日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第375回 魔法使いの弟子

第375回 魔法使いの弟子

平成二十二年八月(2010)
新宿歌舞伎町 ミラノ3

 

 自社アニメーションの名作を次々と実写化しているディズニー。そんな中で異色なのが『ファンタジア』の一編『魔法使いの弟子』の実写版。オリジナルはポール・デュカスの曲に乗せて、魔法使いの弟子ミッキー・マウスが帚に魔法をかけて水汲みをさせ、止める魔法を知らず、家が水浸しになるというもの。
 これにアーサー王伝説の魔法使いマーリンを融合させたのが実写版『魔法使いの弟子』である。
 中世のイングランド。邪悪な魔女モルガナのために倒されたマーリンは、弟子のバルサザールに使命を与える。マーリンの後継者を探し出し、モルガナを滅ぼし、世界を救えと。
 マーリンから不老不死の秘術を授かったバルサザールは、その後、千年以上も世界をさまよい、後継者を探し続けている。
 現代のニューヨーク。大学で物理学を学ぶ青年デイヴ。彼には子供時代の忌まわしい記憶があった。遠足の途中で迷い込んだ骨董屋で善と悪の魔法使いが戦うのを目撃して、おもらし。学校中の笑い者になったのだ。
 この理科系科学実験オタクのデイヴがマーリンの後継者となり、バルサザールのもとで魔法修業をすることに。
 コメディと魔法のディズニー。ディズニー映画はいつも明るく楽しくハラハラドキドキ。パターンとはわかっていても、つい観てしまう。
 バルサザールがニコラス・ケイジ、弟子となる若者がジェイ・バルチェル、敵役がアルフレッド・モリーナ、美女がモニカ・ベルッチ。現代ニューヨークを舞台に善と悪との派手な魔法合戦も楽しめる。『ファンタジア』のミッキーの水汲みの場面、ほとんどそのまま出てくるのもうれしい。
 ふと思ったのだが、DCコミックス映画『シャザム!』は、けっこうこの映画と似た設定である。

 

魔法使いの弟子/The Sorcerer's Apprentice
2010 アメリカ/公開2010
監督:ジョン・タートルトーブ
出演:ニコラス・ケイジジェイ・バルチェルモニカ・ベルッチ、アルフレッド・モリーナ、テリーサ・パーマー、アリス・クリーグ

 

『映画に溺れて』第374回 川の底からこんにちは

第374回 川の底からこんにちは

平成二十二年三月(2010)
東銀座 シネマート試写室

 私はコメディがけっこう好きなのだが、最近は声を出して笑えるようなコメディが少ない。不況の際には喜劇が流行すると言われている。新型コロナウィルスによる不況、なんとか笑い飛ばせるようなコメディは出てこないものか。
 十年前の『川の底からこんにちは』は低予算ながら、遊び心が溢れていて、試写室で声を出して笑ったのを思い出す。
 高校卒業と同時に男と田舎を飛び出し東京で暮らす佐和子。演じるは満島ひかり。男とはすぐに別れ、その後、恋人が次々と代って今は五人め。職業も転々として五回め。
 小さな玩具メーカー派遣社員なのだが、自分はなにをやってもうまくいかない「中の下」だと自嘲する。田舎でシジミ袋詰めの工場を経営する父親が倒れたので、仕事を辞めて帰郷し、父の工場を引き継ぐことになる。これに五人めの恋人が幼い娘とともにくっついてくる。この男がまただらしなくて、玩具メーカーの元上司だったが、会社をクビになり、女房にも逃げられ、ずるずると子連れでシジミ工場の婿に入る魂胆。
 工場で働くおばさんたちは、突然帰ってきて、会社経営に参加する社長の娘に対し、反感をあらわにし、そのいじめの凄まじいこと。ここで佐和子、追い詰められて、開き直る。不況も苦境もぶっとばせとばかり、シジミ会社の応援歌まで作ってしまう。
 というあらすじだが、実はどの場面も登場人物の会話、絶妙なのだ。ゆるゆるで。
 満島ひかり、ここまでやるか。恋人の遠藤雅、父親の志賀廣太郎、叔父の岩松了など、くせのあるキャスティングもうまい。シジミ工場のおばさんたちもすごい。
 大いに笑いながら、ヒロイン佐和子にはぜひ幸福になってほしいと願わずにはいられない。何をやってもうまくいかない「中の下」の彼女こそ、今の日本人の大半、われわれそのもののような気がするからだ。

 

川の底からこんにちは
2010
監督:石井裕也
出演:満島ひかり、遠藤雅、志賀廣太郎岩松了並樹史朗、稲川実代子、猪股俊明、鈴木なつみ

 

『映画に溺れて』第373回 セッション

第373回 セッション

令和二年六月(2020)
新所沢 レッツシネパーク

 

 コロナ禍で試写にも映画館にも行かなかったので、三か月ぶりの映画鑑賞である。やはり映画館で観る映画は感動が違う。
 今回は以前に見逃していた『セッション』を観る。映画館は緊急事態が解除されてぼつぼつと上映を再開しているが、新作の話題作や大作はあまり公開されていないようだ。思うに、今はまだコロナが収束しておらず、話題作を上映しても観客動員は見込めない。そこで、人気のありそうな作品は収束後に先送りして、旧作の名作を上映している。これはこれで、見逃した映画が大画面のスクリーンで観られるのだから、うれしい。
 さて、『セッション』は当時ベストテンなどで上位に入っただけあって、大いに見応えがあった。
 いきなり響くドラムの音。叩いているのは名門の音楽大に入学したばかりのアンドリュー。その才能に目をつけた教師のフレッチャーが自分のバンドの練習に来るよう誘う。数々のコンクールで優勝する名物教師。が、これがとんでもないスパルタ教師で、初日でアンドリューは罵られ、殴られ、泣かされてしまう。
 ここから才能のある純情青年と鬼教師との熾烈な戦いが始まる。
 教師はチャーリー・パーカーがシンバルを投げつけられたエピソードを引き合いにして言う。「なかなか上手だよ」なんて下手に褒めたら、天才は生まれない。
 アンドリューはドラムのことしか頭になく、猛練習で才能を発揮していくのだが……。
 J・K・シモンズ演じる鬼教師が実に見事。完璧を目指すためと言いながら、実は有能な若者を虐めて潰すことに内心喜びを覚えているのではなかろうか。
 私はスポーツ根性ドラマの鬼コーチがぞっとするほど大嫌いで、そんなサドマゾを美談に仕立てたような話は観たくもない。この『セッション』が実によくできているのはフレッチャー先生を卑劣でずる賢く血も涙もない徹底的な悪役にしているからだ。
 マイルズ・テラーの天才ドラマーぶりも素晴らしい。ラストの盛り上がり、画面を見ながら体が自然に動いてしまった。

