日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第36回 武士の鑑(かがみ)

 三浦義村山本耕史)が、北条時政坂東彌十郎)にいいます。たい

「畠山追討の、御下文(おんくだしぶみ)、拝見しました」

 時政はうなずきます。

「これよりすべての御家人に送る」

「驚きました。なにゆえ畠山が鎌倉殿に反旗を」

「よう分からん。しかしあいつは今、武蔵で兵を整えておる。鎌倉殿をお守りするため、これより畠山一族を滅ぼす」

 時政は手はずを述べます。畠山の息子の重保(杉田雷鱗)を、由比ヶ浜に誘い出す。三浦は待ち伏せして、それを捕える。息子を人質に取られれば、畠山重忠中川大志)も観念するだろう。

 義時(小栗旬)は、弟の時房(瀬戸康史)を怒鳴りつけます。

「では、鎌倉殿はすでに畠山追討を、命じられたのか。どうしてそういうことになる」

 時房はいいます。

「父上に押し切られたようで」

「次郎(畠山重忠)には、いくさをする気などない」

 畠山重忠はすでに鎌倉に向かっていました。義時に、鎌倉殿と話をするようにと、説き伏せられたのです。

 由比ヶ浜で、三浦義村は、畠山重保を捕えようとします。しかし抵抗されて殺してしまうのです。畠山重忠は、二股川の向こうに留まりました。そのまま進めば、すぐに鎌倉へ入れます。息子の死を知ったようでした。時政の妻の、りく(宮沢りえ)がいいます。

「すぐに兵を差し向けなさい」

 義時は従いません。

「様子を見るべきです。このまま所領へ戻れば、兵を整え、いくさに応じるということ。しかしそうでなければ……」

 りく、は義時の言葉をさえぎります。

「そこまで来ているのですよ。すぐに兵を出しなさい」

 三浦義村がいいます。

「もしこのまま鎌倉に進めば、戦うつもりはないということだな」

 義時が答えます。

「戦うには手勢が少なすぎる」

 和田義盛横田栄司)が発言します。

「向こうが、いくさをする気がねえのなら、戦ってもしょうがねえぞ、これは」

 りく、が強くいいます。

「畠山は謀反人ですよ」

 今まで黙っていた時房が口を切ります。

「母上。政範を失った無念はお察しします。だからといって、すべてを畠山殿に押しつけようというのは良くない」

 りく、は時房に食ってかかります。

「そんなに私が憎いですか。憎いからそうやって、畠山の肩を持つ。政範がああいうことになって、いい気味だと腹の底で笑っているのだ」

 そこへ畠山の手勢が、鶴ヶ峰に陣を敷いたとの知らせが入ります。鶴ヶ峰は敵を迎え撃つには絶好の高台です。三浦がいいます。

「今の手勢で戦うつもりか。腹をくくったようだな」

 和田がいいます。

「あいつは死ぬ気だ」

 りく、が皆を見回します。

「だったら、望みを叶えてあげましょう」

 ここに至って時政が、りくに怒声を放つのです。

「それ以上、口をはさむな」時政は声を落とします。「腹をくくった兵が、どれだけ強いか、お前は知らんのだ」

 三浦がいいます。

「こっちも本腰を入れるしかなさそうだな」

 義時が時政の前に進み出ます。

「お願いがございます。私を、大将にしてはいただけないでしょうか」

 時政はうなずくのでした。

 北条政子小池栄子)は、鎧(よろい)を身につけた義時と話します。

「畠山殿は、本当に謀反をたくらんでいたのですか」

 義時はうめくようにいいます。

「父上がいっているに過ぎません」

「だったら」

「しかし、執権(しっけん)殿がそう申される以上、従うしかない。姉上、いずれ、腹を決めていただくことになるかもしれません」

「どういうことですか」

「政(まつりごと)を正しく導くことのできぬ者が上に立つ。あってはならないことです。その時は、誰かが正さねばなりません」

「何を考えているの。何をする気」

「これまでと同じことをするだけです」

 義時の陣では、軍議が行われていました。畠山は見通しの良い丘の上にいます。攻め手の動きは丸見えです。和田義盛がいいます。

「次郎(畠山重忠)は、はなから逃げるつもりなんてない。暴れるだけ暴れて名を残す気なんだよ。死を怖れない兵は怖えぞ」

 義時が立ち上がります。

「まずは次郎に会って、矛(ほこ)を収(おさ)めさせる」

 三浦がいいます。

「収めるかな」

 義時が言葉に力を込めます。

「望みは捨てん」

 その役目を、和田義盛が買って出ます。

 和田が畠山の陣にやって来ます。親しげに話します。

「お前もさ、いい歳なんだから、やけになってどうする」

 畠山がいいます。

「やけではない。筋を通すだけです。今の鎌倉は、北条のやりたい放題。武蔵をわが物とし、息子には身に覚えのない罪を着せ、だまし討ちにした。私も小四郎(義時)殿の言葉を信じて、このざまだ」畠山は立ち上がって叫びます。「いくさなど誰がしたいと思うか」そして和田を振り返ります。「ここで退けば、畠山は北条に屈した臆病者として、そしりを受けます。最後の一人になるので戦いぬき、畠山の名を、歴史に刻むことにいたしました」

