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書評『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』

書 名   『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』
著 者   花房観音
発行所   西日本新聞社
発行年月日 2020年7月26日
定 価    ¥1500E

 

 

「ミステリーの女王」といわれた山村美紗(やまむらみさ)(1931~1996)は作品が次々と映像化され、高額納税者として新聞に名前が載る時代の寵児であった。昼と夜とを完全に逆転させ、1日20時間を執筆にあてる生活を30年ほど続けた末、平成8年(1996)9月5日、帝国ホテルのスイートルームで執筆中に亡くなった。享年62。まさにミステリアスで壮絶な最期であった。

 山川草木だけを眺めれば、何ごともなかったように時間が停止し、変ることない風景が広がる京都。京都には別の時間が流れている。そもそも、流れる時間が違うのだ。「山村美紗」といえばで、そうした京都を舞台にした京都のミステリーの書き手であった。美紗は他の作家が「京都のミステリー」を書くのを絶対に許さなかったという。
 山村美紗には二人の男がいた。美紗の正真正銘の「夫」の山村(やまむら)巍(たかし)と、「京都の二人」と常に美紗とコンビで語られた作家で「同志」を自任した西村(にしむらきょうたろう)京太郎である。
 この度、花房(はなぶさ)観音(かんのん)の著になる『京都に女王と呼ばれた作家がいた  山村美紗とふたりの男』にめぐり合い、美紗の生涯に触れる機会を得た。美紗と京太郎の関係のこと、美紗の作家デビューに松本(まつもと)清張(せいちょう)が大きく関わったこと等々――をはじめて知り、驚愕しているというのが、いつわざる心境である。

 美紗の死の直後、神保町のS書店の店長であった私の許に関西に本社のある新聞社の東京支社の記者より、電話があった。「山村美紗追悼フェアは設けないのですか?」と。当時の書店業界では作家が逝去すると追悼フェアを開くことが多かった。まして、S書店はイベントに力を注ぎ、毎週のように作家のサイン会を開くことで知られていた。「特に予定はしていません」と応ずると、その女性記者はひどく落胆した様子だった。他の多くの書店が開くであろうから、あえて特に開く必要はないと当時の私はとして判断したと思う。正直に告白すると、当時の私は書店人以前の一介の読書人として、「ミステリーの女王」としてあまりにも高名な「山村美紗」の作品を、文学性云々を論ずる以前に、読んではいなかった。

 花房観音(1971~)は昭和46年(1971)兵庫生まれ、平成22年(2010)に作家活動を開始している。現在、かつての山村美紗同様、京都に根を張って、京都を描く作家である。観音が山村美紗とは何者か、とその存在を意識するようになったのはある意味で運命というべきであろう。美紗との共通性が、山村美紗という作家がいたことを残しておきたい、書かねばならない、と観音を押し上げた。書くからには、西村京太郎との男女の関係も避けては通れない。しかし、観音の前に文壇のタブーが立ち塞ぐ。

 西村京太郎は美紗の死後4年後の平成12年(2000)に美紗との二人の恋と葛藤を描いた小説『女流作家』(続編の『華の棺』は2006年)を刊行。自分の手に入らなかった女への「執着」、男と女の「狂気」、世間の「常識」の範疇にはない、京太郎と美紗の異常な関係性が描かれているのを読んで、観音は「私の理解の範疇を超えているからこそ、どうしても気になって仕方がなかった」。

