日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第40回 栄一、海を越えて

 栄一(吉沢亮)は皆の前で宣言します。

「私は、このたび、第一線を退くこととしました。第一銀行と銀行集会所以外の役員、すべて辞任し、実業界を引退したいと思う」皆は騒然となります。「惜しんでくれてありがたい。しかし今は、時代は変り、人材もそろった」

 この時、栄一が辞職した会社は、60以上にのぼりました。

 栄一は大磯にある伊藤博文邸を訪れていました。伊藤(山崎育三郎)は栄一に飲み物を注ぎながらいいます。

「おぬしに会うとほっとするのう。近頃は皆、わしに会うと低頭平身して、ご尊顔を拝しまして、とこうくる」

「韓国はどうでしたか」

 と、栄一は聞きます。

「えろうもめちょる。日本ではずいぶん前に武士の世を終わらせたはずが、近頃は軍が大きな顔をし始めちょるでのう。今一度、みずからハルピンに行かんにゃならん」

「そうですか。私も、ようやく間違いに気がつきましたよ。我々は、ずいぶん前に尊皇攘夷から足を洗ったはずが、つい最近までどこか変らぬ思想でいたんだ。この線からこっちに入る気なら、清国、そしてロシアを、何としても倒さねばならんと。みずからの保身のために、他国を犠牲にして構わんと。こらなんと傲慢で、自分勝手だったことか」

「そうじやのう」

「自分たちが同じ事をされたらどうです。それこそ焼き討ちだ」

「いや、怖かったんじゃ。絶えず列強におびえてきた。日本を守ろう思う心が強すぎて、臆病心が出とったんじゃ」

「しかりです。怖れや臆病から来る争いはとても危(あや)うい。これがある限り、人は戦争をやめられません」栄一は微笑みます。「して、私も、アメリカに行くことにしました」

「おお、アメリカか」

「ええ。今、アメリカにいる十万人以上の日本人が、排斥(はいせき)されそうになっている。アメリカの人々も、日本人に職や地位を奪われるのではないかと怖れているんです。日本人は友だ。経済上も、人としても仲良くしようと、心を込めて告げてまわれば、いくばくかの理解につながるはずだと」

「民間外交か。渋沢君はしゃべり上手で嘘をつかんよね。アメリカ人に信頼されちょる。それに、わしと違(ちご)うて、いっこもいくさの臭いがせん」

 二人は笑い合うのでした。

 明治四十二年(1909)。栄一たち渡米実業団は、アメリカの実業家たちが用意した。特別列車に乗り込みました。栄一たちは九十日間かけて、全米六十の都市を訪問。各地で視察を行うほか、七十回に迫る多くの講演や演説を行う、超過密スケジュールでした。栄一は妻の兼子(大島優子)と、兼子の姪で、日本女子大学に在学中の、高梨孝子を連れてきていました。

 実業家と大学教授、新聞記者らからなる五十一人の渡米実業団のメンバーは、各地で、工場、エネルギー施設、発電所、農場や大学、福祉施設などを訪ねました。

 列車の中で孝子がいいます。

「排日運動が盛んと聞いて、案じておりましたが、とてもそんな風には思えません」

 栄一の秘書兼通訳の八十田明太郞がいいます。

「排日が盛んなのは、日本人移民が多い西海岸だそうです。低賃金でも熱心に働く日本移民を、アメリカ人労働者の敵、と見て、日本人児童を学校から退学させたり、日本人経営の店の不買運動まであるそうです」

 栄一は、ミネソタラファイエットクラブで、大統領と面会します。移民に対する差別問題で、日本に友好な姿勢だったタフト大統領に面会することは、旅の目的の一つでした。和やかに会談は進みます。しかし大統領は述べるのです。

「これから先、アメリカは日本に挑むつもりです。平和の戦争を。すなわち、商売の戦いを」

 大統領の差し出す手を握りながら、栄一は困惑するのでした。

 列車の中で兼子が、大統領のいった、平和の戦争、について語ります。

「私はあまり、好きな言葉じゃありません」

「ああ」栄一が答えます。「争いとは、人体の熱のようなものだ。適度な熱は人を生かす。ほとばしる気力も与える。しかし、過度になれば人を殺すのも、また熱だ。日本が、あくまでおびえず、憤(いきどお)らず、平熱を保っていられるように、励まねば」

 ある時、列車が突然止まります。

「先生、大変です」八十田が栄一の所にやって来ます。「伊藤公爵が、ハルピンで、暗殺されたと」

 栄一は信じられません。しかし、車内にアメリカの新聞記者たちが、コメントを求めてなだれ込んでくるのです。栄一は記者たちにいいます。

「新しい日本を、つくったのは、伊藤さんたちであり、私たちです。しかし」栄一は記者たちに背を向けます。「今の日本は、とんでもねえ流行病(はやりやまい)にかかっちまったじゃねえのか。どうなんです、伊藤さん」

 アメリカ接待委員のロジャー・グリーンが栄一にいいます。

「まもなくカリフォルニアに入ります。商業会議所でのスピーチは中止されてはいかがでしょうか。ご存じのようにサンフランシスコは排日運動が激しい。商業会議所も、あなた方を受け入れることに、最後まで反対していた。身の安全を優先すべきです」

 栄一たちは、サンフランシスコに到着します。会場で、原稿を見ながらしゃべっていましたが、栄一は原稿を置いて顔を上げます。

「私は、先日、長年の友を亡くしました。殺されたんです。今日(こんにち)だけではない。私は人生において、実に多くの大事な友を亡くしました。互いに、心から憎しみあっていたからではない。相手を知らなかったから。知っていても、考え方の違いを理解しようとしなかった。相手をきちんと、知ろうとする心があれば、無益な憎しみ合いや、悲劇は免れるのだ。日本人を排除しようとする、アメリカ西海岸もしかりです」会場がざわつきます。「しかし私は今、訪米実業団として、こうして直(じか)に、アメリカの地を踏み、各地で多大なる親切をいただきました。発展を目の当たりにして、大いに学ばせていただき、アメリカ人の愛情は、ペリー提督や、ハリス公使の昔より、さらに深まり、その多大なる愛情を、我が国に注いでくださっていることを、確信しており、だからこそ今、皆さんの目を見て申し上げる。日本人は敵ではありません。我々は、あなた方の友だ。日本人移民は、アメリカから何かを奪いに来たのではない。労働者として、役に立ちたいという覚悟を持ってはるばるこの地にやって来たんです。それをどうか、憎まないでいただきたい。日本には、おのれの欲せざるところ、人に施すなかれという、忠恕(ちゅうじょ)の教えが広く知れ渡っています。互いがいやがることをするのではなく、目を見て、心開いて、手を結び、みんなが幸せになる世をつくる。私はこれを、世界の信条にしたいのです。大統領閣下は私に、ピースフル・ウォーとおっしゃった。しかし私は、あえて申し上げる。ノー・ウォー。ノー・ウォーだ。どうかこの心が、閣下、淑女、紳士諸君、世界のみんなに広がりますように」

 会場は拍手に包まれ、栄一は多くのアメリカ人から、握手を求められるのでした。

 その夜、栄一の乗る列車の窓を叩く者がいます。日本人移民の家族でした。

「皆さんが、わしら移民のために、はるばる日本からおいで下さったと聞きました」

 どうしてもお礼がいいたくてやって来たというのです。アメリカで生まれたその家族の娘が、栄一に花を差し出します。

「わしら、この地でどうにかがんばっていこうと思うちょります」

 と、父親が言います。

「ありがとう」

 栄一は礼をいうのでした。

 こうして、三ヶ月に及ぶ旅が終わりました。

 明治四十三年になります。飛鳥山の渋沢邸に、栄一の孫の敬三(笠松将)が、昆虫観察にやって来ていました。室内では徳川慶喜(草彅剛)が、自分の生涯について話しています。