 和田が訴えます。

「もうちょっと生きようぜ。楽しいこともあるぞ」

「もはや、今の鎌倉で生きるつもりはない。命を惜しんで泥水をすすっては、末代までの恥」

 和田も説得をあきらめます。

「その心意気、あっぱれ。あとは正々堂々、いくさで決着をつけよう」

「手加減抜きで」

「武士なら当然よ」

 和田義盛が義時の陣に帰ってきます。義時は皆に宣言します。

「これより謀反人、畠山次郎重忠(はたけやまのじろうしげただ)。討ち取る」

 両軍が対峙(たいじ)します。畠山重忠が、かぶら矢を放ち、戦闘が開始されます。

 畠山は義時の息子、泰時(坂口健太郎)に狙いをつけます。一騎、義時がそこに駆けつけるのです。畠山と義時は激しい戦いを繰り広げます。義時は馬上の畠山に飛びつき、地面にひきずり下ろします。刀も失い、両者は取っ組み合いになります。ついに畠山が馬乗りになり、義時に脇差しを突きつけます。しかし畠山は義時を殺しません。畠山は騎乗し、戦場を抜けていきます。顔に満足げな笑顔を浮かべていました。

 いくさは夕方には終わりました。時政が鎌倉殿である、源実朝(みなもとのさねとも)(柿澤勇人)に報告します。

畠山重忠の謀反、無事、鎮(しず)め申した」

 実朝が聞きます。

「重忠は」

 北条時房が報告します。手負いの所を討ち取られた。まもなく首がこちらに届く。実朝は精一杯の声を出します。

「ご苦労であった」

 義時は、父の時政の前に畠山の首桶を置きます。うめくようにいいます。

「次郎(畠山)は、決して逃げようとしなかった。逃げるいわれがなかったからです。所領に戻って、兵を集めることもしなかった。戦ういわれがなかったからです」

「もういい」

 と、時政が立ち上がります。義時は声を強めます。

「次郎がしたのは、ただ、おのれの誇りを守ることのみ」義時は首桶を持って時政に近づきます。「あらためていただきたい。あなたの目で。執権を続けていくのであれば、あなたは見るべきだ。父上」

 時政は行ってしまうのでした。

 義時は大江広元栗原英雄)にいわれます。時政が強引すぎた。御家人たちのほとんどは、畠山に非がなかったことを察している。どうすれば良いのかと問う義時に、大江は、罪を他の者に押しつけることを提案します。時政の娘婿である稲毛重成(いなげのしげなり)(村上誠基)の名を上げます。

 稲毛を殺すことを抗議する時房に、

「それで良いのだ」

 と、義時はいい放ちます。稲毛を見殺しにしたとなれば、御家人たちの心は、時政からますます離れる。これぐらいしなければ、事は動かない。

 稲毛は首をはねられます。義時は、畠山の残した所領の分配を、北条政子小池栄子)にやらせようとします。政(まつりごと)が混乱すると辞退する政子に、義時はいいます。

「恐れながら、すでに混乱の極みでございます。今こそ、尼御台(あまみだい)のお力が必要なのです」

「それで事がおさまるのならば」

 と、政子は承諾(しょうだく)します。政子は稲毛が時政に殺されたことをいいます。なぜ止めなかったのかと義時を責めます。義時はこともなげにいいます。

「私がそうするようにお勧(すす)めしたからです」義時は政子の前に座ります。「これで執権殿(時政)は、御家人たちの信を失いました。執権殿がおられる限り、鎌倉はいずれ立ちゆかなくなります。此度(こたび)のことは、父上に政(まつりごと)から退(しりぞ)いていただく、はじめの一歩。(稲毛)重成殿は、そのための捨て石」