 美紗と京太郎のスキャンダルを取り上げることは、美紗の死から20年以上経った現在でもタブーなのである。西村京太郎は本の売上、刊行点数において、日本を代表する現役の作家であり、超売れっ子作家でもある。「戦中派」と呼ばれる昭和5年生まれで今年9月に90歳を迎えるという老齢ながら、現役で活躍する、怪物ともいうべき大物ベストセラー作家の「タブー」にふれることは、観音自身が仕事を失うことへの不安と恐怖に立ち向かうことでもあった。一転したのは、平成30年(2018)11月末のある親しい作家の突然の死。彼の死に直面して、観音は、書きたいものを書けずに死んでしまいたくないと思ったというが、そもそもの執筆の動機は書かずにはいられない天性の作家の性(さが)というべきではなかろうか。
 さまざまな出来事と人のありようが生々しく描かれた山村美紗の伝記である本書をひもといて、私が先ず驚いたことは京都に生まれた美紗が少女時代を戦前の日本統治下の朝鮮漢城(現在のソウル)で育ち、敗戦による引き揚げ者であったということである。同様の近親者(すでに故人だが)のいる私はすぐさま、美紗の世界に引きずり込まれてしまった。
 花房観音は美紗の親族や編集者など近しい人物の多くに取材し、調べつくす。観音が何より印象に残ったのは、美紗の「自信の無さ」だという。ベストセラー作家であり、名実ともに「女王」であったのに、美紗は賞が無い劣等感を生涯抱き続けていたことが明らかになった。最も欲しかった賞は直木賞だったということも。
「男女の関係」について、西村京太郎は葬儀の弔辞では「ない」といい、雑誌や新聞のインタビューでは「あった」ともいい、「根も葉もないゴシップ」と開き直ることもあった等々、丹念に追っている。

「伝記もの」として本書が成功しているのは、その「藪の中」ともいうべき禁忌なところに踏み込んだことにあろう。山村巍と西村京太郎のふたりの男。お互い、決して愉快な存在ではなかったろう。「藪の中」に踏み込むことは禁断の扉を開くことでもある。どこまでが真実で、嘘なのか。美紗のミステリアスな生涯の呪縛が解かれたとは言えないが、関係者それぞれの喜び、悲しみ、怒り、嘆き、悔しさを「藪の中」から拾いあげている。
  とりわけ、長年に渡り、沈黙し続けていた夫の巍へのインタビューは本書の中核をなしている。著者は温かい理解とこまやかな分析で、「他の男とパートナーだった亡き妻をモデルに絵を描き続ける夫」の巍の真実に迫り、「美紗が作家になった時に、陰の存在になると決めていて、自分はずっと二人の間で、美紗のためだと思って存在を消して陰の存在として生きてきた」巍の壮絶な生きざまをひきだしている。
 だが、観音は巍とは巍の後妻の祥(しょう)を含め何度も取材で会っているが、京太郎とは「令和の時代に入ってから、初めての冬」、湯河原の西村京太郎記念館でのサイン会に参加するという形で、会っているにすぎない。
果たして、本書を京太郎はどう受け取るか。「取材らしい取材もしないで、何を書いたのか。告訴も辞さない」と、京太郎が観音のアンフェアぶりを詰っても不思議ではない。
 サイン会で、観音は一冊の本を購入し、渡された紙に「本名」を記して、京太郎に差し出し、サインの合間に、二三、質したに過ぎないのである。もし、「本名」ではなく「花房観音」の名刺を差し出し、インタビューしたら、京太郎の反応も異なったものになっていたのではないか。想像だが、京太郎は当然、京都を舞台として女の情念を愛おしむように書き続けている京都在住の花房観音という作家を物書きの同業者として、知悉していると私は思う。花房観音こそ「現代の山村美紗」なのである。
 花房観音の西村京太郎評は、次の文脈の中にある。

「小説家は、小説でしか本当のことは書けない。だから『女流作家』という本が生まれた。たとえ傷つく人や非難する人がいても、自分の想いを残したかったから、小説にした。他人にはわからない、ひたむきな思いと、愛する人との時間を書かずにはいられなかった本物の作家と対峙して、胸が締め付けられ、苦しくなった。」

 作家花房観音が作家生命をかけて世に問うはじめてのノンフィクション、「山村美紗伝」。改めて本書をひもとくに、読めば読むほど、よくぞ文壇のタブーにひるまず、よくぞ執筆、出版されたという思いを禁じ得ない。巻末に収められた「山村美紗年表」、「山村美紗著書リスト」も労作である。
末尾ながら、出版元の西日本出版社(社長 内山正之氏)の英断にも敬意を表したい。なお、西日本出版社は昨年、出版梓会出版文化賞特別賞を受賞している。

