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書評『異状死』

書名『異状死』   
著者 平野久美子
発売 小学館
発行年月日  2022年10月4日
定価  ¥900E

 

「異状死」とは聞きなれない奇妙な言葉である。はじめ「イジョウシ」と聞いて、「異常死」という漢字を思い浮かべたものだ。そもそも「異状」とは「異常な状態」意味するから「異常死」でもいいわけだが。言葉は大切である。一般の人々が抵抗なく受け入れられる呼び名があればいいと思う。わたしは「イジョウ死」で本稿を綴りたい。
施設など病院以外での死亡(自宅であっても)の、持病ではなかった死因の場合、基本的に《異状死》とされるが、具体的にはどんな死をさすのか。
「イジョウ死」扱いされる範囲はとてもひろく、災害死から自殺、子どもの虐待死 多岐にわたる。風呂場での溺死、感染病にかかっての突然死、ディサービスやショートステイ先の些細な事故の原因での死も「イジョウ死」である。 独居孤独死が「イジョウ死」であるとされるのは理解できるが、自宅での老衰で眠るような大往生でも、かかりつけ医が死後診断をしてくれなければ「イジョウ死」とされてしまうとのことである。
それに加えて、「イジョウ死」と「正常死」との決定的な違いは、警察が介入してくることだという。「イジョウ死」扱いになると犯罪を疑う警察が介入し、遺族は事情聴取され、遺体は検視、検案を受けるのである。
 警察がやって来て何が起こるのか?親族が「イジョウ死」となった場合、遺族の貴方にはどういう事態が待ち構えているのか?
 故人の年金額、貯蓄残高、金融資産、保険加入の有無などが「事情聴取」され、「検視(検死)」が執行される。「検死」というと、殺人事件や事故死、医療ミスによる死亡などの「事件」の話に聞こえがちだが、実態は“ごく普通の死”での検視が大半だということである。事件性が確認できず、それならあえて解剖はしなくてもよいことになるがその判断は医師ではなく、警察の手に委ねられている。要するに、貴方は被疑者のような扱いを受けるのである。
 こうした驚きの事実を淡々と、そしてこれでもかこれでもかと記すのは平野久美子である。

