがわ)義元(よしもと)は永正16年(1519)に生まれた。「義元生誕500年」の節目の年に当たる令和元年の今年、静岡新聞社出版部は静岡県在住の夫婦作家鈴木英治・秋山香乃を書き手として、義元(よしもと)・氏真(うじざね)の今川父子の一代記を歴史小説としてそれぞれに描き、2冊同時に刊行するという特筆すべき企画を立て実現させた。
2004年に刊行された小和田哲男の『今川義元』(ミネルヴァ書房)によれば、「義元は、駿河、遠江において、確実に一時代を築きあげた歴史上の人物であるが、現在の静岡県内には、義元の銅像はおろか、観光スポットになっているところすら一カ所もない」という。義元に対する一般的評価が低い要因として、小和田は「桶狭間の戦いのぶざまな負け方」と「義元の子氏真がずるずると、家を滅亡させてしまったこと」の二点を挙げている。
鈴木英治の『義元、遼たり』と秋山香乃の『氏真、寂たり』、まさに鴛鴦作家の競演というべく新作で、義元氏真父子はいかに再評価されているのか。通説通りの「暗愚な武将」であったのか、それとも有能な武将であったのか。
『義元、遼たり』
本書は6章構成であるが、5章までが仏の道を捨ていかにして武将として生きる道を選んだ若き日の義元に焦点を当て、天文5年(1536)の花蔵(はなくら)の乱前後が詳述され、最終章の6章は今川家の当主となった以後の義元の足跡と永禄3年(1560)桶狭間の戦いが描かれている。
義元には3人の兄(長男 氏輝、次男 玄広恵探(げんこうえたん)、三男 象耳泉奘(しょうじせんじょう))、一人の弟(五男 氏豊)がいた。4男の義元自身は長男以外の二人の兄同様、幼くして僧門に入り、栴岳承芳(せんがくしょうほう)という名の臨済宗の僧であった。少年時代の義元は、太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)にともなわれて京都で生活し、公家たちと交わった。太原崇孚雪斎は駿河出身の京都建仁寺の僧で、若くして幼少の義元の教育係となり、のちに義元の軍師になった人物である。
物語は天文4年(1535)11月、駿河に戻ることが決まった義元が京を立ち、奈良西大寺で修行する象耳泉奘を訪ねるところから始まる。
天文5年3月17日、兄氏輝が24歳の若さで急死したことが、義元の生き方を変えた。家督候補は僧籍に在った3人に絞られたが、庶兄象耳泉奘は家督継承に全く意欲を見せていない。泉奘は武将として生きることより、仏教者として生きる方に魅力を感じる人物だったと造形されるが、作家はそこに武将として生きざるを得なかった義元のもう一つの生き方を投影しているのであろう。
氏輝が夭折した段階で、義元への家督継承が決まっていた。その流れにもう一人の庶兄玄広恵探が抵抗し始める。側室腹の恵探にしてみれば、正室腹の義元より自らが年長であるとの意識が強かったのだろう。氏輝と義元の母は「女戦国大名」として君臨したことでも名高い氏親(うじちか)の正室 寿桂尼(じゅけいに)で、玄広恵探の母は側室の福島(ふくしま)氏。恵探の外祖父たる福島越前守は今川氏の屈指の重臣であった。義元を後継者になさんとする雪斎の策謀の下、今川家を二分する家督争いが始まる(花蔵の乱)。
天文6年(1537)2月10日、家督をついたばかりの義元は武田信虎の娘(信玄の姉)を妻に迎えている(甲駿同盟)。信虎は北条氏綱の敵対者であり、義元のこの行為は花蔵の乱で義元を支援した北条氏綱の神経を逆なでするものであった。
武田氏の妻は翌天文7年に、義元の嫡男氏真を生むが、天文19年(1550)に歿している。氏真は12歳で母を亡くしているのである。
天文21年(1552)11月 義元の娘(氏真の妹)日奈が武田信玄の嫡男義信に嫁ぐことを契機とし、翌年正月には信玄の娘南殿が北条氏康の嫡男氏政と婚約し、翌翌年7月には北条氏康の娘志寿が氏真に嫁ぐことが決まる。三つの政略結婚により、三家は互いに婚姻関係で結ばれ、いわゆる「甲相駿三国同盟」の成立をみる中で、天文24年(1555)3月 三河松平家の人質として今川家で暮らす松平竹千代(14歳、のちの徳川家康)の元服式が浅間神社で義元を烏帽子親として執り行われている。
氏真は家康より4歳年上。「五郎」(氏真)、「次郎三郎」(家康)と呼び合う仲で、「実の兄弟のように育った」と鈴木英治は描く。氏真の幼少期から桶狭間の戦いに至る時代を背景とする6章は秋山香乃の『氏真、寂たり』と重なる。読み比べながら読み進むのも一興である。