 

セッション/Whiplash
2014 アメリカ/公開2015
監督:デイミアン・チャゼル
出演:マイルズ・テラーJ・K・シモンズ、メリッサ・ブノワ、ポール・ライザー

明治一五一年 第14回

悲鳴は失われた形になるだろう
わだかまる意識のかたちは水を剥ぐ
骨髄の中心まで柔らかく穿つ
悲鳴は失われた形になるだろう
死者の言葉はいつまでも終わらぬ
明治元年の唇の多くの掌もまた戻る
悲鳴は失われた形になるだろう
遠くに吊るされる人影の傾きを開く
見えない記憶の歪が奥底まで崩す
悲鳴は失われた形になるだろう
ずれる明治元年の筋肉を噛む
追われる小さな背中の叫びは届かず
悲鳴は失われた形になるだろう
瞬時の街並は今も途切れずに燃ゆ
魂のかすれいく行方を彼方まで運ぶ
悲鳴は失われた形になるだろう
明治元年の名前はいつまでも滅ぶ
かたわらからまだ顧みられずに消ゆ
悲鳴は失われた形になるだろう
帰らない足先に祈りは満ちず
静かのてのひらの動きが常に止む
悲鳴は失われた形になるだろう
人の内側の水位は救いもなく増す
かすれいく明治元年の名前は結わく
悲鳴は失われた形になるだろう
揺らぐ首筋の抜殻を柔らかく綴る
首から上の視線はいつまでも去らぬ
悲鳴は失われた形になるだろう
明治元年からのより深い淀を断つ
残存する声たちの野になお腕が凪ぐ
悲鳴は失われた形になるだろう

第九回歴史時代作家協会賞 候補作について

第九回歴史時代作家協会賞の候補作を発表致します。

 [候補作]

●新人賞(デビューから3年以内の作家で、2019年6月から2020年5月までの作品が対象)

加納則章 『明治零年 サムライたちの天命』H&I(エイチアンドアイ)2020年4月

明治零年 サムライたちの天命

明治零年 サムライたちの天命

  • 作者:加納則章
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 単行本
 

 

坂上 泉 『へぼ侍』 文藝春秋2019年7月

へぼ侍 (文春e-book)

へぼ侍 (文春e-book)

 

 

杉山大二郎『嵐を呼ぶ男!』 徳間書店2019年11月

嵐を呼ぶ男! (文芸書)

嵐を呼ぶ男! (文芸書)

 

 

 佐藤 雫 『言の葉は、残りて』 集英社2020年2月

 

言の葉は、残りて

言の葉は、残りて

  • 作者:佐藤 雫
  • 発売日: 2020/02/26
  • メディア: 単行本
 

 

夏山かほる『新・紫式部日記 日本経済新聞出版社2020年2月

 

新・紫式部日記

新・紫式部日記

 

 

●文庫書き下ろし新人賞(デビューから3年以内の作家で、2019年6月から2020年5月までの文庫書き下ろし作品が対象)

[候補作]

稲田和浩『女の厄払い 千住のおひろ花便り』 祥伝社文庫2019年11月

馳月基矢『姉上は麗しの名医』 小学館時代小説文庫2020年4月

 

●シリーズ賞(非公開)

●作品賞(2019年6月から2020年5月までの刊行作品が対象)

[候補作]

赤神 諒『空貝(うつせがい) 村上水軍の神姫』 講談社2020年1月

木下昌輝『まむし三代記』 朝日新聞出版2020年2月
平谷美樹『大一揆』 角川書店2020年3月
村木 嵐『天下取』 光文社2020年3月

 

(非公開)

 

選考委員長 三田誠広

選考委員 菊池 仁  雨宮由希夫  加藤 淳

 

※選考会は7月28日午後3時より開始、

結果は各社の担当者へお知らせします。

授賞式は9月18日(金)を予定しております。

今後の動向により変更することがあります。

書評『信長、天が誅する』『信長、天を堕とす』

書名『信長、天が誅する』
著者名 天野純希 
発売 幻冬舎
発行年月日  2019年11月25日
定価  本体1600円(税別)

信長、天が誅する (幻冬舎単行本)

信長、天が誅する (幻冬舎単行本)

 

 

書名『信長、天を堕とす』
著者名 木下昌輝
発売 幻冬舎
発行年月日  2019年11月25日
定価  本体1600円(税別)

信長、天を堕とす

信長、天を堕とす

  • 作者:木下 昌輝
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

 当代の歴史小説界を牽引する若き作家・天野(あまの)純希(すみき)(昭和54年、愛知県生まれ)、木下(きのした)昌輝(まさき)(昭和49年、奈良県生まれ)による「織田信長」の競演競作である。
 1)桶狭間の戦いから2)姉川の戦い、3)長島一向一揆との戦い、4)長篠設楽原の戦いを経て、5)本能寺の変に到る、5つの歴史的局面を章立てし順次取り上げ、しかも、相呼応する形で執筆した二人の作家による連作短編集である。

 天野の『信長、天が誅する』は信長と敵対した人物の立場・視点から信長を見つめ間接的に信長像に迫るに対して、木下の『信長、天を堕とす』は信長自身の視点から信長の生涯を描いている。両作品は「小説幻冬」の2016年12月号~2019年3月号に相互に連載され、2019年11月に単行本として同時出版された。
 信長とは何者か。両書とも、「天が誅する」「天を堕とす」と「天」がテーマである。そもそも「天」とは何か。「天」とは大義名分を超越する理念であろう。信長の掲げた天下布武の旗印も「公」にはなり得ず「私」にすぎない。「天」をめぐって切り結ぶ両作家がいかなる信長像を描くのか、章ごとに、読みすすめたい。

