日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第301回 サウンド・オブ・ミュージック

第301回 サウンド・オブ・ミュージック

昭和五十年九月(1975)
大阪 梅田 梅田スカラ座


 出だしからして、圧倒される。オーストリアザルツブルグの街並み、そして山々の風景、丘の上の小さな点のような人影がだんだん近づき、だんだん大きくなって、それがいきなり大きく手を広げて歌い出すのだ。主題歌を。
 タイトルが出て、ブロードウェイミュージカルらしく主要曲目のメドレー。
 時代は一九三〇年代、ナチスドイツによる併合直前のオーストリア
 修道女志願のマリアは歌が好きで、型破り。修道院長の勧めで町の名士フォン・クラップ大佐の七人の子供の家庭教師となる。厳格な大佐の軍隊式教育で遊びを禁じられている子供たち。最初はマリアを拒絶していたが大佐の留守中、音楽によってマリアと打ち解け、仲良くなる。婚約者の男爵夫人とともにウィーンから戻った大佐は、子供たちを自由に遊ばせるマリアに立腹するが、子供たちの歌声を聴いて、気持ちを改め、マリアを許す。男爵夫人は大佐とマリアの間に愛が芽生えているのを直感し、身を引いてウィーンに帰っていく。
 やがて、ナチスドイツによるオーストリア併合。反ナチスの大佐は新妻マリアと子供たちと、山を越えてスイスへと亡命する。
 ともかく、曲がすべてすばらしい。主題歌の『サウンド・オブ・ミュージック』はもとより、『ドレミの歌』『私のお気に入り』『もうすぐ17才』『ひとりぼっちの羊飼い』『エーデルワイス』など名曲ぞろい。
 トラップ一家は実在しており、アメリカへ亡命後、家族で合唱団を作り、マリア・フォン・トラップの手記が戦後、西ドイツで映画『菩提樹』となり、ブロードウェイでミュージカルの舞台となり、それをさらに映画化したのがこの『サウンド・オブ・ミュージック』なのである。ジュリー・アンドリュースの歌声なくしては成立しないような映画ではあるが、個人的な好みでいえば、私は男爵夫人のエリノア・パーカー、その女神のごとき美しさに惹かれるのだ。


サウンド・オブ・ミュージック/The Sound of Music
1965 アメリカ/公開1965
監督:ロバート・ワイズ
出演:ジュリー・アンドリュースクリストファー・プラマーエリノア・パーカーリチャード・ヘイドンペギー・ウッド

『映画に溺れて』第300回 イヴの総て

第300回 イヴの総て

平成二年十月(1990)
池袋 文芸坐


 シェイクスピア劇にも匹敵する完成度、計算されつくしたストーリー展開、善人も悪人もともに魅力ある登場人物、それを的確に演じる個性的な俳優たち。映画はこうでなければならない。
 大女優がいて、その地位を狙う女優志願の若い女がいる。それに絡むのが大女優の愛人である演出家、その友人の劇作家夫妻、お人好しのプロデューサー、老獪な劇評家、ブロードウェイの内幕物なので、出てくるのは都会的なセンスに溢れる成功者たちである。だから、会話も衣裳も当然のごとく洗練されている。
 映画界ではなく、演劇界の話であり、大女優マーゴを演じるベティ・デイビスは、通俗的な美人女優ではなく、華麗な美しさよりも実力のある芸術家の存在感を現すのにうってつけである。
 大女優は後進に新作の主役を明け渡すが、彼女には幸福な結婚があり、仲間の暖かい友情がある。一方、裏切りと陰謀でスターの地位を得た新人女優はひとりの味方もなく、孤独に戦い続けなければならない。もちろん、陰謀だけではスターにはなれないから、彼女にも類稀なる才能があったことはたしかである。
 ラストシーンで女優志願の若い女が成功した新人女優のもとへ現れるのは、ポランスキーの『マクベス』にも使われた循環の手法である。
 完璧な脚色ときめの細かい演出でジョセフ・L・マンキーウィッツがアカデミー賞を受賞したのは当然のことかも知れない。
 大スターになる前のマリリン・モンローが顔を見せているのも楽しい。


