日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第45回 火の鳥

 東京オリンピックを二年後に控え、田畑政治阿部サダヲ)は、組織委員会の事務総長の座を追われます。
 しかし田畑の家を仲間たちが訪ねていました。元水泳監督の松澤一鶴(皆川猿寺)、聖火リレーのコースを調査して回った森西栄一、そしてもちろん田畑の秘書であった岩田幸彰(松坂桃李)、など。けれども田畑は元気を出し切れないのです。競技場の模型も持って帰ってくれと頼みます。
「もうオリンピックには関わらん」煙草に火をつけ、縁側に座って外を向きます。「後は頼んだよ」
「僕も辞めるつもりです」岩田が田畑のそばに座ります。「田畑さんと心中する覚悟でやってきましたから。政府主導のオリンピックには、とうてい残りません」
 慌てて止める田畑。
「君が今、去ったら、東京オリンピックはどうなるんだ」
「渉外部長なんて誰でもやれますよ」
 という、岩田。
「違う、そう、誰でもいい」田畑は岩谷にじり寄ります。「だから君じゃなきゃ駄目なんだ。やれるよ、誰でも。だって線路はほぼ敷いたから、俺が。あとは誰が走ってもおんなじって状態までお膳立てした。俺がね」得意そうな田畑。「だからこそ、俺は岩ちんに走って欲しいんだ、俺が敷いたレールを。俺がまいた種を刈り取って欲しいんだよ」
 田畑は床に伏せて岩田に頼むのです。
 仲間たちが帰ろうとすると、田畑の娘のあつ子(吉川 愛)が見送りに出てきます。礼を述べたあと
「また来ていただけませんか」
 と、頼むのです。田畑の妻の菊枝も出てきていいます。
「もう、見ていられないんです。あの日からすっかりふさぎこんで。オリンピックがすべての人だったのに、それを取りあげられて。だから時々来て、話し相手になってください」
 ウチは毎週でも毎晩でも解放しますから、という菊枝。
「それいいかもな」と森西。「裏組織委員会だ」
 田畑が組織委員会を正式に去る日がやってきました。田畑の後任として事務総長に就任したのは、与謝野晶子の次男で外交官の与謝野茂でした。
 記者会見で、与謝野と田畑は隣同士に座ります。与謝野が発言しているところに田畑が割り込みます。
「いいかい、本当は辞めたくないんだがね。私の知識、経験を求められれば、いくらでも差し出す」
 しかしそういう田畑の言葉尻は、弱々しいものでした。
 田畑が去ろうとするところに、政治家の川島正次郎(浅野忠信)が通りかかります。田畑を辞任に追い込んだ張本人です。川島は田畑に声もかけず通り過ぎていきます。川島にとってオリンピックとは、日本が経済大国へと駆け上がるための足がかりに過ぎなかったのです。川島は政治の世界に戻っていきました。
 「日紡貝塚」女子バレーボール部が世界選手権で宿敵ソビエトを下し、世界一になります。この頃から世界中のメディアが彼女たちをこう呼ぶようになるのです。
東洋の魔女
 田畑のもとに、仲間が新聞を届けに来ます。日紡貝塚の監督、大松博文徳井義実)が辞意を表明したという記事が掲載されていました。田畑はすぐさま大阪にある日紡貝塚に駆けつけます。そこでは鬼の大松と呼ばれた男が、選手たちと和やかに過ごしていました。目を疑う田畑。田畑は大松を連れ出します。田畑は日紡貝塚のチームが金メダルを穫ることを期待して、女子バレーボールをオリンピックの正式種目にねじ込んだのです。
 ソ連を倒して世界一になったことで、大松は燃え尽きた気持ちになっていたのでした。大松はいいます。
「青春を犠牲にして、いたずらに婚期を遅らすのはどないやねん、大松と。お前にそんな権利があんのか、大松と」
 あと二年と頼む田畑。
「二年、二年て」大松は選手たちの功績を語り、いいます。「同僚たちは恋人ができる。嫁に行く。子供産む。それを横目に、ウサギ跳び、回転レシーブ。アホやで」
 大松は田畑に、事務総長を辞めたことを確認します。その上で質問するのです。田畑にとって、オリンピックとはなんなのか。
「人生だよ」田畑は答えます。「生きる目的だよ。すべてだよ」
 それを聞いても大松の心は動きません。ご愁傷様でしたな、といって田畑の前から去って行くのです。