第一章 桶狭間の戦い 永禄3年(1560)5月

 信長はなぜ、桶狭間で義元を討つことができたのか。桶狭間の戦いは多くの謎に包まれている。今川義元の天下取りを目指しての上洛であったとするのは近年の研究ではおおむね否定されている。信長の「迂回奇襲作戦」も然りである。桶狭間の地形の陰に入ることで信長の強襲作戦は奏功したのだが、進撃ルートの謎は残る。信長の一生は桶狭間の快挙の中に封じ込まれているだけに、両作家がそもそも桶狭間をいかに描くか興味がつきない。
 【天野の「野望の狭間」】――。今川の支配下にある井伊家の立場、桶狭間の戦いで先陣を強要された義元の家臣・井伊(いい)直盛(なおもり)(女城主直虎(なおとら)の父)の立場から、桶狭間を見ている。義元の本陣の場所がなぜ信長に知られたのか。それは味方の中に内通者がいるからであり、その人物こそは松平元(まつだいらもと)康(やす)(後の家康)だと直盛はみる。内通者を家康とするのは天野、木下共通である。
 【木下の「下天の野望」】――。義元の居場所を知りさえすれば、乾坤一擲の野戦にて、義元と雌雄を決することができる。己が率いる馬廻り衆で、尾張の平定を策する義元の首を取る。それが若き信長の秘策であった。
 腹心の岩室(いわむろ)長門守(ながとのかみ)に「敵に正しく慄き、その上で恐怖を乗り越えろ」 と諫言されて以来、自分を恐怖させるものを求め続けた信長。合戦の後、桶狭間山に登り、輝く伊勢湾を見るシーンがある。信長の後方には岩室長門守がいる。「一を聞いて信長の十を知る才覚の持主」の岩室は森乱、明智光秀へとつながる本書のキーマンである。

第二章 姉川の戦い 元亀元年(1570)6月

 姉川の戦いは浅井・朝倉氏の命運を決めた大合戦とされる。信長VS長政の戦いを政略結婚により浅井(あざい)長政(ながまさ)に嫁いだ信長の実妹お市(いち)の方を通して描いているのは天野、木下共通。
 元亀元年(1570)4月20日信長が越前の朝倉義景を攻めるため敦賀に出陣した際、浅井長政は離反する。2カ月後の6月姉川の戦い。浅井・朝倉氏の滅亡は天正元年(1573)8月のこと。凡そ3年にわたり両家は信長を苦しめた。
 【天野の「鬼の血統」】――。お市の気持ちの変遷が克明に記される。兄信長を慕っていたお市は信長との戦いが避けがたいとなるや、家中の意見が二分する評定の場に乗り込んで、織田家から離反すべきを説くのである。
 天正元年(1573)の小谷城落城、信長の陣。信長は「わしは人であることなど、とうにやめておる」と語る。お市には兄だという思いすら、すでにない。そのお市が幼い茶々らに語りかける言葉がすさまじい。「強き男を選び、天下人たる子を産み、織田家を滅ぼせ」と。長政の血統が天下の覇者となることを後世の我々は知っているが、それにしても、織田家の滅亡を我が子に託したお市を、これまで誰も描いてはいない。

 【木下の「血と呪い」】――。情よりも利のみを求め必要ないものを事も無げに斬り捨てる信長は「長政に野心あるや否や、野心なき者は強者たり得ぬ」とお市に告げる。「野心無き者を信用しない信長」とするのは天野に同じ。
 小谷城落城。「市の娘たちを生かしておいて、己(信長)を恐怖しない者(藤吉郎と家康)に嫁がせれば」と思案しつつも、信長の母・土田御前から続く母娘三代にわたる呪に、信長が打ち震えるシーンは壮絶である。
 家康と秀吉、二人の人物造形も読みどころ。姉川の戦いにおいて、ことに家康は信長の過酷な命令に怖気を見せなかった。学識教養のある光秀のように拘るべき価値秩序もなく、失うべき何物もなかった秀吉と、自己を韜晦するのに老獪で信長との距離を本能的にとることができた家康の実像が浮かび上がる。

第三章 長島一向一揆との戦い

 天下布武を標榜して武力による天下一統を目指していた信長は、「分」をわきまえず、武装門徒集団と化し、世俗の政治抗争に介入するなど、宗教者の領域からの越境に対しては過酷な制裁を躊躇しなかった。元亀元年(1570)に始まった石山合戦戦国大名を敵とした諸合戦のとの違いは、石山合戦こそはまず単発の戦闘ではなく、足掛け11年にも及ぶ戦いであったことである。信長が天正2年(1574)ついに長島の一向一揆を鎮圧できたのは、武田信玄の死や浅井朝倉氏の滅亡などにより信長包囲網の様相が激変したことによる。
 天野は長島の一向一揆に絞って記し、木下は天正8年(1580)石山本願寺の明け渡しで石山合戦の幕が閉じるまでを記している。
 【天野の「弥陀と魔王」】――。姉川の戦いの3か月後の元亀元年(1570)9月、本願寺第11世法主(ほっす)顕如(けんにょ)上人から、仏敵信長を討つために伊勢長島の門徒を指揮せよと指示された本願寺の坊官下間(しもつま)頼旦(らいたん)の眼を通じて、伊勢長島が殲滅されていくプロセスと結末が描かれる。顕如の援軍を最後まで信じるも、捕らわれて信長の前に引き出された頼旦が、信長と「弥陀」のあり様をめぐって交わす言葉の応酬の中に、「魔王」信長像が鮮やかにうかびあがる。
 【木下の「神と人」】――。三好、六角、朝倉、浅井らの戦国大名より、本願寺比叡山の坊主どもを手強いと見る信長は仏道の真理を問い、仏の何たるかを知ろうとし、ついに、変容した仏陀の教えにすがる信徒が参集する比叡山、大坂、長島の、三つの聖地を「焼く」ことを決心。浅井朝倉氏が和議に応ぜず比叡山に居座り続ければ、「遠からず信長は滅んだ」とは木下の歴史認識である。酸鼻を極めた掃討殲滅作戦。「銃撃はつづき、舟の上で一向宗が躍る」騙し討ちで根切り(皆殺し)にするシーンが凄まじい。