 しかし栄一の息子、篤二(泉澤祐希)がまたやらかしたのです。ひと月前に家を出て、女と暮らしているということでした。

 栄一は一族を集め、遺言書を読み上げます。嫡男篤二を、廃嫡(はいちゃく)とすることが、そこには記されていました。

 栄一は家族写真を見ながら、兼子に話します。

「浅はかだった。外ばかり案じて、一番近くにあったはずの、篤二の心を、あいつのつらさを理解できていなかった」

 喜作(高良健吾)が敬三の部屋をたずねていました。敬三は生物学者になりたいと考えていました。喜作は篤二について語ります。

「人には、向き不向きってもんがある。例えば、俺は、商売は、向いてなかったのう。一番胸が躍ったのは、そう、一橋で励んだ時だい。俺は幕臣となり、上野から飯能、会津、果ては函館まで行って戦ったんだぜ」

「すごい。幕末の話ですね」

「おめえのじいさまは、そんな俺に、潔(いさぎよく)く死ねと、文(ふみ)を書いて寄こした」喜作は椅子に座ります。「でも結局、俺は生きた。獄を出てから何度も人から後ろ指をさされた。篤二も、後ろ指をさされるんだろうな。でもおめえの親父は、よく頑張っておった。ただ、向いていなかったんだ。栄一はなあ、皆があれほどいうからには、よほど偉大なんだろうが、近くにいる者からすれば、引け目ばかり感じさせる、腹立たしい男だ」

 翌年、明治天皇崩御大正元年(1912)となります。渋沢喜作は七十四歳でその生涯を終えました。

 徳川慶喜は、みずからの伝記を完成させていました。原稿を受け取って栄一はいいます。

「ありがとうございます。これでようやく、正しく御前様のことを、また、幕末の世の真相を、世間に知らしめることができる」

「私はあの頃からずっと、いつ死ぬべきだったのだろうと、自分に問うてきた。天璋院様に切腹をすすめられた時か、江戸を離れる時か、戊辰のいくさがすべて終わったときか。いつ死んでおれば、徳川最後の将軍の名を汚さずにすんだのかと、ずっと考えてきた。しかし、ようやく今思うよ。生きていて良かった。話をすることができて良かった。楽しかったな。しかし困った。もう権現様のご寿命を越えてしまった」

 栄一は笑い声をたてます。

「よく、生きてくださいました」

「そなたもな。感謝しておるぞ。尽未来際(じんみらいさい)、共にいてくれて、感謝しておる」

 慶喜は立ち上がり、庭に向かって

「快なり」

 の言葉を繰り返すのでした。

 徳川慶喜は、七十七歳の天寿を全うしました。徳川歴代将軍一の、長寿でした。

 世界情勢はさらに悪化。ドイツが、イギリス、ロシアと対立したことを背景に、ヨーロッパで、第一次世界大戦が勃発しました。

 栄一は、首相である大隈重信に会いにやって来ました。大隈は立ち上がります。

日英同盟のよしみばもって、東洋及び南洋諸島、すべてのドイツ植民地と軍事基地を、日本軍が接収すると、最後通牒ば、発することになった。実業界には、大いに協力ば、してもらいたいのであーる」

「欧州の列強が内輪げんかをしているうちに、日本が大陸に手を伸ばそうとしているだけではないのか。大隈さんならご存じのはずだ。日本は徳川の世が終わってから、その後、たびたび戦争をし、そのたびに、せっかく育ててきた経済が打撃を受けた。民(たみ)もそうだ。度重(たびかさ)なる増税と、物価高に苦しめられ、そして反論すれば政府が力でねじ伏せようとしている。そして平気で嘘をつく。民にも、外国にもだ。政治に口を出す気はなかったが、今日こそはいわせていただく。大隈さん。あなたほどの減らず口が、なぜずっと黙っているのか。私には分かりません。今、口を開けば、首相としてもう嘘しか吐けないからだ。こんな形で、もし大陸や南洋諸島に手を出すようなまねをすれば、日本は必ず外国から疑われます。大軍をもって領土を得ることよりも、もっと日本には、外国と腹を割って話し合うべきことがあるはずではありませんか」

 日本は、日英同盟に基づき、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加することになりました。井上馨も八十歳で亡くなります。

 敬三の部屋を栄一が訪れます。敬三は農科大学にすすみ、動物学を学びたいと考えていました。栄一は敬三に対して、ひざをそろえて座ります。

「どうか、農科ではなく、法科にすすんではもらえないだろうか。法科を卒業し、ゆくゆくは、実業界で働いてもらいたい。私の跡をとり、銀行業務を継いでほしい」

 栄一は敬三に対して深く頭を下げるのでした。

 栄一は兼子や孝子にいいます。

アメリカや中国は、日本は侵略的で、軍国主義だと言い始めた」

 外出の準備をする栄一に兼子がたずねます。

「どちらに行かれるんですか」

 栄一は振り向きます。

「仕事は辞めることができても、人間としての務めは、終生やめることができないからね」

 そういって栄一は出かけていくのでした。

 

『映画に溺れて』第466回 マルコヴィッチの穴

第466回 マルコヴィッチの穴

平成十二年十月(2000)
伊勢佐木町 横浜オスカー

 

 これぞ奇想天外という言葉がぴったりと当てはまる作品である。
 なにしろ、実在のスター俳優、ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入るトンネルが偶然に見つかり、マルコヴィッチには内緒で、広告募集した客から金を取って十五分間だけマルコヴィッチ体験ができるという商売を始める話なのだ。
 才能ある人形師のクレイグは精巧な自作の人形を巧みに操り、大道で人形劇を見せているが、人気はなく、通行人に殴られる始末。狭いアパートに妻のロッテが飼うチンパンジーやイグアナたちと暮らしている。
 妻からそろそろ人形師以外の仕事を探してはどうかと勧められ、求人広告で見つけたファイル係に応募する。オフィスは雑居ビルの七と二分の一階(七階と八階の間)にあり、手先の器用さを認められて採用される。その天井の低いオフィスでたまたま書類棚の裏に封印された扉を発見し、中に入るとトンネルがマルコヴィッチ本人の頭脳に通じているのだ。マルコヴィッチが見たり聴いたり感じたりしていることが十五分間だけ体験できる。クレイグは同じフロアのセクシー美女マキシンにそのことを打ち明けると、すぐに商売にすることとなり、口コミで行列ができる。
 マキシンは色仕掛けで俳優マルコヴィッチ本人に近づき、籠絡する。クレイグの妻ロッテは夫を問い詰め、秘密の穴に入ると、たまたまマルコヴィッチがマキシンとデートしている場面。マルコヴィッチに乗り移ったままマキシンと女同士の官能に溺れる。マキシンの態度に不審を抱いたマルコヴィッチはオフィスを訪れ、行列に並んで自分自身もまた、この穴に入る。マルコヴィッチが見たマルコヴィッチの頭の中の様子は、相当に異常で笑える風景だった。
 やがてクレイグはマルコヴィッチの中に入り込んで、これを人形のように自由に操り、マルコヴィッチになりすます。そして俳優から人形師に転身したマルコヴィッチとして絶賛され、芸術家として成功するのだが。

 

マルコヴィッチの穴/Being John Malkovich
1999 アメリカ/公開2000
監督:スパイク・ジョーンズ
出演:ジョン・キューザックキャメロン・ディアスキャサリン・キーナージョン・マルコヴィッチ、オーソン・ビーンチャーリー・シーン、メアリー・ケイ・プレイス

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第39回 栄一と戦争

 日清戦争に勝利し、一等国への階段を駆け上ろうとしていた日本。

 栄一(吉沢亮)は、喜作(高良健吾)と、血洗島に戻っていました。平九郎の位牌に手を合わせます。惇忠(田辺誠一)がいいます。

「悲憤慷慨(ひふんこうがい)していた頃の俺たちの夢が、ようやく叶おうとしている」

 栄一がいいます。

「兄ぃ、喜作。あれから、もう三十年だ。慶喜様に、会ってみねえか」

 喜作、惇忠は慶喜(草彅剛)の前にひれ伏していました。喜作は自分がもう、隠居することを報告します。栄一は惇忠を慶喜に紹介します。慶喜はいいます。

「存じておる。幕臣であった、渋沢平九郎の実の兄であることも、その後、富岡の製糸場で励まれたことも。長く生きて、国に尽くされ、言葉もない。残され生き続けることが、どれほど苦であったことか。私はねぎらう立場にないが、尊いことと感服している」