 東京オリンピックまで、あと一年と七ヶ月に迫ります。裏組織委員会の田畑家では、聖火コースについて話し合われていました。田畑は嬉しそうです。テレビもラジオも新聞も、オリンピック一色でした。オリンピックムードが盛り上がってきていたのです。そんな田畑を見て、仲間たちも嬉しそうです。
 岩田は組織委員会で、オリンピックを盛り上げる女性たち、名付けて「コンパニオン」の選考会を行っていました。その志望者の中に、一人の老人がまぎれ込んでいたのです。実はコンパニオン志望者ではなく、聖火リレーの最終ランナーに立候補しに来ていたのでした。しかし聖火ランナーの募集はまだ行われていなかったのです。もちろんその老人こそが、日本人初のオリンピック出場者である金栗四三中村勘九郎)でした。金栗は岩田に、田畑に渡してくれるようにと書類を託します。それは大きな日本地図でした。くまなく足跡のハンコが押してあります。金栗が走った場所の記録を記したものでした。それを見て田畑はひらめくのです。全国46都道府県に、聖火をくまなく走らせようというのです。田畑はいいます。
東京オリンピックだからといって、東北や北海道や、四国や北陸を無視できる。できないよー。これは日本のお祭りでもあるんだ。そのことをこの地図が教えてくれたんだよ」そして田畑は叫ぶのです。「ありがとう、いだてん。マラソン馬鹿」
 組織委員会で岩田がそのことを発表すると、歓声が上がります。金栗四三の偉業を参考にしたことをいうと、それなら最終ランナーは金栗か、との声が上がります。
 しかし裏組織委員会では、田畑が反対するのです。
「全国の若者がつなぐ聖火リレーだよ」田畑は宣言します。「走るのは、未来ある若者」
 田畑は妻の菊枝に「アレとナニ」を持ってくるようにいいます。それでわかるのかと感心する松澤一鶴。しかしここでタネが明かされるのです。菊枝は娘にいいます。
「アレとかナニとか、いってる本人もわかってないのよ。何でもいいの。持っていけば。日本酒でもウイスキーでも、違う、そう、とかいって結局のむでしょ」
 岩田は独立したばかりの国が多いアフリカに飛び、オリンピックの趣旨を説明し、参加を呼びかけました。「平和の祭典」の言葉に、アフリカの人々の心も動かされていくのでした。
 田畑は妻と娘を伴い、大阪の日紡貝塚に来ていました。大松を説得するためです。大松は家族とともに、食事をしてきたところでした。大松も悩んでいました。引退を発表したところ、五千通の手紙が届きました。すぐに辞めろという意見が六割、残りの四割はオリンピックに出場するべきというものでした。バレーボールの選手たちが駆けつけてきます。
「魔女いうな、マスコミ。よけい婚期が遅れるやろが」大松は田畑にスパイクを打ち込みながら叫びます。「おれがやる、ゆうたらあいつらはついていくっていいよんねん。あと二年。大事な青春のすべてを全部犠牲にして、ついてきよんねん。だから俺にはゆえへん。ついてくるってわかっているから、俺はゆえん」
 大松は田畑の向かいに座り込みます。「ウマ」と大松に呼ばれる選手の河西昌枝(安藤サクラ)が発言します。
「青春を犠牲にして。そういわれんのが、一番嫌いです。私たちは青春を犠牲になんかしていない。だって、これがあたしの青春だから。今が。バレーボールが、青春だから」
 他の選手もいいます。
「そうや。ウチらにもあるわ青春。きっとありすぎるくらいあるわ」
「恋愛や男性やドライブなんかより、ずーっと青春や」
「せやな。一通りやってみたけど、どれもピンとけえへんし」
「二年も待てへん軟弱な男より、二年ついてこいっていう男の方がええんちゃうん」
 河西が大松にボールを押しつけます。
「いってくださいよ、先生。俺についてこいって」
 そして大松はついにいうのです。
「俺についてこい」
 しっかりと返事を返す選手たち。
 バレーボールの練習を見て田畑はつぶやきます。
「変わったのかなあ。変わったよね」
「何が」
 と、田畑の娘が聞きます。
人見絹枝や前原秀子の時代からさ」田畑は人見や前畑の姿を思い浮かべます。「少なくとも国を背負ってとか、そういうんじゃないじゃんねー。自分のためにやってんじゃんねー」
「だから格好いいんだよ」
 娘のあつ子がいいます。菊枝が言います。
「変わったんじゃなくて、変えたんです」
「ん? 誰が」
 とぼけて田畑が聞きます。あつ子と菊枝は笑い声をたてるのです。