 平野久美子と言えば、日本とアジア、とりわけ台湾との関係を問い、「台湾の心」を描く作品が多いことで知られるノンフィクション作家である。主な作品としては、『テレサ・テンが見た夢・華人歌星伝説』(晶文社 1996年5月刊)、『淡淡有情 日本人より日本人』(小学館 2000年3月刊)、『トオサンの桜―散りゆく台湾の中の日本』(小学館 2007年2月刊)、『牡丹社事件 マブイの行方 日本と台湾、それぞれの和解』(集広社 2019年5月刊)、『トオサンの桜―台湾日本語世代からの遺言』(潮書房光人新社 2022年6月刊)などがある。
 私は『テレサ・テンが見た夢・華人歌星伝説』以来の読者であるが、平野が「イジョウ死」をテーマにした作品を上梓すると聞いた時、少なからぬ“違和感”を覚えたものである。「平野さんが「イジョウ死」とはなぜ」と。
それまでは「イジョウ死」について、一般人同様、死因究明とか解剖という単語は犯罪に限ったことでテレビドラマや小説の中のものくらいにしか思っていず、何の知識もなかった平野が「イジョウ死」にのめり込み執筆に至る動機は2年前の御母堂の死がきっかけであったという。
 2020年(令和2年)、この年、平野は一年間に御母堂、御子息の義父、従兄弟の伴侶の御3方を亡くし、皆が「イジョウ死」扱いにされたということである。
 家族、親族の死亡から火葬までの間に理解に苦しむことにいくつも遭遇し、犯罪捜査に居合わせたような違和感、恐ろしい犯罪や冤罪とは異質のある種の怖さを感じたという。「分からないことだらけで、真っ暗闇を手探りで進むような体験をする。唖然、呆然の日々を送った」とある。著者が大いに衝撃を受けたことは想像するに難くない。
が、ここで終わらない、終わらせないのが平野の平野たるゆえんである。
 なぜ警察が最初にやってきて捜査の対象として事情聴取や検視をするのか?
「何か変だ」との己に根ざした疑問が、これは見過ごせない問題だと気づくにさしたる時間は要らなかった。
 世の中の問題に斬りこんでいく平野のジャーナリスト魂が疼き始めるのである。自分の体験から出発したごく一般人であるの目線から疑問はやがて遺族や法医学者、医師、警察の嘱託医、在宅看取りを行う医師、命の最後の現場に関わっている専門家たちへのきめ細かい取材となっていく。
 取材の過程で浮上したもう一つのテーマは日本の死因究明制度で、日本の死因究明がいつまでも警察主導で行われることは、それこそ「何か変」ではなかろうかと、摩訶不思議な制度の現状究明に挑んでいる。
「イジョウ死」は、いつ、誰の身に降りかかっても不思議ではないほど日常生活に潜んでいる「一つの死の様態」であるにもかかわらず、「イジョウ死」の現状について国民もほとんど無関心で、知らないことが多すぎるということを私は初めて知った。身につまされ絶句した。他人事では済まされない。
 「イジョウ死」どころか、「多死社会」、「同居孤独死」についても無関心、無頓着であった。
 2030年問題とされる多死社会。戦後のベビーブーマー(団塊の世代=1947年~49年に生まれた戦後世代)たちが80歳代後半となり次々に亡くなり人口減少が加速する2030年代の状況は「多死社会」と呼ばれる。1949年(昭和24年)生まれの私にとっては他人事どころか我が身の問題である。
 本書を脱稿して、著者は「イジョウ死」について関心が低い現状を踏まえ、他人事と思わずに、介護している人、されている人も読んで欲しいと訴えている。
本書は「イジョウ死」の遺族となると、どれほど面倒なことが待ち受けているかという体験談から入っているから、読み応え十分である。
 御両親がどちらも「イジョウ死」と診断された著者自身が遺族として体験したことをもとにしたリポートであるから、自身や家族が「異状死扱い」されないためにはどうすればいいのかその対策も案じられている。「イジョウ死」扱いになるかならないかの分岐点は、第一報を「どこに入れるか」によってほぼ決まるという。そのために大切なことは、かかりつけ医に日ごろから定期検診をお願いし、家族と見守ってもらうことであると。
 人生最後に「異状死」という結末が待っているとしたら、目も当てられない。
 自分が亡くなる時のことも事前に打ち合わせをして、どんなふうに“人生を卒業したいか”、自分が人生の終末期にどんなケアを望むのか、日頃から遺志をしっかり伝えあうことは大切だ。日頃の心構えとして、元気なうちに自分や家族の死に対して、心の準備や覚悟を養ったおくことを本書より学んだ。平野さん、ありがとう!
 
             (令和5年2月18日 雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第555回 フレンチ・コネクション

第555回 フレンチ・コネクション

昭和四十七年四月(1972)
京都 三条河原町 東宝行楽

 

 ジーン・ハックマンは名優だが、昔はあまり好きではなかった。一番最初に観たのが一九七一年公開の西部劇『さらば荒野』で、粗野で下品で横暴な差別主義者の田舎の金持ち。あの当時、私の周囲にうっとうしい中年親父たちがいたが、ハックマンは連中のイメージに近かったのだ。その後、『フレンチ・コネクション』『俺たちに明日はない』『ポセイドン・アドベンチャー』『スケアクロウ』と観たが、映画はどれも面白いのに、相変わらずうっとうしいハックマンを好きにはなれなかった。
 一九七〇年代の初期、イーストウッドの『ダーティハリー』がヒットしたので、その人気にあやかるためか、スティーヴ・マックィーンの『ブリット』やジーン・ハックマンの『フレンチ・コネクション』が作られた。
 ハックマン演じるニューヨーク市警のドイル刑事は仲間からポパイと呼ばれ、麻薬捜査が専門。相棒のルソーがロイ・シャイダー
 アメリカでマフィアの資金源となっている違法のヘロインがフランスのマルセイユに本拠のある組織から大量に流れ込むことを知ったドイルとルソーはフランス組織の殺し屋から命を狙われる。
 殺し屋が乗るニューヨークの高架電車を自動車で追跡するドイル刑事のカーアクションが見事。一般市民が銃弾に次々と倒れる場面の悲惨さ。
 フェルナンド・レイ扮する上流紳士風の麻薬組織のボスを地下鉄で追い詰めるシーンも忘れられない。あのステッキで地下鉄の扉を開ける場面がかっこよかった。
 ジーン・ハックマンは歳をとっても嫌な役が多かったが、『ミシシッピー・バーニング』『カナディアン・エクスプレス』『エネミー・オブ・アメリカ』などでは、少しは魅力的な善人役も演じている。