         (令和2年8月5日  雨宮由希夫  記)

 

『映画に溺れて:』第383回 時をかける少女(2006)

第383回 時をかける少女(2006)

平成二十二年四月(2010)
高田馬場 早稲田松竹

 

 二〇一〇年版の『時をかける少女』を観た一か月後、たまたま早稲田松竹細田守監督特集があり、アニメ版『時をかける少女』が上映された。
 現代の東京、主人公は高校生の紺野真琴で芳山和子の姪である。もちろん、芳山和子は筒井康隆の原作小説の主人公だから、一種の後日譚とも思えるが、オリジナルとは時系列的にはつながりのないストーリーになっている。
 真琴はショートカットの活発な少女で勉強は苦手、同級生の男子、間宮千昭、津田功介のふたりと仲がよく、いつもミニスカートの制服で飛び回っている。
 ある日、理科室でふとした出来事に遭遇し、時間を遡る能力を身につける。坂道で自転車のブレーキがきかず事故に遇いそうになった瞬間、気がつくと、その日の朝に戻っている。時間が戻せることに気づいた真琴は、今度はそれを使ってしたい放題。
 叔母の和子は上野の国立博物館らしきところの学芸員で、真琴から相談されると、それは思春期の少女にありがちなタイムリープ現象だと説明する。ただし、厄介ごとを避けるために時間を戻せば、別の人に災難がふりかかるかもしれないと。
 真琴は間宮から愛を告白されると、いたたまれなくなって、時間を戻し、何もなかったことにする。友達でいたいけど、恋人になるのは避けたい。告白をなかったことにして彼を避けたために、今度は彼が他の女子を好きになる。すると、とたんに悲しくなってしまう。
 時間を遡ってもう一度やり直す能力と、乙女心をからませたもうひとつの『時をかける少女』は、東京の下町風景が丹念に描かれていて、味わい深い。実写版とはまた違う躍動感あふれるアニメーションである。
 主人公真琴の声を担当した仲里依紗は四年後、二〇一〇年実写版の主演を演じることになる。
 高田馬場細田守特集は二本立てで、もう一本は日本ののどかな田舎の風景に壮大なSFアクションが絡む『サマーウォーズ』だった。

 

時をかける少女
2006
監督:細田守
アニメーション(声)仲里依紗石田卓也板倉光隆原沙知絵

 

『映画に溺れて』第382回 時をかける少女(2010)

第382回 時をかける少女(2010)

平成二十二年三月(2010)
新宿 新宿ピカデリー

 

時をかける少女』はTVや映画で何度も映像化され、アニメにもなり、演劇になり、コミックにもなっている。ひとつの作品が様々な形でこれだけ繰り返されるのも珍しいが、それだけファンも多いということだろう。
 二〇一〇年版の『時をかける少女』は芳山和子の娘が主人公という後日譚で、高校生のあかりが母和子に代わって過去へ遡り、深町一夫に母の言葉を伝えるという設定である。その行き着く時代が一九七四年なのだ。
 あかりはその時代にたまたま出会った大学生涼太に二〇一〇年の未来から来たことを打ち明け、深町探しを手伝ってもらう。SF映画マニアの涼太は、半信半疑ながらも突然空中から出現したあかりに協力することに。
 涼太は二十歳の大学生でキューブリックファンの映画青年である。アパートの電気ごたつ、赤いマフラーの神田川未来惑星ザルドスのポスター、一九七四年当時の風景、風俗、みんななつかしい。
 あかりは手掛かりを求めて、少女時代の母に会ったり、涼太の映画作りを手伝ったり。そして時を越えて、涼太に淡い恋心を抱く。涼太は桜並木で自主映画を撮り終え、あかりに言う。三十六年後、君の時代にここで会おう。でも、その時には俺は五十六のオッサンだけど。
 理科室で深町一夫に会うことができ、母の伝言を伝えるあかり。そして、『ニュー・シネマ・パラダイス』のごとき切ないラスト。思わず涙せずにはいられなかった。
 あかりを演じた仲里衣紗の天真爛漫、活き活きとした演技に拍手。そして一九七四年の見事な再現にも脱帽。男の髪型、男女の服装、街のたたずまい、あの時代の空気そのもの。一九七四年に二十歳の大学生であり映画青年であった私には、忘れられないタイムスリップ映画である。