 

明治一五一年 第7回

明治一五一年 第7回

森川雅美


私たち放たれいく世界は
澄んだ水だから
どこからか足音が
進んでいき幾つもの傷
は開く横側からの人たちの
眼は見えなく
様ざまな場所に
残される泥濘に迷いつつ
哀しみも東西南北から
雪崩れこみ糾われ
暗くなる日日の営みが
滲んでいくまでの
いく人もの人たちが横たわり
低くい声で呻いていました
始まりはいつだって
見えないまま結ぶと
私たち放たれいく
世界は澄んだ水だから
求める間もなく
多くの小さな綻びを掲げ
閉じた記録の狭間に埋もれる
ひとつの屑
として沈む数知れぬ人の
意識を紡ぎつつ
行方の分からない
片言の思いすら曇らす
自分はまだ生きていますが
救えなかった人は忘れられず
はるか彼方で失われた
細い先端を結わく
顧みられず忘れられた
流れの内側にこそ
綴られる人の生きた息の
起伏を辿りつつ
私たち放たれいく世界は
澄んだ水だから
縺れていく足裏の
感触は地に散らばる数
なれどあふれ出す新しい
水脈の底を撫ぜ

『映画に溺れて』第241回 イエスタデイ

第241回 イエスタデイ

令和元年十一月(2019)
大阪 千日前 TOHOシネマズなんば別館

 

 ビートルズが好きだと、何倍も楽しめる。思えばジョン・レノンは四十歳で亡くなっているのだ。
 イギリスの小さな港町に住むジャックは売れないミュージシャンだった。自作の曲を路上で歌ったり、小さな酒場に出演したり。そんな彼をマネージャーとして支えるのが幼馴染で教師をしているエリー。
 念願のフェスティバルに出場するも、ジャックのテントには客はまばら。あまりに惨めなので、エリーに宣言する。これ以上続けてもしょうがない。音楽は諦める。
 自転車で帰宅の途中、世界が一瞬停電になる。
 バスと衝突、大怪我をして入院。なんとか快復して、友人たちとささやかな退院祝い。エリーがギターをプレゼントしてくれ、所望されて何気なく歌ったのがビートルズの『イエスタデイ』
 みんなが驚く。そんな素敵な曲、いつ作ったの。
 えっ。入院前となにもかもまったく変わらないのに、ただひとつ、そこはビートルズが存在しない世界だった。だれもビートルズの曲を知らないのだ。
 ジャックはいっしょに暮らす両親に『レット・イット・ビー』を聴かせるが反応は今ひとつぱっとしない。
 が、ビートルズの曲を記憶から順番に掘り起こし、自分の曲として歌い、やがて大物マネージャーの目にとまり、彼の歌は世界中で大ヒットする。
 スターになったジャックのところへ、ある日、おもちゃの黄色い潜水艦を持った人物が訪ねて来る。
 ビートルズは存在しないが、七十八歳の「あの人」は存命だった。