 

フレンチ・コネクション/The French Connection
1971 アメリカ/公開1972
監督:ウィリアム・フリードキン
出演:ジーン・ハックマンロイ・シャイダーフェルナンド・レイ、トニー・ロビアンコ、フレデリック・ド・パスカル、マルセル・ボズフィ

 

『映画に溺れて』第554回 ダーティハリー3

第554回 ダーティハリー

平成二年三月(1990)
池袋 文芸坐

 

ダーティハリー2』と『ダーティハリー3』は池袋文芸坐クリント・イーストウッド特集の二本立てで観た。当時の文芸坐文芸坐、文芸地下、ルピリエと三館あり、新作を少し遅れて二本立てで上映するか、かつての古い話題作の特集上映を行うかで、名画の宝庫であったのだ。その頃、私は文芸坐の会員になっており、ほぼ毎週のように通って安い料金で大量に観ていた。
ダーティハリー3』ではハリーの相棒に女性刑事が選ばれる。
 サンフランシスコ市では、女性の社会進出に力を入れ、警察内部でも人事課の事務職の女性職員ケイトを刑事に推薦する。が、その採用面接に同席したハリーは現場に疎い女性の刑事進出に反対する。
 だが、上司に反感を持たれてハリー自身が人事課の事務職に異動させられる。
 その頃、兵器工場の軍事トラックが、路上で超ミニスカートの美人ヒッチハイカーに呼び止められ、結局、彼女を乗せたことで、その仲間に襲われ、殺害されて特殊兵器を奪われる。
 兵器を奪った一団はテロリストを名乗り、市を脅迫する。
 警察はハリーを現場に復帰させるが、その相棒に選ばれたのが、ハリーが難癖をつけたケイトであった。
 だが、いっしょに捜査するうちに、ハリーはケイトの生い立ちを知り、その有能さを認めることになる。ふたりは力を合わせて、金目当てのインチキ革命組織と戦うことになるのだが、このシリーズでは毎回ハリーの相棒が殉職することになっている。ケイトの運命はいかに。

ダーティハリー3/The Enforcer
1976 アメリカ/公開1976
監督:ジェームズ・ファーゴ
出演:クリント・イーストウッド、タイン・デイリー、ハリー・ガーディノブラッドフォード・ディルマン、ジョン・ミッチャム、デヴァレン・ブックウォルター、ジョン・クロウフォード、サマンサ・ドーン

 

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー16

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー16

松平定信」(人物叢書)(高澤憲治、吉川弘文館

 