第四章 長篠設楽原(しだらがはら)の戦い 天正3年(1575)5月

 そもそも信長にとって武田信玄はいわば最強の難敵にして宿敵。信長の真に畏怖すべき相手は天皇でも神仏の権威でもなく信玄その人であった。本願寺顕如を主軸に、各地の一向一揆、浅井朝倉氏ら畿内の反織田勢力と通謀して信長包囲網をつくったのは信玄であった。
 長篠設楽原の戦いは鉄砲「三千挺」の一斉射撃で戦国最強を誇る「武田騎馬軍団」を撃退した画期的な戦いとされてきた。が、「三段撃ち」戦法も後の世の創作とされる。また、明智光秀は長篠の戦には参陣していないとする説がある。
 【天野の「天の道、人の道」】――。 新府城に火を放ち、落ちのびようとする勝頼が三方ヶ原の戦いや設楽原の戦いなどの信長との数々の戦いを回想するシーンから始まる武田勝頼(たけだかつより)の一代記。 
 勝頼は信玄の後継者だが、勝頼を陣代という曖昧な立場においたのは他ならぬ信玄。これが武田家滅亡の因となったと私は思うが、その信玄に天野は、今わの際の言葉として「あ奴(=信長)は、天道さえも味方に付けている」と吐かせている。「信長はいずれ、天をも従えるつもりだ。信長の意思こそが天道。私は人の道をあるきたい」と勝頼。信長に恐れと憧れを抱き、親近感さえ覚えていた勝頼は信長とは逆に人の道を歩もうとして滅んでいったとする。
 また、「武田家は日ノ本最強の大名家だが、信玄という要を失えば国人・土豪の寄合所帯にすぎない」と甲州軍団の体質の古さを鋭く指摘している。
 【木下の「天の理、人の理」】――。
 桶狭間の戦いでも長篠設楽が原の戦いでも雨。天は信長に味方してくれた。
設楽原は桶狭間に地形が似ていると信長は思う。設楽原が桶狭間と決定的に違うのは、信長が武田軍の斥候を近づけず、勝頼に織田軍の行動を秘匿させたことだと著者は描く。光秀と秀吉と。伏兵の将ふたりを置き、旗を焼くことで二人の違いを浮かび上がらせるのは、天野と同じである。
 設楽原の合戦後に見せた勝頼の采配の数々を見て信長は、信玄は金山頼みの財政戦略しか持たなかったが、勝頼は違うと再評価。が、最後の強敵と期待した武田勝頼もあっけなく滅んでしまう。「己には、強さをあかすための敵さえもおらぬのか」、「天よ、なぜこの信長に鉄槌をくださぬ」と信長。
 武田軍がもろくも崩壊したのは浅間山の噴火、天変地異であった、とする木下の歴史認識も披露されている。

第五章 本能寺の変 天正10年(1582)6月2日

 本能寺は桶狭間から始まった信長の天下布武に向かって駆けた苛烈な戦いの生涯が一気に収束する最期の詩(とき)。本能寺にはいろいろな解釈がある。多くは光秀の動機である。信長がどのような政権構想を抱いていたかも謎のままである。謀反そのものはとっさの思い付きと見るべきなのであろうかとする、怨恨、野望の両説どちらの枠にも属さないような新解釈が次々と発表されているが、両者の筆やいかに。光秀が比叡山延暦寺の焼き討ちを非情に行い、信長似の苛烈さを備えた武将として描かれるのは両者共通。
 【天野の「天道の旗」】――。 弘治2年9月、美濃明智城 陥落にはじまり、「敵は、本能寺にあり」で終わる明智光秀一代記。
 信長を踏み台にして、己が天下人になるという野心をもって本能寺の変を起こしたとする明智光秀像は一見、野望説に近い。織田家の柱石として活躍した光秀は信長という主君に不満なく、織田家をここまで押し上げたのは自分だとの自負があった。信長に老いたと宣告され、さらに信長が最終的に目指すものが何であるかを知らされるに及んで光秀は決意した。安土築城後、信長は自分で自分を神に仕立て上げ、その超越的神威の中に天皇権威を包摂する姿勢を明らかにしていた。それを見た光秀は、「信長は己の強さを証し立てるために己を神とするならば、光秀の生とはいったい何だったのか」と振り返り、「自分の存在こそ天が信長に与える鉄槌」だ、と行動に走ったとする。

 【木下の「滅びの旗」】――。
信長の思考に追いつき、献策する者として、かつて、岩室長門守があったが、光秀はその後継者といえた。信長は光秀の苛烈さが己に似ていると思っていたのは勘違いで、「あれは己の父の信秀にそっくりだ」、と物語る。
設楽原で光秀は旗を焼くことに恐怖した。信長と光秀が決定的に違うのは「光秀が恐怖を知っていることだ」とも。
 変当日の朝、「三郎(=信長)よ、お前は弱い」との父の声を聞く信長。この言葉を受け入れた今は不思議と心地よい疲れが信長を包んだとする。信長の生涯には安息の時間がなかったが、まさに生涯最後の日に、緊張の連続であった生涯を終える安堵感にはじめて安らぎを覚えたという。なんという生涯であったのかと同情するほかない。
 明智勢が攻めかかるなか、信長自身も弓や槍をとって応戦。父の位牌に抹香を叩きつけた頃と奇しくも同じ格好で、である。
 信長にとって父信秀の葬儀、「この瞬間から乱世の申し子として新しい生を享けた」と、作者は父の葬儀の重要さを改めて指摘している。

 「信長戦記」を代表する五つの戦い。それぞれの戦いの一つ一つの史実を立ち止まって質そうとする二人の作家の真摯な姿勢にひかれつつ、読むことの醍醐味を味わうことができた。天野の『信長、天が誅する』は信長の存在に畏怖しながらも対峙する各人の対峙したからこそ見えた信長の人知を超えた凄み信長の異常さ、信長の真の姿が活写されている。木下の『信長、天を堕とす』は戦乱の荒野を走り続けることでしか己の生を確認できなかった孤独な男の哀しみを抉り出している。真の「強さ」を得る為に敢えて己れを危機的状況に追いこむ人間臭さを持った信長の姿がこれまた活写されている。
いずれも劣らぬ歴史小説の良作である。新たな信長像や本能寺が生まれた。

 蛇足ながら、共演競作による両書以外に、ほぼ同時期に執筆された〈信長もの〉歴史小説を両作家がものしていることを付したい。
 天野純希の『信長嫌い』(新潮社 2017年刊)は、『信長、天が誅する』同様、信長の敵の目線で書かれた連作、短編集である。今川義元、六角承(ろっかく)禎(じょうてい)、三好(みよし)義継(よしつぐ)、織田秀信ら、信長によって人生を狂わされた7人の男を主役として書き、時系列でつないでいる。初出は「小説新潮」で、2013年10月号より2015年10月号までの足掛け3年間に。〈第六話 丹波の悔恨〉は天正9年(1581)の天正伊賀の乱を描き、百地丹波が「所詮、この男(=信長)もひとであったのか」と声を震わせるシーンが印象的である。
 木下昌輝の『炯眼に候』(文藝春秋 2019年2月刊)は、「信長ほど神仏を敬い、かつそれを攻撃した人物はいない。……そんな信長を支えたのは、合理の心だ」とし、信長の徹底した合理主義に光を当て、時代を突き抜けていた信長の感覚と知能、すなわち信長の「炯眼」が語られる。天野の『信長嫌い』同様、7編の短編よりなる連作短編集だが、初出は「オール讀物」で、2016年1月号より2018年12月号までの3年間に。

 それぞれの著述に要した長い歳月を思うと、信長像をめぐって信長の深層にまで立ち入ろうとする天野と木下の、稀有な歴史小説家の思考の軌跡をまとめたものがこれら4冊の歴史小説であることがわかる。  