 惇忠は感激のあまり、精一杯に声を出します。

「なんともったいないお言葉」

 惇忠は、20世紀の訪れと共にこの世を去りました。

 栄一は「日本の金融王」として、アメリカの地を踏みます。首都ワシントンにて、大統領の、セオドア・ルーズベルトと会談するのです。ルーズベルトはいいます。

「日本の進歩は伝え聞いています。元来、日本は美術が素晴らしいといわれていたが、いまでは軍事も名声が上がっている」

 栄一が述べます。

「軍事をお褒めいただきありがたいが、それに比べ、商工業の名声が低いのは、これは実業家としてまことに寂しいことです。次にお会いするときは閣下に、商工業こそお褒めいただけるよう、今後はますます、精進して参ります」

「あなたの心意気ならば必ずや発展するでしょう」

 と、ルーズベルトはいい、二人は握手を交わすのでした。

 栄一の活動が世界に広がるにつれ、放蕩(ほうとう)を重ねてきた篤二(泉澤祐希)も、家業を手伝うようになっていました。

 栄一の家に慶喜が訪ねてきています。栄一は留守にしていましたが、篤二が慶喜を迎えます。

「父が一番執着しているのは、あなた様の本をつくることです。あなた様のご決断によって、日本はとんでもない戦争になっていたかも知れないところを救われた。その功績は、忘れ去られるべきではないのだと、父はいつも申しております。私も、父よりよほど、あなた様の生き方に憧れます」

 慶喜はいいます。

「まあ、そんな単純なものではない」

 栄一は日本に帰り、現状についての説明を受けます。

「問題はロシアです。清は日本から取り戻した遼東半島をロシアに与えてしまった。ロシアは南下して、朝鮮半島に手を伸ばそうとしていることは明らかです」

 栄一はいいます。

「韓国を、ロシアの手にわたすわけにはいかん。隣国の日本こそが、その独立を助けるべきだ。韓国が豊かな国に育てば、日本も、ロシアや西洋の脅威に対抗できる」

 ロシアの南下政策は、日本の国防に脅威を与えました。陸軍参謀次長の児玉源太郎が、栄一に会いにやって来ます。

「ロシアは、朝鮮半島全体の権利を要求しています」

 井上馨福士誠治)が話します。

「このまま捨て置けば、対馬海峡までがロシアの勢力下となり、日本の国防は崩れる」

「さよう」児玉が言葉を継ぎます。「世論もすっかり、主戦論です。この先、財界にもぜひ主戦論を掲げ、挙国一致してこの国難に立ち向かっていただきたい」

「財界をとりまとめよとおっしゃるのか」栄一は納得いきません。「しかし政府は、富国強兵の富国を無視し、強兵ばかりに走っている。私はそれを憂(うれ)いている」

「今は」児玉が大声を出して立ち上がります。「危急存亡の時です。金も兵もない我が国が、ロシアと戦うためには、財界の、さらなる緊密な協力が、なんとしても必要なのです」

 井上が栄一の前に座ります。

「頼む。ロシアが朝鮮半島に入りゃあ、次は日本が危ない」

「わかりました」

 と、栄一は低い声を出すのでした。

 翌年、日露戦争が始まりました。

 栄一は戦費に充てる国債の購入を呼びかける役割を担いました。財界人を集め、演説します。その終了後、栄一は突然倒れるのです。

 中耳炎は手術でどうにかなりましたが、栄一のその後の衰弱は激しいものでした。

 篤二がつぶやくようにいいます。

「父上は戦争の時に限って病(やまい)になる。清国とのいくさの時も寝込んでいました。よほど、体質に合っていないのかも知れません」

 栄一の容体(ようだい)は、さらに悪化し、肺に菌が入り込んで、壊死(えし)し始めていました。家族に「お覚悟をなさってください」と、医師がいうほどでした。

 篤二は栄一に呼ばれます。

「後は頼んだぞ」栄一は篤二に手を伸ばします。「嫡男はお前だ。この家は頼む」

 篤二は雨の中外に飛び出し、地面の拳を叩きつけて叫び声を上げるのでした。

「篤二さん、どうしたの」

 そう声をかける栄一の妻である兼子(大島優子)の背後には、慶喜の姿がありました。

「僕は逃げたい」

 と、篤二はつぶやきます。慶喜の姿を認め、再び叫びます。

「僕は逃げたい。それでも、あなたに比べたらましなはずです。あなたが背負っていたのは日本だ。日本すべて捨てて逃げた。それなのに今も平然と」

 栄一は目を覚まします。そこには一人、慶喜がいたのです。栄一は起き上がろうとし、咳き込みます。慶喜は栄一の背をさすります。

「無理をするな。まだ死なぬほうが良いだろう。そなたのことだ、今、亡くなれば、さぞ心残りであろう。私もまた、そなたに何も心を尽くせてはおらぬ」慶喜は栄一の体を起こします。「生きてくれたら、何でも話そう。何でも話す。そなたともっと話がしたいのだ。だから、死なないでくれ」

 その後、栄一は見る見る快復しました。戦争の状況を聞きます。日本海海戦の勝利も耳にします。

 その頃、アメリカでは、栄一と話したセオドア・ルーズベルトが側近たちに語っていました。

「日本は嫉妬深く、敏感で、戦闘的だ。他のアジア人と比べてもな。万が一に備え、我が国の海軍を強大にしておかねば」

 と、ルーズベルトは、栄一が土産にもってきた日本人形に、煙草の煙を吐きかけるのです。

 新橋駅の列車に、外務大臣小村寿太郎が乗り込んできます。見送りにやって来たのは伊藤博文(山崎育三郎)、井上馨、そして栄一の姿もありました。伊藤がいいます。

「頼んだぞ、小村君。これで講和できんにゃ日本は潰れる」

 栄一が不審に思って伊藤にたずねます。

「連戦連勝していると」

 伊藤が答えます。

「日本は、国力を使いすぎた。日本軍は、屍(しかばね)の山を築きながら一年あまりをひたすら耐え、日本海海戦でようやく奇跡的な勝利を得た。じゃがもう限界じゃ」

 井上がいいます。

「伊藤が去年から、アメリカに使者を送って工作を重ね、やっと講和会議にすべりこむことができたんじゃ。国民はなんも知らんが、この交渉に失敗すりゃあ、日本は破滅する」

「破滅」

 と、栄一は聞き返します。小村がつぶやくようにいいます。

「難しい状況ですな。英米の支援を得て、なんとかロシアと和を結ぶことだけを方針として交渉をまとめるほかは、ありませんな」

 二ヶ月後、日露講和条約、通称「ポーツマス条約」が調印されました。しかし、国家予算の六倍もの戦費負担を国民に強いたにもかかわらず、ロシアへの賠償金要求を取り下げたことにより、国民の怒りが爆発しました。