 江戸時代の三大政治改革といえば、「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」ですが、その中で「寛政の改革」を主導した人物が松平定信です。本書はその定信の評伝です。
 吉川弘文館刊、日本歴史学会編集の人物叢書の一巻ですが、この人物叢書の歴史は古く、本書も新装版となります。
 松平定信といえば、8代将軍徳川吉宗の子田安宗武の子(吉宗の孫)で、将軍職を継ぐ可能性もありました。しかしながら、田沼意次の策謀で、奥州白河藩松平定国の養子となり、後、白河藩政の手腕を買われて、いきなり老中首座となり、改革に着手したといわれています。
 そのため、田沼意次と田沼家に対して執拗な報復を行ったとみられがちですが、本書では田沼意次との確執については、ほとんど触れられていません。事実関係を述べるだけです。避けたのか、それとも史料から確認できないからでしょうか。
 むしろ、定信の事績や行動とそのことに対する周りの評価を織り込みながら、定信という人物について書かれているというべきでしょうか。
 例えば定信は、天明の打ち壊しの影響で、一揆等民衆反乱を恐れて農村復刻に努めたようです。そのことが農政を重視する政策につながったと筆者は見ています。田沼意次重商主義への単なる反発ではなかったということでしょう。
 この農村復興政策は、寛政の改革の中心の一つでもあり、有能な代官の起用、御家人の手付起用等につながっていきます。
 代官を描いた小説を私は知りませんが、最近は新書、専門書も出版されており、モチーフとして面白いのではないでしょうか。今後、機会があれば、代官について書かれた新書、専門書についても取り上げてみたいと考えています。
 また、この頃は、農村の荒廃による歳入不足、生活の華美等からくる財政難にどこの藩も農民もあえいでいました。そのため、農村復興による年貢増加(収入強化)を図ったという側面もあるようです。
また定信は、質素倹約を奨励するのですが、当然、家臣たちは反発します。誰よりも定信は、そうした家臣たちの反発を恐れていたようで、そのための種々の施策を行っていくのですが、それは本書をお読みになっていただければと思います。なるほどと思うのかそれとも……。為政者という存在の苦悩と栄光等人物理解に役立つことでしょう。
ちなみに定信は、藩政の改革に服部半蔵という人物を月番(家老のことを白河藩ではそう称した)に抜擢して行うのですが、この人物は名の通り、かつての伊賀忍者の総帥服部半蔵の子孫です。それだけでも興味深いところがあります。(ただし、本書は定信の評伝ですので、服部半蔵について深く触れているわけではありません。)
 寛政の改革は、天保の改革と異なり、幕府の延命につながったという評価があります。政治の改革とは、昔も今も、要するに保守回帰なのですが、田沼時代の開明性が強烈だったために余計そのように感じるのでしょうか。
 定信は迫り来るロシア等の外国からの脅威に対して、「鎖国」」は「祖法」であるとして、開港の要求を退けるのですが、この「祖法」という考え方は、その後、幕末まで維持することとなります。しかしながら、定信自身は、外国の脅威(圧倒的な武力差)を認識していたようです。そのため、江戸湾の防備を担うのですが、いかんせんそのための財政捻出に苦しむこととなります。本書では、そのこともよく描かれています。
 同じ接続詞が多く、別章で同じことを繰り返したりと文章は決して読みやすいとは言えませんが、それゆえに章ごとに日にちを分けて読んでも大丈夫だろうと思います。

(追記)
松平定信が、柳生久通を江戸町奉行から勘定奉行に起用し、勘定所改革等を断行しようとしたことは間違いないようなのですが、残念ながら本書では、そこまで触れられていませんでした。勘定奉行就任後の柳生久通については、なお、調査中です。

 

『映画に溺れて』第553回 ダーティハリー2

第553回 ダーティハリー

平成二年三月(1990)
池袋 文芸坐

 

 クリント・イーストウッドがサンフランシスコの凄腕暴力刑事ハリー・キャラハンを演じるダーティハリーは人気があり、シリーズ化された。
 第二作『ダーティハリー2』の冒頭ではギャングのボスの裁判場面がTV放送されている。殺人、脅迫、横領、汚職、あらゆる凶悪事件に関わりながら、証人が死亡し、悪徳弁護士の力で証拠不十分の無罪となるボスがTVでうれしそうな場面が写る。それを苦々しい顔で見ている初老の男。部屋には警官の制服が掛かっている。
 裁判所を意気揚々と出てくるボスと弁護士。取り巻くマスコミ記者たちを追い払う用心棒の子分。
 マスコミを避け、子分の運転する車に乗り込むボスと弁護士。道路を走る。それを密かに追う白バイ警官。車に追いつき、交通違反で路上に停止させる。
 警官を見下す弁護士。俺たちを停めたりしたら、出世はできないぞ。とでも言いたげである。突然、白バイ警官は銃を取り出し子分、弁護士、ボスを射殺する。
 その後、官憲の力の及ばない犯罪組織のトップたちが次々と殺される。
 警察幹部から暴力刑事として現場から遠ざけられていたハリー・キャラハンが上司から現場復帰を命じられ、悪人抹殺の犯人を捜査するよう命じられる。
 ハリーは警察内の射撃大会でいつも優秀な成績だったが、今回の大会では銃の腕の優れた若手白バイ警官たちと知り合う。
 そして、彼らこそが、悪人狩りの警官グループだと目星をつける。
 今回もまた、ハリーの相棒の黒人警官が殉職する。
 ハリーは悪人狩り警官のリーダーを推定し、逆に追い詰められるが反撃に出る。
 この映画が公開された一九七〇年代、日本ではTV時代劇『必殺』シリーズに人気があり、白バイ警官の悪人狩りは『必殺』に通じていたように思う。

