日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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明治一五一年 第18回

明治一五一年 第18回

夕日の裏側をすり抜けて
いく幾つもの囁きに
ちいさく縮まっていく足の
裏側の痛い感触は
静かに海面を
渡り佇む賑やかな午後の浜辺へ
嘉永六年の夕暮れ時
の静まり返る三号台場の
江戸湾の入り江に
進む亜米利加艦隊の船尾の
裂きいく空気の方位
のそれぞれの思いに這う
剥落はいく重にも
重なりながら波の音に淀み
形になることなく
終りなく先端まで捻じれた
樹樹の繁茂する六号台場
へと飛翔する意識の
時代の終わりに
響きわたる血の揺れと穢れの
裂けていく光に流されて
いく形のままに解け
海辺に戯れる人たちの明るい
首筋にまで嵩む
掠れる背中に小さな
声で呼ばれ波の間を伝い
すでになき二号台場
へと暮れる足裏の感触の
文明開化というやや
金属的に響く低音の声の
悲鳴はまだ途絶えることも
ないままに朽ちた
切り口は解けるそばから海面
の揺らぎを支え
頽れる瞬間に
問われながら遥かな果てに続く
見えない浜辺の五号台場から
の砲撃の振動の
霞む水平線のさらに
遠くに消えていった影の
名残になるならば
建ち並ぶビル群の壁に届き
囁かれる兆しとして
剥き出しになる薄い骨や
なお打ち上げられ弱まる足腰
の汀まで追われ
なおも地面を這い近づく
一号台場の幻の頂の
一面に燃えあがる朧な東京
の街路の連なりの
日ごとに歪になるすり減る
中指の先端を継ぐ
ため語られる
本当に静かなだけの一日を綴り
たどり着く滲む日没
の煌めきはより鮮やかな
ビルの間を抜ければ現れる
4号台場の輪郭の
めくれ散り散りになり落ちて
いく東京の空の
さざめく人の名残
を暮れていく瞼の内に捧げ
まだ誰も踏み込んだことのない
土地に刺さる
声たちの汀を遍く
行き交いに途切れなく晒し
誰も見なかったさらなる台場
を踏む足の指の
一五一年からの還り得ない
無数の魂の行方の
端々を絡める滑らかな音階
の消えゆく方角が
たゆたう階まで繋ぐと意識
のほころびを細め
記憶にも忘れさられた地層の
奥底にまで萌す

 

『映画に溺れて』第397回 ああ爆弾

第397回 ああ爆弾

平成二年十二月(1990)
池袋 文芸坐

 新文芸坐に建て替わる以前の池袋の文芸坐には、実に足繁く通ったものである。当時は三館あって、主に洋画の話題作二本立てが一階の文芸坐、古い日本映画などの特集上映が地下の文芸地下、そして演劇や落語やちょっと変わった映画をやるのが別棟の文芸坐ルピリエだった。
 文芸地下は文芸坐2と名を変えたが、ここで観た岡本喜八特集は忘れがたい。全作品の日替わり上映で連日超満員、とても全部は無理だったが、喜八作品、かなりの数を観ることができた。
 中でももっとも異色なのが、伊藤雄之助主演の『ああ爆弾』で、実に馬鹿馬鹿しいというか、悪ふざけもここまで徹底的に真剣にやれば素晴らしい名作である。
 いきなり、刑務所で出所間際のやくざの親分、大名大作が能狂言風にせりふを謡う。立ち見まで出ている満員の客席がこれには大爆笑であった。最初に笑わせてくれたので、あとはもう次から次へと笑える場面が続く。
 いざ出所してみると、留守中に組は乗っ取られ、女房と息子は裏長屋で貧しい暮らしぶり。新しい親分は社長を名乗って、市会議員に立候補中である。大作は刑務所で知り合ったチンピラ太郎の助けを借りて爆弾を作り、悪徳社長に復讐しようとする。
 が、万年筆に仕掛けた爆弾がなかなか社長の手に渡らず、結局、まわりまわって自分の息子の手に。はらはらどきどきのギャグが続く。
 親分大作に伊藤雄之助、チンピラ太郎に砂塚秀夫、大作の留守中に新興宗教にのめりこんで太鼓を叩き続ける女房に越路吹雪、悪徳社長に中谷一郎、銀行支店長が有島一郎といった配役も絶妙である。
 随所に歌があり、ミュージカルとも言える作品なのだ。原作がコーネル・ウールリッチというのも驚きであった。

 

ああ爆弾
1964
監督:岡本喜八
出演:伊藤雄之助越路吹雪、砂塚秀夫、中谷一郎、沢村いき雄、北あけみ、二瓶正也天本英世、重山規子、有島一郎桜井浩子、高橋正、本間文子、長谷川弘、丘照美

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十回 朝倉義景を討て

 永禄十二年(1569年)、夏。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は京の二条城から、美濃に出発しようとしていました。木下藤吉郎(のちの秀吉)(佐々木蔵之介)見送りにやってきます。木下は探りを入れるようにいいます。

「こたびは岐阜城に、松永久秀吉田鋼太郎)様や奉公衆の三淵藤英(谷原章介)様なども信長様に招かれておいでと、密かに聞いております。明智様も行かれるとなると、やはり次のいくさのお話でもあるのですかなあ」

 とぼける光秀。木下は立ち上がって障子戸を閉めます。

「この幕府には、越前の朝倉義景ユースケ・サンタマリア)とつながりのある者があまたおります。成り上がり者の織田に支えられるより、由緒正しき大大名、朝倉あたりに支えてほしいといろいろ企てをいたす者がおる。かかる輩を一掃せねば幕府は新しくなりませぬ。そのためには、朝倉を倒すのが一番。そう思われませぬか」

