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書評『がいなもん 松浦武四郎一代』

名『がいなもん 松浦武四郎一代』
著者 河治和香
発売 小学館
発行年月日  2018年6月13日
定価  本体1700円+税

 

がいなもん 松浦武四郎一代

がいなもん 松浦武四郎一代

 

 

 松浦(まつうら)武四郎(たけしろう)(1818~1888)は、幕末から明治にかけて活躍した探検家で、6度にわたり樺太・千島を含む蝦夷地の探査を通じて、膨大かつ詳細な比類なき記録を数多く残した。本書は、「北海道の名付け親」松浦武四郎を主人公とした伝記風の歴史小説である。
 鹿鳴館が落成した明治16年(1883)夏の終わり頃、河鍋(かわなべ)暁(きょう)斎(さい)の娘お豊(とよ)が年老いた武四郎から回想談を聞き取るという筋書きで物語が進行してゆく。
 ふだん、あまり〈北海道〉について語ることのなかった松浦老人が〈北海道〉と自らの人生を突如語りだす。文明開化の明治の世に、松浦老人の愉快で感動的な話を聞いていると、まるで浦島太郎や桃太郎のおとぎ話を聞いているような錯覚に陥るお豊だが、その感覚は読者のそれでもあるだろう。伊勢の方言で、「途方もない」ことを「がいなもん」というそうが、天性の漂民というべき武四郎の生涯はまさに「がいなもん」そのものなのである。

 武四郎は文化15年(1818)、伊勢国一志郡須川村(現・三重県松坂市小野江町)の郷士の家に生まれる。伊勢参宮街道沿いに今も残る生家で、幼いころから行き交う多くの旅人を見て育った武四郎は旅への強い憧れを抱くようになったのだろう。16歳で江戸に出たのを皮切りに、若い頃から諸国をくまなく歩き廻るべく放浪の旅に出ている。26歳で長崎を旅したことが彼の一生を決める。赤蝦夷(ロシア)の船が蝦夷地近海へ頻繁に出没しているという噂を耳にした武四郎は「前人未到の北の大地を探検して、日本の国を守る」と決心する。
 航空機や電車,自動車のないどころか、北海道内陸部の地図もなく、道都札幌が昼なお暗い原生林に覆われた原野の一角のコタン(村落)にすぎない時代に、武四郎は身命を賭して蝦夷地のほとんどを歩き、調査した。武四郎はアイヌの人びとが恵み豊かな大自然の中で巧に生きる姿に心を動かされた。アイヌはシャモ(和人)武四郎をウタリ(同胞)として遇することは叶わなかったが、アイヌの民族文化を理解する武四郎を真のシサム(隣人)として迎え入れたのである。一方、弘化2年(1845)、28歳ではじめて蝦夷地へと渡った時点で、すでに武四郎は和人の収奪と酷使によるアイヌの悲惨な実情をつぶさに感知し、深く憂いている。
 江戸時代に蝦夷地を領地とした松前藩が北方の脅威に対して無策のまま、場所請負制度のもと、アイヌを酷使し暴利をむさぼっている現状を克明に記録した『近世蝦夷人物誌』は出版が許可されず,武四郎の存命中に公表されることはなかった。武四郎は松前藩への批判を容赦なくおこなったことから,当然、内情を暴露されることを恐れた松前藩から刺客を差し向けられ命を狙われ,調査の妨害を受けだが、場所請負制度を廃止すべきことを一貫して訴え続けた。武四郎のその姿勢と邪心のなさ、冷めることのない情熱には驚くべきものがある。
 アイヌの人々を「まつろわぬ民」として見下すのではなく、対等の人間と見ていた武四郎が目指していた北海道は,心優しく有徳のアイヌ民族が安心して暮らすことができる大地であることであった。
 いつも真っ白な犬を連れている〈ソン〉という一人の少年と武四郎の出会いと別れが一つの挿話として語られている。アイヌ受難の歴史を一身に背負ったソンの生きざまを辿ったこのサイドストーリーは時代小説としての本書を魅力溢れるものにしている。
 アイヌと和人の混血児は〈チポエップ〉といわれた。アイヌ語で「混ぜ煮」の意である。ソンの母親は和人の地役人の妾にされて、〈チポエップ〉たるソンを産み落とすや行方知れずとなり、一家は崩壊。救わねばと思いつつ、何もできない武四郎ができたことは、ソンという少年、実は少女だったのだが、を身の回りの世話係として雇うくらいのことだった。箱館での別れが二人を引き離す。ソンの消息をたえず気にする武四郎。武四郎の命の安全をはかるソン。維新後、それも武四郎が死んだ直後、ソンはわざわざ東京までやって来る。武四郎が健在ならば、どんなに喜んだことかと涙ぐむお豊……。
 ひとかどの蝦夷通となった武四郎は一介の探検家にとどまらず、志士でもあった。激動の時代の渦中にあって、日本を夷狄から守ろうという攘夷論者たちの活動に巻き込まれていく。武四郎が幕末維新の修羅場をすり抜け生きのびることができたのは、彼が常に「本来の探検家として生きよう」と心掛けていたからだと作家河治は観ている。

