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書評『繭と絆』植松三十里

 

繭と絆 富岡製糸場ものがたり

繭と絆 富岡製糸場ものがたり

 

 

書 名   『繭と絆  富岡製糸場ものがたり』
著 者   植松三十里
発行所   文藝春秋
発行年月日 2015年8月30日
定 価    ¥1600E
 
 世界遺産になってから、富岡製糸場には連日、多数の観光客が訪れ朝早くから長い行列を作り、ユニフォーム姿のボランティアや袴姿の工女に扮した地元の女子大生が順路図にしたがって会場を案内するほど賑わっているというが、本書は富岡製糸場の初代場長(所長)を引き受けた尾高惇忠(じゅんちゅう)の長女で、14歳で富岡製糸場に入所し、日本の工女第一号となった勇(ゆう)を主人公とし、父と娘の絆を描くことにより、近代日本の殖産興業の黎明期をものの見事に切り取った歴史小説である。
 いわゆる「明治維新」から4年後の明治5年(1872)夏。中山道深谷宿の北、武蔵国榛沢郡下手計(しもてばか)村(現在の埼玉県深谷市下手計)の尾高家。勇は母から習った糸繰りをしている。そこに、同じ村の農家の三男で勇の許婚者永田清三郎がやってくるところから物語はスタートする。
 勇の父、尾高惇忠は文政13年(1830)生まれ。以前は村の名主を務めるかたわら、近郷の若者たちのために自宅で塾を開いていた。明治3年(1870)の秋から、富岡に赴いて、蒸気エンジンによる最新の輸入繰糸器械300台をもつ前代未聞のとてつもない製糸場の場長を務めている。父は建設開始から普請現場を預かり、製糸場がすでに完成に至ったと聞いている勇は「私も工女になりたい」と父に伝えたことがあったが、その時は、身内の特別扱いを嫌う父が許さなかった。そもそも工女は満15歳から25歳までという募集規定の年齢に当てはまらなかった。勇は数え年15歳で1年足らなかった。
 ところが、富岡から前触れもなく急に帰宅した父は、不機嫌そうな面持ちで、「特例を設ける。年季は短くて1年、長くて3年だが、勇は3年間以上、富岡で工女になり、ご奉公せよ」という。決まったばかりの縁談を破談にしても、「とにかく勇は工女に出よ」との否も応もない厳命に、勇はとまどう。健気な勇は「父のため国のため」世界に通用する生糸を目指すべく、婚約を棚上げにして富岡に赴くが、はたして勇と清三郎はめでたく添い遂げることができるのだろうかと、心ある読者は家長としての父親の強圧的存在、結納すなわち結婚で家と家との結婚が当然視された時代背景を思いつつ、若い二人の前途を気遣いながらページを括ることになるであろう。
 
本書は父と娘と許婚者を軸として展開される家族の物語であるとともに、また、幕末の上野戦争に係わった、勇にとっては叔父に当たる3人の男たちの生き様を底流に奔らせたところに非凡な作家の本領が見て取れる。
 惇忠は彰義隊の内部抗争により生じた別軍である振武軍の副総帥として飯能戦争を戦った。渋沢成一郎(喜作)を総帥とする総勢500名あまりの振武軍には前・中・後の3軍があり、中軍の組頭が渋沢平九郎であった。惇忠の従兄弟にあたる渋沢喜作は箱館戦争まで戦い、新政府に投降している。惇忠の実弟である平九郎は慶応3年(1867)渋沢栄一がパリ万博に赴く徳川昭武の従者として渡仏する際、栄一の養子となっていたが、飯能戦争に巻き込まれ、自刃を余儀なくされた上に、官軍の手で無残にも鳩首されている。
 惇忠は製糸場を引き受ける際に、非業の死を遂げた実弟平九郎のことを気にかけ、悩んだ末に引き受けたのだった。 
 渋沢栄一は隣村の武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の豪農の出身である。惇忠より10歳下の栄一は惇忠の塾の弟子であり、従兄弟である上に、惇忠の妹千代を妻にしたために義兄弟でもあった。その上に、平九郎を養子とした。明治2年(1869)大蔵省に入省した栄一が、富岡製糸場の設立にあたり、惇忠に富岡製糸場を任せたのも当然と言えば当然であろう。
 かつて幕府方として官軍とたたかった過去にこだわり、就任を渋る惇忠を栄一自身が横須賀にまで連れていき、横須賀製鉄所を見学するシーンある。
 