 光秀は木下にいいます。

「私は十年もの月日を、越前で過ごした。朝倉様といくさをするには、相当の兵の数と、銭がいる」

 木下と別れ、光秀は城中で駒(門脇麦)と会います。駒は将軍足利義昭滝藤賢一)に会いに行くところでした。

 駒は義昭に銭を届けに来たのでした。義輝は貧しい者、病に苦しむ者を救う館を造ろうとしていました。駒はそのための資金を持ってきたのです。

 光秀は美濃の岐阜城に到着していました。松永久秀と出会います。松永はいいます。

「今の信長殿の勢いをもってすれば、例え相手が誰であろうと、負けることはあるまい。朝倉は、上洛を果たした信長殿が憎いのだ。隙あらば、取って代わろうと思っておるのだ」

 そこへ三淵藤英がやってきます。松永が聞きます。

「信長殿とは、どのような話になったのじゃ」

 三淵は答えます。

「信長殿ははっきりとおおせられた。朝倉と一戦交えたいと」

「それで良いのじゃ」

 という松永。

「しかし私は申し上げた」三淵は冷淡に話します。「公方様は、朝倉にお世話になったことがあるゆえ、共に戦うわけには参りますまいと。いくさに加わるには大義名分が必要」

 そして光秀は信長に呼ばれるのです。

 しかし部屋に信長はいませんでした。子供が座っています。信長の嫡男である奇妙丸(のちの織田信忠)でした。帰蝶川口春奈)がやってきて奇妙丸を下がらせます。帰蝶は光秀に信長の様子を話します。

「こたびも、ずいぶんお悩みのご様子。いくさをしてよいものかどうか、お集まりになった方々の話を聞き、さらに迷うておられる。今、庭におられる。お話しすれば、お聞き入れになるはず。なにとぞ、よしなに」

 帰蝶は光秀に頭を下げるのでした。光秀は立ち上がり、振り返ります。

帰蝶様は、朝倉とのいくさをどう思われますか」

 帰蝶も立ち上がります。

「我が兄の子、斎藤達興は、朝倉をそそのかし、この美濃を取り返そうと企んでおる。国境(くにざがい)ではすでに、朝倉方と小競り合いが続いておる。京は一時(いっとき)穏やかになったとて、足下の美濃に火がつけば、すべてまた一から始めねばなりますまい。それゆえ私は申し上げました。朝倉をお討ちなされと」

 光秀は庭にいる信長に会います。信長は鷹を前にし、光秀に背中を向けたままいいます。

「朝倉相手に、一人では勝てぬ。何かよい手はないか」

 光秀は話し始めます。

「こちらへ参る日、京の御所の前を通りました。崩れていた塀が、いつの間にか、見事に修繕されておりました。聞けば、信長様が命じられ、塀と南の御門をお直しになったと」

「昔、父上が、荒れ果てた御所の話を聞き、帝(みかど)の御座所がそれでは、武士の面目が立たぬと、お直ししたのだが、今また、見る影もないと、公家たちが嘆くのを聞いた」信長は光秀に振り返ります。「父上への、供養と思うてな」

 光秀はうなずき、前に出ます。

「昔、読んだ書物に、八歳の子が、父親に問う話がありました。尊い仏は、誰から仏の道を教わったのか、と。一番尊い仏から教わったのだ、と父親が答えると、その一番尊い仏は、誰から教わったのかと問われ、父親は答えられず、空より降ってきた者から、と答えたという話です」

 信長も話します。

「以前話した父上の話とよう似ておるな。この世で一番えらいのはお天道様で、その次は、都におわす帝(みかど)。将軍は、その帝の門を守るものであると。その将軍が帝の門を守る役目を放り出し、門は破れ、世が乱れた」そして信長は気付くのです。「帝は、このいくさをどう思われるかお聞きしてみたいものだな。このいくさが、天下を平らかにするための、避けて通れぬ道であると申し上げ、それをお認めいただければ大義名分が立つ。違うか」

 光秀は態勢を低くします。

「そうなれば、諸国の大名たちも納得いたし、兵も集まりましょう。しかし、お認めにならねば、信長様お一人のいくさとなります」

「賭けだな。帝は拝謁(はいえつ)を許されると思うか」

「あのように南の御門をお直しになったのです。叩けば、門は開くやも知れません」

 信長は城に光秀の妻子を呼んでいました。喜んで光秀は家族と会います。妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)はいいます。これは娘たちの願いであるし、自分の願いでもある。自分たちを京に呼んではもらえないか。父の苦労をしのぶのではなく、目の当たりにしたいと娘がいっている。

「いくさにおいでになるのなら、お見送りしたいと。それが、美濃ではかなわぬと。私も、十兵衛様のご出陣を、お見送りしとうございます」

 ついに光秀はいうのです。

「来るか、京へ」

 医師の長谷川東庵(堺正章)は、謎の人物と囲碁を打っていました。その人物は信長と会うことを迷っていました。東庵は、お会いになってはいかがかと、といいます。信長はどんな武将なのかとたずねる謎の人物。東庵は答えます。

「越後の上杉輝虎も上洛し、天下に平安と静謐をもたらせて見せると胸張っておりましたが、今日まで音沙汰はなし。信長はそれを曲がりなりにも果たした。見るべき所はあるかと」