 

エスタデイ/Yesterday
2019 イギリス/公開2019
監督:ダニー・ボイル
出演:ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ、ジョエル・フライ、エド・シーラン、ケイト・マッキノン、ジェームズ・コーデン

 

『映画に溺れて』第240回 聖なる泉の少女

第240回 聖なる泉の少女

令和元年七月(2019)

京橋 テアトル試写室

 

 私が常日頃好む映画は、たいていはエンタテインメントである。コメディ、アクション、ミステリ、SF、ミュージカル、ファンタジー、ホラーなどなど。

 だが、たまにはこういう静かな映画も好きになるのだ。

 ジョージアグルジア)の小さな村に伝わる泉、その水は人の怪我や病気を癒す力があると信じられていた。

 代々泉を守り続けていた一家の家長は、近隣から訪れる人々を泉の水で治療する。が、当主が老齢となり、三人の息子はそれぞれ、イスラム教の聖職者、キリスト教の神父、科学者となり、家を出てしまっている。当主は寡黙な末娘ナーメに跡を継がせようとするのだが。

 というストーリーそのものよりも、まず第一に映像が美しい。映画は映像である。

 ジョージアの自然、雪におおわれた川、魚を抱えるナーメ、山深い村、どこまでも広がる夜空。

 薄暗い室内、ナーメの沐浴、老人と歌い出す三人の息子。

 風景も人物もどの場面も、すべてが絵になっている。

 ナーメには父以上の癒しの力が備わっていることがわかるが、この村にも近代化の波は押し寄せ、近くの工場建設の影響からか、神秘的な泉の水も徐々に枯れてゆく。

 試写室の帰りにごいっしょした大先輩の女性評論家がそっとおっしゃった。

「この映画なら、翻訳家は楽よねえ」

 映像中心の作品であり、せりふがとても少ないのだ。

 たまには美術鑑賞のような映画もいいではないか。

 

聖なる泉の少女/Namme

2017 ジョージアリトアニア/公開2019

監督:ザザ・ハルバシ

出演:マリスカ・ディアサミゼ、アレコ・アバシゼ、エドナル・ボルクバゼ、ラマズ・ボルクバゼ、ロイン・スルマニゼ

『映画に溺れて』第239回 ショーン・オブ・ザ・デッド

第239回 ショーン・オブ・ザ・デッド

令和元年九月(2019)
高円寺 ビアエンジン

 ビールを飲みながら映画を観る。それも生のクラフトビールで英国コメディなら、最高である。
 高円寺にあるクラフトビール店ビアエンジンで上映会が行われた。一夜限りの催しで参加者はビール好き、映画好きの男女が約二十名、なにか秘密クラブめいた集まりに期待が高まる。
 暗い店内の仮設スクリーンに映しだされたのはゾンビ映画ショーン・オブ・ザ・デッド
 電器量販店に勤めている主人公ショーンは、毎日のように近所のパブで同居の友人エドとビールを飲んでいる。エドがまたとんでもない男で、無職でTVゲームおたく、趣味が臭いオナラとオランウータンの物真似。
 恋人リズの誕生日にレストランの予約を忘れて愛想をつかされたショーンだが、いつの間にか町中にゾンビがうようよ。ショーンはリズを彼女の家から救い出し、友人たちとともにパブを目指すが……。
 主演がサイモン・ペッグ、相棒役がニック・フロスト、監督がエドガー・ライト。この組み合わせはその後、『ホットファズ』と『ワールズエンド』につながり、三部作と言われる。が、最初の『ショーン・オブ・ザ・デッド』は英国でヒットしながら、長らく日本では劇場公開されなかった。当時は売れそうにない作品は映画館で上映されずにDVD発売だけで終わる運命だった。それが製作から十五年ぶりに、ようやく映画館で日の目を見たのだ。映画業界にはこの映画のファンが多く、私の大好きなゾンビミュージカルの『アナと世界の終わり』など、随所に『ショーン・オブ・ザ・デッド』の影響を受けていると思われる。