 

ダーティハリー2/Magnum Force
1973 アメリカ/公開1974
監督:テッド・ポスト
出演:クリント・イーストウッドハル・ホルブルック、フェルトン・ペリー、デヴィッド・ソウル、ロバート・ユーリック、キップ・ニーヴェン、ティム・マシスン、ミッチェル・ライアン、クリスティーン・ホワイト

 

森川雅美詩集のクラウドファンディング

森川雅美さんの新詩集『疫病譚』のクラウドファンティングが始まりました。

https://motion-gallery.net/projects/morikawa-poets?fbclid=IwAR0KWdBB6O-vXWHxMDeknAMLudUzYZMqUwQ2lHo_HUiiKMMaPPhSlN5jACg

上記リンク先にて購入&応援よろしくお願い致します。

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー15

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー15

江戸幕府御家人」(戸森麻衣子、東京堂出版

 

 藤沢周平が、「黒い縄」(『別冊文藝春秋』121号)で、第68回直木賞候補となったとき、選考委員の村上元三が、
「背広に丁髷を乗せたような作品で、会話にも現代語がやたらに出てくる。現代語がいけないというのではないが、不自然さを感じさせるところ、やはり作者の不用意であろう」(注)
 と、評している有名な話があります。
 第68回とは、昭和47年(1972年)下半期で、今から30年以上前のことです。氏は次の第69回で見事に直木賞を受賞するのですが、その後も海坂藩の中間管理職、平サラリーマンとでもいうべき下級藩士(剣の腕は確かですが)を描き続けました。そのため、サラリーマン層の圧倒的な支持を得たように思います。
 しかしながら、平成9年(1997年)に氏が亡くなって後は、そのような作品は出ていない気がします。(葉室麟の西国の藩を舞台にした作品は、少し藤沢周平とは異なる気がするのは私だけでしょうか。)
 藤沢周平は、海坂藩というどちらかといえば、現在のローカル企業の中間管理職、平サラリーマンを主人公としましたが、幕府すなわち中央官庁の平公務員を主人公に発表された作品がありました。青木文平の「半席」「励み場」がそれです。ただ残念ながら、氏は物語に執着しない作風のためか、興味あるテーマが変化したのか、長続きしなかったように思います。
 とはいえ、氏の描いた御家人の世界は、ノンキャリア公務員ばかりでなく中小企業、大企業の平サラリーマンに通じる世界があるように思われます。
 特に御家人については、その実態がよく掴めず、リアルさを追求しようとすればするほど限界がありましたが、最近、御家人についても研究が進み、少しずつ実態がわかるようになってきました。本作もそのような貴重な専門書の一つです。
 歴史は英雄、豪傑が造ってきたものではなく、名も無き民衆の営為によりできあがったものだとは、民衆史の立場ですが、なにもそのように畏まらなくとも、私たちは今を生きて、過去の似たような境遇にいた人物がどのように暮らしてきたのか、に興味をたくましくするものではないでしょうか。
 今まで描けなかった(描かなかった)御家人の豊穣な世界を創造(想像)することは、小説を書く書かないにかかわらず楽しいもののように思います。
 ちなみに、本作の帯には「職務・生活・身分から実態を探る」とあります。462ページとボリュームがありますが、まずは、興味のある役職から読んでみてはいかがでしょうか。
(文中、敬称を省略しました。)

(注) 『直木賞のすべて』(https://prizesworld.com/naoki/ichiran/ichiran61-80.htm#list068)より引用(大元は、『オール讀物』昭和48年(1973年)4月号掲載の選評)

『映画に溺れて』第552回 異動辞令は音楽隊!

第552回 異動辞令は音楽隊!