イヴの総て/All About Eve
1950 アメリカ/公開1951
監督:ジョセフ・L・マンキーウィッツ
出演:ベティ・デイビスアン・バクスター、ジョージ・サンダース、セレステ・ホルムゲイリー・メリルヒュー・マーロウグレゴリー・ラトフセルマ・リッターマリリン・モンロー

『映画に溺れて』第299回 御手洗薫の愛と死

第299回 御手洗薫の愛と死

平成二十五年十一月(2013)
銀座 東映試写室


 私は映画ばかり観て暮らしているが、実のところ、本業は小説を書いている。売れてないけど。だから、小説家が主人公の映画は特に気になる。
 吉行和子が主演の『御手洗薫の愛と死』は小説家の実力と名声についての物語である。
 著名な女流作家、御手洗薫。若い頃に恋愛小説で売り出し、推理作家として名声を確立。今では文壇の大御所。彼女がある夜、自分で運転する車で女性をはねてしまう。その息子が示談のために家を訪れる。
 被害者の息子は売れない新人作家で、某出版社の新人賞を受賞したが、本を一冊出しただけ。それが売れず次の仕事もなく、ぱっとしない。
 彼は訪れた大作家の机の上の書きかけの原稿を見て言う。示談に応じ事故のことは公表しないから、そのかわり、そこにある先生の原稿をぼくにくれませんか。
 大作家の生原稿がほしいのかと思ったら、そうではない。それが完成したら、ぼくの名前で出版したい。驚く御手洗薫。が、ついに応じることに。
 かくして、ベテラン御手洗薫が新人作家のゴーストライターとなるのだ。無名新人の名前で書くことで、スランプだった御手洗はどんどん着想が沸いてきて、面白い作品を書き上げる。これが若い新人作家の名前で売り出され、御手洗自身の推しもあって大好評。新人はにわかに売れっ子となる。
 自分で書いてもいないのに、もてはやされ、次回作の注文がきて、今度は自分で書こうとするのだが、御手洗薫先生の力量には及びもしない。そこで……。
 吉行和子と新人作家役松岡充のせりふのやりとり、演技のぶつかりあいは舞台劇のよう。編集長の益岡徹と元秘書の松重豊も味わい深い。


御手洗薫の愛と死
2014
監督:両沢和幸
出演:吉行和子松岡充小島聖松重豊益岡徹松下由樹、岡田浩暉

『映画に溺れて』第298回 9人の翻訳家

第298回 9人の翻訳家

令和元年十二月(2019)
青山 ギャガ試写室


 本が売れない時代になった。売れるのはごく一部のベストセラーのみ。となると、大手出版社は必ず売れる本だけを出そうとする。出版はビジネスなのだ。
 世界的なベストセラー小説『デダリュス』完結編の出版権を手に入れたアングストローム社は世界同時発売を宣言する。この本が世に出れば、巨万の富がアングストローム社に流れ込む。
 世界九か国からパリに集まった翻訳家たち。英語、ロシア語、イタリア語、ドイツ語、デンマーク語、スペイン語、中国語、ポルトガル語ギリシャ語。残念ながら日本語の翻訳家はいない。
 彼らは郊外にある豪華な屋敷に案内され、携帯電話や自分のパソコンは取り上げられて、二か月の間、地下シェルターに閉じ込められ、外部との接触を断つ。快適とはいえないまでも、プールもあり、豪華な食事、それに貴重な書物の並ぶ図書室も。とはいえ、彼らを監視する警備員は見るからに暴力団の用心棒風。
 社長のアングストロームは原稿のすべては見せず、翻訳は小出しで一日に二十ページのみ。そんな中で事件が起きるのだ。社長に届いたメール。
 五百万ユーロを支払え。払わなければ『デダリュス』完結編を出版前にインターネットで無料公開する。
 厳密に保管された原稿。犯人は九人の翻訳家のうちのだれか。あるいは……。
 ミステリーなので、これ以上のあらすじを語ると、二転三転する物語を味わう楽しみを奪うことになる。
 この物語の背後に潜むテーマ。芸術としての文学と、ビジネスとしての出版の対立。このバランスがうまく保たれていると幸福なのだが、いったん崩れると。


