日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第17回 いつも2人で

 ベルリンオリンピック中止の新聞記事を見た、金栗四三中村勘九郎)の妻スヤ(綾瀬はるか)は、熊本から東京に向かう許可を義母の幾江(大竹しのぶ)に求めます。スヤは気が散ると、四三に東京から追い返されたばかりでした。
 大日本体躯協会の嘉納治五郎から、四三はオリンピックの中止を告げられます。落胆のあまり力の抜ける四三。四三は下宿の部屋に閉じこもります。
 出発しようとするスヤに、幾江は声をかけます。
「スヤとマラソン、どっちが大事か聞いてみなんせ。今ならマラソンに勝てるかもしれんばい」幾江はさらにいいます。「もう構わんけん、連れて帰ってこい」
 四三の部屋の前に、元の高等師範学校の仲間たちが来ていました。二日も部屋から出てこない四三を心配します。戸口を壊して入ってみると、四三は座り込んでいます。人力車夫の清さんも四三を励まそうとします。気の抜けた四三の様子に、ついに清さんは怒り出します。
「ぜいたくいってんじゃねえよ。自分で行き先も決められねえんだぞ、俺たちは。客が新橋っつったら、新橋行くしかねえんだよ。呼び込みも力仕事もできねえから、走るしかねえんだよ。そんな俺たちの代表だろ、日本代表っていうのはよ。お前がそうやって腐ってたら、日本人みんなが腐っちまうんだよ」
 四三はオリンピックまでの約束で、家族の援助を受けていたことを打ち明けます。
「これ以上迷惑かけられん」
 と叫ぶ四三。到着していたスヤがそんな四三に水を浴びせるのです。
「こん人、水ばぶっかけると、おとなしゅうなりますけん」
 といって。
 スヤは四三を熊本に連れて帰ろうとします。拒否する四三。スヤは一人で帰ろうとします。しかし思い直して四三に話します。
「うちはオリンピックがのうなってもかまわん。どっちみち連れていってもらえんけん。金メダルもいらん。ばってん、四三さんが金メダルばとったら、どぎゃん顔して喜ぶか、そん顔が見たかけん応援ばしとります」
 四三想は静かに語ります。金メダルを取って、おしまいにしようと思っていた。くやしい。
「終わったと思えば帰れますか」
 そのスヤの言葉の意味をはかりかねる四三。スヤはおどけていいます。
「オリンピックは終わりました。帰りましょ」
 おどけに付き合う四三。
「俺は何等でしたか」
 満面の笑みでスエはいいます。
「もちろん金メダルたい。おめでとう、金栗選手」
 スエの励ましに、四三は涙を流します。スエにしがみついて泣き続けます。
 そして四三はまた走り始めるのです。日の丸の付いた体操着を着て。自転車でスエが伴走します。
 その夜、布団を並べる二人。四三はスヤに追い返したことを謝ります。そしてまた会いに来て欲しいと告げます。
「おりたいだけおってよかですか」
 と聞くスヤ。うなずく四三。
「もう帰れとはいわんけん」
 と口にする四三。微笑むスヤ。
 しかしすぐに四三は日本のマラソン界の将来について考え出すのです。あきれたスヤは嫌みを言います。
金栗四三が五十人おったらよかばってんね」
 しかし四三はそれで思いつくのです。
 翌日、四三は嘉納治五郎のもとを訪れていました。指導者になることを宣言する四三。教職に就くことは、師範学校の卒業生としては、何ら驚くことではありません。四三は、自分が五十人いたら、の話を始めます。
「もし俺が、五十人おったら、五十倍の距離ば走れます。一人十キロ走れば五百キロ、東京から大阪ですよ。一人じゃ無理ばってん五十人おったら走れるとです」
 嘉納は腑に落ちます。マラソンが普及しない理由は、四十キロもの距離を一人で走るのがあまりにつらく、孤独だからです。しかしそれが団体競技になったらどうなのか。助け合い、励まし合う仲間がいれば。
「面白い」
 嘉納は思わず椅子から立ち上がります。四三はいいます。その五十人を育てるために自分は教員になる。
 四三は、神奈川師範に教員として勤務するようになります。
 四三の新たな挑戦が始まりました。指導者として、練習法や足袋(たび)の改良を模索し、寸暇を惜しんで、後輩と共に走りました。そして東京、大阪間を大勢では走りつなぐレースの具体的な計画を練り始めます。
 その計画の打ち合わせのため、四三はカフェで嘉納と会っていました。それを後ろで聞いているものがいたのです。読売新聞の記者でした。スタート地点を京都にしてはと提案してきます。東海道五十三次をたどったらどうかとの案も出してきます。
 嘉納は窓から外を見ていました。自分も目標を見つけたといいます。
「いつの日か東京でオリンピックを開くために、世界に誇れる競技場を造る」
 自分は悔しかった。戦争でオリンピックが中止になったとき、東京に競技場さえあれば、手をあげることができたのにと。嘉納はさらにいいます。招かれるのを待っているだけじゃつまらん。各国の選手を迎え入れるんだ。
 大日本体躯協会が招集され、京都、東京間のレースの計画が練られます。名称は東海道の宿場(駅)を走り注ぐということで、「駅伝」に決まります。最終ランナーを四三が務めることになります。
 こうして日本初の駅伝レース「東海道五十三次駅伝」が行われることになりました。京都から出発して、選手が次々に交代して東海道を走ります。浜名湖は実は、船に乗って進みました。選手は走っていません。詰めかけた観衆は街道の旅館に泊まりました。選手はたすきを渡した後も、ランナーと一緒に東京を目指しました。
 最終走者の四三が川崎を出たのは、レースが始まって三日目になっていました。駅伝の人気はすさまじく、日本橋は群衆で埋まっていました。人をかき分けて進む四三。スヤは群衆の中にいました。四三に
「金栗」
 と声をかけます。そして心の中で叫んでいました。
「おめでとう、金栗選手。コールドメダルばい」
 日本初の駅伝は大成功したのでした。
 そしてスヤは四三の子供を身ごもったのです。