令和四年八月(2022)
立川 TOHOシネマズ立川立飛

 

 阿部寛主演の異色刑事ものである。地方都市で独り暮らしの老人を狙った悪質で残忍な連続強盗事件が発生する。役場から老人に向けて犯罪防止の電話がかかる。家庭内に大金や貴重品がある場合は危険なので、きちんと保管しているかどうかとの問い合わせなのだ。
 それに答えた直後、老人宅に宅配便を装った強盗団が侵入し、老人に重傷を負わせて金品を奪う。つまり役場からの電話は犯罪組織からの偽電話だった。
 事件解決のなかなか進まない警察内部で、捜査一課の成瀬刑事は現場経験が豊富であり、犯人グループとの接触の疑いある若者の住居に侵入し、これを強引に締め上げて、犯行を白状させようとする。規則にとらわれない成瀬のはみ出しぶりは、まるでクリント・イーストウッドの暴力刑事ダーティハリーを思わせる。
 令状も取らずチームワークを無視する成瀬に対して署内からも不満の声があがり、日頃の反抗的な態度に怒りを覚えた県警本部長の五十嵐は、成瀬を呼び出し、捜査一課を解任し、異動を命じる。
 その異動先が驚いたことに山の教会を拠点とした警察音楽隊なのだ。少年時代、村祭りで太鼓を叩いていた成瀬は、音楽隊のドラムを担当することになる。音楽隊ブラスバンドのメンバーは犯罪現場とは無縁の交通巡査やパトロール警官たちで、捜査一課から離れた成瀬は落ち込む。
 高校生である成瀬の娘は仕事一筋で家庭を顧みない父を憎んでいたが、高校の学園祭では音楽グループに属しており、警察音楽隊に異動した父に少し興味を持つ。
 成瀬は演奏会などで隊員たちと心を開き、だんだんと音楽が好きになるが、町では連続強盗事件は終わらず、音楽隊のファンの上品な老婦人が強盗団に襲われ、命を落とす。怒り狂った成瀬は、果たして音楽隊員でありながら、強盗団を追い詰めることができるのか。
 強盗団の被害に遭う老婦人がかつて昼メロのヒロインだった長内美那子である。成瀬の母が倍賞美津子、五十嵐本部長が光石研、音楽隊の先輩が渋川清彦と脇にはベテランが揃う。

 

異動辞令は音楽隊!
2022
監督:内田英治
出演:阿部寛清野菜名磯村勇斗高杉真宙、板橋駿谷、モトーラ世理奈、見上愛、岡部たかし、渋川清彦、酒向芳、六平直政光石研倍賞美津子、長内美那子

 

書評『友よ』

書名『友よ』               
著者 赤神諒
発売 PHP研究所
発行年月日  2022年12月21日
定価  ¥2100E

 

 

「一領具足」と呼ばれる半農半士を主力とした軍を率い、四国に覇をとなえた長宗我部(ちょうそがべ)元親(もとちか)を主人公にした小説は司馬遼太郎『夏草の賦』(1968)、宮地佐一郎『長宗我部元親』(1997)、天野純希『南海の翼―長宗我部元親正伝』(2010)など数多いが、その子・信親(のぶちか)を主人公にした小説は珍しい。

 天正3年(1575)夏、土佐一国を統一した元親は10月、信長に使者を送り、四国征討のことをつげ、かつ嫡男弥三郎の烏帽子親となってくれるよう依頼。弥三郎は信長から偏諱の「信」を拝領して「信親」を名乗る。
 信親は六尺一寸(約1.85m)堂々たる体躯の持ち主で、武勇にすぐれ、人望のある、やさしい心根の好青年で、長宗我部の跡継ぎとして将来を嘱望された人物であったという。その生涯を本書の著者は「土佐の深山幽谷から湧き出ずる清流の如く濁りがなく研きたての刃のように清冽」(118頁)と描く。