9人の翻訳家/Les traducteurs
2019 フランス・ベルギー/公開2020
監督:レジス・ロワンサル
出演:ランベール・ウィルソンオルガ・キュリレンコリッカルド・スカマルチョ、シセ・バベット・クヌッセン、エドゥアルド・ノリエガ、アレックス・ロウザー、アンナ・マリア・シュトルム、フレデリック・チョウ、マリア・レイチ、マノリス・マブロマタキス、サラ・ジロドー、パトリック・ボーショー

 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー10

明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか 』

明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか (NHK出版新書)

明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか (NHK出版新書)

  • 作者:早島 大祐
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2019/11/11
  • メディア: 単行本
 

 

1.はじめに
 明智光秀は、本年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』の主人公です。それもあってか、本屋に行くと明智光秀本能寺の変に関する著書がまとめてあります。
 私も一冊は読んでみようと思って手にしたのが、本作でした。筆者はもともと日本中世史が専攻の方です。その斬新な切り口や分かり易い叙述、史料の紹介等もあって選んだのですが、それ以上にサブタイトルの「牢人医師はなぜ謀反人となったか」に惹かれたことはいうまでもありません。
 本書は、明智光秀の牢人時代から足利義昭足軽衆を経て、織田信長に仕え、やがて重臣として出世街道を歩きながらも、なぜ謀反して織田信長を本能寺で殺すこととなったのか、を史料に基づき具体的に考察していきます。
 ちなみに、主人を持たない武士=「ろうにん」を、だいたい中世から戦国時代までは「牢人」、近世は「浪人」と表記します。

2.無名の青年時代=牢人医師の時代
 明智光秀は本当に医師だったのでしょうか。仮に医師だったとすれば、どのような医師だったのでしょうか。当時は現代と違って、医大を出て国家資格を取得して医師になるわけではありません。
 まず筆者は、医者といえば官医(朝廷に医術を持って仕える人)か僧医の時代にあって、16世紀を日本医学史上の転換点と捉えます。その根拠を『医書大全』という医学書が、堺の商人の手で刊行されたことをあげています。大永8年(1528)のことでした。これは、民間医の活躍が、正確な医学情報を欲したという背景があったというのです。(「序章」)
 要するに、官医でもなく僧医でもない、第三の医者=民間医の出現というわけです。ちなみに大永8年は、明智光秀の生まれた年という説もあるようです。
 明智光秀は、美濃国土岐氏の一族で、若い頃十兵衛尉と名乗り越前国に居たことはよく知られています。そこで光秀は何をしていたのでしょうか。筆者は、史料に拠りながら、越前国長崎称念寺の門前で10年ほど牢人暮らしをしていたといいます。そこで光秀は医師をしていたというのです。ただし、牢人ですから医学的な知識を持っていて地域の人々の役に立っていた、というのが実態のようです。とはいいながらも、それにより生計を立てていたこと、当時は民間医が台頭しているとはいっても、高度な知識を要する医師は、まだまだ農村から養成できる時代ではなかったこと、そのため知識のある牢人(武士階級)に頼らざるを得ない時代であったことから、光秀を「医師」であったとしています。(第一部第一章・第二章)
 要するに不遇な牢人時代に自ら得た知識を活用して生計を立てていたということでしょう。まだ、医師という職業が一般的な時代ではない頃ですから、「医師」と断定しても妥当な説だと思います。