 栄一の乗る馬車も市民に囲まれ「売国奴」などの言葉を浴びせられるのでした。

 世情いまだ落ち着かぬ中、慶喜の伝記の編纂(へんさん)のため、歴史学者や、昔を知る人らが集められました。栄一が部屋に慶喜を連れて入ってきます。栄一は語ります。

「私がこれを思い立った発端(ほったん)は、逆賊呼ばわりされ、またいくじなしと罵(ののし)られ、それでも弁解なされず過ごされた。この汚名をどうしても……」

 栄一の言葉は慶喜の昔からの側近であった猪狩正為(遠山俊也)にさえぎられます。話が長いと𠮟られるのでした。和やかな雰囲気の中に、慶喜が話し始めます。

「ありがたいが、汚名がすすがれることは望まぬ。事実、私は為す術(すべ)もなく逃げたのだ。慶応三年の終わりだ。大阪城内では、家来の暴発を制止できぬ状況にあった。ある者などは、大阪を徘徊する薩摩兵を一人斬るごとに、金子を与えようなどと無謀な策を提案するに至り、会津、桑名、旗本まで、皆が皆、兵を率いて入京せよと、唾を飛ばして議論し、激昂し、ほとんど半狂乱ともいう有様(ありさま)であった。皆は出兵を許さぬなら、私を刺してでも薩摩を討つといい出した。いまでもあの時の皆の顔を夢に見る。人は、誰が何をいおうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。欲望は、道徳や倫理よりずっと強い。ひとたび敵と思えばいくらでも憎み、残酷にもなれる。人は好むと好まざるとに関わらず、その力に引かれ、栄光か破滅か、運命の導くままに引きずられていく。私は抵抗することができなかった。ついに、どうにでも勝手にせよといいはなった。それで鳥羽伏見のいくさが始まったのだ。失策であった。後悔している。戦いを収めねばと思った。しかしその後も言葉が足りず、いくつも失策を重ねた。あるいはそのずっと前からどこか間違えていたのかもしれぬ。多くの命が失われ、この先はなんとしても、おのれがいくさの種になることだけは避けたいと思い、光を消して、余生を送ってきた。人には生まれついての役割がある。隠遁は、私の最後の役割だったのかも知れない」

 皆が帰り、栄一は的に向かって椅子に座ります。

「私の道とは何だ。日本を守ろうと、いろんな事をやってきた。ようやく、外国にも認められるようになってきた。しかし、私が目指していた者はこれか。いいや違う。今の日本は、心のない張りぼてだ。そうしてしまったのは私たちだ。私が止めねば」

『映画に溺れて』第465回 時計じかけのオレンジ

第465回 時計じかけのオレンジ

昭和四十七年九月(1972)
大阪 難波 なんばロキシー

 

 私のキューブリック初体験は『時計じかけのオレンジ』で、十八歳だった。主人公のアレックスは高校生の設定だからほぼ同世代である。
 一九六〇年代末から七〇年代初めにかけてのあの頃、古い価値観が壊され、新しい文化が町中に出現し、氾濫する時代だった。
 キューブリックが描く近未来のロンドン。学校をさぼってミルクバーに集う山高帽に白い上下の四人組。リーダー格のアレックスは音楽マニアでベートーベンが大好き。今日もドラッグ入りのミルクを飲み、暴力に明け暮れる。
 ホームレスの老人を襲撃したり、別グループと乱闘したり、猛スピードで車を飛ばし、郊外の作家の家に押し入り、主人を痛めつけ、その目の前で妻を強姦する。そのとき、アレックスが歌うのが懐かしい『雨に唄えば』なのだ。歌いながらステッキで夫を殴り倒し、妻の服を切り裂いていく。
 が、やがて仲間に裏切られ、強盗殺人の現場にひとり取り残されて、現行犯で逮捕され、殺人罪で刑務所に。
 猫を被って模範囚を装い、刑期短縮のため、犯罪抑止療法の実験台に志願する。この実験の痛々しいこと。その結果、暴力とセックスに拒否反応を起こし、殴られても反撃できず、裸の女性を見ても嫌悪感を催す。実験は成功し、無事出所。
 晴れて両親の家に帰ると、すでに彼の居場所はなく、町をさまよっていると、かつて襲撃したホームレスの老人に仕返しされ、警官に助けを求めると、それがかつてアレックスを裏切った不良仲間で、さらに痛めつけられる。
 暴力とセックスと犯罪を愛する強姦魔であり、人殺しであった極悪人アレックスが羊のように無害になったとたん、次々と災難に襲われるという皮肉。
 十八歳の私にとって、たまらなく刺激の強い映画だった。

時計じかけのオレンジ/A Clockwork Orange
1971 アメリカ/公開1972
監督:スタンリー・キューブリック
出演:マルコム・マクダウェル、パトリック・マギー、マイケル・ベイツ、エイドリアン・コリ、ミリアム・カーリン、ウォーレン・クラーク、スティーブン・バーコフ

2021年新刊書評年末号

2021年新刊書評年末号

 

 天堂晋助『風呼ぶ狐 西南戦争の潜入警察官』が抜群の面白さである。
 作者にとっては久しぶりの長編小説の刊行である。そう言えば作者とは奇妙な縁で結ばれている。もう二十年近く前の話になるが、家に単行本が送られてきた。天堂晋助著『秦始皇帝と暗殺者』(2002年)と書かれている。当初、悪い冗談かと思った。なぜなら作者の名が信じられなかったからである。天堂晋助は司馬遼太郎の『十一番目の志士』の主人公である。単行本が刊行されたのは、1967年。長州藩高家出身の高杉晋作は、旅の途中で二天一流の使い手である天堂晋助に出会う。天堂の剣術を高く評価した高杉は、刺客として天堂を幕末の世に送り出す。天堂の振るう剣を通して、幕末の混迷する政局の諸相が見えてくるという着想の鋭さと、物語の面白さは、司馬作品の中でも際立ったものであった。

 まさかこの天堂晋助の名をペンネームで使う大胆不敵な作家がいるとは思えな
かったので聞いたところ、何しろ気に入っているので使いましたという単純な答えが返ってきた。何も言えなかった。

 ということで本題に入ろう。
 作者が言うには、2018年にNHKで放映された「西郷どん」に刺激を受けたのが切っ掛けだったらしい。そこで思いついたのが、大久保利通に命を受けて、西郷暗殺のため鹿児島に潜入した警察官の活躍を描くというストーリー。書き上がり尊敬している南原幹雄先生に読んでもらったところ、着想は面白いし、剣劇場面もよく書けているが、ストーリーが弱いという指摘を受けた。ストーリーを練り直し、スパイアクション仕立てで二年間かけて書き直したとのこと。

 読みどころを紹介する。
 第一は、西南戦争を情報戦と位置づけたところにある。つまり、大久保利通川路利良率いる東京警視庁と、西郷隆盛桐野利秋が率いる鹿児島勢との覇権争いだが、カギは双方の情報収集力にあると見たわけである。作者はその布石として冒頭に主人公浦木啓輔を尊敬する前野兵太郎を登場させ、情報戦の武器となる可能性を持った警視庁の電信開発班に就いたことを記している。これが実にうまい仕掛けとなってスパイ戦の臨場感を醸し出している。
 第二は、鹿児島の火薬庫である。当時の鹿児島には多くの火薬庫が存在し、武器と弾薬が備蓄されていた。この火薬庫をめぐる争奪戦が、手に汗を握るアクション場面となっている。この争奪戦の背景には、西南戦争の引き金が隠されているのである。
 第三は、桐野にとらわれた浦木の脱獄のエピソードである。西郷にないがしろにされている島津久光も登場し、興趣を盛り上げている。
 第四は、幼なじみで敵対関係にある浦木と桐野の決闘場面である。何度か相まみえることになるのだが、一回ごとに工夫されており、畳みかけるような文体と共に作者がこの作品に賭ける熱情が感じ取れる場面となっている。

 以上、読みどころを紹介してきたが、西南戦争に新たな光を当てた幕末ものとして優れた価値を持った作品と言えよう。

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第38回 栄一の嫡男

 明治二十二年(1889)、夏。上野で徳川家康江戸城に入って三百年の節目を祝う「東京開始三百年祭」が開かれました。この祭りを企画したのは、旧幕臣たちでした。

 慶喜(草彅剛)の側に仕えていた猪狩勝三郎(遠山俊也)が、水戸烈公(竹中直人)の口癖である「快なり」で音頭を取って乾杯します。そこに栄一(吉沢亮)とパリに滞在した慶喜の弟、徳川昭武(板垣李光人)がやって来ます。会場には「徳川万歳」の声が響き渡るのでした。しかしその会場には、慶喜の姿はありませんでした。