ショーン・オブ・ザ・デッド/Shaun of the Dead
2004 イギリス・フランス/公開2019
監督:エドガー・ライト
出演:サイモン・ペッグ、ケイト・アシュフィールド、ニック・フロスト、ルーシー・デイビス、ディラン・モーラン、ビル・ナイ、ペネロープ・ウィルトン、ジェシカ・スティーブンソン

 

『映画に溺れて』第238回 ステキな金縛り

第238回 ステキな金縛り

平成二十三年十月(2011)
新所沢 レッツシネパーク

 オープニングのタイトル、往年のハリウッド作品を思わせる作りになっていて、思わずにやり。
 裕福な女性が殺され、別れた夫が逮捕される。彼は犯行のあった時刻、山の旅館で金縛りに遇っていた。落武者の亡霊が体の上に乗りかかり、動けなかったと主張する。
 駄目で弱気な女性弁護士のところに仕事が回り、彼女は実際に山の旅館に調査に出かける。そして本当に出会うのだ。落武者の幽霊に。
 容疑者の主張するアリバイ、犯行時刻に金縛りに遇っていたというのは事実らしい。彼女は幽霊に依頼する。弁護側の証人として、法廷で証言してほしいと。だが、幽霊が目に見えるのは、この女性弁護士と、金縛りに遇っていた容疑者と、あとは霊感のあるごくわずかな人だけ。他の普通の人たちには見えないのだ。これでどうやって裁判になるのだろう。とんでもない裁判劇。とんでもないコメディ。
 荒唐無稽ではあるが、私はこういう遊び心が好きなのだ。
 主演クラスはもとより、ちらっと登場するだけの脇の脇まで、個性派の芸達者ぞろい。落ち武者と同じ髪型のタクシー運転手、落ち武者の末裔の郷土史家、フランク・キャプラが好きなあの世の役人、幽霊が見える法廷画家、徐霊に乗り出すインチキ霊媒師、などなど。
 TVのお笑いバラエティを見飽きた人には、ちょっといいかもしれない。

ステキな金縛り
2011
監督:三谷幸喜
出演:深津絵里西田敏行阿部寛中井貴一竹内結子浅野忠信、草彅剛、市村正親小日向文世佐藤浩市深田恭子篠原涼子唐沢寿明

 

書評『嵐を呼ぶ男!』

書名『嵐を呼ぶ男!』
著者名 杉山大二郎
発売 徳間書店
発行年月日  2019年11月30日
定価  本体2000円(税別)

 

嵐を呼ぶ男! (文芸書)

嵐を呼ぶ男! (文芸書)

 

 信長という風雲児は“破壊者”でもあり、“建設者”でもあった。その信長について、好きな人は大好きで、天下統一に邁進した革命家のごとく英雄視し、嫌いな人は英雄と認めつつも大嫌いで、中世的権威や旧体制の破壊者、すなわち革命児といった信長のイメージを徹底的に剥がそうとする。好き嫌いの分岐は“破壊”に軸を置くか、“建設”に軸を置くかの座標軸の設定次第であろう。