3.世に出る=足利義昭足軽衆を振り出しに
 しかしながら、光秀はそのまま牢人医師では終わりませんでした。光秀は足利義昭に従うこととなります。義昭は永禄11年4月に越前一乗谷元服しますが、その頃行われた家臣団の整備の際足軽衆として採用されます。それは、永禄8年八月頃に義昭方として対三好氏との戦いに参加したからだというのです。(同第一章)
 牢人医師が、なぜ義昭方となって対三好との戦いに参加したのか、そこのところはよく分かりません。しかしながら、当時の若者にありがちな「手柄を立てて一国一城の主人に」という功名心がなかったとは言えないでしょう。
 そのうえ、朝倉義景でもなく朝倉氏の重臣の誰かでもなく、将軍位を目指す足利義昭の家臣となったことが、やはり明智光秀という人物の「志」が小さくなかったことを示しているように思われてなりません。
 その後の光秀の活躍と出世は知られたとおりですが、そこにも筆者の史料に基づく興味ある展開があるのですが省略します。ぜひ本書をお手に取って……。

4.本能寺の変
 そして気になる本能寺の変についてです。筆者は光秀が信長に背いた理由をどう見ているのでしょうか。
 まず、第一にあげられているのは、御妻木殿の死です。天正9年8月のことです。本能寺の変天正10年6月のことですから、およそ10ヶ月ほど前のことになります。御妻木殿とは、光秀の妹で信長の側室になっていた女性です。私は本書で始めて知りました。私見ですが、光秀の妻が妻木氏の女ですから、もしかしたら義妹かもしれません。
 信長は専制的な側面があったことはよく知られていますが、その指示はけっこうアバウトだったようです。方針だけ示して後は任せるというスタイルだったのでしょう。
 しかしながら、その結果が意に沿わなかったり、失敗はゆるされません。そういう人物の側にその意を知る人物が居ると居ないとでは、仕える側の気苦労にも大きな差が出ることでしょう。信長晩年の光秀との確執も、御妻木殿を亡くして信長の真意を知ることができなくなったことが重なってのことなのかもしれません。(第三部第十一章)
次に信長の家中を現代の企業に例えた場合、かなりのブラックだったということです。例えば、本能寺の変天正10年は、2月9日に信濃出陣を命じられ、3月5日に信濃に向けて出立しています。武田氏追討のためですが、3月11日に武田氏は滅亡し、4月7日に帰国したようです。軍団を率いての移動ですから、移動だけでも大変です。4月23日には、丹後の細川藤孝への使者を命じられ、5月14日には徳川家康の饗応を命じられています。15日から17日には饗応にあたり、26日には中国出陣のために坂本から亀山に移動しています。かなりの酷使と思われます。(同第十一章)
 光秀はすでに重役クラスですが、部下に丸投げというわけにはいきません。無能という烙印を押されれば、佐久間信盛父子のように追放(現代でいえば解雇)処分が待っているのです。
 さらに、過酷な統治レースの実態(同第十章)、信長の一族優遇策への政策転換があげられています。(同第十一章)
「要は部将たちを前線に立たせて酷使する一方で、その内側にある整備の済んだ領地は一族に与えていたわけである。信長側室となっていた妹を亡くした光秀は、信長から一族に準ずる扱いも期待できなくなっており、このような状況は間違いなく彼に不満を抱かせただろう。」(189ページ)
 こうして本能寺の変が起こるわけですが、いずれにしろ本能寺に宿泊中の信長の供回りは少数であり、有力武将は京の周辺にいません。信長を倒して天下取りを狙うならこの機を逃す手はないでしょう。

5.天下を取りこぼした人物
 越前牢人中、朝倉家でもなく朝倉家重臣でもなく、足利義昭に仕官した光秀は、現代に例えれば、名門企業でもなく、その子会社でもなく、伝統があるとはいえ一度は傾いてしまった企業に再就職したようなものです。確かに土岐家の末端に連なる人物に名門企業や子会社の門は狭かったのかも知れませんし、そもそも門が開いていたかも疑問です。
 しかしながら、3.で書いたように、光秀は敢えてその傾いた伝統企業に就職したのではないでしょうか。自らの力で再興させる気概も持って……。
 そんな男であるからこそ、少数の供回りで本能寺に宿泊する信長と信忠を倒せば、天下を取れると判断し、本能寺に信長を襲ったのではないかと思うのです。
 チャンスがあれば、確実にモノにする。その後は、そのことを成就してから考える。それこそが戦国に生きる男ではないでしょうか。
 古来、謀叛が成就した例しは希少です(足利幕府こそ尊氏が、後醍醐帝に謀叛して成功した希な例です)が、結果を気にしてチャンスを逃すよりも、この光秀の行動こそずっと男らしい生き様のように私には思えるのですが、みなさんは如何でしょうか。