 謎の人物はうなずくのです。

 永楽十三年(1570年)二月。上洛した信長は、直ちに参内し、帝に拝謁しました。信長は、昇殿を許される身分ではありませんでしたが、帝は破格の扱いをしたのでした。

 戻った信長を、光秀が待っていました。

「帝は。どのような」

 と、問う光秀。信長は満面に笑みを浮かべます。

「帝はわしをようご存じであった。今川義元とのいくさ。美濃とのいくさ。将軍を擁(よう)しての上洛。いずれも見事なりとおおせになり、武勇の誉れを天下に示したと。当代一の武将なりと、お褒めいただいた。帝が、わしを」信長は光秀の前に座ります。「御所の修復も、ありがたしとの言葉をたまわり、さらにこうおおせになられた。天下静謐のため、いっそう励むようにと。この都。この機内を平らかにすべし。そのためのいくさならば、やむなしと。勅命をいただいたのじゃ。いくさの勅命を」

 越前の一乗谷では、朝倉義景ユースケ・サンタマリア)が家臣の山崎義家(榎本孝明)から文(ふみ)を受け取っていました。それは幕府政所(まんどころ)頭人である摂津晴門片岡鶴太郎)からのものでした。山崎がいいます。

織田信長が上洛し、諸国の大名を集めいくさの用意を始めたよし。紛れもなく、この越前をにらんでの動きだと」

 朝倉義景は摂津からの文を読みます。

「幕府は、あくまでわしや上杉輝虎殿に将軍を支えて欲しいとある。摂津殿はわしの古き友じゃ。織田ごとき成り上がり者になにができる、との思いが、ひたひたと伝わる文ではないか。幕府はわしが織田を討ち、上洛する日を待ち望んでおるのじゃ。これはわしに立てという文ぞ」

 京の二条城では、足利義昭に光秀が謁見していました。光秀は信長の言葉を伝えます。

「帝の勅命は、天からのご命令であり、幕府も総出で、若狭の武藤を討つべきと」

 義輝はいいます。

「いくさがあれば和議の仲立ちをいたすのが将軍の務めと思うておる。この都にとどまり、吉報を待つ」

 若狭の武藤を討つとは、白々しい口実だ、というのは摂津晴門でした。

「はっきり申されればよいのじゃ。上杉まで足を伸ばして朝倉義景を討つつもりじゃと」

 同席していた三淵藤英(谷原章介)がいいます。

明智殿。以前に申したとおり、公方様は朝倉と戦うつもりはない。多くの大名に支えられることを望んでおられる。朝倉様もそのお一人じゃ。それを織田様も、わきまえるべきと存ずる」

 光秀は間も開けずにいいます。

「お言葉なれど、朝倉様にこの京都、機内を守り、天下を静めんとする気概はありませぬ」

 摂津が話し出します。

明智様も、よくよくお考えいただきたい。大事は、皆の力で成すのじゃ。どなたかお一人の力で天下を支えられるとお思いになられるのは、思い上がりというもの。幕府は、この都を守らねばならん。織田様が、いくさをおやりになろうとも、我らは京の外へ一歩たりとも出るつもりはない」

 妙覚寺では信長が家臣らと、杯を交わしていました。信長は立ち上がって叫びます。

「出陣じゃ」

 

書評『絵ことば又兵衛』

『絵ことば又兵衛』
著者 谷津矢車
発売 文藝春秋
発行年月日  2020 年9 月30 日
定価  ¥1750E

 

絵ことば又兵衛 (文春e-book)

絵ことば又兵衛 (文春e-book)

 

 

 2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビューした谷津矢車の最新作である。ほぼ同時期に文庫化された『おもちゃ絵芳藤』で、谷津は幕末から明治へと価値観が移り変わる時代の過渡期を生きた浮世絵師をさらりと描いているが、本作では、浮世絵の元祖ともいわれ、〈浮世又兵衛〉と綽名された伝説の画家・岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)(1578~1650)の半生を安土桃山時代から徳川時代へと、同様に価値観の移り行く時代を背景として、斬新な解釈で描く尽くしている。

 岩佐又兵衛の、京都・福井・江戸へと流浪した生涯は多くの謎に包まれている。又兵衛の父の荒木村(あらきむら)重(しげ)(1535~1586)や明智光秀など信長への反逆者を主人公とした歴史小説『反逆』(講談社 1989年)を著わした遠藤周作は、又兵衛が村重の遺児だという説があるが、村重の有岡城落城の折、乳母が西本願寺の寺院に隠した遺児が後の岩佐又兵衛だとは断定しがたいとしているほどである。
 では、乳呑み児の又兵衛が誰に育てられ、どのように成人したのか。いつ、誰について絵の手法を学んだか。谷津の描くストーリーを追ってみたい。

 乳母のお葉(よう)は乳呑み児の又兵衛を背負い、命がけで有岡城を脱出して、ただ一人織田勢の囲みを抜ける。又兵衛は物心の着いた頃より、お葉とともに泉州堺のある寺で下働きをしていた。その寺で、又兵衛は最初の師、大和絵土佐派の絵師・土佐光吉(みつよし)に出会う。半年ほど経った冬、信長の追手が迫り、又兵衛はお葉と共に京に逃げ、本能寺の変で信長が斃れるまで二条油小路の笹屋という商人の家で逼塞していた。5歳の又兵衛に画才ありとみた笹屋は知り合いの狩野松栄(永徳の父)に頼み込み、又兵衛は狩野工房の外弟子となる。狩野工房に入って数カ月たった冬のある日、京の二条油小路近くで、武士を捨て茶人になって秀吉に仕え道薫と名を変えていた父村重と出会うが父との邂逅はそれきりであった。文禄元年(1592) 15歳の又兵衛は10年の間世話になった狩野工房を去り、狩野家の斡旋により、織田(おだ)信(のぶ)雄(かつ)に近習として仕える。  

 信雄は又兵衛の母だしを無惨にも京の六条河原で処刑した信長の次男である。自らの母を殺した信長の子に仕えるとは! 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、信雄は改易となるまで、約8年、信雄に仕えたことになる。戦国無情の世とは言え、こうした凄まじい人間ドラマの現出に読者は驚愕するであろう。