 

時をかける少女
2010
監督:谷口正晃
出演:仲里衣紗、中尾明慶、安田成美、勝村政信、石丸幹ニ、青木崇高石橋杏奈、千代將太、加藤康起柄本時生

 

明治一五一年 第15回

明治一五一年 第15回

気がつけば傍らに
いる誰かのうすれかけた
小さな影が
まだ違う記憶の水際
に漂う呟きを掌に
過去も今の時間だから
包み込むならば
消えた人たち
の静かな太ももが
不意にかたわらを通り
積み重なる一五一年
の過去も今の時間だから
の時の間の
埋もれた暗部へと誘う
弱まる呟きすら
流されいく川辺の
葬列を人知れず囲む
過去も今の時間だから
実らない無数の
魂の行方はひとつ
ひとつのままに溶け
その後は誰一人
還りえない永遠の別れで
過去も今の時間だから
あったのだと
傷付いた一五一年の
光の眩しさが
眼中に痛く握る掌の
気がつけばいくつもの
も過去も今の時間だから
生きる家並み
が繰り返し消えた
白昼の見えない目に
なり染みていく
数知れぬ血を紡ぎ
過去も今の時間だから
止まらず書き足され
つづける記録
の始まりの行を砕く
晒される人の目
は長い眠りに呟かれる
と過去も今の時間だから
一五一年を撫で
朽ち淀みいく野や海底
の骨を鳴らす
切れ切れの囁きも
連なる俯いた列になる
を過去も今の時間だから
のなら忘れられた
指先も流れろ
と終わらない歪みが
ゆらぐ色褪せた背中に
細い糸絡め
過去も今の時間だから
気がつけばもはや
語られない一五一年
の切断面を繋ぐ
誰かが歩いた野の外れに
刻印される新しい
過去も今の時間だから
足首を晒し
孤独は誰も知らず
湧き立ちすぐに消えて
いく密やかな
悲しみとして誰か
の過去も今の時間だから
の身体の中に沁みいく
微塵の骨片を
夜の空の果てに
散りばめていく一五一
年の足は削がれ
過去も今の時間だから
残るうっすらとした
光沢は貼りついた
形のまま永らえ
今もなお弱まりつづける
片側だけの目
も過去は今の時間だから
の裏側に刺さる
死に得ない亡骸の
面影はひとつずつ散り
ながらも緩み
物語られること
過去は今の時間だから
のない一五一年の息遣い
はなおも続き
気がつけば口移しの水滴
が喉元を潤し
消えない一瞬だ
過去も今の時間だから

『映画に溺れて』第381回 時をかける少女(1983)

第381回 時をかける少女(1983)