 本書は第一部「石清川」、第二部「中富川」、第三部「戸次川」の三部構成。
 第一部は土佐の御曹司信親の初陣から天正7年8月の波川(はかわ)の乱までを描く。

 天正6年12月、讃岐藤目城の戦いが信親の初陣。讃岐方の守将新目弾(にいめだん)正(じょう)以下500名が城を枕に殉じ、土佐方も700名が命を落とす凄惨極まりない戦いであった。「信親も戦いに明け暮れる人生を覚悟していた。だが、戦場がかくも過酷な修羅場だとは思わなかった」(69頁)。
 また、敵将新目弾正は信親にとって生涯忘れ得ぬ将となった。「われらは故郷を守るために集い、友として戦っただけだ」(66頁)との敵将新目弾正の言葉に信親は限りない衝撃を受けるのである。本書書名の由来はここにある。
 波川の乱は主筋に当たる土佐の名門・一条家の軛(くびき)から完全に放たれるべく元親が仕組んだ謀略であった。信親の叔父に当たる波川清宗の謀反をでっちあげた元親を信親は非難する。元親と信親は仲睦まじい父子で言い争う姿を家臣団の誰もが見たことがなかった。「今回が初めての父子の軋轢」(178頁)であった。

 天正9年(1581) に元親は四国全土の統一に成功しているが、第二部「中富川」はその翌年の天正10年5月から天正13年7月までが舞台背景。
 かつて元親は信長より、「四国の儀は元親手柄次第に切取りへ」の朱印状を貰い受けていたが、石山本願寺を屈服させ天下布武をほぼ手中にした信長は元親の四国統一の野望を目障りと感じ、手のひらを返して対四国政策を変更する。
 若き信親が信長をどう観ていたか。作家は信親が「俺が四国の乱世を、次に全国の乱世を終わらせてやる」(169頁)との自負を持ち、「もう戦をせずに済むのなら、信長に天下を取らせればいい。大事なのは乱世の終焉だ」と考えていた(99頁)とする。
 一方、信長は元親との約束を反故にするどころか、天正10年(1582)元親討伐の軍をおこす。が、6月2日、本能寺の変が勃発。元親は間一髪危機を免れる。
 元親は畿内の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図る。8月28日、宿敵であった十河存(そごう)保(ながやす)を中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置く。
 信長の死を奇貨として信長の後継者となった幸運児・羽柴秀吉の天下統一への速度は信長のそれを上回るほどに速かった。

 天正13年(1585)春、元親は伊予を平定し、四国の覇者となるが、この時すでに秀吉は元親征伐を宣言していたのだ。6月、秀吉は雲霞の如き十数万の大軍を派遣。元親は抗戦するも各地で敗北を続け、終に7月25日、秀吉の軍門に降る。阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵されたものの、星霜十年をかけて成し遂げた四国平定はこの時烏有に帰したのである。     

 第三部は運命の「戸次(へつぎ)川」である。 
 秀吉に降伏し、土佐一国に封じ込められ、豊臣大名となった元親は秀吉の九州征伐に駆り出される。天正14年(1586)12月の豊後戸次川の戦いは島津攻めの前哨戦だが、元親は信親とともに従軍する。
 敵は精強で鳴る島津勢3万に対し、秀吉軍先発隊の四国勢は6千にすぎない。しかも友軍の仙石秀久十河存保は「昨日の敵」で長宗我部との間には深く暗い怨恨があった。彼らは「攻撃すべし」と元親を挑発。秀吉という虎の威を借りる軍監・仙石秀久の独断で強行される。仙石はまんまと島津の釣り野伏せ(つりのぶせ)の計略に嵌る。仙石は負け戦と知るやいち早く戦場を離脱するが、全滅に近い乱戦の中、信親率いる長宗我部勢と十河存保率いる十河勢は最後まで留まる。12月13日、信親は22歳の若さで討死。
 信親が必敗必死の戦場に踏みとどまり、なぜ最後の一兵まで戦ったのかは謎であるが、作家は守るべき者のために駆け抜けた信親の信念を読み取り、「長宗我部を生かし、土佐の皆を守るため」(411頁)信親は死を賭して戦ったとする。
 後継者として期待し家督を譲る予定であった嫡男に先立たれた元親の悲痛。信親の死が元親の晩年を狂わせた。それまで、長宗我部家は家臣の言に対し、真摯に耳を傾ける名君元親の下、家臣団の強い団結を誇っていた(119頁)が、人が変わったように落ち込んだ元親もと分裂する。後継者問題で元親は次男、3男をさしおいて、偏愛する4男で末子の盛親の後継を強行し、これに反対した家臣を血の粛清で弾圧するのである。
 信親の悲劇は長宗我部家がたどる運命を予見するかの如くであった。盛親 は関ヶ原では西軍に与して改易され、大坂の陣では豊臣方として大坂城に入城するが落城後、捕らえられ処刑され、長宗我部家は断絶。だがこれらは後の物語である。本書は信親の死で終わっている。