 信雄の人物造形が秀逸である。又兵衛同様、吃(ども)に苦しんだ信雄は又兵衛を慈しみ、又兵衛が信雄の家中を離れる寸前に、又兵衛の出生の秘密を打ち明ける。かくして、「灰色の武家勤めの記憶の中、信雄との思い出は今でも極彩色の錦として胸を彩どっている」。絵師としての苦悩や葛藤とともに、歴史上の人物が構築された描写の中に浮かび上がるのも本書の読みどころ。弟秀(ひで)忠(ただ)に将軍職を奪われ、父家康(いえやす)にも疎んぜられた松平(まつだいら)秀(ひで)康(やす)(1574~1607)もそうした人物である。
 物語前半の見せ場はその秀康との運命的な出会いのシーンである。
 福井時代の又兵衛のパトロン松平忠直だが、京都時代の又兵衛に忠直の父秀康との人的つながりがあったとするのは作家の造形である。天正15年(1587)10歳の又兵衛は秀吉の北野の大茶会に出席していた秀康に巡り合う。時に秀康は豊臣家(後には結城家)に養子に出されながらも、威風堂々と「羽柴三河守秀康」と名乗る青年であった。茶会で絵を描くように命じられた又兵衛は「天下人の茶会」ともいうべき北野茶会を茶化しているようにも見られかねない絵を描く。それを見た秀康は「世の静謐を乱す絵だ」としながらも、一介の工房絵師に過ぎない又兵衛の稚気を諫めつつ赦すのである。
 朝鮮出兵、秀吉の死、関ヶ原の戦いと時は巡って、北野の大茶会より凡そ20年後の慶長10年(1605)、又兵衛は伏見城で秀康と再会するも、秀康のあまりの変わりように絶句する。「制外の御家」として幕府から疎遠な扱いを受け続けたことによる心の憤懣が因であろうか、かつての覇気ある姿は消えていた。
「わしの似絵を描いてくれ」。流転に次ぐ流転の人生の果てに、30数歳にして死出の旅に出ようとする秀康は又兵衛に肖像画を描くよう頼む。「心残りは一つだけ。あの息子はこれからやってくる時代の激変に耐えられるか。絵を通じて息子を見守ってやりたい」と。

 元和2年(1616)40歳を目前とした又兵衛は越前北之庄(福井市)に移り住み、藩主松平忠直のもとで絵画制作を行う。又兵衛が京を離れたかった本当の理由は「自分の宿業から逃れたかった。村重の子ではなく、ただの岩佐として、まっさらに生きてみたかった」からだが、「又兵衛にとって懐かしき京とは、豊臣と徳川が共存していた姿だった」とも。そもそも、「豊臣と徳川が共存していた姿」とは秀康の姿そのものではなかったか。が、その秀康はすでにいない。
 元和9年(1623)30にも満たぬ男盛りの忠直は改易を命じられる。父秀康を上回る反骨と奇矯の人であった忠直の行状は菊池寛の『忠直卿行状記』に詳しいが、大坂の陣により、すでに、豊臣氏は滅び、世は徳川へと移行。秀康の予言通り、武将が武功によって栄進し名を残す世は終わろうとしていたのである。
 豊後国萩原に配流されることになる忠直は5歳の次女鶴姫のために、「物語をくれてやりたい。届けたいのだ、わしの思いを」と又兵衛に絵巻物を描くよう命じる。又兵衛がこの時描いたのが、義経(よしつね)の母・常盤(ときわ)御前(ごぜん)主従が夜盗にあって裸に剥かれ殺される残酷な死の場面で有名な『山中(やまなか)常盤(ときわ)絵巻』で、忠直との約定通り、又兵衛は全12巻の絵巻を鶴姫に献上する。

 忠直が抜き差しならない両親の不和に悩んだであろう己の子に伝えたかった思いとは何か。忠直の思いは人の子の父となって初めて知る又兵衛の思いにつながる。血みどろの復讐絵巻の中に、又兵衛は母だしの六条河原での処刑シーンなど自らの生い立ちの幽かな記憶を落とし込んでいるやもしれない。
 父の思いを知りたい鶴姫が「わらわに、絵を教えてくれ、いつか父上に贈りたい」と涙ながらに又兵衛に訴える感動的なシーンで物語は終わっている。
『山中常盤絵巻』は牛若伝説にちなむ御伽草子を題材としているが、絵巻を制作するにあたり、作家は又兵衛に、かく言わしめている。「なにがしかの物語を絵に落とし込むとは、存在する多くの解釈からたった一つの、もしかしたら間違いかも知れぬ解を選び取る、傲慢な行いそのものだ。これくらいの重さがなければ嘘だ」と。
又兵衛を主語とする「なにがしかの物語を絵に」を、作家矢車を主語とする「又兵衛の物語を歴史小説に」と置き換えれば、作家の意図は明かであろう。

 物語は嘘である。本書は小説であるから、もちろん、一つの仮説にすぎない。美作津山松平家に伝わり、複数の所有者を経て、現在MOA美術館に所蔵される『山中常盤絵巻』(国の重要文化財指定)制作の背景がかくのごとくであったことはもちろん物語(嘘)であり、谷津の「傲慢な行い」なのである。
「ひょんなことから絵を知り、人の縁によって絵師の道に至っただけ」の又兵衛は、長谷川等伯から「奇妙の絵師」と称されるほどの絵師になっても、「浮世とは憂世。よろずにつけて心にかなわぬ憂きことの多い世。その憂世で、己は今まで、浮世に舞う蝶のごとく、筆を動かしていただろうか、無様と人に笑われようが己のしたいことを果たそう」と思っていたという。岩佐又兵衛の壮大にして稀有な一代記の誕生である。