 横須賀製鉄所は幕末の混乱の中、卓越した先見性で日本の近代化を見据えていた勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)の建議によりフランスと提携して建設が開始されたもので、幕府崩壊とともに明治政府がその事業を我が物顔で引き継ぎ、明治4年(1871)に第一ドックが完成するや横須賀造船所と改称している。
 富岡製糸場は近代化を急ぐべく殖産興業の模範工場として建設されることになる製糸場だが、横須賀製鉄所同様、フランスの技術が導入された。富岡製糸場の主要建造物群は横須賀製鉄所の設計者であったフランス人技師エドモン・オーギュスト・バスチャンによって設計されたのである。
 渋沢栄一大隈重信ヘッドハンティングによって、明治政府に出仕したことはよく知られているが、殖産興業政策を展開して日本資本主義の基盤形成に寄与した大隈が、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語っていることも重い歴史の証言である。小栗忠順が後世に残した事業の一つに、横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)があることは無論のことだが、本書では小栗も大隈も登場していない。ただ、富岡製糸場が横須賀製鉄所同様、フランスと技術提携したことから、新政府の中には栄一を幕府系の人間だとみなし富岡製糸場を旧幕府寄りだと危険視する向きがあったこと。栄一は明治6年(1873)下野しているが、何かと幕府の人間だとみなされていることに限界を感じたこともその原因の一つだということが本書では物語られている。 
 富岡製糸場は主要部分の建設工事が終わるのに合わせて操業を開始する予定だったが、工女募集の当てが外れ、明治5年(1872)10月4日に開業した。応じる者が少ないので、惇忠はやむなく14歳の長女勇を入場(入所)させた。
 明治6年(1873)1月までに、404名が入所。「伝習工女」として募集され全国から集められた工女は豊かな養蚕農家の娘たちが中心で、8割近くが結婚前の10代であり、また、士族の子女も多かった。『富岡日記』を著した和田英は長野県旧松代藩士の娘で、手記の中に勇のことをただ一行だが書き記している。
 創業当初からの工女として、主人公の尾高勇とともに、準主役級の出浦貴美(いでうらきみ) と青木敬(あおきけい)の二人の人物造形が出色である。
 出浦貴美は秩父の農家の出、誇り高く少し勝気そうな印象を与える鼻筋の通った美人。青木敬は若い頃、大奥に奉公した経験を買われ「取締役」として活躍する青木照(てる)の孫娘。男のように大柄でいかつい体型は祖母そっくり。一見無愛想だが細かい気配りのできる少女で、繭の脱皮を家族の絆に譬えるなど外見とは別の知性あふれる女性である。 
 主役、準主役の人間関係を軸として、初期の製糸場の実態や若い工女たちの共同生活が作家の闊達な筆で生き生きと叙述されている。年若い工女たちの気概、働きぶり、生活ぶりから当時の時代意識までがものの見事に再現されている。歴史小説の真骨頂というべきであろう。
 
 明治10年(1877)盆休み前、勇は富岡を退職する。創業当初からの工女にして最古参の工女である勇は年季3年どころか5年間勤務した。最後の勤務日、勇は製糸場の隅々を眺め、歩きつつ、過ぎし日々を振り返る。その年4月に入場した新しい工女は貧しい家の娘たちであったこと、経営上の採算がとれずに早くも民間への払い下げの意見がまかり通る有様であったことなど製糸場には問題が山積みされているが、工女としての勇はやるべきことはやったとの満足感に浸っている。門の外には旅姿の父惇忠があった。政府の方針と対立していた惇忠は娘勇より早く前年11月に場長を退いていたが、娘の退職を出迎えるべく下手計村の実家から富岡までやってきたのだ。初代場長とその娘であることの誇りと使命感、達成感が父と娘を包み込む感動のシーンである。
 近代日本の殖産興業史を振り返ると、細井和喜蔵『女工哀史』、山本茂美『あゝ野麦峠』などに著される紡績業や製糸業のたどった道を知れば、圧倒的に重いテーマが佇立していると覚悟せざるを得ないが、作家は新技術を導入すべく近代化の最前線で働く勇はじめ3人の工女の交友を描くことにより、明治の日本を支えた製糸業を隆盛に導いた黎明期の富岡製糸場の存在をかくも身近なものに再現しつくして、重いテーマに確固たる一つの解答を与えた。歴史小説作家の使命、これにすぐるものはない。
  (平成27年9月13日  雨宮由希夫 記)

 

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