 最後に筆者は、光秀を「天下を取りこぼした人物」と表現し、中世的身分の壁に直面し、それを越えようとしたのが本能寺の変であったとし、さらに中世的身分制度を換骨奪胎して乗り越えていった豊臣秀吉とを比較しています。(「終章」)
 この比較は、やや難しいように思われます、

(補足)

 主君に弓引く謀反人が、公共放送たるNHK大河ドラマの主人公となる。これも時代の変化なのでしょうか、変化した時代の求めなのでしょうか、考えれば興味深いテーマでもあります。N国党の存在とともに……。

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二回 道三の罠(わな)

 天文十六年(1547)。秋。織田信秀(高橋克典)は、二万余りの兵を率い、美濃との国境に陣を敷き、いくさの構えをとりました。
 明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、旅から帰ってきたところでした。稲葉山城にて、叔父の明智光安(西村まさ彦)と話します。織田信秀がまたしても攻め込んできたと光安はいいます。
「こたびは苦戦じゃ。敵の数は二万。わが方はわずか四千ほど」
 光秀は美濃の守護代である斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)に旅の報告に訪れます。鉄砲を持ち帰り、医者を連れ帰ってきています。道三は織田信秀のことを述べます。
「いくさは数ではない。そのことを思い知らせてやる」
 光秀は下がろうとします。道三は呼びかけます。
「ところで、そなたに渡した旅の費用だが、あれで足りたか」
「はい、十分でございました」
 と、姿勢を正す光秀。
「すぐにとは言わんが、半分返せ」と、道三は驚くべきことをいい出します。「みなやったわけではないぞ。金がないと申すゆえ、貸したのだ」
 困惑する光秀。道三はいいます。
「返す当てがなければ、いくさで返せ」道三は鉄砲をもてあそびます。「こたびのいくさで侍大将の首を二つとれ。それで帳消しにしてやる」
 道三のもとを去った光秀は、一人の侍に呼び止められます。光秀を道三の妻である小見の方の館へ連れてくるようにと命じられたといいます。誰が命じられたのかは、語ろうとしません。そこで待っていたのは道三の娘、帰蝶(川口春奈)でした。帰蝶は光秀とのしばらくぶりの再会を喜び、母の小見の方のために医者を連れてきたことに礼をいいます。そこへ織田勢進軍の知らせが聞こえてきます。帰蝶のもとを去ろうとする光秀。
「武運を祈る」
 と、帰蝶は光秀に声を掛けます。
 鎧に身を固める光秀。ほかの武将たちも、戦闘態勢を取って織田勢を待ち構えます。
 織田勢の足軽たちが進軍してきて、仕掛けられた落とし穴にはまります。それを矢で射る斎藤軍。
 光秀は手薄なところに回り、敵を押し戻します。侍大将を探します。
 道三は味方が不利だという報告を受けると、兵を退くことを決定します。すべての門を閉じて籠城すると宣言します。
 光秀は退却の命令を知ります。敵の攻撃を引き付けながら下がる光秀。光秀の手勢が入ると、城の門は閉じられます。
 籠城をしながらも攻撃する斎藤軍。投石器で織田勢を攻撃します。梯子が下ろされ、点火された俵が転がされます。火だるまになる織田の兵。