             (令和2年10月31日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第396回 ナイトメア・ビフォア・クリスマス

 第396回 ナイトメア・ビフォア・クリスマス

平成六年十二月(1994)
日比谷 日比谷映画

 ティム・バートン原案、ストップモーションアニメの名作だが、子供向きというよりは大人が楽しめる内容になっている。
 祝日の森の中にあるハロウィンタウン。不気味で恐ろしいオバケたちの世界。カボチャの王ジャックは、このところなんだか虚しさで胸がいっぱいになっている。年に一度のハロウィンが終わると、翌日からさっそく、次のハロウィンの準備に取りかかるのだ。それがこの町の宿命である。
 ジャックは町を抜け出し、祝日の森までやってくる。一本の木の扉に誘われるように入って行くと、そこは一年中雪におおわれたしあわせそうな町。みんなが明るく楽しげに笑い、おもちゃやお菓子で溢れている。ジャックは生まれて初めての変な気分に感動さえする。その町の名はクリスマスタウン。
 ハロウィンタウンに戻ったジャックはさっそく新しい計画を練りはじめる。今度はハロウィンではなく、自分たちでクリスマスを実行しよう。ハロウィンタウンの住人たちもジャックの提案を喜んで受け入れ、クリスマスの準備を始める。彼らの奏でるジングルベルは哀調を帯びた薄気味悪い音楽。彼らの作るプレゼントは人を怖がらせる生首や怪物やびっくり箱。マッドサイエンティストが骸骨のトナカイを用意し、棺桶のソリがつながれる。
 仕上げはクリスマスを支配する人物、トナカイを鞭で打ちつける真っ赤な巨人サンディ・クローズを誘拐し、ジャックがその代わりを務めることだ。
 サンタクロースはハロウィンの三人小僧に連れ去られ、ジャックがハロウィン感覚でクリスマスをやるので、世界中がパニックとなり、贋のサンタクロースを追い払うために警察や軍隊が出動する。大切なクリスマスをだいなしにした傷心のジャックに立ち直るチャンスはあるのか。
 マッドサイエンティストフィンケルスタイン博士に作られたつぎはぎだらけの女の子サリーは、フランケンシュタインの花嫁か。
 ミュージカルとしても、すばらしい出来栄え。

 

ナイトメア・ビフォア・クリスマス/The Nightmare Before Christmas
1993 アメリカ/公開1994
監督:ヘンリー・セリック
アニメーション

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十九回 摂津晴門の計略

永禄十二年(1569年)。将軍足利義昭(遠藤賢一)の御座所、二条城の築城が、着々と進んでいました。織田信長染谷将太)は、近隣の国々から、人や物をかき集めた。京のめぼしい屋敷や、寺社からも庭石や、調度品などを差し出させ、みずから陣頭に立ち工事を進めました。

 明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、細川藤孝眞島秀和)と共に、届けられた品々を調べていました。藤孝がいいます。

「見たことのあるふすま絵だと思うたら、我が館の隣の寺の物だ。驚き入った」

 光秀は答えます。

「仕方がありますまい。四月までにこの城を作り上げるとなると、出来合いのものを使うほかありません」

「しかしいささかやり過ぎなような気もする」藤孝は光秀に近づきます。「幕府の中には、信長様は将軍の名を借りて、京中の金目の物をかすめ取っていると、陰口を叩く者もいるそうだ」

「いいたい者にはいわせておけばよろしいのです。将軍をお守りする城を造ろうとしなかった者たちが、あれこれ申すことなどもってのほか」

「それはそうだが」

「幕府の中には、寺や神社と、深く関わり、寺社が営む金貸しに食い込んで、利を得ている者もいます。調べれば調べるほど、幕府の内は醜い。今日も、これらの物を持ち出された寺の者が集まり、幕府に返納を迫るつもりだと聞き及んでおります。政所(まんどころ)の摂津殿が、どう裁かれるか、よく見る必要があります」

 足利義昭は駒(門脇麦)を呼んでいました。医療施設のある、貧しい者のための館を造ろうとしていたのです。しかし金がないと義昭は嘆きます。少しずつでも造ったどうかと提案する駒。それでも一千貫はいる、と義昭はいいます。

 駒は治療院に帰ってきて、今まで貯めてきていたお金を確かめます。二百貫あることが分かりました。

 光秀は城普請の指揮をとっていました。そこに子供が結んだ紙を押しつけてくるのです。それは伊呂波太夫尾野真千子)からの手紙でした。

 光秀は伊呂波太夫をたずねます。会わせたい人がいるとのことでした。その人物は関白の近衛前久本郷奏多)でした。大夫がいいます。

「三好の一党とのつながりを疑われて、公方様のご上洛以来、都から追われ、姿を消しておられましたが、密かにお戻りになられているのです」

 その場で鼓(つづみ)を打っていた者が頭巾を外します。近衛前久その人でした。近衛は光秀に打ち明けます。

「私は摂津たちから追われている。三好たちと、先の将軍足利義輝の暗殺に関わったという理由じゃ。それをいいふらしたのは、近衛家を毛嫌いする二条春良じゃ。春良は、足利義昭が将軍になったのをいいことに、摂津と幕府を味方につけ、私を都から追いはろうた。目当てははっきりしておる。近衛の領地を奪い、摂津たちと、我が物にするということだ。以前、越後の上杉輝虎と話したことがある。立派な武将じゃ。その上杉がいうた。今の幕府は、おのれの利しか頭にない。天下をにらみ、天下のために働く者がおらん。それゆえ、いつまでも世は治まらぬと。私は今、それができるのは織田信長かと思うておる。あの上洛ぶりを見てそう思うた。今、幕府を変えられるのは信長じゃ。それをそなたに申しておきたかった」