 

             (令和2年6月23日  雨宮由希夫 記)

書評『吉原美味草紙 おせっかいの長芋きんとん』

書名『吉原美味草紙 おせっかいの長芋きんとん』
著者名 出水千春
発売 早川書房
発行年月日 2020年4月15日
定価  ¥680E

 

 主人公の、料理人を目指す武家の娘が、ある年の一月の末、大坂の天満から伯父を頼って出て来て、江戸に着いたばかり。両国広小路の「屋台」で「天婦羅」を食すシーンから物語は始まる。
「大坂は天下の台所」といわれ、諺によく、「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」といわれることから、食と言えば大坂と思っていたが、現代では世界的にも知られ、和食文化の中核となっている「寿司」、「天婦羅」、「蕎麦」は江戸の「屋台」からはじまり普及した。

 主人公の名は平山(ひらやま)桜子(さくらこ)、通称さくら。「浪人の家柄、大坂もん、三十路を迎えた、未婚の娘」といわくあり気である。
 「泰平の世が長く続いている。諸国で、飢饉、打ち壊しや一揆が起こっていたが、桜子には遠い国のことでしかなかった」とあるから、時代背景は幕末に近いのだろう。時代小説を読む楽しみは、私の場合、読みすすめながら、いかにして時代背景を特定できるかにある。時代小説の背景はおおむね江戸時代だが、江戸のいつ頃、主人公たちは生きたのかを知らないと落ち着かないのだ。

 幕末にほど近いある年の一月の末、大坂から武家の娘が一人旅で江戸にやってきて、料理人をめざすという。なにか曰くあり気ではないかと胸騒ぐ。
 江戸は将軍のお膝元。江戸の最盛期は武家50万人、町人50万人の100万都市で、人口の約6割強を男性が占めたといわれる。武家といっても大名から下級武士まで様々だが、地方から参集した江戸詰めの単身赴任の勤番侍によって、食に関する地方の産物や情報が江戸に集約され、また、江戸文化が諸国に伝えられた。また、彼らの胃袋を満たすべく、外食産業が発達した。役目の合間に勤番侍は食べ歩きなどの遊興を愉しんでいる。政治都市江戸は至る所で手軽に外食を愉しめる町であった。
 さくらは初めて入った両国広小路の「屋台」で、さくらの伯父忠右衛門は向島の『丸忠』という料亭を営んでいたが、ついこの頃人手に渡り、一人息子と馬喰町に移り住み、小さな居酒屋をはじめた、と知らされる。
 やっと探し当てた居酒屋は馬喰町の路地の奥にあり、鳶人足の男たちと忠右衛門の一人息子、力也(りきや)17歳がにらみ合っていた。伯父はすでに死に、家主から立ち退きを迫られ、辰五郎(たつごろう)親分の配下を名乗る段六(だんろく)ら鳶人足の男たちから、追い出しの実力行使をくらっている場面に出くわしたのである。
 料亭の御曹司の境遇から、父を亡くして、途方に暮れている身の上の力也に会い、お節介の虫がうごめくさくらは「血を分けた従姉弟同士、助け合っていこうね」と励ますも、この先のあてがあるわけでもない。困り切っている。
 そこに、救世主の登場。30過ぎの粗野でむさくるしい男、料理人の竜次(りゅうじ)である。竜次も大坂もん。親に勘当され、大坂の南部・岸和田から江戸に出てきて10年。困ったときに、忠右衛門のえらい世話になった。「忘れ形見が難儀しているのに、一肌、脱がなかったら男が廃る」と竜次は、「二人とも、内に来いや。わいは一国一城の主や」と語る。武士になりたくて、北辰一刀流千葉周作玄武館に通っていた力也は「俺は料理人になる気なんかない」と断るが、立ち退かならない現実がある。二人は、ひとまず、竜次の厚意に甘えることに。
 が、翌日、竜次に案内された先は、なんと遊郭吉原の女郎屋であった。ここから、物語は、吉原を舞台として思いもかけない方向に進展していくが、その前に、もうひとりの主人公を紹介しておかねばならない。

 さくらの幼馴染みの武田伊織(たけだいおり)は大坂東町奉行所同心の三男で、さくらと同い年。さくらの父が開いている新陰流平山道場に通ってくる絵が得意な青年で、平山家の婿養子となり後を継ぐことになっていた。つまりはさくらの許婚者であったのだが、17歳の時、ある事情で二人は引き裂かれてしまう。そして、大隅家の養子となった伊織は三年前のある日、突然、養家から出奔。“江戸で見かけた”との噂をさくらは聞く。この江戸でいつかばったり出会えるのではないか、と心待ちにするさくらがいる。
 竜次は妓楼『佐野鎚屋(さのつちや)』の台所を仕切っている料理人であった。『佐野鎚屋』の楼主の長兵衛(ちょうべえ)はさくらと力也を面談し、力也は「見世番」、さくらは「台所の手伝い、下働き」と即決されてしまう。やがて、『佐野鎚屋』第一の女郎佐川(さがわ)花魁(おいらん)と傘持ちの力也は美男美女の取り合わせでまるで生人形のようだと人気を呼び、力也はのっぴきならない事件に巻き込まれていくのだが……。
 料理の修行をして、食べ物屋をはじめたいさくらにとって、「台所の手伝い」に甘んじることはもとより不本意である。が、竜次の料理の技は一流であった。そんな竜次から料理を習えるかと思えば、さくらは辛抱できるが、竜次は「女に料理なんぞさせるかい」とのたもう、やはり気の合わない嫌な男だった。
 力也は「こんな汚いところ、女郎屋はまっぴらだ」とすぐにでも飛び出したいと身構えるが、さくらは「きっと私が何とかするから辛抱して」とたった一人の身内で実の弟のような力也を励ます一方、竜次に勝つまでは、この台所に居座ろうと心を決める。
 他人にお節介を焼くひとのよいさくらが、新天地で張り切りつつ、心にかけることになるのは、妓楼『佐野鎚屋』の遊女の佐川(さがわ)である。佐川は「吉原一」とも謳われる花魁。さくらより7歳年下だが、公家の出自で教養のある女。暇さえあれば、中江藤樹の「大学啓蒙」、熊沢蕃山「大学或問」といった陽明学の書物や漢書を読み耽っている。 
 京女の佐川と大坂もんのさくらは互いに相手の存在を意識していく。「お公家はんの娘で、京の島原で太夫していたのを〝親父″が、この吉原に鞍替えさせて、二代目佐川を名乗らせた」と教えてくれたのは竜次であったが、佐川にはとっておきの秘密があった。
 やがて、佐川はふさぎこんで、食事もままならない。食欲がない佐川のために、さくらは竜次の目を盗んで、手料理を作る。
 南禅寺近くの瓢亭の「朝粥」を真似たものだったが、それを一口口にした佐川のこけた頬に、きらりと光るものがひと筋伝う……。