 城に逃れた光秀は不満顔です。道三の息子の斎藤高政(伊藤英明)に文句を言います。美濃の古くからの領主たちも、籠城が気に食わぬようです。
「わしのいうことなど、聞いてくれたためしがない」
 と、いう高政。
「なにゆえだ」
と、たずねる光秀。
「私は正室の子ではない。側(そば)めの子だ」
と、高政は吐き捨てます。
 織田勢は、乱破(らっぱ)=忍び、からの報告で、斎藤軍が油断しきっていることを知ります。織田信秀は、とりあえず兵を引き上げて陣を立て直すことにします。
 しかしこれは道三の策略でした。織田方の乱破が潜り込んでいることを計算に入れ、油断していると見せかけていたのです。道三はいいます。
「今、織田軍はわれらに背を向け、のこのこ歩いておる。この機を逃していつ勝てる」
 斎藤軍は門を開いて織田勢に襲い掛かります。
 斎藤軍は織田信秀のいる場所まで迫ります。信秀の弟、信安は、矢を受けて倒れます。
 光秀は侍大将を探して走り回ります。ついに侍大将を見つける光秀。しかしその首を取ろうとして躊躇します。
 斎藤軍は織田勢を圧倒します。鬨の声を上げる道三。その響きは全軍に伝わっていきます。
 勝利に沸く稲葉山城。京から連れ帰った医者の望月東庵(堺正章)が光秀に話しかけます。
「おめでとうございます。お手柄をお立てになったと聞きました」
「そうですか。それほどおめでたくもない気分です」光秀は沈んだ様子です。「討った侍大将の顔が、叔父上に少し似ていた。急にためらいが。それで、首を落とすのが遅れてしまい。その時、妙なことを思っていたのです。これが武士の本懐かと。武士の誉れかと。こんなことが。しかし、いくさはいくさだ。勝たなければ自分が討たれる。いくさがある限り、勝つしかない」
 光秀は座り込むのでした。
 そのころ道三は美濃守護である土岐頼純を迎えていました。上座に座らせます。土岐は祝いに訪れたと語ります。土岐の妻である帰蝶は夫に抗議します。
「なにゆえ鎧兜を身に着けておいでにならぬのですか。土岐家は源氏の流れをくむ武門。父が苦戦となれば、共に戦う備えも肝要とはお思いになりませんでしたか」
 道三は娘の帰蝶を下がらせます。道三は不思議なことを言い出します。
帰蝶は、みどもが思っておった以上に、守護様のご事情を存じておるようで」
「事情」
 と、土岐は聞き返します。
「こたびのいくさがなにゆえ起きたのか。なにゆえ織田が急変したのか」道三の声は穏やかです。「織田信秀と取り引きなさいましたな。この美濃に攻め込み、みどもを討ち果たした暁には、相当の領地を与えると」
 証拠はありました。死んだ織田信安に土岐が送った手紙が発見されたのです。
 土岐は怒り出します。叔父をそそのかし、父を守護の座から引きずり下ろした、と、道三を責めます。
「そちの父は身分卑しき油売りであった。それをわれらが温情かけて世に出してやったのじゃ。その恩を忘れ、土岐家を二つに裂き、美濃をわがもののごとくふるもうておる、この成り上がりもの」
 土岐は座を立って去ろうします。それを一喝する道三。
「いま一度お座りなさりませ。この城のあるじはみどもでございます。みどもがならぬと申したら、あなた様とて出ていくことはかないませぬぞ」
 土岐は座に戻ります。道三はお茶をたてて土岐にふるまいます。そしてお茶を飲んだ土岐は苦しみ始めるのです。道三はその間、滑稽な唄をうたい続けるのでした。

 