「小四郎(義時)。恐ろしい人になりましたね」

「すべて、頼朝様に教えていただいたことです」

「父上を殺すなんていわないで」

「私の今があるのは、父上がおられたから。それを忘れたことはございません」

「その先は。あなたが執権になるのですか」

「私がなれば、そのために父を追いやったと思われます」

「わたくしが引き受けるしかなさそうですね」

「鎌倉殿が、十分にご成長なさるまでの間です」

 義時は時政に名を連ねた紙を見せます。

「訴状に名を連ねた御家人の数は、梶原殿の時の比ではございません。少々、度が過ぎたようにございます」

 時政はいいます。

「小四郎(義時)。わしをはめたな」

「ご安心下さい」義時は紙を破いて見せます。「これは、なかったことにいたします。あとは、われらで何とか。ただし、執権殿には、しばらくおとなしくしていただきます。執権殿が前に出れば出るほど、反発が強まるのです。どうか、慎(つつし)んでいただきたい」

「恩賞の沙汰は、やらせてもらうぞ」

 との時政の言葉に、義時は首を振るのでした。

「すべて、ご自分のまかれた種とお考えください」

 時政は大声を上げて笑い出します。

「やりおったな。見事じゃ」

 七月八日。北条政子の計らいにより、勲功(くんこう)のあった御家人たちに、恩賞が与えられます。

 

『映画に溺れて』第521回 赤頭巾ちゃん気をつけて

第521回 赤頭巾ちゃん気をつけて

昭和四十七年十月(1972)
大阪 梅田 北野シネマ

 

 一九六九年の芥川賞受賞作、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』がベストセラーになったのは私が高校生のころで、薫君シリーズは『白鳥の歌なんか聞こえない』『ぼくの大好きな青髭』『さよなら怪傑黒頭巾』と全部、出るたびに買って読んだ。今読み返しても、軽やかな文体に引き込まれ、あのころが思い出される。
 日比谷高校の三年生で受験を控えた薫君の一日の出来事。東大入試は学園紛争で中止になり、薫君は足を怪我して病院に行き、なまめかしい女医さんに手当てされ、家で友人の訪問を受け、地下鉄で銀座まで出て、といった流れにそって、頭にめぐるあらゆることを一人称で語って行く。このスタイルはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を連想させるとして、類似が取りざたされた。
 そんなことよりも、当時の私がなによりも驚いたのは、この高校生の独白という瑞々しい小説を書いた作者が、なんと三十過ぎのおじさんだったことだ。思えば、私自身が初心な高校生だったのだ。
 映画は一九七〇年に公開された。私が観たのは二年遅れで、羽仁進監督の『午前中の時間割』と二本立てだった。
 主演の薫君はオーディションで選ばれた新人の岡田裕介。その後、続編の『白鳥の歌なんか聞こえない』にも主演し、岡本喜八監督の『吶喊』やいくつかのTVドラマにも顔を出していたが、見かけなくなったと思ったら、東映の社長に就任していた。
 ガールフレンドの由実が森和代、女医さんが森秋子、母親が風見章子、エリートの兄が中尾彬、理屈っぽい友人小林が富岡徹夫だった。ほとんどせりふのない不良じみた同級生の役で出ていた広瀬正助は、このあと藤田敏八監督『八月の濡れた砂』に広瀬昌助の名で主演する。
 佐良直美の歌う主題歌もヒットした。

 

赤頭巾ちゃん気をつけて
1970
監督:森谷司郎
出演:岡田裕介森和代、富川徹夫、風見章子、中尾彬、山岸映子、四方正美、結城美栄子、広瀬正助、松村幸子、宝生あやこ山岡久乃

 

『映画に溺れて』第520回 NOPE ノープ

第520回 NOPE ノープ

令和四年九月(2022)
府中 TOHOシネマズ府中

 

 UFOを信じるか、信じないか。という議論はそもそもおかしいと思う。UFOとは未確認飛行物体の略語であり、なんだかよくわからないものが空を飛んでいるだけなのだ。それは人工的な気球や自然現象の流れ星や鳥のような生物かもしれない。
 しかるに多くの人たちがUFOといえば宇宙人と思い込んでいる。宇宙人の存在なんて信じていない人たちまでがそうなのだ。UFOとは宇宙人ではなく、確認できないものなのだから、信じるも信じないもない。
 そもそも空飛ぶ円盤が宇宙人の乗り物と結びついたのは映画やTVの宇宙SFが大量に作られてからである。私は宇宙人が登場する『スタートレック』や『ギャラクシークエスト』や『宇宙人ポール』は大好きだが、宇宙人の存在を強く主張する人たちと議論はしたくない。楽しむことと信じることははっきりと区別すべきだと思っている。
 だから『NOPE ノープ』のUFOはまさにUFOであり、ユニークでなのである。
 カリフォルニアで牧場を営む黒人の親子。映画の撮影に馬を貸し出すのが主な商売だが、ある日、父親が空からの落下物に直撃され、病院で息を引き取る。
 牧場経営は赤字続きでうまくいかず、息子は落ち込んでいる。父の葬儀で帰ってきた妹が牧場上空に浮かぶ雲の異変に気付く。雲の中になにかがある。
 それがUFOなら、撮影してTVに売り込めば大金になると兄に勧め、大型電気店で何台もカメラを買い込む。カメラ設置に来た店員が怪しみ、結局UFOの撮影と知り、協力する。さてUFOの正体は。
 これにウエスタンパークを運営する隣人の元TV俳優が絡み、彼が子役時代のチンパンジーのエピソードが挿入され、最後はUFOとの対決がホラー色豊かに展開する。
 妹役のキキ・パーマーが全体をコメディ調でひっぱるので、最後までどきどきしながら楽しめる。懐かしい悪役のマイケル・ウィンコットがいい役で出ているのもうれしい。