 物語はここから、出だしの両国広小路の「屋台」からは想像もつかない方向へと流れだす。
 楼主の長兵衛はなんと、佐川花魁の足抜けを画策して実現させる。辰五郎親分は冤罪で獄舎に送られ死罪になる寸前の力也を身を挺して助ける。伊織とさくらの再会シーンもある。登場人物の人となりと関わりが物語のラストシーンで複雑に絡み合いつつ、溶け合って、すこしも無駄がない。
 背景に大塩(おおしお)平八郎(へいはちろう)の乱がある。大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が乱を起こしたのは、天保8年(1837)3月のことであり、かくして、「ある年」とは明治維新30年前のことであるとわかる。そのような時代に、「父上が果たせなかった夢。いつか大坂で自分で作った料理をお客さんに喜んでもらえるような小さな店を持つのが夢」というさくらの夢は実現するのか、気を揉ませる。
 壮大なスケールの時代小説であり、流行りの単なる〈料理人情もの〉とは一線を画す極上の作品である。
  
        (令和2年6月22日 雨宮(あまみや)由希夫(ゆきお) 記)

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十一回 決戦!桶狭間

 永禄三年(1560年)。駿河今川義元(片岡愛之助)が尾張に迫ってきました。大高城、鳴海城はすでに今川方の手に落ちていましたが、ついに義元みずから大軍を率いて、沓掛(くつかけ)城まで進軍してきたのでした。
 今川義元は大高城に入っている徳川家康(このときは松平元康)(風間俊介)に三千の援軍を送り、丸根砦と鷲頭砦を攻略させようとします。この二つの砦が落ちたあと、義元は大高城に入るつもりでした。ここに大軍を集結させ、織田の本拠地で清洲城を一気に攻める作戦でした。
 大高城にいる徳川家康は、菊丸(春次)(岡村隆史)と会っていました。菊丸は家康に母親からの文(ふみ)を渡していたのでした。
「母上は、このいくさは勝っても負けても良いことは何もない、と書かれている。このいくさから手を引けと」家康は菊丸を見ます。「そなたも今川様がいる限り、三河に日は当たらぬと申す」家康は目を閉じます。「この後に及んで今川様に弓を引くのか」
 菊丸がいいます。
尾張織田信長様は、殿が味方について下されば、三河のものはすべて三河へ返すと、お約束されました。何とぞ、今川様を、お切り捨て下さいませ」
「どうやって」家康は目に涙を浮かべています。「この大高城に来た三河勢と織田信長勢、すべてあわせても今川様の大軍には遠く及ばぬ。切り捨てられるのは三河と織田ではないか」家康は息を吐きます。「母上のお気持ちも、そなたの申すこともようわかる。しかし、ここで手のひらを返せば、家臣たちに勝てるかどうかもわからぬ今川様とのいくさを強いることになる。駿河にいる妻や、子や、身内の多くがとらえられ、殺され、おのれは終生、裏切り者といわれる」家康は落ち着いた声を出します。「我らは今川様に命じられたとおり、明朝、織田方の丸根砦を攻め落とす。今はそうするほかない。母上にそうお伝えしてくれ」
 その頃、明智光秀(長谷川博己)は、いとこの明智左馬助(間宮祥太郎)に先導させ、清洲城に向かおうとしていました。
 五月十九日、午前四時。徳川家康は丸根砦を襲撃します。
 午前六時。尾張清洲城では、織田信長(染谷将太)が家臣から報告を受けていました。家康が今川から離反せず、丸根砦を攻めたというのです。信長は、この城に籠城する、といいだします。それを広間にいる家老たちに伝えるよう命じます。しかし信長は思いつくのです。今川は三千、二千と、各地に兵を出している。
「父上がようおおせであった。今川義元は用心深いゆえ、地元駿河にはそれ相応の兵を残し、東側の兵にも備えておると。今川は、総勢二万以上の兵と称しておる」信長は家臣に吠えます。「今川の手もとに、今、どれほどの兵が残っているか急ぎ探れ。あとで、善照寺砦で落ち合おう」信長は闘志に燃えた明るい表情です。「わしも行く」
 信長が籠城といっていたのは、城にいる、今川に通じた者をあざむくためでした。信長は不敵な顔で妻の帰蝶にいいます。
「そなたの親父殿が生きていたら、こうおおせであろう。宿敵、今川義元が、のこのこ駿河から出てきたのじゃ。討つなら今しかない。城の外にいる今川を討つ。それしかないと」
 負けたら、と問う帰蝶に、信長は答えます。
「いずれ人は死ぬ」
 午前八時。丸根砦と鷲津砦は陥落しました。三河勢は鬨(とき)の声を上げます。
 午前九時。信長は、丸根、鷲津の両砦が破れたのをにらみながら、善照寺砦へと向かいました。同じ頃、今川義元は沓掛城を出発し、大高城を目指していました。
 午前九時三十分。清洲城にて、光秀は帰蝶に会います。帰蝶は「来るのが遅い」と光秀を責めます。知恵を借りたいと思っていたが、信長はすでに出陣してしまっている。光秀は帰蝶から、信長の行き先が善照寺砦であることを聞きます。光秀も善照寺砦へ向かうのです。
 午前十時。善照寺砦にいる信長は、自分たちの兵の数を家臣に聞いていました。その数は三千。今川勢はあちこちに兵を出しており、残るは七、八千。桶狭間の山に入ろうとしている。今川は分散した兵を大高城に集め、一気に清洲に攻め込むつもりだと思われました。
「その前に決着をつけねば」
 と、信長はいいます。ただ大高城にいる家康の動きが気になります。織田勢が今川と戦うとき、背後を突いてくることも考えられます。
 午前十時三十分。二つの砦を陥落させた家康が、大高城に戻ってきました。今川の家臣である鵜殿長照が出迎えます。鵜殿は義元からの命令を家康に伝えます。すぐに信長のいる善照寺砦のそばの鳴海城に行けというのです。家康はいいます。
「我らは一戦を終えたばかり。昨夜も兵糧(ひょうろう)を運び出すのに一睡もしておりませぬ。明朝までご猶予いただけませぬか」
 それを聞いて鵜殿は叫びます。
「ならぬ。すぐ行くようにとのご命令じゃ。ただちに行くんじゃ」
 その言葉に家康の家臣がいきり立ちます。止める家康。
「皆、疲れ果てております。せめて一刻のご猶予を」
「猶予などならぬ」
 と、鵜殿は叫ぶのです。
 桶狭間では、今川義元と家臣たちが、舞を見ながら、食事をとっていました。義元は織田の兵が来るとの情報を耳にします。その数は三百足らずだというのです。
 午後零時。今川の本隊の一部が織田の三百の兵を迎え撃ちます。今川の数は千人以上。義元を守る兵は五千あまりになります。信長はこれを聞いて立ち上がります。
「よし、それならやれる」信長は家臣たちに告げます。「よいか。この先の山沿いの道を桶狭間に向かって走る。ほかのものに目をくれるな。狙うは、今川義元ただ一人。義元の居所は、塗り輿(こし)が目印じゃ」信長が吠えます。「出陣」
 午後一時。滝のような雨が降り注ぎます。
 大高城では、家康が家臣たちと食事をしていました。鵜殿がそこに乗り込んできます。
「飯など食うておる場合ではない」鵜殿は三河の家臣を押しのけて家康の前に出ます。「物見からの知らせじゃ。信長の軍勢が桶狭間に向かっているという」
 家康はいいます。
「それで」
「直ちに兵を率いて桶狭間に向かい、信長を背後から攻めるのじゃ」
 家康は落ちついた調子でいいます。
「我ら三河のものは、桶狭間には参りません」家康は拳を叩きつけます。「本日はここを一歩も動きませぬ。あしからず」
 家康に続き、家臣たちも拳を床にたたきつけて鵜殿を威嚇します。鵜殿は引き下がるしかありませんでした。
 信長勢は、激しい雨の中を駆けていました。
 午後二時。雨が上がります。しかし霧が出ていました。義元のいる今川の本陣に、織田勢が襲いかかります。織田の一団が義元の輿を見つけます。義元は避難しますが、織田勢に発見されます。ついに義元は槍を受けるのです。
今川義元、討ち取ったり」
 の声が響き渡ります。
 夕暮れになります。織田の軍勢が引き上げていきます。それを待つ明智光秀。信長は光秀を認めると声をかけます。
「水を所望したい」
 光秀はうなずいて水を信長に渡します。うまそうに水を飲む信長。
「勝ったぞ」
 と、光秀にいいます。
「おめでとうございます」光秀は頭を下げます。「お見事でございました」
「ほめてくれるか」
「誰もがほめそやしましょう。海道一の弓取り、今川義元を討ち果たされたのです」
 信長は話し始めます。
「昔、父上を裏切った男の、首をとって帰ったことがある。父上は、わしをほめなかった。余計なことをすると、叱りつけられた。わしは、何をしてもほめられぬ。子供の頃から、誰もわしをほめぬ。母上も、兄弟も」
 光秀はいいます。
帰蝶様はおほめになりましょう」
 信長は笑みを浮かべます。
帰蝶は何をしてもほめる。いつもほめる。あれは」信長は笑い声をたてます。「母親じゃ」
 信長は馬上の人になります。光秀は信長に呼びかけます。
「今川を倒し、次は何をなさります」
 信長は答えます。
「美濃の国をとる。美濃は帰蝶の里じゃ。美濃をとって、帰蝶を喜ばせてやる」
「その後は」
 光秀は問います。信長は笑顔を浮かべ、答えずに去って行きました。