『映画に溺れて』第297回 テリー・ギリアムのドン・キホーテ

第297回 テリー・ギリアムドン・キホーテ

令和元年十二月(2019)
渋谷 ショウゲート試写室


 何度も何度も挫折を繰り返し、ようやく完成した。テリー・ギリアムの見果てぬ夢『ドン・キホーテを殺した男』が。
 スペインで『ドン・キホーテ』を撮影中の若手監督トビー。トラブル続きで撮影は進まない。この場面はテリー・ギリアム自身の実体験であろう。
 スタッフとレストランで食事中、店に入ってきた物売りの男。その籠の中に一枚のDVDを見つけたトビー。十年前、学生時代にスペインで撮った自主映画『ドン・キホーテを殺した男』の海賊版ではないか。プロの俳優を使わず、地元の村人を出演させたのだ。思い出にふけり、トビーは撮影の合間にさほど遠くない村を訪れる。そして、ドン・キホーテに出会うのだ。
 その老人は十年前にトビーの自主映画でドン・キホーテ役を振り当てられた村の靴屋だった。アロンソ・キハーノがドン・キホーテになったごとく、老いた靴屋は十年前の撮影以来、ずっとドン・キホーテのままの人生を送っていた。彼はトビーを見てサンチョと呼ぶ。ある事件に巻き込まれ、馬上の老人とともにロバに乗って荒野をさまようトビー。
 十年前、ダルシネア役だった酒場の娘は、その自主映画出演がきっかけで女優に憧れ、都会に出て、芸能界の裏街道を渡り歩き、ヌードモデルやポルノ出演の後、今ではロシアのウォッカ成金の囲われもの。
 放浪の果て、老人とトビーが行き着いたのは豪勢な城。そこでは映画関係者による仮装舞踏会が開かれていた。
ラ・マンチャの男』が大好きな私には、わくわくするような刺激たっぷりの新作である。

 

テリー・ギリアムドン・キホーテ/The Man Who Killed Don Quixote
2018 スペイン・ベルギー・フランス・イギリス・ポルトガル/公開2020
監督:テリー・ギリアム
出演:アダム・ドライバージョナサン・プライスステラン・スカルスガルドオルガ・キュリレンコジョアナ・リベイロ、オスカル・ハエナダ

『映画に溺れて』第296回 ロスト・イン・ラ・マンチャ

第296回 ロスト・イン・ラ・マンチャ

平成十五年十二月(2003)
池袋 新文芸坐


 TVのモンティ・パイソンは英国BBCのお笑い番組で、オックスフォードとケンブリッジ出身の五人の秀才が自作自演で相当におふざけのギャグを演じていた。これにナンセンスなアニメーションで加わっていた六人目のアメリカ人がテリー・ギリアムである。
 その後、ギリアムは映画監督として成功し、『バンデットQ』『未来世紀ブラジル』『バロン』『フィッシャー・キング』『12モンキーズ』などなどで才人ぶりを発揮し続ける。
 テリー・ギリアムが長年温めていた『ドン・キホーテを殺した男』の撮影に入ったのが西暦二〇〇〇年。二十世紀の最後の年である。
 主演にジョニー・デップドン・キホーテにはフランスの名優ジャン・ロシュフォールが配役された。ストーリーは現代人のデップが過去のスペインにタイムスリップしてドン・キホーテに出合うというもの。
 撮影はスペインで行われたが、現場のすぐ近くにある軍事基地の騒音に悩まされ、間もなく大雨と洪水で機材がだめになる。ギリアムは凝り性で妥協を知らず、どうでもいいと思われるような細部にも莫大な予算を注ぐ。そして不運なことに、ドン・キホーテ役のジャン・ロシュフォールがヘルニアで入院。その間もどんどん出費がかさみ、とうとう出資者が手をひいて実現不能となった。
ロスト・イン・ラ・マンチャ』はギリアム監督の新作『ドン・キホーテを殺した男』のメイキングになるはずだったが、本編が実現せず、メイキングだけが公開されるという不思議なドキュメンタリーである。結局、テリー・ギリアムこそがドン・キホーテであったという話。