NOPE ノープ/Nope
2022 アメリカ/公開2022
監督:ジョーダン・ピール
出演:ダニエル・カルーヤ、キキ・パーマー、ブランドン・ペレアマイケル・ウィンコット、スティーブン・ユァン、キース・デビッド

 

書評『宮澤賢治 百年の謎解き』

書名『宮澤賢治  百年の謎解き』           
著者 澤口たまみ
発売 T&K Quarto BOOK
発行年月日  2022年8月1日
定価  2420円(税込) 

 

 

 1933年(昭和8年)9月21日、37歳で夭折した宮澤賢治には、禁欲を守った“聖人のイメージ”が浸透しているということを本書で知って驚いている。はたして賢治はその生涯を童貞で女性体験もなく終えたのだろうか。

 賢治に相思相愛の恋人がいたらしい。それも一度は結婚を考えた恋人が。その女の名を大畠ヤスさん。ヤスは賢治より4歳年下で、花巻の賢治の家からほど近い蕎麦屋の長女であった。ヤスの発見者は今は亡き在野の文学研究家・佐藤勝治で、「全くの偶然から」1975年(昭和50年)ごろ、盛岡に住んでいた勝治が発見したという。
 本書は賢治の相思相愛の恋を読み解くべく賢治の言葉と向き合ってきた記録である。著者の澤口たまみは1960年(昭和35年)、盛岡の生まれの絵本作家・コラムニストで、著者が賢治の恋愛を明らかにしようと決心したのは、2003年(平成15)のことであるという。以来20年もの長きにわたり賢治とヤスの恋を読み解くべく、賢治自身が書き残した言葉に耳を澄ませて来たことになる。