 

明治一五一年 第13回

失われた足を失われた眼が覗いている
静まり返った光の内側を過っていく
人があり呼ばれる掌のくぼみは
いまだに終わらない繰り返される末後
の風景だから人知れずに躓く
明治の四十五年の死んだ人の影たちを踏み
そばからまた始まるいくつかの
記憶をちがう記憶につなげるために
失われた踝を失われた指が撫ぜている
複数に吹いているかすかな低い呻き
が漂いうすい人の影たちは聳え
大正の十五年の死んだ人の影たちを踏み
積み重ねる声のうろへとだれかが囁く
場所から零れだす水辺を孕む
ならば刹那の温みを誰かの倒れた痕
の暗がりから解き放つ手触りの
失われた踵を失われた土が触れている
昭和の六十四年の死んだ人の影たちを踏み
いつまでも届かない掌の片側の
膨らみが違う意識の深奥に彷徨うと
放たれたそばから流れ落ちる知られぬ
悲しみであるから静かに注ぐ
埋葬すらできないさざ波は幾重も
平成の三十一年の死んだ人の影たち踏み
連なり朽ちることもないまま掠め
失われた指を失われた空が舐めている
長く会えない名前をいくつもの足が
踏みつづけ地の下の脈拍は弱り
消える背中の果てに覆われ沈みいく
令和の死んでいく人の影たち踏み
小さな種子の中心にまで根差す
感触の切り口として爪弾かれる裸形
がいまも口開くならば柔らかな
失われた爪に失われた血が膿んでいる

