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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第20回 恋の片道切符

 アントワープオリンピックの種目に、マラソンは入っていませんでした。嘉納治五郎(役所広司)はIOC会長クーベルダン男爵にマラソンの復活を願う手紙を出します。それによってマラソンはオリンピックの正式種目に復活します。この手紙がなければ、無謀で危険なスポーツとして、マラソンは永久に葬り去られたかもしれません。
 大日本体育協会では、アントワープオリンピックに出場する選手を選抜する会議が行われていました。金栗四三(中村勘九郎)の顔もその席にあります。今回は体育協会から渡航費が出ることになりました。十五名の選手を送り込むことができます。話し合いが盛んに行われるなか、四三の後輩の野口源三郎が手をあげます。野口は自分が十種競技にエントリーする事を願い出ます。十種競技とは100メートル、走り幅跳び砲丸投げ走り高跳び、400メートル、110メートル障害、円盤投げ、棒高跳び槍投げ、1500メートル、の総合点を競う陸上の王様と呼ばれる種目です。ストックホルムオリンピックから四三が持ち帰った道具により、野口は目覚めたのでした。嘉納は言います。
「突出して秀でたものはないが、どれもまんべんなくまあまあの記録を持つ君に、ぴったりの種目だな」
 野口のエントリーは認められます。
 水泳の話題が出て、場面は浜松に移ります。内田正練アントワープオリンピックの代表選手に選ばれたことが発表されていました。
 当時、日本人の泳ぎ方といえば、源平の昔から武術として伝わっていた技でした。一切、顔を水につけることなく、いかに静かに、かつ体力を消耗せずに泳ぐか、に主眼が置かれていました。
 浜松の泳ぎ仲間、河童軍団の皆に、内田はクロールを教えます。顔をつける様子に、皆は驚きます。(後に東京オリンピックを招致する)田畑政治は言います。
「欧米人がみんなクロールだとしたら、うちら河童の敵ではないでえ」
 河童軍団の皆は盛り上がるのでした。
 大正九年五月。日本選手団の壮行式が行われました。陸上と水泳、選手総勢十三名。主将は十種競技の野口でした。
 今回の旅は、アメリカまわりの約五ヶ月の遠征でした。まず選手を乗せた船は横浜を出てサンフランシスコに向かいます。陸路汽車によりアメリカ大陸を横断し、ニューヨークにて嘉納団長と、テニスの選手と合流します。そして「オリンピック号」という名の客船に乗り、ロンドン経由でアントワープを目指します。
 場面は熊本。四三の妻のスヤ(綾瀬はるか)が、四三からの手紙を読んでいます。
「俺も数え年で三十。ベテランたい。こんどやらにゃあ二度とチャンスはめぐってこんだろ。生半可な気持ちでは大志ば果たせんけん」
 そして四三は就職先の中学に辞表を出してきたことを告げるのです。手紙は続きます。
「職ば失のうた今、俺にはオリンピックしかなか」そして「必ずや金メダルを手土産に帰るよ」
 と、結びます。スヤも手紙を書きます。
「四三様。いよいよですね。立派なご覚悟。必ずやり遂げると、スヤは信じております」義母の幾江(大竹しのぶ)も四三の活躍を願っていることを綴ります。「本当は励ましに行きたかです。身の回りのお世話ばしたかです。私の心も、はるかアントワープに飛んでおります」
 場面は日本に戻ります。東京女子高等師範学校の二階堂トクヨ(寺島しのぶ)がシマ(杉咲花)を相手に話していました。胸が苦しい、とトクヨは言います。弟の薦めてくれた見合いを断ってしまっていました。
「わかってます。もう後がない。なんとしても満足な結婚をしなくちゃ、女として生まれた甲斐がない。それなのに、私は今、新たな男性に心を奪われてしまっている」
 その男性とは、オリンピック選手団主将の野口源三郎でした。
 選手一行は、オリンピックの開催地、アントワープに到着しました。皆のいるところになんとストックホルムオリンピックに四三と共に参加した三島弥彦(生田斗真)が訪ねてくるのです。三島は欧州で銀行家として働いていました。三島や四三に憧れてスポーツを始めた者も相当いたのです。三島は嘆息します。
「日本のスポーツ界も発展したものだ」
 そして三島は選手たちを励ますために、天狗倶楽部の応援をやってみせるのです。
 それから三ヶ月後、日本に帰国した選手たちによる、アントワープオリンピックの報告会が行われることになります。スヤと四三の兄の実次(中村獅童)も会場に来ていましたが、肝心の四三の姿が見えません。選手団主将の野口が報告を始めます。テニスの選手がシングルス、ダブルスで共に銀メダルを取ります。しかし野口の十種競技の最下位を始め、陸上は惨敗でした。水泳も予選敗退。水泳の内田は、世界の競泳がクロール一色であること、日本もクロールを習得し、普及させなければならない、と訴えます。
 そしてマラソンについての報告が野口によってなされます。四三は戦争の後も生々しいアントワープの街を、後輩たちを引っ張って走りました。四三は二五位で折り返し、それからも五位にまで順位を上げていきました。三五キロ地点まで快調に飛ばしていましたが、その後、ペースを落としていきました。原因はひたすら八年間走ってきた無理がたたったのだと思われました。一六位にてゴールします。
 二階堂トクヨが発言します。嘉納団長の会見はいつ開かれるのかと問います。嘉納の責任について発言します。
「一度は廃止が決まったにもかかわらず、日本がメダルを狙えるという理由で、正式種目に加えてもらったマラソンにおいて、金栗選手はブザマに負けた。行ってみれば、国際舞台で赤っ恥をかいたわけです。この責任を誰が取るおつもりですか」
 座が騒がしくなるなか、スヤが声を上げます。
「金栗選手は負けとらんたい。しまいまで走ったとでしょうが。四二キロ。日本人で初めて完走ばしたとでしょうが。一六位ばってん、うちにとっては大勝利。金メダルたい」
 さらに嘉納の責任を追及しようとするトクヨ。しかし嘉納はすでに自分が退くことを決めていたのです。大日本体育協会の会長を辞して、若い者に後をまかせる事を永井道明(杉本哲太)に伝えていました。
 そのころ四三は、戦禍の跡も生々しい欧州をさまよっていました。東京に戻ったところで職もない、目標もない。妻との約束も果たせなかった。
 四三は因縁の地、ベルリンにたどり着きました。四年前、金メダル確実と言われながら、戦争のため、中止を余儀なくされた夢の舞台です。とぼとぼと歩く四三の足下に、槍が突き刺さります。複数のドイツ人女子がそれを追いかけてきます。四三に謝ります。彼女たちは槍投げの競技の練習をしていたのです。