 著者は言う。「恋も女性体験も、本当のことは賢治にしかわからない。しかも賢治の恋はさまざまな事情があったにしろ、隠されてきた。いわゆる賢治研究に必要な物証や証言を集めることは困難ならば賢治の恋をその作品の中に探る他ない」と。また、「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが、賢治が恋愛を経験していないという前提に立てば、理解できない作品が数多くでてきてしまう」とも。
 「さまざまな事情」とは何か。あえて「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが」と断り書きを添えざるを得ないのはなぜか。読者は早くも著者の解き明かそうとする世界に惹きこまれるであろう。
 1921年(大正10年) 25歳の賢治は1月に家出し、東京で暮らしていたが、8月中旬、故郷花巻で療養していた妹のトシが喀血する。「スグカエレ」の電報を受け取るや、賢治は書き溜めた原稿をトランクに詰めて直ちに花巻に戻っている。
賢治とヤスが以前から知り合いであった可能性があるが、賢治がヤスを見初めたのはこのころのことであろうか。
 1924年(大正13年)4月20日に賢治が自費出版した『心象スケッチ 春と修羅』は大正11年1月6日から12年12月10日の賢治の“心象スケッチ”であるという。心象スケッチには深い意味がある。賢治は自らの作品を「詩歌」と区別し、自らの心象を「そのとおり」に写し取った「心象スケッチ」であると主張しているのである。現存する賢治の書簡は500通にのぼるが、賢治とヤスが恋愛していたと思われる大正11年から13年にかけてはぽっかりと書簡がないという。書簡を書く暇を惜しんで「心象スケッチ」の創作に打ち込んでいたのであろう。
 1922年(大正11年)1月、賢治はヤスと冬の小岩井農場を訪れていると著者は推察している(313頁)。岩手山の南麓に位置する国内最大級の民間総合農場である小岩井農場は賢治お気に入りの場所で詩や童話にも取り上げられているが、農場以外では盛岡劇場や開館したばかりの県立図書館をヤスとのデートの場にしているという。盛岡は賢治が13歳で盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学し、22歳で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業するまでのおよそ10年もの歳月を過ごした青春時代の思い出の街であり、ヤスとのデートで再訪していたことになる。
 しかし、春はやく、密かに始まっていたと推定される賢治とヤスの恋だが、二人の恋が再びの春を迎えることはなかった。前年11月27日、結核で病臥中のトシが死去したことも影響しているであろう。賢治の良き理解者であった最愛の妹・トシ享年24であった。
 ヤスとの恋が暗礁に乗り上げ、ヤスとの縁談がいよいよ壊れる1923年(大正12年)春、「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」を岩手毎日新聞に発表。著者は「時期的に見てこの3作を“失恋三部作”と呼んでいい」とする(167頁)。
結果としてふたりの恋が成就せず、ヤスは失意のままアメリカ在住の男性と結婚している。賢治との縁談については、ヤスの母・大畠潤が賢治をヤスの結婚相手として不適格と見做し反対だったことは判明しているが、これに対する宮澤家の反応については不明であるという。
 「さまざまな事情」とは宮澤家の噂、妹トシの病、賢治自らの肋膜炎などであろうか。かつての花巻の町には、宮沢家は結核の多い家系であるとの噂がまことしやかに囁かれるなど、裕福な商家である宮沢家に対する反感が少なからずあり。加えるに、賢治個人は、花巻では「貴人」ならぬ「奇人」で通っていたという。
 1924年(大正13年)4月20日、賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版している。『春と修羅』の出版を思い立った背景には、自らの恋と妹トシの病、この二つのテーマがあり、自費出版の動機の一つは、まもなくアメリカに旅立つヤスに渡すためだったと著者は推察している。(230頁)
 著者は断言する。「ヤスを好ましく思ったことが、賢治を詩人にし、『春と修羅』を書かせた一つのエネルギーになった」(57頁)と。そして、「最も重要に思っているのは、大畠ヤスが相思相愛の恋の相手であるが、それが作品にどう反映されているか」であると自問し、「賢治はヤスさんへの恋を作中に記している」と自答している。
 母音に注目して言葉の意味を見直しながら、『春と修羅』を声を出して丹念に読む ことによって、ついに、著者は発見する!
 「ヤス」の名前は「a-u」。羅須地人(らすちじん)協会の「羅須」の母音も「a-u」。「春と修羅」の「春」も「a-u」であることを。
 「韻を踏むことと恋を記すことは賢治のなかで分かちがたく結びついている」(199頁)。賢治は相思相愛の恋人ヤスさんの名前と同じ母音を持つ言葉を作中に隠して、密かに恋を記している(202頁)。
 「20年近く賢治の恋を読み解いてきたわたしの、これが一つの答えです」(204頁)と著者は控え目だが誇らし気である。
 

 賢治との恋を諦めたヤスのその後について――。
 大正13年6月、ヤスはアメリカ在住の及川姓なる男性との縁談を受け入れ、横浜港からアメリカへと旅立つ。シカゴ着は7月2日(その前日の7月1日 アメリカで排日移民法が成立している)。が、渡米からわずか3年後の1927年(昭和2年)4月13日未明、ヤスはシカゴで死去している。
 『銀河鉄道の夜』はヤスが海を渡った頃に書きだされ、最晩年まで繰り返し改稿された作品だが、『銀河鉄道の夜』には「コロラドの高原」「インデアン」などアメリカを思わせる言葉がちりばめられている部分があるとも著者は指摘している(316頁)。
 生涯を禁欲的に終えたと伝えられる従来の賢治像を打ち砕いて、著者は記す。
 「恋とは縁がなかったとされてきた宮澤賢治だが、賢治が相思相愛の恋を経験していて、その相手が大畠ヤスだったことは、広く信じられるには至っていない。けれども、賢治はヤスさんの名前を母音で踏む言葉に託して確かに書き残していた。もしも賢治の作品を、作者の意図に沿って読み取りたいと願うなら、大畠ヤスさんの存在を無視することはできない。この本でお伝えしたいのはただそれだけです」(346頁)と。
 蛇足ながら。賢治の聖人性を重視する“専門家”からの異論もあり、中には、
何でもかんでもヤスに結び付けるな、不用意な発言を控えるべきとの叱声に近い意見もあるとのことである。
 若い頃、評者(わたし)はほんの少しばかり賢治を齧ったことがあるが、当時もそして今も、賢治はユーモアに富んだ人柄で言葉遊びの好きな人で、賢治といえば、詩集『春と修羅』、童話集『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』の2冊を自費出版しただけの、生前ほとんど知られることなく生涯を閉じた無名作家、といった“知識”しか持ち合わせていなかったように思う。致命的なことは賢治の作品そのものを読んでいないことである。「賢治と大畠ヤスさんの恋をめぐる長い長い旅」の物語である本書を紐解き、賢治がユーモアに富んだ言葉遊びの好きな人であると再確信した。澤口たまみさんの呼びかけに誘われて、賢治作品を読み直す旅に出かけようと思う。