 栄一は大きく羽ばたいていました。銀行業を中心に、製糸、紡績、鉄鋼、建築、食品、鉄道、鉱山、電力、造船など、多くの産業に関わり、また、国際化に対応できる女性育成のための学校や、病院、養育院など、教育施設や、福祉施設の充実にも力を注いでいました。

 養育院運営の寄付を募る慈善会(バザー)の会長は、栄一の妻である兼子(大島優子)が勤めていました。渋沢家では次女の琴子が、大蔵省に勤める阪谷芳郎と結婚。くにの生んだ文子も、尾高惇忠の次男、尾高二郎との結婚が決まりました。くには新たな人生を送るべく、渋沢家を出て行くことになりました。嫡男の篤二(泉沢祐希)は栄一の後継者として期待されていました。

 篤二がお座敷遊びから帰ろうとするところに、姉の歌子(小野莉奈)が待っていました。部屋で篤二に言い聞かせます。

「いったい何度、同じ事を繰り返すんですか。あれほどの仕事をなさった父様なら、品行上の欠点があっても、時代の通弊としていたしかたありません。しかし、その子たるものは違います。この家は、あなたが継いで支えていくのですよ。お願いだから、自覚を持ってちょうだい」

 明治二十三年(1890)。国会の開設に向け、衆議院総選挙と、貴族院議員任命が行われました。政治には関わらないことを信条としていた栄一でしたが、貴族院議員に選ばれます。一刻も早く辞任したい、とぼやくのでした。

 歌子の夫である穂積陳重(田村健太郎)が、篤二を熊本の学校にやってはどうかと提案してきます。篤二の遊び癖が抜けないからです。篤二は熊本で寮生活を送ることになります。

 静岡にいる徳川慶喜は、妻の美賀子(川栄李奈)が乳癌であることを聞かされます。美賀子は東京の病院で治療を受けることになります。

 栄一は仕事中、篤二のことを聞かされ、急いで家に帰ります。女を連れて大阪に逃げたというのです。栄一は篤二を退学にし、謹慎(きんしん)させることにしました。

 篤二は栄一の生まれた血洗島で謹慎期間を過ごします。篤二は栄一の妹の、てい、にいうのです。

「十歳の時、父と初めて草むしりをしたんです。父が良いことをすれば、きっと母さまの病(やまい)は良くなるよ、といわれるので。精を出して草をむしった。どうにかして、母さまの病が良くなるようにと、一生懸命に。母さまの病は悲しかった。でも、普段ほとんど家にいない父が、ずっと家にいるのが嬉しくてたまらなかった」

 篤二は藍葉を叩く作業などをしながら、次第に元気を取り戻していくのでした。

 篤二は謹慎の後、東京に戻り、結婚することになりました。

 そんな中、栄一の乗る馬車が、暴漢に襲われるという事件が起こったのです。

 喜作(高良健吾)が病院に駆けつけます。栄一は手の甲を切られただけでした。

「爆弾で襲われた大隈さんみてえに、大怪我したかと思ったで」

 と、喜作は安堵します。栄一はいいます。

「考えてみるに、まことに殺す気であれば、あの暴漢もこんな手ぬるい襲い方はしねえはずだ。身に覚えはある。水道管のことだ。舶来品より質で劣る、国産の水道管を使いたい誰かが、人を使って脅そうとしたんだい。俺は、水を清潔にしたかっただけだ。コレラの蔓延(まんえん)は、まだ続いてる。過去のあやまちは、忘れてはならない」

 慶喜の妻、美賀子は、東京で息を引き取りました。

 それをきっかけに栄一たちは話し合います。慶喜は東京に戻った方がいい。医師の凌雲がいいます。

「今も朝敵だった過去を忘れてはならぬ。と、強く思われておる」

 喜作が思わず立ち上がります。

「なんだいそれは。俺は、御前様が朝廷と戦う気など一切お持ちでなかったことを、良く知っておる。幕末維新だって、昔のことじゃねえか」

 栄一がいいます。

「世間の風当たりは、まだまだ御前様に厳しい。俺が気にいらんのは、御前様が、幕府の終わりになさった、数々の御偉業まで、まるで無かったことのように消し去られ、押し込められ、そこに別の輩(やから)がどんどん現れて、おのれこそが日本をつくったというような顔をしておることだ」

 明治以降、本格的に富国強兵をすすめてきた日本は、大国「清」と戦闘状態に入りました。

 栄一は静岡の慶喜のもとを訪ね、切り出します。

「この世がすっかりと変ってしまう前に、御前様に、お願いがございます。あなた様を、世に知らしめたい。今、元外国方で、新聞社を営んでいる福地殿と、御前様の伝記をつくりたいと考えております。我々はこのまま、あなた様に、世に埋もれていただきたくない。あなた様は、ただの逃げた暗君ではない。私たちはそれを良く知っております。どうか、あなた様のお考えを、御偉業を、後世に残させてください」

「何度もいうが、話すことは何もない」慶喜は素っ気ありません。「何が偉業だ。私は誰に忘れ去られようが、たとえただの趣味に生きる世捨て人と思われようが構わぬ」

 明治二十八年(1895)の三月、日清戦争が、日本の勝利で終結しました。

 栄一は伊藤博文(山崎育三郎)と会っていました。机の向こうから伊藤がいいます。

「戦争中、寝込んどったそうじゃないか」

「ええ。いろんな所にガタが出てくる。もうすっかり年寄りだ」

「なんの。まだきばってもらわんといかん。戦争で金を使うた分、こっからうんと産業を盛り上げんにゃならん」伊藤は身を乗り出します。「ええか渋沢。清国に勝ったっちゅうことは、日本はもはやアジアの三等国じゃない。一等国への確かな道が見えてきたっちゅうことじゃ。御一新から三十年足らず。今や日本は、西洋列強と並ぶ文明国になろうとしちょる。この先もイギリスを味方につけ、アメリカともうまくやって、欧米に日本を認めさせる。一刻も早う一等国の仲間入りをせんにゃならんのじゃ」

「おお、ようやくそこまで来たか」

「そうじゃ。歳をとってる場合じゃない」

「そこまで来たからには、伊藤さん、御前様が東京に戻っても、もう文句をいう者はおりませんな」

「は? 御前様とは、慶喜さんことか。おぬしまだそねーな昔の主(あるじ)を慕っとるんか」

「当たり前だい」栄一は笑顔で立ち上がります。「御前様なくして、今の日本はありませんよ」

 そして二年後の明治三十年(1897)。栄一たちは、巣鴨慶喜を迎えるのでした。慶喜はおよそ三十年ぶりに東京に戻ってきたのでした。

 

『映画に溺れて』第464回 アンテベラム

第464回 アンテベラム

令和三年十一月(2021)
日比谷 TOHOシネマズシャンテ

 

 黒人女性を主人公としたふたつの世界の物語が描かれる。
 アメリカ南部の農園で酷使される女奴隷のエデン。南部連合の旗が翻り、農場を支配するのは南軍の将軍とその配下の兵士たちである。
 黒人奴隷は白人の許可なくしゃべることを禁じられ、黒人同士の会話も厳禁。昼は綿を摘み、女たちは夜な夜な兵士の慰みものにされる。
 脱出をはかった黒人の夫婦が夫は鉄枷を首にはめられ、妻はロープに縛られ馬にひきずられた揚げ句、夫の目の前で射殺され、竈で焼かれる。新しく連行されてきた黒人たちは将軍の孫娘からペットのように名前を付けられ、家畜のごとく扱われる。将軍は言う。われわれ白人は神によって選ばれたのだと。
 エデンは将軍専属の奴隷として夜ごと犯され、逆らえば鞭打たれ、背中に焼き印を押される。新しく連行されてきた黒人女性がエデンに助けを求めても、なにもしてやれない。殺されたくなければ、黙って堪えるしかない。
 もうひとつの物語。現代の都市に住むヴァネッサ。やさしい夫と幼い娘と三人で暮らす裕福なエリートである。博士号を持つ社会学者で、著名な作家で、人種差別や女性差別に反対する論客でもある。TVに出演し、頑迷な保守派と討論して見事にやりこめる。
 新刊の宣伝を兼ねた講演会が南部で開催され、多くの聴衆の前で喝采を受ける。夜は久々に旧友とレストランで楽しく過ごす。が、彼女の周囲では不穏な空気が流れている。南部の貧しい白人たちがエリート黒人に抱く根深い憎悪。ヴァネッサを乗せたタクシーは宿泊先のホテルに向かわず、闇の中に消える。
 そしてまた、物語は最初の奴隷農場に戻る。そこにはエデンとヴァネッサを結ぶ驚くべき謎が隠されていた。
 テーマは暗くて重いが、ネタバレ厳禁のストーリーはぞくぞくするほど面白い。