「なにゆえわたくしに」

「将軍の側に居て、信長にもはばかりなく物申せるのは、明智十兵衛と聞いた。摂津を嫌っているという噂も耳にした」

 近衛は立ち去ろうとします。太夫が問いかけます。

「もっとお話しがおありだったのでは」

 振り返らずに近衛はいいます。

「命乞いまでしたくはない」

 近衛が出て行くと大夫がいいます。

「本当は(近衛)前久様は、こういうこともおっしゃりたかったのです。この都には、公家や、武家や、私のような街衆がいて、そして、帝(みかど)がおいでだと。帝もご領地を奪われ、たいそうお困りと聞きます。今の帝のひいおじい様は、崩御されてもお弔(とむら)いの費用がなく、二月(ふたつき)、放っておかれたと申します。それを助けるべき幕府は、手も差し伸べず、見て見ぬ振りをした。御所をご覧になればよく分かります。帝がどれほどお困りか」

 光秀は妙覚寺の信長の寝所をたずねます。

「その幕府ですが」

 と光秀が言いかけると、

「腐り果てているのであろう」

 と、信長が言葉を継ぎます。

「良くお分かりで」

「皆、口をそろえて幕府の非道を攻め、わしに何とかしろという。しかし、わしは将軍ではない。幕府のやることにいちいち口出しはせん」

 光秀はいいます。

「口をお出しになるべきかと存じまする。城だけ造れば都は安泰という訳ではありません。四月に、岐阜へお帰りになるとうかがいましたが、その前に幕府の方々をすべて入れ替えるべきと存じます」

「それは、将軍のおそばにおる、そなたの役目であろう。越前の朝倉義景のもとに、三好の一党が出入りし、わしの留守の間に美濃を攻めようと企てているとの知らせが届いた。美濃を失えば、この京も危ない。帰っていくさ支度をせねばならぬ。そのために、そなたや、権六や、藤吉郎を京の奉行にするよう幕府に飲ませたのだ。やり方は任せる」

 信長は立ち去ろうとします。しかし歩みを止め、いいます。

「昔、幼い頃、父にたずねたことがある」信長は振り返ります。「この世で一番えらいのは誰かと。それはお日様じゃといわれた。その次にえらいのは、とたずねると、都におわす天子様、帝(みかど)じゃ、と申された。わしには帝というものが分からなかったが、その次はとたずねると、帝をお守りする将軍様じゃと」信長は笑い出します。「なんだ、将軍は帝の門番かと思うたが、我らはその門番をお守りするため、城を造っておるのだが」

 数日後、光秀のいる本国寺に、藤孝がやってきます。光秀が横領の罪で訴えられているというのです。それは妻子と共に住むようにと、将軍義昭にもらった土地でした。光秀は摂津晴門片岡鶴太郎)のもとに向かいます。

「まさか横領した土地とは思いもしませんでした」光秀は摂津を問い詰めます。「この手はずをつけたのは、政所(まんどころ)ではありませんか」

「それで」

 摂津に悪びれた様子は見られません。

「誰が横領した土地で、政所がいかにして手に入れたのか、教えていただきたいのです」

 光秀が迫ると、いちいち覚えていないなどと摂津はとぼけます。光秀は摂津の耳元に口を寄せていいます。

「そうやって帝の丹波のご領地も、お仲間の武家に与えられたのか」

 さすがの摂津も取り乱します。光秀はさらに追求します。

「誰が横領したのか、幕府内に不正があるならそれを正し、処断するのが私の務めです」光秀は摂津に訴えの文書を押しつけます。「この訴え、見逃すわけにはいきません」

 光秀が立ち去ると摂津は一人いいます。

「困ったお方じゃ。世の仕組みを教えて差し上げたのじゃが」

 摂津は訴えの文書を引き裂くのでした。

 光秀は伊呂波太夫をたずねます。

「帝の御所を拝見いたそうかと」

 と、光秀はいいます。

 太夫の案内で光秀は御所にやってきます。大きく塀が崩れています。子供が入り込んでいたずらすることもあると大夫は話します。

 四月になりました。信長が総力をあげた二条城は、約束に違わず、二ヶ月あまりで完成しました。各地の大名たちに、織田信長の底力を示す出来事でした。

 二条城に入った足利義昭は感激し、信長に

「かたじけない」

 と、繰り返します。義昭が室内に入ると、信長は光秀に浅井長政を紹介します。浅井が去ると、信長は光秀にいいます。

「二、三日でよい。わしの後から、美濃へ戻って参れ。越前の、朝倉義景の件で、そなたの話を聞いておきたい」

 

『映画に溺れて』第395回 モンテーニュ通りのカフェ

第395回 モンテーニュ通りのカフェ

平成二十一年五月(2009)
飯田橋 ギンレイホール

 