周知のごとく、桶狭間の戦いは、永禄3年5月、織田信長が今川軍を尾張の桶狭間で破り、駿河・遠江・三河の3カ国の太守今川義元の首まで取った戦いである。問題は、総大将の義元が率いた2万5千もの西上の軍はいかなる目的を持っていたかである。通説では、義元が上洛し天下に号令するための軍事行動であったとされたが、最近では、「京に上がるのが目的」とする説は否定されており、本書も、また『氏真、寂たり』も、それに拠っている。そもそも、鈴木英治には1999年第一回角川春樹小説賞特別賞受賞作である(応募時の題名は「駿府に吹く風」) 『義元謀殺』がある。鈴木のデビュー作でもある『義元謀殺』で、今川家というそれまであまり描かれていなかった視点で桶狭間をとらえ、「義元の尾張侵攻の目的は、大高城と鳴海城の包囲を解き、あわよくば尾張国を今川の領国に組み込むことにあった」としている。
運命の5月19日。首のない義元の無惨な遺体が残った――。
義元は泥田に倒れながら、織田方の武者の指を噛みちぎる執念を死の間際までみせる。悲憤の死であったのであり、義元は決して京都文化に耽溺しただけの凡庸な武将ではなかったのである。
一年後の永禄4年5月19日。桶狭間の地に立つ象耳泉奘の姿がある。義元も、信長同様、平和な世を望み、「天下静謐」を希求したとして、兄義元をしのぶラストシーンが印象的である。新たな義元像の造形というべきであろう。
『氏真、寂たり』
通説では、父義元の横死後、狼狽えるばかりで桶狭間の弔い合戦も成し得ず、尻つぼみに勢力を喪って、やがては父祖の地である駿河・遠江を家康に奪われた氏真は、「人となり暗弱、暗愚なり」と将帥としての器量に乏しかったとされた。作家秋山香乃は通説のことごとくを検証しすることによって史実を確認しつつ、これまでの氏真像を鮮やかに覆して、斬新で魅力ある氏真像を造形している。
10章構成。3章までは、北条の姫志寿がわずか8歳で17歳の氏真のもとに嫁入りし、仲睦まじい関係を築いて過ごす、桶狭間前夜までの穏やかな日々が綴られる。4章以降が桶狭間以後より、最晩年まで。
氏真の生涯において欠くべからざる人物は史書に「早川殿」と記されている生涯の伴侶であった妻志寿であり、もう一人は家康である。
氏真にとって家康は11年も共に過ごした昔馴染みであり、家康の今川人質時代の不思議な縁で結ばれた絆があったとする作家による氏真・家康相互の人的関係の描写が秀逸である。
氏真は「兄者、兄者」と慕ってくる竹千代(家康)のことは好きだったが、「あれは、人の上に立つ男の目をしていた」と絶望に近い気持ちで確信した。かくいう氏真は自らを「戦国という世に合わぬ自分の性質」と決めつけ、自身の性質の甘さに悩み苦しんでいる。一方の家康はそうした氏真に苛立ちを覚える、という関係である。主従の関係が逆転し、氏真が家康に隷属することになる晩年に至るまで、この二人の阿吽の呼吸というべきものが醸し出す雰囲気は、余人が入り込めないものであったと物語られる。これまで誰も書かなかった家康がここには居る。
3章。桶狭間。留守将として駿府にとどまっていた氏真は父義元の死と未曽有の敗退の知らせを受ける。家康(松平元康)は義元の敗死を契機として、正妻と嫡男を今川家の人質とされていたこともあり、氏真とは不即不離の形をとる。が、結局は主家たる今川と絶ち、信長と同盟。家康の裏切りを聞いた氏真は自分でも驚くほどの怒りと憎しみを家康に感じる。
4章。義元亡き後、氏真が領国支配を担うことになるが、三河では「三州錯乱」、遠江では「遠州忩劇」とよばれる事態となり、国人領主たちの離反が相次ぐ。
5章。敵と一戦も交えぬうちに、今川軍全軍が瓦解。21人の武将の裏切りに遭い、居城を捨てることになる氏真は自らを「哀れな馬鹿者」と嘲笑う。
6章。永禄11年(1568)12月、東から甲斐の武田信玄が駿府に、西から三河の徳川家康が遠江に同時に攻め込み、氏真は駿府を守ることができず、遠江の掛川に逃れる。翌年5月、攻防5ヶ月後、和議の成立。家康と9年ぶりの再会、対面。
7章。掛川城開城後の氏真は、ついには岳父北条氏康の小田原に走るが、その3年後の元亀2年(1571)12月、氏康が死するや、妻の兄氏政は武田氏と同盟。あくまでも武田と戦いたい氏真は北条領を後にし、浜松の家康のもとに赴く。