              (令和4年9月29日 雨宮由希夫 記)

第11回日本歴史時代作家協会賞 授賞式&記念トークショー&サイン会のお知らせ

授賞記念トークショー&サイン会

きたる10月8日(土)、第11回日本歴史時代作家協会賞 授賞式&記念トークショー&サイン会を行います。

詳細ならびにお申し込みは下記リンクより八重洲ブックセンターのサイトへどうぞ。

 

www.yaesu-book.co.jp

新会員・鳴海風さん新刊

新会員・鳴海風さんの新刊です。今月2冊が店頭に並んでおります。

以下、著者コメント:

 こんにちは。
 今月2冊、新刊を出しました。
 厚かましいですが、PRをさせてください。

 1冊は、執筆に5年かけた小説です。幕末の会津若松が舞台です。天文暦学がふんだんに出てきます。難しそうに思うかもしれませんが、そうではありません。
 武家の母と息子の葛藤がテーマです。私自身の母との思い出が投影されています。

 

 もう1冊は、日本数学協会の『数学文化』で7年間連載した和算小説です。
 有名な遊歴算家・山口和の2回目の遊歴の旅が『奥の細道』と重なっていて、彼が残した『道中日記』には、歌枕のスケッチや歌碑、句碑の筆写がたくさん残っていて、数学だけでなく、古典や歴史に興味があったことが分かります。

 

読者の皆様、よろしくお願い致します。

※会員の新刊・既刊案内を行っております。ウェブ担当へのメールまたはコメント欄書き込みにて連絡をよろしくお願い致します。

『映画に溺れて』第519回 スワンソング

第519回 スワンソング

令和四年六月(2022)
京橋 テアトル試写室

 

 ウド・キアといえば、一九七〇年代、『悪魔のはらわた』のフランケンシュタイン博士と『処女の生血』のドラキュラ伯爵が強烈に印象に残っている。アンディ・ウォーホル監修、ポール・モリセイ監督の古典的オカルトの斬新な再生。狂気を秘めながら知性と教養を感じさせる品のいい美男ウド・キアあっての成功だった。
 文芸ポルノ『O嬢の物語』では美女コリンヌ・クレリーをいたぶる倒錯した恋人役。その後『ブレイド』『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』などの吸血鬼もの。ラース・フォン・トリアー監督作の常連。最近では『アイアン・スカイ』の月面のナチス総統。オカルトやSFや異色作で個性を発揮し続けている。
 そのウド・キアがゲイの老人を嬉々として演じているのが『スワンソング』である。
 パットは老人ホームで退屈していた。他の入居者とは口もきかず、部屋で黙々と紙ナプキンを折りたたむ日々。認知症も少しは進んでいるが、たまに隠れて煙草を吸うのが楽しみ。銘柄はモア。
 そんなパットのところに弁護士が訪ねてくる。町の名士で富豪のリタが亡くなり、遺言でパットに死化粧してほしいとのこと。かつて、パットは町で一番の美容師だった。リタはお得意様であり親友でもあったが、パットの恋人デビッドがエイズで死んだとき、葬式に来てくれなかった。パットは店を閉め、リタとは疎遠になっていた。
 なんでいまさら。弁護士の申し出を断ったパットだったが、思い直して老人ホームをそっと抜け出す。ジャージ姿で所持金もわずか、葬儀場までの道を徘徊老人のようにふらふらと歩いていく。スーパーで万引きしたウイスキーをベンチで飲みながら昔を回想したり、行く先々で帽子や洋服を調達して、徐々にお洒落なゲイに変身。常連だったゲイクラブが今夜閉店と知り、飛び入りで最後のステージにあがり、大喝采
 怪奇映画でもなくSFでもない。町のあちこちを思い出を求めて歩き続けるロードムービー。こんなウド・キアも悪くない。

スワンソングSwan Song
2021 アメリカ/公開2022
監督:トッド・スティーブンス
出演:ウド・キア、ジェニファー・クーリッジ、アイラ・ホーキンス、ステファニー・マクベイ、マイケル・ユーリー、リンダ・エバンス

『映画に溺れて』第518回 チャイナタウン

第518回 チャイナタウン

昭和六十三年六月(1988)
荻窪 荻窪オデヲン座

 