 作家はこれまで『酔象の流儀 朝倉盛衰記』の 山崎(やまざき)吉家(よしいえ)、『仁王の本領』の杉浦玄任など、強い信念で己の道を貫いた実在の人物を描いてきた。マイナーな、ポピュラーでない、いささか馴染みの薄い人物に光を当て戦国小説に独自の境地を切り開いてきた。本書もこの系列に位置する作品である。
 信親には川を愛し、「川は人の世に似ている」と語るように何でも川に譬える癖があり、つねに隣人を「友よ」と呼びかける。血縁であっても平気で裏切られる乱世に、友情なるものを信じ、家臣はもちろん領民、挙句は敵までを魅了し、「友」として取り込み、人を動かしていく不思議な力を持つ人物が土佐の御曹司であるとして、作家は信親を造形している。
 本作は戦国末期の土佐という具体的な時代を背景としながら、「友」と「川」をキーワードとして描いた創作性豊かな歴史小説である。
 史実をベースにしながら、一方、作家は本作を一つの戦国青春群像劇として展開させている。群像の一人が新目弾正であり、信親が愛した女「るい」である。るいの身の毛のよだつような素性を描き切ることにより、清冽な信親の生きざまとともに元親のおどろおどろしい謀略を具現化させている。優れた作家というものは史実とフィクションを見事に融合させ、これほどまでに豊かな想像力を駆使して自在に歴史の断面を切り取ることができるものなのか。仁淀川四万十川、土佐の川は土佐の峻険な四国山脈から湧き出し、雄大な海・土佐湾に注ぐ。川をキーワードの一つにしたことも作家の炯眼である。

                 (令和5年2月8日 雨宮 由希夫)

書評『一睡の夢』共同通信掲載

『一睡の夢』 評 雨宮由希夫                 

 

 

 副題に「家康と淀殿」とあるように、戦国
の世を生き抜いた二人を主人公とし、豊臣
家が滅亡した大坂の陣の真相を活写した歴史
小説の大作だ。   
 最大の読みどころは慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原の戦いの勝利で覇権を握った徳川家康
が、豊臣家と秀吉の側室であった淀殿を追い
詰めていく慶長十年代の政局を、丹念かつ緻
密に描くところであろう。家康は「関ヶ原
の二年半後には征夷大将軍の宣下を受けるが、
徳川将軍家」を揺るぎないものにすべく、
短期間で将軍職を息子の秀忠に譲るとともに
、頼りない秀忠を叱咤激励するという、した
たかな戦略をすすめていた。一方、誇りを貫
くばかりの淀殿は、家康への臣従よりも死を
選ぶとの壮絶な道を突き進む。戦略は家康の
老衰死を待つのみだ。
 事の次第があまりにも有名な「方広寺
銘事件」を経て、慶長一九・二〇年の大坂冬
・夏の陣へ。
 織田信長と秀吉の二人と比べて凡庸な家康
は、凡庸だからこそ忍耐強く乱世を生き抜き、
天下をとることは「一睡の夢」と知りつつも
覇者となった 。筆者は、そんな読み応え抜
群の新しい「家康像」を造形している。
 秀吉の正妻の北政所と、跡継ぎ秀頼の生母
淀殿は「糟糠の妻と愛人」であり、宿命の
確執があったとするのが通説であったが、近
年のめざましい史学の研究成果を踏まえて、
「二人の正妻」である淀殿北政所が豊臣存
続ためにひそかに連携していたと物語られて
いる。
 戦国の世を生き抜いた実在の人間を深く洞
察し、その実像に迫った本作は、関ヶ原の戦
いをダイナミックに活写した直近作『天下大
乱』同様、史実と定説さらに新説を吟味した
上で、自らの解釈を導き出すことを信条とす
歴史小説家、伊東潤の本領発揮の佳品であ
会心作である。