令和二年七月(2020)
池袋 新文芸坐

 筒井康隆の『時をかける少女』を最初に観たのは一九七二年のNHKドラマ『タイムトラベラー』だった。主役の芳山和子を演じた島田淳子はその後芸名を浅野真弓に変更し『柳生一族の陰謀』や『帰らざる日々』に出ていた。『タイムトラベラー』当時は原作通りの中学生だったのだ。
 何度も映像化されているが、『時をかける少女』といえば、やはり原田知世の映画デビュー作である大林宣彦監督作品が一番有名だろう。
 芳山和子は高校生で、ふたりの男子生徒、幼馴染でクラスメイトの深町一夫と堀川吾郎と仲がいい。ある日、理科の実験室でラベンダーの香りを嗅いで気を失い、それから不思議なことが出来する。危険を予知したり、同じ日を繰り返したり、時空を移動したり。ラベンダーの香りは時間移動の能力を高める未来の薬品だった。
 実は公開当時、私は角川のアイドル映画というだけで敬遠してしまい、『時をかける少女』も『ねらわれた学園』も『セーラー服と機関銃』も観ていなかった。今回、大林監督が亡くなられて、特集上映が行われ、池袋の新文芸坐で初めて鑑賞した。
 原田知世の瑞々しさ。思えば、私は原田の出演作もほとんど観ていなかったのだ。
 映画は私を昭和の尾道へとタイムスリップさせてくれた。深町の祖父母が暮らす温室のある家、吾郎の実家の醤油屋、尾道の町のたたずまいがまるで時代劇のセットのように描かれており、『転校生』『さびしんぼう』とともに尾道三部作と呼ばれ、今でもファンがロケ地を求めて訪れるという。
 原田知世ふんする芳山和子が、映画の中の様々なシーンを時空移動しながら主題歌を歌う凝ったエンディング、まさに時をかける少女である。
 大林作品はその後の自主映画界に大きな影響を与えた。

 

時をかける少女
1983
監督:大林宣彦
出演:原田知世高柳良一尾美としのり、津田ゆかり、岸部一徳根岸季衣内藤誠入江若葉上原謙入江たか子

【速報】第9回 日本歴史時代作家協会賞

第9回 日本歴史時代作家協会賞

2020年7月30日公表

新人賞

坂上 泉『へぼ侍』 文藝春秋2019
[候補作]
 加納則章 『明治零年 サムライたちの天命』H&I(エイチアンドアイ)2020年4月
 杉山大二郎『嵐を呼ぶ男!』 徳間書店2019年11月
 佐藤 雫 『言の葉は、残りて』 集英社2020年2月
 夏山かほる『新・紫式部日記』 日本経済新聞出版社2020年2月

 

 文庫書き下ろし新人賞

馳月基矢『姉上は麗しの名医』 小学館時代小説文庫2020年4月
[候補作]
 稲田和浩『女の厄払い 千住のおひろ花便り』 祥伝社文庫2019年11月

文庫書き下ろしシリーズ賞

稲葉 稔「隠密船頭」シリーズ 光文社文庫
      「浪人奉行」シリーズ 双葉文庫
神楽坂淳「うちの旦那が甘ちゃんで」シリーズ 講談社文庫

作品賞

木下昌輝『まむし三代記』 朝日新聞出版2020年2月
[候補作]
 赤神 諒『空貝(うつせがい) 村上水軍の神姫』 講談社2020年1月
 平谷美樹『大一揆』 角川書店2020年3月
 村木 嵐『天下取』 光文社2020年3月

功労賞

浅田次郎

慰労賞

誉田龍一 これまでの活躍を顕彰し、哀悼の意を捧げたい。


選考委員長 三田誠広
選考委員 菊池 仁  雨宮由希夫  加藤 淳
(2020年7月28日、選考会を実施)

 