 

アンテベラム/Antebellum
2020 アメリカ/公開2021
監督:ジェラルド・ブッシュ、クリストファー・レンツ
出演: ジャネール・モネイ、エリック・ラング、ジェナ・マローン、ジャック・ヒューストン、カーシー・クレモンズ、ガボリー・シディベ

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第37回 栄一、あがく

 千代の死から、三ヶ月がたちました。栄一(吉沢亮)は「顔色が悪い」と喜作(高良健吾)にいわれる始末です。

「渋沢には、早う次の妻を探さにゃならんな」と、立ち上がったのは井上馨福士誠治)です。「でなけんにゃ、日本経済そのものにも大いに差し障りがある。渋沢は今や日本経済の要(かなめ)じゃ」

 政府は、栄一たち実業家を支援し、三菱に対抗する海運会社「共同運輸会社」を設立させました。

 岩崎弥太郎中村芝翫)と大隈重信大倉孝二)は、その活動を阻もうとしましたが、当時の世論は、共同運輸の味方でした。

 大隈は自分たちを批判する新聞を岩崎に見せます。岩崎は笑い声を上げます。

「世の中に、これは叩かれるゆうがは、大隈様も三菱も、やはりたいしたもんやのう。今さら政府らを味方につけんでも、この三菱は一向に構わん。わしを誰やと思うちょる。岩崎弥太郎やぞ。岩崎はこの一手だけで、日本を一等国にするき」岩崎は社員たちに向き直ります。「ええかおまんら、売られた喧嘩は正面から買(こ)うちゃるき。この機に、さらに三菱を、大きゅうしちゃちゃるわ」

 三菱と共同は激しく競い合います。三菱が運賃を一割下げると、共同は二割下げるという具合です。

 栄一は、数年前に没落した豪商「伊勢八」の娘、伊藤兼子(大島優子)を、後妻に迎えることにしました。栄一は兼子にいい聞かせます。

「渋沢家の家政を任せたい。特に嫡男の篤二まだ小さく、母親が必要だ。また、財界や政府に、世話になっている方が数多くいるゆえ、その方々や家族ともうまく交際し、万事抜かりなくやってもらいたい。背負う事業が多岐にわたるゆえ、てきれば、子も多くほしい。よしなに頼む」

 栄一は出かける際に、娘の歌子(小野莉奈)にいわれます。

「もうご再婚とはどういうことですか。家を守るお方が必要なのはわかります。でも、おくにさんでもなく、見ず知らずの方と」

「俺の妻となれば、年中表に出て、多くの方々と、交際してもらわねばならねえ。おくにには荷が勝ちすぎる」

 数ヶ月後、歌子は男の子を産みました。栄一は喜び

「お千代に、見せてやりたかった。お千代は、孫を見るのをずっと楽しみに……」

 と、いってしまうのでした。

 東京府会では、千代が熱心に支えてきた養育院が、廃止されようとしていました。

「しかるに、困っているものを助け、新たなる罪人を生まぬようにすることは、人の道のみならず、社会のためにも……」

 などと栄一が発言しても、誰も聞こうとしません。

 岩倉具視山内圭哉)は床にありました。

「日本が西洋のごとく、新しくなっていかなあかんことはよう分かってます。しかし三条さん」岩倉をうちわであおいでやっているのは三条実美金井勇太)でした。「これはわしらが願うてた、建武以来の、お上を王とする世とは、全くちごてしもた」

 三条がいいます。

「議会ができて、民(たみ)まで政治に口を出すようになったら、どんな世になってしまうのやら」

 岩倉は大声で井上馨を呼びます。

「お上は、民を、愛しておられる。日本は、ほかのどの国とも違う。お上のもとでの国家をつくらなあかんのや」

 そういって岩倉は、つんのめるように倒れるのでした。岩倉具視は、天皇を中心とした国を望みながら、世を去りました。

 共同運輸と三菱の、熾烈(しれつ)な争いは続いていました。その中で岩崎弥太郎は倒れてしまいます。

 栄一のもとに、五代友厚ディーン・フジオカ)が訪れます。三菱と協定を結ぶように提案します。

「この競争は、共同、三菱双方にとって、多大な損失を招いておる。ここいらが潮時じゃろう」

 共同の益田孝(安井順平)がいいます。

「まさか。ここからが正念場ですよ」

「気づいちょらんのか。岩崎君は密かに、この共同運輸の株を、株主から買い集めちょる。もうすでに、過半数は三菱のもんじゃ」

 皆は驚き、慌てます。井上馨が話します。

「岩崎は、渋沢の元本(がっぽん)の仕組みを使うて、この会社を乗っ取ろうとしとるんじゃ」

 栄一は五代にいいます。

「それであなたは、のこのこ仲裁(ちゅうさい)に来たのですか。開拓使騒ぎの頃、世論はあなたをさんざんに叩いていたが、今や世論の敵は、岩崎さんだ。徹底的に叩く絶好の機会でしょ」

「うんにゃ。岩崎君が海運を、一手に握ったのは、政府の思惑もあってのことじゃ。そいを今度は、大きくなりすぎたからといって潰すとは、あまりに無情。よかか、渋沢君」五代は立ち上がり、渋沢の隣に座ります。「こげん争いは不毛じゃ。もし共同が勝って、三菱が倒れたとしても、今度は、共同が第二の三菱になるのは知れたこと」

「あなたに口を挟まれるいわれはない」

「うんにゃ挟む。まあちいと大きな目で、日本を見んか」

「見てますよ。俺は大きな目で日本を見てる。岩崎さんは、本当の国の発展を分かってないからあんなことしたんだ」

「おいは、商人が正しく競い合うことで、経済を発展すると思うちょる。こげん争いは、日本の損失じゃ」

「いいや」栄一は感情的になっています。「これは、岩崎さんの独裁と、俺の合本との戦いなんだ。私は、戦いをやめる気はありません。差し違えてでも勝負をつける」

 栄一は伊藤博文(山崎育三郎)を訪ね、岩崎の不法を並べ立てます。

「なんとか、政府に制裁していただきたい」

 という栄一に、伊藤は話します。

「どうも今日の渋沢君は妙じゃの。渋沢君がおのれを正しいと主張するんは、まあかまわん。じゃが、その正しさを主張したいがために、敵の悪口をあれこれあげ連ねていいふらすっちゅうのは、それこそ実に卑怯千万なやり方じゃなかろうか。君は、人から立派に人物じゃといわれちょる。恐らく君自身も、自分は正しいと、立派な考えを持っとると思うちょるじゃろう。そういう君からして、こねえに卑怯なことをするようでは困るんじゃ。少し慎め」

 栄一はソファに腰を下ろします。伊藤は明るい様子で話し続けます。

「まあ、とはいえ、わしも、岩倉様を裏からつついて、大隈さんを追いやったんじゃがのう。ただわしは、自分を正しい人間とははじめから思うちょらん。大隈さんをどねえしても外したかった訳でもない。大隈さんは、急ぎすぎちょった」伊藤は束になった書類を栄一に見せます。「わしなんか、一年半もかけて憲法を調べてきた。わしは、日本独自の憲法を作り、国民が育てば議会をつくる。民意を取り入れたいと思うちょる。大久保さんも、西郷さんも岩倉様も、今まで日本ためによう働いてくれた。ようやくこっからが、新しい日本のスタートじゃ」