 パリの賑やかな大通りの喫茶店で、ささやかながらもゆったりとすごす時間。そんな贅沢な気分が味わえる映画である。
 田舎からパリに出てきた若い女ジェシカがモンテーニュ通りでカフェの給仕の仕事につく。短髪のセシール・ド・フランスのギャルソン姿はなかなかキュート。
 ジェシカはこのカフェに出入りする三人の人物とかかわることに。コンサートを目前に控えた一流ピアニスト。舞台初日を目前に控えたTVの人気女優。生涯かけて集めた美術品のオークションを目前に控えた老コレクター。
 ピアニストは地位や名声よりも、音楽会に来ないような広く一般の人たちに音楽のすばらしさを伝えたいと願い、有能なマネージャー役の妻と不和。
 人気女優はハリウッドから新作「サルトルボーボワール」のキャスティングに来ている巨匠の前で自分を売り込もうとして失言ばかり。巨匠役がなんとシドニー・ポラック
 老コレクターは妻の死後、若い愛人を作って、息子との仲がぎくしゃくしている。
 ピアニストに朝食を配達に行ったジェシカはだれでも知っている「きらきら星」の作曲がモーツァルトだと知って驚く。
 ハリウッドの巨匠の前では女優のTVドラマを褒める。
 そして親しくなったコレクターの息子にはこんなことを言う。
「世の中には二種類の人がいる。電話が掛かってくると、チクショウ、だれだと悪態をつく人と、だれからかしらと胸ときめかせる人と」
 そして、コンサートと舞台初日とオークションが同じ日に重なり、カフェは大賑わい。
 音楽にも演劇にも美術にも疎い田舎出の彼女がみんなを幸福にし、観ている観客もいい気分になれるおしゃれなフランスコメディである。

 

モンテーニュ通りのカフェ/Fauteuils d'orchestre
2006 フランス/公開2008
監督:ダニエル・トンプソン
出演:セシール・ド・フランス、ヴァレリー・ルメルシエ、アルベール・デュポンテルクロード・ブラッスールクリストファー・トンプソン、ダニ、ラウラ・モランテシドニー・ポラックシュザンヌ・フロン

 

『映画に溺れて』第394回 メルシィ!人生

第394回 メルシィ!人生

平成十五年三月(2003)
飯田橋 ギンレイホール

 

 シリアスからコメディ、恋愛ものから犯罪アクションまでなんでもこなす芸達者ダニエル・オートゥイユ主演の『メルシィ!人生』、大好きな一本である。
 大手避妊具メーカーの経理部社員フランソワは真面目なだけが取り柄、透明人間のように目立たない。離婚した妻に未練たっぷりだが、妻は気力のない元夫を軽蔑しきっており、妻が引き取った高校生の息子も母親の影響で父をバカにしている。
 勤続二十年、目立たずこつこつやってきたのに、ある日突然、人員削減で解雇を言い渡される。フランソワならいてもいなくても同じだからという理由で。
 失意のうちにアパートの窓から飛び降りようとすると、隣の老人が声をかける。
 彼の話を聞いた老人が言う。クビにならない方法を伝授しよう。ゲイのふりをするんだ。
 私、ゲイじゃありませんけど。
 いいんだよ。会社は社員をゲイだという理由では解雇できない。勤め先が避妊具メーカーなら、なおのこと、エイズ対策でゲイの顧客も多いだろう。
 なるほど。
 フランソワがゲイであるという噂はたちまち社内に広がり、クビは撤回される。
 隣の老人がどうしてこんなアイディアを思いついたのか。フランソワのクビが撤回されたまさにその理由で、老人はかつて、会社を辞めさせられていたのだ。時代は変わった。
 ジェラール・ドパルデューふんする意地悪な人事部長。スポーツマンタイプでゲイ嫌い。ところが社長の側近から、あからさまなゲイ差別は出世にひびくと忠告され、無理してフランソワと仲良くつきあい、ほんとうに仲良くなってしまう。
 父親がゲイであることを知った息子は父を見直し、美人の女上司はフランソワのゲイを嘘だと見抜いて、彼への好意に気づく。
 ラストシーン。レストランでシャンパンを注文し、彼はなにに祝杯をあげるのか。後味のいい、美酒のような佳作である。

 

メルシィ!人生/Le Placard
2000 フランス/公開2002
監督:フランシス・ヴェベール
出演:ダニエル・オートゥイユジェラール・ドパルデュー、ティエリー・レルミット、ミシェル・オーモン、ジャン・ロシュフォールミシェール・ラロック

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十八回 新しき幕府

 永禄十一年(1568年)。九月。足利義昭(滝藤賢一)が、織田信長(染谷将太)と共に、ついに上洛を果たしました。

 京を支配していた三好勢は、織田軍の勢いに押され、摂津や大和などの国々へ退却しました。三好勢が頼りにしていた十四代将軍足利義栄は、摂津で病死しました。

 信長は三好勢を機内から一掃するため、その拠点である摂津に流れ込み、戦いに勝利します。これにより、権力者と認められた義昭や信長のもとへ、多くの武将が献上品を持って、芥川城に集っていました。

 献上品を見回す松永久秀(吉田鋼太郎)のもとへ、明智光秀十兵衛(長谷川博己)が訪れます。光秀は義昭の奉公衆になることになっていました。松永は光秀にいいます。

「わしは京で織田殿にお会いして以来、ただ者ではないとにらんでおった。それゆえ迷うことなく織田方に味方し、大和にはびこる三好と戦こうたのじゃ」

 松永は信長に献上品を持ってきていました。直接渡したいという松永に、今は評定(ひょうじょう)の最中だと光秀はいいます。光秀もその一員で、松永のために抜け出してきていたのです。評定に戻ろうとする光秀を松永は呼び止めます。

「わしが三好方に通じているという噂があるやに聞いておる。まさかわしも詮議さているのではあるまいな」

 光秀は不自然に目をそらし

「ご案じになることはないかと」

 といいます。

 実はまさに評定で、松永久弘についての話し合いが行われていたのです。強硬派は三淵藤英(谷原章介)でした。前将軍の義輝殺害に松永が一枚噛んでいたかもしれないというのです。評定は果てしなく続きました。足利義昭が信長に目配せします。笑みを返す信長。義輝は話し始めます。

「おのおの、議は尽くしたと思うが、いかがであろう。皆、思うところはあろうが、こたびの上洛城を果たせたこと、三好の根城たる、この芥川城を押さえたことは、これすべて、織田信長殿の力があったればこそじゃ。ほかの大名の多くが名乗りを上げようとせぬ中、みずから出陣、わしを助けて下された。このことは生涯忘れぬ。織田殿こそが、兄とも、父ともと思うておる。改めて礼を申し上げる」