 明治2(1869)年7月,武四郎は「蝦夷地」にかわる新たな名称,国名(現在の支庁名に相当)、 郡名とその境界の撰定に関する案をまとめ、政府へ提出する。道名案の一つが「北加伊道」であった。最終的に「加伊」は「海」と改められ、「北海道」と命名された。蝦夷地はアイヌの人々と自然が育てた大地であり、アイヌの人たちが自らの国を「カイ」と呼ぶことを知っていた武四郎はその思いを込めて「北海道」としたのである。地名はその土地の歴史であり、文化であることを知る武四郎こそはまさに「北海道の名づけ親」と言われるにふさわしい。
 明治3年(1870)に北海道の開拓の方針を巡って、武四郎は開拓判官(局長級)の職を辞し、従五位の官位を返上。以後、武四郎は自ら名付けた〈北海道〉に、二度と足を踏み入れなかった
 蝦夷地の開拓も大事だが、アイヌの救済こそ最優先の課題であると考える武四郎の心中には、蝦夷地開拓を邁進するだけの明治政府のアイヌ民族に対する政策への反発とともに,アイヌの人びとを守るために力を尽くしたが果たせなかった慙愧の念が鬱積していたことだろう。「武四郎にはアイヌという民族は滅んでしまうという危機感があったのではないか」と作家河治は観ている。
 鹿鳴館の設計者であるジョサイア ・コンドルが「お雇い外国人」に「暁英」という雅号を与えたのは河鍋暁斎である。一(いち)勇(ゆう)斎(さい)歌川(うたがわ)国(くに)芳(よし)の元で浮世絵の技法を学んだこともある暁斎は師匠の国芳ゆずりであろう、反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しているが、明治政府の極端な欧化政策を皮肉って投獄されたこともある天衣無縫の絵師であった。
 武四郎は64歳のときに、この暁斎に、「武四郎涅槃図」を描かせている。
 暁斎の娘のお豊は、「暁(きょう)翠(すい)」の名を持つことになる女流画家である。

 作家河治和香にはシリーズ『国芳一門浮世絵草紙』全5冊(小学館)がある。評者には国芳の娘・登鯉と〈お豊ちゃん〉のオキャンな立ち振る舞いがダブって見えて仕方なかった。「めぇは松浦先生の気に入りだ」という暁斎と肯くお豊。
 暁斎父娘と武四郎のユーモラスな交友を介して、幕末から黎明期の明治日本を語らせるという手法をとっているのは、実に見事な構想といえる。
 武四郎の諸国放浪を経済的に支え生涯を通じての支援者であった川喜田崎之助は幼馴染みだが、生涯の友というべき水戸藩士の加藤木賞三、箱館で出会った頼三樹三郎、黒船来航時の吉田松陰ら幕末の志士たちとの交流も活写されている。龍馬、海舟、西郷も登場し、「勝海舟日本海軍創設神話」のウソにも触れ、海舟を批判しつつ、「人は、自分に都合のいいことしか書き残さない。歴史というのは、そうした記憶が重なりあってできた蜃気楼のようなものだ」と武四郎に語らせている。
「江戸から東京へ」。政治史は遠慮会釈もなく明確すぎるほどの線引きをするが、あの時代を生きた人々は政治史的な区分とは無関係に、みな鬱屈した歴史を自分の背骨に刻んで生き抜いた。明治初年の景色のなかに、愛すべき人々がよみがえる。あの時代と人を描かせて、河治和香ほどふさわしい書き手はいない。「北海道150年」の記念すべき年である今年に、松浦武四郎はもちろん、幕末から明治を生きた人々を描いた豊穣な一冊に巡り合えたことは何より嬉しい。
 (平成30年7月10日 雨宮由希夫 記)