 杉山大二郎の『嵐を呼ぶ男!』は、信長の全生涯を描くのではなく、信長が弟信行(のぶゆき)(本書では「信勝(のぶかつ)」)を謀殺するまで(本書では「謀殺」にあらず)の若き日の信長を描いている。したがって当然ながら、歴史小説の激戦区になっている桶狭間の戦いも、本能寺の変もなし。さりながら、語りつくされた感のある史材で、誰もが描かなかった「信長」を描いている。信長はうつけ(からっぽ)などではなかった。熱い思いが溢れるほどに満ちた、清々しい男であった。そうした「泣かせる信長」に読者は魅せられることであろう。
 20歳前の信長が物乞いに化け、わずかな友を連れただけで、戦(いくさ)で焼かれ飢饉にあえぐ、隣国美濃との国境の村の様子をつぶさに見、母が餓死寸前の幼き我が子の首を己が手で絞め殺すところに出くわすという冒頭のシーンはこれまでの“信長もの”歴史小説にはないものである。
 国と国が奪い合うから戦(いくさ)になる。どちらかがなくなれば奪い合いなど起こらない。すべての国がなくし一つに束ねて、天下静謐(てんかせいひつ)――民が皆安寧に暮らせる、戦のない新しい世――を俺信長が造る、と。
 日本という国の在り方そのものを問うて、日本が一つの国であるという信長の国家観は独特である。国の消滅とは、戦国時代人の誰もが持っていなかった革命思想ではないか。作家が、この信長の国家観に着目した時点で、本作は作品として成功を収めたといってよい。かくて、血で血を洗う骨肉の争いの中に、本当に天下静謐を思う一心で戦国の世を生きた信長が語られる。
 信秀(のぶひでひで)・信長父子の家である「弾正忠(だんじょうのちゅう)織田家」は二つに分かれた尾張国守護代家の家老という家柄で、織田家の主流ではなく、傍流の一つに過ぎなかったが、弾正忠織田家は伊勢桑名から海路尾張に来る船着場として栄えた港町・津島湊を掌握することで発展してきた。信秀は津島から上がる金を元手に伊勢外宮の造営費や禁裏修復料を寄進して、主家の守護代清洲織田家をとびこえ、朝廷にまで知られ、東に駿河今川義元(いまがわよしもと)、西に美濃の斎藤道三(さいとうどうさん)に挟まれた尾張国において、守護代家さえしのぐほどの存在になった。この父なくして「信長」はなかった。

 信長の前半生で重要な位置を占めるもう一人の人物は「美濃の蝮」こと斎藤道三である。権謀術数の限りを尽くして美濃国主に成り上がった道三は、下克上を絵にしたような人物だが、娘の帰蝶(きちょう)(従来の小説では「濃姫(のうひめ)」)を信長に嫁がせている。舅と婿が初めて会った尾張富田(とみた)の聖徳寺(しょうとくじ)の会見では、二人は一言も言葉を交わすことはなかったと巷説は伝えるが、本作の二人は心を通わす。
「天下静謐」を語る若き信長に対して、道三は「この道三を謀るか、大言壮語を吐きおって、噂に違わぬ大うつけめ」といなすも、「歴史に悪魔と名を刻むことになろうが、覚悟はできているのか」と信長の行く末を親身で案じ、「今しばらくこの乱世を生き抜き、婿殿が造る新しい世というやつをこの目で見てみたくなったわ」とつぶやく。娘婿たる信長に愛情を寄せる道三は、この後、実子義龍に討たれるが、美濃一国の譲り状を信長に書き遺す。「国を一つにする」という信長の夢は、隣国美濃の併合からスタートすることになるのである。

 信長には二人の「正室」がいたとする見解がある。
 最初の、正真正銘の正室斎藤道三の娘・帰蝶である。史上の帰蝶は、ついに信長の子を産むことはなく、正室でありながら、いつ死亡したのかさえ不明であるという。また、弘治2年(1556)4月、帰蝶の父・斎藤道三が嫡男義龍との戦いに敗れ死去した直後に、史料上、名前が消えることから信長とは離別したのではないかとみる研究家もいる。本書では、政略結婚にもかかわらず信長と帰蝶は非常に仲むつまじかしく、道三の死後、帰蝶自らの意志で、夫信長の夢を実現させるべく信長の許を去ったと描かれている。
 もう一人の正室の吉乃(きつの)であるが、本作では、「類(るい)」なる女性として、母が我が子を縊り殺す冒頭のシーンから登場させている。史上の吉乃は「永禄9年(1566)信長33歳、5月13日、吉乃 死す」と刻され、「信忠(のぶただ)、信雄(のぶかつ)、徳姫(とくひめ)(家康(いえやす)嫡男信康(のぶやす)の室)と、3年つづけて子供を産み、力尽きたように斃れた、あまりにも短い人生だった、とする歴史小説もあるが、本作では、生駒家長(いこまいえなが)の妹の類は、荒れた言葉遣いの男勝りの気性の女子である。「すべての国がなくなれば世は平和になる」との類の言葉に信長は震えが止まらない。
 帰蝶と類。信長の夢と理想の実現に共鳴したこのふたりの女人の中に、作家は信長の青春を描いている。