 信長は頭を下げて言葉を返します。

「身に余るお言葉。かたじけのう存じまする」

 義輝はある人物を皆の前に呼び出します。代々足利家に仕えていた摂津晴門(片岡鶴太郎)でした。この者を以前と変わりなく、政所(まんどころ)頭人として働かせたいというのです。

「よろしいかと」

 と、信長は返事をします。

 評定の後、光秀は細川藤孝(眞島秀和)と話をします。

摂津晴門殿に幕府を任せるという話、どう思われます」と細川は聞いてきます。「摂津殿は、義輝様の頃と、ほぼ同じ顔ぶれの役人達で、幕府内を仕切りたいそうです。その方が早く動き出せると」

「まあ当面はやむを得ますまい。ただ、その顔ぶれで、義輝様をお助けできなかった。それゆえ義輝様はあのようなお最後を」

 細川はうなずきます。

「その通り」

「幕府の中は、一度洗い直すべきかと存じまする。一新せねば」

 細川と別れたあと、今度は松永に光秀は呼び止められます。松永は打ち明け話をするように光秀にいいます。

「越前の朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)だがな、ここに来て動きが怪しい。わしの乱波(らっぱ)が調べてきたのだが、朝倉は三好、六角と手を結び、織田殿に狙いをつけているという話だ。皆、成り上がりの織田家などに従えるかと思うておるのだ」

 光秀は越前にいた頃、朝倉義景松永久秀から手紙をもらったことを聞いていました。それには義景に、信長と共に義昭を担いで上洛すればよいと書いてあったのです。

 足利義昭は朝廷より、正式に十五代将軍の地位を与えられました。信長は、義昭の将軍就任を見届けると、一部の家臣を京に残し、慌ただしく、岐阜に戻っていきました。

 永禄十二年(1569年)。正月のことです。本国寺の将軍御座所を三好の軍勢が襲撃したのです。光秀は義輝を地下の避難所に逃がします。

 三好の軍勢は、幕府方の固い守りを攻めあぐねていました。すると、足利方の大軍が畿内各地より、京へ向かったという知らせが入ります。二日間の攻防の末、三好勢は形勢不利と見て、退却しました。

 戦闘の後、光秀は多くの書類に目を通していました。そこに細川藤孝がやってきます。藤孝はいいます。

「どうにも解(げ)せぬ。襲撃のあった前夜、将軍山から三好の大軍が下ってきたという。幕府のものが誰も気付かなかったというのが。京へ入るにはあちこちに関所もある。この本国寺に降ってわいたわけではござらぬ」

 光秀は顔を上げます。

「しかし、敵はいきなり現れた」

「我らが戻ってこねば、危ないところであった」

 光秀は藤孝に書類を見せます。それは役人達の不正の証拠でした。今回の騒ぎに乗じて、光秀はそれを手に入れたのでした。幕府内に三好と組んでいた者もいるようでした。藤高がいいます。

「そうか、幕府の中には、三好に戻ってきてもらいたい一味がおるということだ」

 本国寺の事件から数日後、岐阜から信長か駆けつけます。

 信長は摂津を問い詰めます。

「なにゆえ知らせを遅らせた」

 細川藤孝などには摂津は、先に知らせていたのです。

「幕府にとって織田信長とはその程度のしろものか」

 信長は激怒し、扇子を投げつけます。信長は摂津の前にしゃがみ込みます。

「摂津、こたびのことで、わしは二つ学んだ。その方たちだけでは、公方様をお守りすることはできぬということ。もう一つ、この寺を、公方様の御座所として、安心していたわしは愚かであったということ」信長は立ち上がります。「以後、京には、わしの信用する者たちを名代(名代)として置き、新たな城をつくる。そこを将軍家御座所として、公方様にご動座願うこととする」信長は摂津を怒鳴りつけます。「わかったか」

 信長はその城を二ヶ月で完成させるように命じるのでした。

 将軍の新しい御座所、二条城の築城が始まりました。幕府と、信長の呼びかけに応じた、近隣の国々から資材が運び込まれ、大工や鍛冶職人などが集められました。

 光秀も城の普請のために働きます。その現場で信長と出会いました。

「やればやれるのだ」

 という信長に対し

「すべて、信長様のお力です」

 という光秀。

「いや、わし一人が何をいうたとて、誰もここまで力は貸さん。やはり、公方様のお名前には不思議な力がある。そなたの申す通り、大きな世を作るには欠かせぬお方じゃ。難しいのは、摂津たちじゃ。公方様はああいうお方ゆえ、あやつらに都合良く操られるのは怖い」信長は光秀に向き直ります。「そうじゃ。松永から聞いたであろう。越前の、朝倉義景のことを。朝倉と三好が手を握れば、我らは挟み撃ちになる。早めに手を打とうと思うが、どうじゃ」

「朝倉様を」

「討つ」

 そういって信長は去って行こうとします。そこへ足利義昭が通りかかるのでした。

「信長殿」義輝は信長の手を取ります。「この都を美くしゅう保てるのはそなたしかおらん。もう岐阜へなどへは戻ってはくれるな」

 その頃、摂津晴門は書庫で話していました。

「三好の片割れが越前へ入って、朝倉義景に何かと入れ知恵をしているというが、まことか」

「間違いございません」

 と、役人が答えます。

「よーし、面白い。織田信長。成り上がりの分際で」摂津は扇子を引きちぎります。「満座でわしに恥をかかせよった。いまにみておれ。一泡吹かせてみせようぞ」