ロスト・イン・ラ・マンチャ/Lost in La Mancha
2001 アメリカ・イギリス/公開2003
監督:キース・フルトンルイス・ペペ
ドキュメンタリー

『映画に溺れて』第295回 アマデウス

第295回 アマデウス

昭和六十年二月(1985)
新宿 新宿ピカデリー


 ピーター・シェーファーの戯曲は、日本でもたくさん上演されていて、私は『アマデウス』の舞台版は映画化される前に池袋のサンシャイン劇場で観ている。昭和五十八年で、主演のサリエリに九代目松本幸四郎モーツァルト江守徹、コンスタンツェが藤真利子だった。
 精神病院の老サリエリが、一瞬にしてウィーンの宮廷音楽師に変わる場面、『ラ・マンチャの男』のセルバンテスドン・キホーテに変身する場面と似ているなあ、と思った記憶がある。どちらも幸四郎だったから。
 努力家の秀才サリエリが何日も苦心して作った曲よりも、モーツァルトがその場で、さらさらっと書き直した曲のほうがはるかに優れていて、しかもその違いがわかるのが、サリエリだけという皮肉。
 アマデウスとはモーツァルトの洗礼名である。神に愛され、神のごとき名曲を作るヴォルフガング・アマデウスモーツァルトが下品で無礼な破滅型。凡庸だが社会的に常識人であるサリエリは宮廷で出世し、天才モーツァルトは不遇のうちに野垂れ死にする。やがて、後世に残ったのはモーツァルトの作品だけ。世間から忘れられたサリエリは、自分がモーツァルトを殺した人間として、せめて名を残そうと告白する。それがこの物語なのだ。
 映画版は、これを絢爛豪華な歴史絵巻として描いている。
 サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムがアカデミー主演男優賞を受賞。それまで無名だったのに、その後、ハリウッドの脇役として大活躍している。『薔薇の名前』や『ラストアクションヒーロー』の悪役はぴったりだった。
 シェーファーの戯曲『アマデウス』は雑誌『テアトロ』に倉橋健訳が掲載され、劇書房からは江守徹訳が出版された。


アマデウス/Amadeus
1984 アメリカ/公開1985
監督:ミロス・フォアマン
出演:F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス、エリザベス・ベリジ、サイモン・キャロウ、ロイ・ドートリス、クリスティーン・エバーソール、ジェフリー・ジョーンズ

『映画に溺れて』第294回 盲目のメロディ

第294回 盲目のメロディ

令和元年十二月(2019)
新宿 新宿ピカデリー


 事前になんの予備知識もなく、こういう映画に出合うと、私はうれしくてたまらない。さあ、この先、いったいどうなるのだろう。わくわくしながら観て、最後に満足感を味わう。詳しく最後まで筋を語る人には決して耳を貸してはならない、とつくづく思う。
 さて、広い畑、ウサギに食い荒らされたキャベツ、銃を持った農夫がウサギを追う。という場面から唐突に始まるが、いったいなんだと思っているうちに、都会のアパート、窓際の部屋でピアノを弾く青年アーカーシュ。盲人でピアノの腕前は相当のもの。コンテストに応募するために日ごと作曲に打ち込んでいる。生計はピアノの個人教師。
 ある日、町でバイクに乗った若い女性ソフィにぶつかり、それがきっかけで彼女の父親の経営するレストランでピアノを演奏することに。彼女ともだんだん親しくなり、アパートに誘う。実は、彼はほんとうは目が見えるのだ。聴覚をとぎすまし、音楽に集中するために普段から盲人のふりをしていただけ。だが、周囲はだれも彼の秘密を知らない。
 レストランの常連で元俳優の不動産業者プラモードが彼の演奏を気に入り、妻の誕生日にサプライズでピアノを弾いてほしいと頼む。指定の日時に部屋を訪ねると、美人の妻シミーが出てきて彼を部屋に導く。ピアノの前に案内され、何食わぬ顔で演奏するが、床に倒れ血を流して動かなくなっているのが依頼人のプラモード。
 オードリー・ヘップバーンの『暗くなるまで待って』など、盲人が犯罪に巻き込まれるストーリーはよくあるが、これは盲人のふりをした男が犯人から狙われる話。
 その後の二転三転、とんでもない犯罪コメディであり、先が読めない。
 アーカーシュ役のアーユシュマーン・クラーナーの弾くピアノがすばらしい。そして、悪妻シミー役のタッブーのうっとりするほどの美しさ。
 インド映画ではあるが、いきなりみんなで歌って踊ってのお決まり場面はなし。


盲目のメロディ/Andhadhun
2018 インド/公開2019
監督:シュリラーム・ラガバン
出演:アーユシュマーン・クラーナー、タッブー、ラーディカー・アープテー、アニル・ダワン