 本作は作家にとって初めての歴史小説であるが、キャラクター設定の巧みさはずば抜けている。
 明智光秀(あけちみつひで)が信長に仕えたのは永禄7年(1564)9月とする説があるが、本作では、道三の正室小見(おみ)の方の甥で、帰蝶の従兄弟にあたる光秀が信長と帰蝶の婚儀で、帰蝶の輿入れの際の、「警護人」として登場するには目を瞠らさせられる。
 これまでの「信長もの」では登場しない人物も登場、その代表格は津々木蔵人(つづきくらんど)である。信長の弟・信勝の近習である蔵人は出処もよくわからない流人だが、武辺者の柴田勝家(しばたかついえ)と違い、文官として優れた才を発揮し、信勝一派の重鎮。
 信勝にとっての信長は弟思いで心優しき世話好きの兄。信勝は「天下静謐」の夢を語る、清々しく無垢な兄が大好きだが、「この世は、兄上が思うほど容易なものではない」と反論するも、兄に弓引く気などない。しかし、信長を廃嫡し、信勝を弾正忠家の棟梁に据えようとする家中の密謀が進む。信長の右腕となるべき筆頭家老の林秀貞(はやしひでさだ)までが信長廃嫡を画策し、稲生の原(いのうのはら)の戦いでは、後に織田軍団を率いる司令官となる柴田勝家が信勝側について信長軍の前に立ちはだかる。
 本作は信長25歳の永禄元年(1558)11月2日、信勝の死で終わっている。

 青年時代のみを抽出して描くということは、晩年の老いさらばえた姿をさらさずに済むという利点もあるが、それ以後、天下布武の名の下に天下静謐を目指し、本能寺の変で斃れるまでを『嵐を呼ぶ男!』の続編として読みたいものだと、多くの読者は願っていよう。続編も、あふれる想いを、情熱を、全身全霊を込めてぶつけた作品であるに違いない。

          (令和元年11月27日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第237回 記憶にございません!

第237回 記憶にございません!

令和元年八月(2019)
日比谷 東宝試写室

 ロッキード事件を詳しく知らなくても、あの当時流行語となった「記憶にございません」という言葉は今でも人々の記憶に残っている。政界を揺るがした汚職騒ぎで現職の内閣総理大臣田中角栄が逮捕され、贈収賄に関与したとされる小佐野賢治が証人喚問の場で返答した言葉が「記憶にございません」だった。そしてその後、政治家や官僚、財界人に限らず、都合の悪い質問に「記憶にございません」と答える人間が増えたのは間違いない。
 今回の三谷幸喜作品はそのあたりを踏まえた皮肉たっぷりのコメディである。
 国民からも部下の秘書官からも家族からも嫌われている総理大臣。パワハラ、セクハラ、暴言、嘘つき、利己主義、金と権力の亡者、野党の女性党首とは愛人関係で裏で取り引きまでしている。政治家としても人間としても最低最悪のゲス野郎である。
 この首相がある日、民衆の怒りの投石が頭に命中し、記憶喪失になるのだ。横柄で人を見下し威張り散らしていた首相が、自分がだれだかわからず、だれに対しても弱気でおろおろしてしまう。首相の記憶喪失が世間に露見すれば、政界は大混乱になるだろう。秘密を知るのは病院関係者と部下の秘書官だけ。そこで記憶喪失を隠してなんとかとりつくろう。周囲は横暴な権力者がいきなり心優しいヒューマニストに変貌するのでびっくり仰天。
 極端な性善説である。もともと世の中をよくしようとの理想を抱いて政治家になっても、組織のしがらみ、官僚や企業との癒着、支持団体の優遇、出世するたびにどんどん人相が悪くなり、権力の頂点に昇りつめるころには、極悪人になっている。悪い記憶をなくし、純真な子供のような心だけが残っている人物が国政のトップに立てば、いったいどうなるか。
 もちろん、最初から金のため、売名のため、権力をふるいたいためだけに政治家を目指す不届きな輩も多いだろう。これは現職の政治家にぜひ観てもらいたい映画である。