 アメリカ映画で時代劇といえば西部劇だが、戦前の禁酒法大恐慌の時代を描いた作品も一種の時代劇のような気がする。
 当時、パルプマガジンで活躍したダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説。登場する私立探偵は同じ探偵でも英国の上品なシャーロック・ホームズとは違い、かなり荒っぽいのでアクション映画に向いている。
 ジャック・ニコルソン主演、ロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』はそんな時代が背景のハードボイルドである。
 ロサンゼルスの私立探偵ジェイクに水道局長モーレイの妻から夫の浮気捜査の依頼が来る。さっそく引き受け密会現場の写真を夫人に渡すと、タブロイド紙にそれがすっぱ抜かれる。
 翌日、モーレイ夫人のエブリンがジェイクを訴える。が、浮気調査を依頼した女とは別人で、ジェイクは偽モーレイ夫人に騙され、モーレイのスキャンダルを暴いてしまったのだ。
 その後、水源でモーレイの溺死が確認される。事故か自殺か。エブリンはジェイクへの告訴を取り下げ、夫の死の真相を究明するよう依頼する。
 局長モーレイは実業家のノア・クロスが推し進めるダム建設に反対していた。ダムは不要であり、かえって災害の危険を増すと。が、モーレイ夫人エブリンの父親こそがノア・クロスなのだ。調査を進めるジェイクを暴漢が襲う。
 一九三〇年代のロサンゼルスの町を当時の車が走り、当時のおしゃれな服装の人々が歩く。まさにコスチュームプレイである。
 エブリン役のフェイ・ダナウェイが妖しく美しい。悪役クロスがジョン・ヒューストン。ジェイクの鼻をナイフで切る暴漢をロマン・ポランスキー監督がうれしそうに演じている。
 この映画を観たのは、今はなき荻窪オデヲン座の名作特集だった。

チャイナタウン/Chinatown
1974 アメリカ/公開1975
監督:ロマン・ポランスキー
出演:ジャック・ニコルソンフェイ・ダナウェイジョン・ヒューストンダイアン・ラッドバート・ヤング、ペリー・ロペス、ジョン・ヒラーマン、ダレル・ツワーリング、リチャード・バカリアン

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー14

 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー14

『秀吉を討て 薩摩・明・家康の密約』(松尾千歳、新潮新書

 

 慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いで、石田三成を中心とする西軍は、徳川家康に率いられた東軍に敗れた。
 その関ヶ原で、目前の合戦には参加せず、ほぼ勝敗が決してから敵中突破を決行したのが、島津義弘を大将とする島津軍である。敵中に活路を見いだすという前代未聞の退却戦を決行した島津軍だったが、負け戦に変わりはない。
 だが、そんな島津だが、戦後、所領は安堵された。

①    事実上の処分なしというべきで、所領を没収された宇喜多秀家長宗我部盛親立花宗茂(後に復活)等に比べて余りにも優遇されていないだろうか。(合戦に参加しなかった毛利輝元も、ほぼ三分の一に減じられている。)
②    さらに、徳川家康は、慶長11年(1606)に島津義弘の子で(兄良久の養子となって)当主となっていた島津忠恒偏諱を与え「家久」と名乗らせている。「家」は徳川宗家の通字であり、御三家、前田家にも与えられていない。島津家への優遇というべきだろう。
③    そして、翌慶長12年には、島津氏の琉球出兵を認めている。これは事実上の琉球(12万石)加増というべきで、他に似たような事例はなく、これも優遇というべきである。

 島津の勇猛を恐れた、あるいは辺鄙な薩摩の処分などどうでもよかった等の説はある。しかしながら、それでもこれほどの優遇は、奇異というべきで、筆者は、その理由は定かではないとしながらも次のような考察を行っている。

①    まず、家康は反豊臣であり、朝鮮出兵を止めるために島津義久と手を組んでいたのではないか、文書などには出てこない裏の繋がりがあった可能性がある、という。
②    次に、家康は島津が明と太いパイプを持っていて、明との国交回復は、島津を頼らざるを得なかったのではないか。(家康の死により、明との国交回復方針は破棄される。)
③    そして、島津氏に琉球出兵を許可したのも、より明との太いパイプを持つ琉球を島津の支配下におき勘合貿易を実現しようとしたのではないか、というのである。