通説では、掛川城を明け渡した時点で、戦国大名としての今川氏は滅亡したとされるが、この段階では滅亡しておらず、また氏真が対武田戦への参戦の意志を示して行動したことが、克明に綴られていることは本書の読みどころであり、勘所でもある。
これまで、巷説では、落魄した氏真は諸国を放浪、徘徊したとされた。
氏真が父義元の敵の面前で蹴鞠に興じたという名高いエピソードはその最たるものだが、8章で作家は単なる「蹴鞠」の話のみに止めず、新たな物語を紡いでいる。天正3年(1575)3月、家康のお膳立てにより、京都相国寺にて信長と対面した氏真が信長と対等に渡り合うが活写されているこの章だけでも読者は紐解いてほしい。
これまで見たように、氏真にとっての人生の転機は幾たびかあったが、作家は、その転機ごとに、当時の冷徹きわめる現状を直視しつつ、氏真の足跡をたどり再現している。
慶長19年(1615) 12月28日 氏真 没す 享年77。
またとない伴侶である志寿の死はその前年の慶長18年(1614)。家康は2年後の元和2年(1616)に歿している。
武田・北条の滅亡、足利・織田の没落、ほどなくの豊臣の滅亡を見つつ、氏真は乱世を生き抜いた。
22歳で桶狭間と遭遇した氏真はその後55年を生きた。その長い年月の中での忍耐との戦いは戦闘以上のものであった。
生きるとは葛藤と選択の繰り返しであり、己の矜持を貫くためには捨てざるを得ないものもある。
家康は駿河の旧主だった今川氏に何らかの政治的価値を認め、氏真の子や孫を旗本として取り立てた。江戸時代、今川家は大名としては生き残れなかったが、高家として家名を存続させることができた。
身の丈に合った生き方を選んだ氏真は自らの生きざまを敗北の人生とは思わなかったに相違ない。敗者であるがゆえに、歴史の闇の中に不当に押し込められていた氏真を、作家は映えいずる光の中に位置づけたのである。
東海最大の文化都市駿府(すんぷ)(現・静岡市)は「駿河の国府」、府中であり、市の中心部には賤機(しずはた)山がある。
「いつもどんな時も、氏真は賤機(しずはた)山に登る。賤機山だけが、真の氏真を知っている」と作家は深い愛着を込めて結んでいる。
すぐれた歴史小説を読むと、その舞台となった地を探訪したくなる。240余年、今川氏栄耀(えよう)の地である静岡市を訪ね、氏真が愛妻志寿と手を取り合って上った賤機(しずはた)山に登りたいと思う。
(令和元年9月21日 雨宮由希夫 記)
『映画に溺れて』第172回 運び屋
第172回 運び屋
平成三十一年二月(2019)
西新橋 ワーナーブラザース試写室
私が映画館で初めてクリント・イーストウッドを観たのは、中学生のとき、作品はイタリアの西部劇『続・夕陽のガンマン』だった。次が大学に入る前、浪人時代に観た『ダーティハリー』で、イーストウッドはガンマンであれ刑事であれ、強くてかっこいい男の中の男であった。しかもなかなかの二枚目でもある。
一九七〇年代から監督としても腕を磨き、やがて巨匠となった。
そのイーストウッドが八十八歳で主演した。しかも自分で監督も。
主人公は九十前の老人である。園芸家として各地を飛び回り、家庭を顧みなかったために妻とは離婚している。結婚式をすっぽかされた娘は以来、父とは口を利かない。孫娘の婚約パーティに顔を出すと、妻や娘が怒り狂い、老人はすごすごと出て行くしかない。
園芸業が立ちいかなくなり、家も農園も差し押さえられ、行き場のない彼に声をかけたのが、メキシコ系の麻薬組織。今まで無事故無違反でなんの前科もない孤独な老人。これは麻薬の運び屋にちょうどいい。
一度だけのつもりが、思わぬ大金が手に入り、老人は大喜びで孫娘のためにパーティ資金を出してやる。そして、味をしめ、運び屋を続け、次から次へと大仕事。こんな無害な年寄りがまさか組織の手先だなんてだれも疑わない。
老人は頑固だが、妙に愛嬌もあり、組織の監視役ともけっこう仲良くなって、運び屋を楽しんでいる。
そこへやり手の麻薬捜査官が現れて、だんだんと追い詰める。これがブラッドリー・クーパー。
さて、老人の運命やいかに。
イーストウッドは老人になっても、やっぱりかっこいいのだ。
運び屋/The Mule
2018 アメリカ/公開2019
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド、ブラッドリー・クーパー、ダイアン・ウィースト、ローレンス・フィッシュバーン、アンディ・ガルシア、マイケル・ペーニャ、イグナシオ・セリッチオ