 栄一はあっけにとられ、つぶやくようにいいます。

「まさか。結局一番大きな目で日本を見ているのは、あなたなんですか」

 伊藤は笑い声をたてるのでした。

 岩崎弥太郎は寝込んでいました。息子の弥之助(忍成修吾)にたずねます。

「渋沢は、まだ根をあげんがか」岩崎は笑います。「今一度盛り返したい。弥之助。わしの事業を、決して、落とさんようにねや」岩崎は天井を見上げます。「国のためやち、日本を一等国に、世界の航路に、日本の船を。日本に、繁栄を」

 職場に来た栄一は、驚いて振り返ります。

「岩崎さんが死んだ」栄一は帽子を掛けます。「嘘だ。あの人は死んでも死なねえはずだ。

 銀行の者がいいます。

「大阪の五代さんも、もう長くないと、噂があります」

 栄一は五代の仲裁で、三菱の面々と話し合いをすることになりました。五代がいいます。

「正直にいってくれ。こん競争、このまま続けたら、三菱はあと、どれだけもつ」

 岩崎弥之助が答えます。

「一年です」

 五代は栄一たちにも同じように聞きます。共同の一人がいいます。

「百日です」

 弥之助がいいます。

「それが本当やったら、三菱は勝てるの。けんど、勝ったち、満身創痍や」

 五代が発言します。

「うん。そん後は必ず、外国の汽船会社がやって来て、日本の海運を、再び牛耳ることになる」

 栄一がいいます。

「もう、ほかに道はないようだ」

 栄一は立ち上がり、弥之助に握手を求めるのです。それに答える弥之助。こうして両者は、二年半に及ぶ戦いを終え、合併することを選びました。

 皆が帰った後、栄一は五代と話します。

「五代さん。ありがとうございました」栄一は座ります。「早く、体、直してください」

「おいが死んでも、おいがつくったものは残る。青天白日。いささかも、天地に恥じることはなか。じゃっどん、見てみたかった。こいから、もっと商いで、日本が変っていくところを。こん目で、見てみたかった。渋沢君。日本を、頼んだど」

 その年の秋、五代友厚も亡くなりました。

 栄一は後妻の兼子から

「離縁してくださいませ」

 と、頭を下げられます。とまどう栄一。兼子は理由を話します。

「私はかつて、妾にだけはなりたくないと思っておりました。その願いが叶い、妻として、かように立派な方に嫁げるとは、なんと光栄なことと喜んでいました。しかし妻であれば、女の矜持(きょうじ)が守られると思っていた私が愚かでございました。あなた様の心もいまだ、前の奥様にございます。私は、望まれて妻になりたいなどと、馬鹿げたことをいうつもりは毛頭ございません。しかしそれでも、いくばくかの情がなければ妻にはなれません。子もできません。篤二さんも、あたしにはなついてくださいません。きっとあたしは、一生かけても、奥様の変わりにはなれません。どうか、離縁してください」

「それは許さねえ。いや違う」栄一も頭を下げます。「許してくれ。俺は、ちっとも立派じゃねえ。いつも日本のためだとかなんとかいって、目の前のことしか見えていねえ。目の前のことをやるのに精一杯だった。それをいつも、とっさまに守られ、かっさまに守られ、一橋の家に守られ、お千代に守られて、どうにかやって来たんだ。だから」栄一は今度は膝をそろえて頭を下げます。「頼む。これから、俺をもっと𠮟ってくれ。尻を叩き、時には今のように、捨ててやるぞこのヘッポコ野郎とののしってくれ」

「いえ、そこまではいっておりません」

「俺は、どうしても、この家を、家族を守りたい。どうか、力を貸してください」

 栄一は深く頭を下げるのでした。

「わかりました。これ以降も、よろしくお願い申し上げます」

 と、兼子も頭を下げます。

 廃止の危機にあった養育院は、兼子と協力して、栄一がみずから経営することにしました。栄一は千代が子どもたちに針を教えていた部屋の前で立ち止まります。

「お千代。見ていてくれ」

 と、栄一はつぶやくのでした。

 明治十八年の冬、日本に内閣制度が発足しました。天皇により、内閣総理大臣伊藤博文が任命されます。三年後には、大日本帝国憲法が発布され、天皇を国の元首としつつも、伊藤たち元老が、政治の主導権を握ることとなりました。

 兼子と栄一の間に子ができていました。それを見つめる十七歳の篤二は、煙草を取り出して口にくわえるのでした。

 

『映画に溺れて』第463回 騙し絵の牙

第463回 騙し絵の牙

令和三年三月(2021)
新宿 新宿ピカデリー    

 

 出版不況と言われて久しい。本が売れて出版社も作家も町の書店も潤った時代は遠い昔のことだ。本が売れなくても雑誌が売れていればなんとかなっていたが、今はもう雑誌も売れない。この先、いったいどうなるんだろう、という今の出版界の現状を描いた作品である。
 大手出版社のやり手社長が急死し、営業出身の東松が新社長となり、赤字部門の文芸誌を切り捨て、不動産部門にまで手を出そうとしている。
 各社を渡り歩いたフリー感覚の編集者速水がカルチャー誌の編集長として迎えられ、さっそく東松に取り入り暗躍する。
 売れないながらも品格ある文学に固執する文芸編集部は百年続いた老舗出版社の聖域であり、前社長の庇護の下、伝統ある文芸誌を守り抜いてきた。一方、カルチャー誌は様々な仕掛けで話題を作り読者を広げようとする。
 新社長となった東松の方針で文芸誌は月刊から季刊に縮小され、はみ出した若手編集者の高野恵を速水がカルチャー誌にスカウトしたことで社内の対立は激しくなる。
 文芸誌の新人賞応募作の中で注目されながら異色すぎるとの理由で候補から外された無名新人の作品を速水が拾い上げ、カルチャー誌での掲載を発表する。しかも名乗り出た作者の矢代が若くて美男であり、マスコミで大きく取り上げられる。カルチャー誌を売るためなら、スキャンダルであろうと、事件であろうと、なんでも利用する速水。
 新社長を憎み文芸編集部を支持する古参の重役宮藤はカルチャー誌に一泡吹かせんとして裏で矢代を取り込もうと画策するのだが。
 町の書店の現状、紙から電子書籍への移行、伝説のカリスマ作家の新作などが絡み合いストーリーは二転三転、いったいだれが勝者となるのか。いや、果たして勝者はいるのか。演じる俳優も曲者ぞろいで見ごたえ充分、裏切り裏切られの闘争劇である。
 が、今の出版界の現実を思えば、楽しんでばかりもいられない。

 

騙し絵の牙
2021
監督:吉田大八
出演:大泉洋松岡茉優宮沢氷魚池田エライザ斎藤工中村倫也坪倉由幸和田聰宏石橋けい、森優作、後藤剛範、中野英樹赤間麻里子、山本學佐野史郎リリー・フランキー塚本晋也國村隼木村佳乃小林聡美佐藤浩市

 

書評『尼将軍』

書   名 『尼将軍』              
著   者  三田誠広
発   売  作品社
発行年月日  2021年9月25日

 

尼将軍

尼将軍

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 頼朝の流人生活を伝える歴史史料はきわめて乏しく、頼朝と政子の運命的な結びつきについては「はっきりしたことはわからない」(奥富敬之『鎌倉北条一族』新人物往来社、昭和58年刊)という。歴史事実という観点から見れば、所詮、小説は“虚”の記述に過ぎないものであろうが、歴史の真実を暴くのは歴史学の専売特許ではなく、小説にも十分に立証能力がある。そもそも伝えられる史実は一部のものであり、伝えられない史実を掘り起こす“謎解き”のような作業は歴史家よりもむしろ作家の得手とするところである。
 作者にとって、『尼将軍』政子は、どうしても書きたいテーマで以前から考えてきたものであるという。