『映画に溺れて』第380回 着ながし奉行

第380回 着ながし奉行

平成十四年二月(2002)
阿佐ヶ谷 ラピュタ阿佐ヶ谷

 市川崑監督の『どら平太』が公開されたあとのこと、ラピュタ阿佐ヶ谷岡本喜八監督特集で珍しいTV作品の上映があった。山本周五郎原作『町奉行日記』のTV版、フジテレビで一九八一年に放送された仲代達矢主演の時代劇スペシャル『着ながし奉行』である。
 原作が同じなので、作り方もだいたい二〇〇〇年の『どら平太』と同じ。二十年の差があるが、古い『着ながし奉行』の方が私の好みである。特に仲代は軽い役がいい。それに江戸時代の雰囲気もこっちの方がずっとよく出ている。当時はまだTV時代劇が毎週たくさん作られていた時代だった。当然ながら撮影所のスタッフも大部屋も充実していたのだ。
 国元に派遣される新任の町奉行は放蕩者で、それでも腕は立つし、実は頭も切れる。これが町人の扮装で、問題の不法地帯を遊び回り、親分たちと仲良くなって、結局は彼らに頼んで町をきれいにしてしまう。
 不法地帯と癒着して私腹をこやしていた旧友の大目付は自害し、重職たちは若手と入れ代わり、国元の問題は解決する。そして、この町奉行はまた江戸へ戻り、生涯うだつがあがらなかった。
 遠山の金さんに通じる面白さ。
 この『着ながし奉行』で、新任の町奉行望月小平太をつけまわす若侍役を、当時無名塾にいた益岡徹役所広司が演じていた。その役所広司市川崑監督の『どら平太』で師の仲代と同じ役を演じるのも縁であろう。
 私は市川崑のコメディも好きだが、岡本喜八の感覚はさらに垢抜けている。
 一個所、日記を読み上げる場面で、十二月三十一日と読んだところあり。江戸時代は陰暦だから、月の満ち欠けが一か月、二十九日か三十日で、三十一日は存在しない。楽しいコメディ時代劇に細かな指摘は野暮ではあるが、ちょっと気になったので。

 

着ながし奉行
1981/TV放映1981
監督:岡本喜八
出演:仲代達矢浅茅陽子中谷一郎、近藤洋介、神崎愛、岸田森小沢栄太郎殿山泰司岡本富士太草野大悟、今福正雄、天本英世、北村英三、役所広司益岡徹、大橋泰之、浜田寅彦

 

『映画に溺れて』第379回 マンハッタン無宿

第379回 マンハッタン無宿

平成二十一年八月(2009)
京橋 フィルムセンター

 

 マカロニウエスタンで売れたクリント・イーストウッドが現代都市を舞台に活躍する刑事もの、といえば『ダーティハリー』だが、実はその前にもう一本あったのだ。ただし、現代劇とはいえ、主人公は西部劇から抜け出てきたような西部男そのものである。『マンハッタン無宿』は西部劇と現代刑事ものの中間といえよう。
 邦題の「無宿」は流れ者の賞金稼ぎを主人公にしたスティーブ・マックィーンのTV西部劇『拳銃無宿』あたりのイメージであろうか。
 アリゾナの小さな町の保安官補クーガン。型破りで、上司の保安官に持て余され、ニューヨークまで犯人引き取りの任務を押し付けられる。
 カウボーイハットに先の尖ったブーツ。会う人がみんな聞く。
「テキサスからですか」「ロデオ大会?」
 結局、犯人はLSD中毒で入院中。これをアリゾナに連れ帰るためには、病院や裁判所や様々な手続きが必要となる。クーガンは悠長にそんな手続きを待つ気はなく、病院に押しかけ、無理やり犯人を退院させて、そのまま空港へと向かう。
 が、そこを犯人の仲間に待ち伏せされて、取り逃がすことに。地元警察に非難され、それでも懲りずに、たったひとりでニューヨークの町を犯人を求めて、さまよい歩く。
 ミニスカートやゴーゴーダンスなど、当時の風俗が興味深く、保護観察官の女性との恋愛シーンもなかなか渋い。
 監督はドン・シーゲルで、おそらくは、ぶっきらぼうな一匹狼の刑事というイメージが次の大ヒット作『ダーティハリー』につながったのだろう。
『マンハッタン無宿』はTVシリーズ化されるが、『ダーティハリー』の主演が決まったイーストウッドは起用できず、西部男がニューヨークで活躍するという同様の設定で『警部マクロード』となる。こちらの主演はデニス・ウィーバーだった。

 

マンハッタン無宿/Coogan's Bluff
1968 アメリカ/公開1969
監督:ドン・シーゲル
出演;クリント・イーストウッド、リー・J・コッブ、スーザン・クラーク、タイシャ・スターリング、ドン・ストラウド