 室町時代足利義満(一時中断後、足利義教から再開)に始まった明との朝貢貿易は、勘合貿易として足利氏から細川氏大内氏へとその主体を変えるが、いずれも戦国時代を生き残れなかった。(細川幽斎の細川家は、細川家の末流で、かつ没落しており、そもそも貿易に従事していなかった。)
 徳川家康は、明との勘合貿易の復活、つまり国家間の貿易実現を目指していた。そのために島津氏を優遇したのではないか、というのである。
 島津氏の支配する薩摩、大隅、日向の三州を中心とする南九州各地は、古くから大陸との交易が盛んで、中国等の異国人が立ち寄り、あるいは居住していた。その名残が「唐人坊」や「唐坊」などの地名として今日も残っている。(坊津は、日本三津の一つとして有名。)
 島津義久によって三州が統一された後は、許儀後、郭国安など島津氏に仕える中国人もいた。さらに、藤原惺窩の見た日記から薩摩の港に異国船が停泊し、異国人が町を歩き回り、異国へ渡ろうとする者たちが集まっていた光景が、南九州では当たり前であったと紹介している。
 そうしたなか、朝鮮出兵を知った許儀後の知らせにより明から薩摩に工作員が派遣され、明と島津が合力する計画があったというのである。この計画は、筆者の独創というわけではなく、すでに先行する研究が文中で紹介されている。
この計画に家康も加わっていたのではないかというのが筆者の主張で、それがタイトルに反映されているのである。 

 本書は、新書という性格上、朝鮮出兵を巡る明と島津そして家康との合力計画から明との交易を目指す家康と義久の思惑の違い、さらには海洋国家としての薩摩を総論的、概説的にに述べているが、その構想、叙述は魅力的であるばかりでなく、夢がありロマンがある。
 ほぼ戦国末と明治維新のときしか話題となることのない島津氏と薩摩だが、こうした新たな視点は、島津氏や薩摩に対してさらなる興味をかきたてずにはおかないだろう。
 東シナ海を地中海のように「環シナ海」として周りの国々を見ると、さらに島国日本を巡る歴史はより豊穣なものになるのではないかとの認識を新たにする本である。
 日本からみれば辺境、僻地の薩摩だが、環シナ海としてみれば、外国への玄関口となる。これだから、歴史は面白い!

 

『映画に溺れて』第517回 アンタッチャブル

第517回 アンタッチャブル

昭和六十二年十月(1987)
新宿歌舞伎町 新宿プラザ

 

 私のブライアン・デ・パルマ初体験は一九七五年公開の『ファントム・オブ・パラダイス』で、これはわが生涯に観た映画の中でも上位に入る。その後、『キャリー』『悪魔のシスター』『愛のメモリー』『フューリー』『殺しのドレス』と見続けたが、ホラー色の強いカルト系の監督というイメージが強かった。
 そのデ・パルマ禁酒法時代のシカゴを背景にギャングと官憲の闘争を重厚に描いたのが『アンタッチャブル』である。最初の場面、町の食堂に幼い女の子が鍋を下げてお使いに来る。お母さんが風邪をひいたの。店では胡散臭い男が店主と口論している。どうしても酒を買わないのか。おまえたちのビールはいらない。そうか、わかったよ。捨てぜりふを残して男が立ち去ると、カウンターに鞄が置き忘れてある。女の子は気づいて、鞄を手に「おじさん、忘れ物」と言いながら男を追う。と、とたんに鞄が爆発して、店は破壊される。カポネの酒を断ったら、こうなるという警告だった。
 酒の密売と暴力によって暗黒街のトップとなったアル・カポネ財務省から酒類取締官エリオット・ネスが警察に出向。が、張り切って突入した手入れは失敗。賄賂と脅しで警察はカポネの手先となっていた。失意のネスは偶然出会ったパトロール警官マローンに協力を頼む。正直で正義感が強く汚職と無縁なために出世とも無縁。警官はだれも信用できない。が、あんたは信用できる。マローンは言う。戦争となったら、やつらはとことんやるぞ。カポネと本気で戦う覚悟があるのか。
 これにイタリア系の新人警官ストーンと本省から派遣された財務官のウォレスが加わり、四人でカポネの組織に挑むのだ。
 カポネのロバート・デ・ニーロとマローンのショー・コネリー。存在感のあるベテランふたりにネスのケビン・コスナー、ストーンのアンディ・ガルシア、ウォレスのチャールズ・マーティン・スミス。配役もまた素晴らしい。

 

アンタッチャブル/The Untouchables
1987 アメリカ/公開1987
監督:ブライアン・デ・パルマ
出演:ケビン・コスナーショーン・コネリーアンディ・ガルシア、チャールズ・マーティン・スミス、ロバート・デ・ニーロ、ビリー・ドラゴ、チャード・ブラッドフォード、パトリシア・クラークソン