記憶にございません!
2019
監督:三谷幸喜
出演:中井貴一ディーン・フジオカ石田ゆり子草刈正雄佐藤浩市小池栄子斉藤由貴木村佳乃、吉田羊、山口崇田中圭梶原善寺島進

甲板のラブシーン

大谷羊太郎

小説家になろう」に、シリーズでエッセイを載せてます。
本日送稿したのは「甲板のラブシーン ~一夜で消えた夢だった~」
この不器用な私が、美女と情熱的に抱擁している。それも映画会社の撮影機の前で。
まさかあの夜、こんな事態になるとは。私が若き日に体験した実話です。

甲板のラブシーン ~一夜で消えた夢だった~

https://ncode.syosetu.com/n7204fw/

『映画に溺れて』第236回 コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス

第236回 コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス

平成十一年十月(1999)
東中野 BOX東中野

 映画監督のピーター・ジャクスンがニュージーランドの生家近くの納屋で古いフィルムを発見した。修復してみると、これが映画史にわずか名前だけ残っていたコリン・マッケンジーなる監督の作品だとわかる。映画草創期に現れ、数々の先駆的発明を行いながらも、時代に恵まれず、不遇のうちに忘れ去られた天才、マッケンジーとはどんな人物だったのか。ピーター・ジャクソンのチームがその事跡を掘り起こす。
 農夫の息子だったマッケンジーは機械いじりが好きで、親戚の自転車屋で働くことになる。映画の巡業を見てその道を志し、最初に開発した映写機は自転車の車輪を応用したものだった。当時はまだサイレント時代だが、マッケンジーサウンドトラックが発明される以前に音の出る映画を作った。出演者が全員中国人であったため、観客に言葉が理解されず、彼のトーキーは失敗に終わる。
 カラー技術も世界に先駆け、タヒチで採集した植物を使用して色彩フィルムを開発するが、現地の女性の裸体が写っていたために、猥褻罪で投獄される。マッケンジーの色のついた画期的なフィルムは話題にすらならなかった。
 それでもめげずにニュージーランドオスカー・ワイルドの『サロメ』を超大作として企画し、撮影に取り掛かる。資金を得るために三流コメディを撮影するが、コメディアンの悪乗りで中断。やがて、アメリカの資本家が資金を出してくれる。順調に進むかに見えたが大不況で資本家が破産。コリン・マッケンジーは数々の失敗を繰り返し、最後は第二次世界大戦、失意のうちに戦場の露と消えたのだった。
 ピーター・ジャクスンは記録に基づいてニュージーランド奥地のジャングルを調査し、D・W・グリフィスに匹敵する『サロメ』のスペクタクルセットの跡を発見する。
 すごいドキュメンタリー。まるでウディ・アレンの『カメレオンマン』だ。ところどころに有名人のマッケンジーを偲ぶコメントまで入っているが、実はすべて作り話。真面目な人は怒らないでほしい。                

コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス/Forgotten Silver
1996 ニュージーランド/公開1999
監督:ピーター・ジャクソン
出演:サム・ニール