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十回 家康への文

 永禄三年〈1560年〉。駿府。駒(門脇文)は商人から、近々大きないくさがあるとの話を聞きます。
「また、いくさですか」
 と、駒はつぶやきます。
 越前では、浪人の明智光秀十兵衛(長谷川博己)が寺で、子供たちに教えていました。授業を終えて家に帰ると、光秀のいとこである明智左馬助(間宮祥太郎)が尾張から戻った所でした。光秀には娘が生まれています。左馬助の所に行こうとする光秀を、妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)が呼び止めます。左馬助に湯漬けを出そうと思ったのだが、もう米がない、というのです。
 光秀は左馬助から報告を聞きます。今川義元が勢いを強め、尾張との国境の主だった城が、次々に今川に取り込まれているとのことでした。
「この大高城がくせものだな」
 と、光秀はいいます。
三河の兵で守りを固めております」
 と、左馬助。
「今川は尾張といくさをする時、必ず三河の兵を先陣につける」光秀は図面を見ながら立ち上がります。「となると、いくさは近いぞ。今、戦えば、尾張は危ない」
 夕暮れ時、光秀は思いつきます。
「左馬助。すまぬが、もう一度、尾張に足を運んでくれぬか」光秀は深刻な顔です。「今川と五分(ごぶ)に戦う手立てだが。帰蝶様に文(ふみ)を書くゆえ、渡してほしいのだ」
 そのころ、駿河では、今川義元が家臣たちに尾張に攻め込むべきかどうかをたずねていました。賛同する家臣たち。尾張を落とせば今川は、日の本(ひのもと)一の大大名となる、と家臣の一人がいいます。
 医者の望月東庵(堺正章)は、若い徳川家康(このころは松平元康)(風間俊介)と、将棋を指していました。場所は駿府(すんぷ)の智源院です。そこへ東庵の助手の駒と、家康の祖母である源応尼(真野響子)がやってきます。駒は灸(きゅう)の腕をたいそう上げたとのことでした。家康は尾張にいくさに行くことを東庵に打ち明けます。黙り込む東庵。駒が次の家に行くといって、部屋を後にします。家康も別れを告げて去っていくのです。残された東庵と源応尼は話します。
「先鋒を任され、織田信長勢の真っただ中に送り込まれるそうです」源応尼は話します。「三河の者は長らく、今川様の支配を受けてきて、尾張との戦いともなると、必ず、矢面(やおもて)に立たされます。自分の孫ゆえ、面倒を見ろと今川様に命じられておるが、やるせないかぎりじゃ」
 駒とともに、家康は歩いていました。
「館に帰っても家臣たちがいくさの話ばかりでつまらん」
 と、家康はいいます。
「いくさですから、いたしかたありませんね」
 という駒。
「いたしかたない。三河を今川様に返していただくまでは、いたしかたない。父上は亡くなり、母上は織田方の実家に帰され、私とおばば様はここで人質として置かれ。なにもかもいたしかたないのだ。されどな」家康は駒を振り返ります。「時々投げ出しとうなる。このまま寄り道を続けて、あれもこれも」
 駒はこれから、不思議な人にお灸をおこないに行くといいます。頭痛、腹痛、打ち身、何にでも効く丸薬をつくっている者だというのです。
「それを信じる人がいて、いくさの前にお守り代わりに買(こ)うていく人が多いのだそうです」駒はいいます。「何にでも効く薬など、この世にあるとは思いませぬが。効くと信じる人には、お守り代わりにはなるのかも知れませぬ」
「そのような薬があるのなら、誰でも心を動かされよう」家康は深刻な顔です。「私も、生きて帰れるのなら信じてみようかと」
 家康は駒からその丸薬を分けてもらうのです。
「それで元康(家康)様がご無事に帰るのなら、私も信じてみます」
 駒はいいます。
「これは駒殿からもろうたお守りじゃ」家康は駒を見つめます。「必ず生きて返って参る」
 駒はその言葉に深く頭を下げるのです。
 東庵は今川義元と会っていました。東庵は家康はここ数年、将棋を指す仲だそうだな、と義元は聞いてきます。
「万が一、元康(家康)が尾張に寝返れば、我が身が危うい。元康は、信ずるに足る若者と思うが、どうじゃ」
 その義元の言葉、東庵は答えます。
「元康様は、裏表(うらおもて)のないお方。殿がご案じになるようなお方ではないと存じます」
「よう申した」
 義元は満足します。
 永禄三年五月。今川義元は二万五千の軍勢を率いて、尾張を目指しました。
 尾張清洲城では、軍議が行われていました。しかし家臣が発言するのを織田信長(染谷将太)は聞いていません。居並ぶ家臣の間を歩いて部屋から出てしまいます。信長は、出かけようとする帰蝶を見つけます。帰蝶は熱田宮に行こうとしていました。帰蝶は信長も共に来るようにと誘います。勝てぬまでも、負けぬ手立てを考えなければ、と帰蝶はいいます。
「熱田に松平竹千代(家康)の母君、於大(おだい)殿と、叔父の水野殿がおいでになるのです」
 帰蝶は歩き出し、信奈かがそれを追います。
「そなたが呼んだのか」
 と、問う信長。
「殿の御名をお借りして文(ふみ)で」
 歩きながら帰蝶は答えます。
「誰に知恵をつけられた」
 と訪ねる信長。帰蝶は答えません。
「察しはつくがな」
 と、信長はつぶやきます。
 光秀は朝倉の城で、鉄砲を撃って見せていました。仕官を求めにやってきていたのでした。別の日に改めて光秀がやってきてみると、朝倉義景は蹴鞠(けまり)に興じていました。光秀は憤慨(ふんがい)します。家に帰ると左馬助にいいます。
「わしは、かような国に身をゆだねようとは思わぬ。今、尾張織田信長は、大一番のいくさに向かっているのだ」光秀は叫び出します。「にもかかわらずわしはこの国で何をしておる」
 光秀は左馬助に命じます。
「そなた、尾張への抜け道を見つけたと申しておったな。わしを案内(あない)せよ」
 熱田では、信長と帰蝶が、家康の母である於大の方と、その兄の水野信元に会っていました。於大の方は家康と十六年、会っていないということでした。信長は於大の方にいいます。
「わしが元康(家康)殿なら、十六年会わずとも、二十年会わずとも、名を聞けば胸を刺される。母は、母じゃ」
 於大の方は、すでに家康に当てた文(ふみ)を書いてきていました。その内容を信長に告げます。
「もはや道ですれちごうても、我が子とわからぬ、愚かな母であるが、このいくさで、我が子が命を落としたと聞けば、身も世もなく泣くであろう」
 水野はこの文をすぐに家康に届けると信長にいいます。
「だだし、ひとつ、お願いの義がごさりまする。以後、尾張は、三河の国に野心は持たぬと、必ず三河の者は三河に戻すと、お約束いただきとうござる。元康も、それなら納得いたしましょう」
 信長は水野にいいます。
「わかった。約束しよう」
 水野は障子の向こうにいた者に於大の方の文を託します。それは薬屋で働いていたはずの菊丸(岡村隆史)でした。
 五月十六日。今川義元は、本隊の兵と共に、三河岡崎城に入ります。先鋒の徳川家康は、翌十七日、尾張に入ります。
 信長は側近と今川勢の道筋について話していました。地図において予想される地点には「桶狭間」の文字が記されてありました。
 家康は大高城に入城します。休もうと一人になったとき、庭に何者かいることに気づくのです。菊丸でした。家康は菊丸を春次と呼び、部屋に導き入れるのです。菊丸は於大の方の記した文を家康に差し出します。それを読み始めて家康は顔をゆがめます。
「このいくさは勝っても負けてもよきことは何もない。互いが傷つくばかりで。それゆえ、いくさから身を引きなされ。母はひたすら元康殿に会いたい。穏やかに、何事もなく、ほかに何も望まぬとも」
 家康は読んで涙をすすります。
「これが母上の」
 菊丸がいいます。
「殿、これは、三河の者すべての願いでございます。今川を利するいくさに、お味方なされますな。今川ある限り、三河は、百代の後も日が当たりませぬ。私は、この日のために、殿にお仕えして参りました。なにとぞ、今川をお討ちください。織田につき、今川勢を退け、三河を、再び三河のものに、戻していただきとうございます。どうか」
 その頃、光秀は左馬助と共に、尾張への道を急いでいました。