 本作は小説であるから、脚色が施されているが、事件はおおむね史実通りにおこる。作者は史実の奥底に潜む人間の物語として政子69年の生涯と政子の生きた時代を再現している。骨格のしっかりした全8章の構成の中に、歴史上の人物がそれぞれに生きているので、ドラマを見るように興趣深い。遺された史料と作家の想像力で挑んだ、端正な文体による文学作品である。
 第4章「御曹司が鎌倉に幕府を開く」の、建久8年(1197)7月、木曽義仲の息子・義高との悲恋で有名な頼朝・政子夫妻の長女大姫(おおひめ)の病没までが前半生と言える。大姫の死で政子は初めての挫折を味わうが、愛娘を失った悲しみよりも、「大姫入内」の野望が挫折したことの悔しさが上回ったとし、「これより後の政子の人生は挫折の連続」であったとする。

 本作のキーワードは「台盤所(だいばんどころ)」である。台盤とはもともと「食膳」の意味だが、女人の称号となる。既に東国支配の総帥となった頼朝は「鎌倉殿」と称され、東国全体の「台盤所」となった政子は台盤所に尊敬を表す「御」をつけて「御台所」と呼ばれる。武門の頭領の正妻としての「御台所」の政子は家族だけでなく、御家人たちを差配する立場に立つ。
 政子の弟で、平家に対して反乱を起こすという野心の持ち主の三郎宗時(さぶろうむねとき)は「姉君と源氏の御曹司たる頼朝を旗頭として新たな国を築く」という野望に燃えている。しかも「これは源氏の戦さではない。北条が起こす戦さだ」(第二章「国府を襲って旗挙げを敢行」)と、頼朝の旗挙げ以前に、源氏の夢ではなく北条氏の夢を語っていることは注目に値する。
 政子と頼朝との結婚、頼朝の挙兵に介在していたであろうさまざまな人間関係の描写に目が離せられないが、極めつけは政子と頼朝の間柄の描写である。
政子は「こやつはただの旗だ」「この御曹司は自分のものだ」と意識的に頼朝を誘う。思いを果たすや、政子は頼朝に「わたしの婿となるほかに生きていくすべはないのです」と囁く(第二章」)と。そもそも、政子にとっての頼朝はこのような存在であったとするのである。

 政子の人生において重要な役割を演じるのは、第2代執権として鎌倉幕府を牽引することになる政子の弟・北条義時である。三郎宗時が石橋山合戦で戦死したため、宗時の弟・四郎義時が北条氏の嫡子の座に就く。義時は「台盤所」「御台所」「尼御台」「尼将軍」と呼び名は変わっても地位と権勢を保ち続けた政子と手を携え、源家の血筋を根絶やしにして鎌倉を北条がものにしていく。
 政子の後半生は正治元年(1199)頼朝の死去の第五章「頼朝の急死と二代将軍頼家」から。頼朝亡き後、梶原景時の排斥、比企氏の乱、畠山重忠の討伐、和田合戦と幕府を揺るがす事件が次々と起こる。幕府草創期に頼朝を支えた畠山、比企、和田らの一族が北条氏の策略によって次々に滅ぼされていくが、その度ごとに北条のみが肥え太っていく。その際、政子の関与は?

 政子が生きた時代の特質は何か? 一言でいえば「陰湿な暗さ」ではないか。怪しい陰謀と讒言の横行による無数の人間の酸鼻を極めた犠牲、おびただしい非業の死が繰り返された。生き延びるために、ライバルはもちろん、子が親兄弟を殺す陰惨な戦いが日常であった。鎌倉は坂東武者の血と屍の上に成り立つ修羅の府となった。そうした鎌倉にあって政子は「幕府はわれが差配す」と決意する。政子による政治支配のそもそもの始まりは宿老13人による合議制の導入を決めたことである。頼朝の未亡人で、頼家の実母である「尼御台」政子は頼朝死の3か月後に早くも、後継将軍頼家による訴訟親裁を止めて宿老13人の合議制に改めている。この13名の重臣の内、後に、梶原景時比企能員和田義盛の3人が北条氏の巧妙な策略によって命を奪われていくが、宿老13人による合議制導入が将軍頼家の外戚として比企氏が「第二の北条氏」となることを拒む北条氏の意志表明であったことは明白であった。政子は北条氏の代弁者として大きな役割を果たしていたのである。本作には、景時を討ち、頼家を廃嫡し、比企一族を滅ぼさんと、政子が義時と三浦義村に囁くシーンがある(第五章「頼朝の急死と二代将軍頼家」)。

 頼朝死後の鎌倉幕府の体制はじつに政子によって保たれていたといってよく、政子の主導権によって、頼家の排除、頼家から実朝への将軍職移譲が図られた。
 実朝の暗殺は建保7年(1219)正月27日、実朝の右大臣拝賀の式典の日。本作はその3カ月ほど前の建保6年11月(1218)、実朝が右大臣昇叙すると決定した頃、義時、義村、そして政子の三人の密議がなされ、しかも、尼御台の裁量で暗殺が決定されたとし、そのシーンでは、政子に涙がない。
 三浦氏は幕府創立以来の北条氏と並ぶ有力御家人である。三浦義村は義時の盟友で、13名の宿老の一人だが、政子在世中はついに表舞台に出られず、義時の影で暗躍した人物である。本作では、政子は「常に怪しい策謀を肚の底に隠している」として義村を信用していないが、「(実朝暗殺の)すべては三浦義村が謀ったことだろう。義村に実朝を殺せと命じたのは自分だ。嗚咽がこみあげてきた。嗚咽がたちまち号泣に変わった」(第七章「雪の鶴岡八幡宮で実朝暗殺)。

 頼家・実朝の死は謎に包まれている。夫・頼朝が鎌倉幕府を担うものと期待したであろう愛する我が子二人と実の孫のすべてを失うことになる政子は決してこの間の首謀者ではなく、彼女はその地位を利用されたとする説があるが、本作はそうした説に与しない。政子は愛児二人の謀殺の共犯者なのである。
 実朝死後の摂家将軍時代、政子は、文字通り「尼将軍」として執政した。
 政子の大目的は「われには鎌倉殿のご遺志を継いでこの鎌倉幕府を護る責務がある」「鎌倉を築き護ってきたのは、このわれじゃ」(第六章「将軍実朝のはかない夢の跡」)の言葉に表されるように、鎌倉の覇業を永遠に維持することにあったと作者は記す。史実通りであろう。
 北条政子についての観方は、両極端の観方がある。「屈指の政治家」とするものと母性愛を喪失した「悪女」とする観方である。
 本書最大の特色は、政子の呼び名を「万寿」としたことである。『蘇我物語』で「万寿御前」と呼ばれていることを踏まえたものであろう。なぜポピュラーな「政子」ではなく、「万寿」なのかと言えば、「政子」につきまとう一般的なイメージを払拭することに狙いがあったのではなかろうか。こうすることにより、北条政子とは何者かの性格付けが鮮やかな造形となった。野性の強い女性 強烈な個性。行動に対してためらいがなく、思ったままをする。「悪女」と言われた政子の別の側面が見え、政子の赤裸々な人間としての性質が抑制された筆致の中に浮かび上がってくる。
 頼朝との結びつきから承久の乱の際の演説まで、政子はベストを尽くし、そうせざるを得ない人生を歩んだが、それで良かったとするのか、後悔するのか、選択の良しあしは政子自身も本当のところはわからなかったのではないか。作者は「政子の後半生は挫折の連続であった」と記している。「挫折」という言葉の中に、権力者の孤独と母性愛という人間としての弱さを重ねたいものである。
 同時期に刊行されたアンソロジー『小説集 北条義時』(作品社)に作者は「解説」を書いている。併せ読みたい。

            (令和3年11月22日 雨宮由希夫 記)