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書評『炯眼に候』木下昌輝

書名『炯眼に候』
著者名 木下昌輝
発売 文藝春秋
発行年月日  2019年2月15日
定価  本体1700円(税別)

 

炯眼に候

炯眼に候

 

 

 2012年「宇喜多の捨て嫁」でオール讀物新人賞を受賞してデビューした歴史時代小説界の気鋭木下(きのした)昌(まさ)輝(てる)(昭和49年、奈良県生まれ)による「織田信長」である。
「信長ほど神仏を敬い、かつそれを攻撃した人物はいない。……そんな信長を支えたのは、合理の心だ」とあるように、信長及びその周囲の人物を主人公として、天下統一を目指した信長の徹底した合理主義に光を当て、信長の「炯眼」が語られる。
 7編の短編よりなる連作短編集だが、初出は「オール讀物」で、2016年1月号より2018年12月号までの3年間に断続的に発表された。
 章名および雑誌発表時の原題は以下の通り。

「水鏡」 /「運ハ天ニ有リ、死ハ定メ」 2016年1月号
「偽首」 /「桶狭間の偽首」 2016年9月号
「弾丸」 /「杉谷善住坊の弾丸」 2017年2月号
「軍師」 /「山中の猿」 2018年12月号 
「鉄船」 /「幻の船」 2017年12月号
「鉄砲」 /「復讐の花」2018年7月号
「首級」 /「信長の首」2017年7月号

 木下にとっての「信長」は満を持しての「信長」である。
 信長とは何か。破壊者であり建設者でもある織田信長という英雄について、好きな人は大好きであり、嫌いな人は大嫌いだという評価である。信長の全貌を明らかにすべく多くの作家たちが筆を取り、これまで書き尽くされてきた人物故の難しさもあるのだが、木下がどのような「信長」を描くのか、固唾を呑みながら、本書を紐解いた。
 本書で重要な役割を演じているのは、斎藤(さいとう)道三(どうさん)、羽柴(はしば)秀(ひで)吉(よし)、それに太田(おおた)牛一(ぎゅういち)、山中の猿の4名である。
 信長の武将としての前半で最も重要な位置を占めるのは、美濃の蝮こと斎藤道三であろう。
 信長にとって最大の敵はままならぬ天候であった。信長が天候さえも己の意のままに操りたいとしているのを見て、道三が「婿殿は、天に打ち勝つ術を必死に考えているらしいな」と観るシーンがある。まもなく「天下布武」を政治理念とする信長の強固な意思を戦国の梟雄・斎藤道三はすでに読み取っている。
 苛烈さ、厳しさと、冷徹無比なイメージだけが先行する織田信長になぜたくさんの武将が仕えたのか。武将たちが刺激を受けて畏怖、魅了されたのは、時代を突き抜けていた信長の感覚と知能、すなわち信長の「炯眼」だったが、道三亡き後、信長を最も理解したのは秀吉である。
 鉄砲を軽視する織田家の風潮をかえるために、信長は鉄砲の名手・杉谷(すぎたに)善(ぜん)住坊(じゅうぼう)に狙撃させる策を練った〔「弾丸」の章〕。あろうことか信長は自らの命を的にしてまで狙撃させるのである。この秘策を秀吉は「理に合わぬ因習や妄執を捨てさせるために」信長公は実行しようとしているのだと、合理主義者・信長を理解する。「顔色は悪く頬もこけているが、眸だけは獣を思わせる貪欲な光をたたえ、心のありかが麻痺しているように見えた」とする秀吉の容貌造形も素晴らしく、信長の後継者としての秀吉を見事にとらえている。
「山中の猿」はかの道三に薦められ信長が己の軍師とする人物である〔「軍師」の章〕が、太田牛一の『信長公記』に実際に登場するとは評者は知らなかった。信長にとって「猿」と言えば秀吉のことであるから、秀吉が擬人化されているとも思った。桶狭間の戦いや長篠設楽が原の戦いで、織田軍は天候を味方に付けて、勝利する。軍師・山中の猿には天候が予知できる神通力があるとみられたが、天候が悪くなると体調に異常をきたす山中の猿の体質を見抜いて信長が利用したのだった。信長の合理的思考を際立たせている存在である山中の猿は秀吉同様、信長にとって欠くべからざる部下であった。
 太田牛一は『信長公記』の著者である。木下昌輝による太田牛一の人物の造形は当初、「又助」として登場し、「信長の父の代から織田家に仕え、10代の頃の信長をもよく知っている。三人張りの強弓をあつかう弓の名人だが、時代遅れの名人。山中の猿の世話を信長に託される。武(たけ)田(だ)方の内通者でもある」と、とてつもなくユニークである。
 最終章の「首級」は、イエズス会ヴァリアーノ神父によって信長の下へ連れてこられ、晩年の信長が側近としてかわいがった黒人奴隷の弥助が主人公。天下取り目前、無念の死を遂げた信長の最期を見届けた人物として描かれる。信長が死後の動乱を見通し、「わが首級を敵(光秀)にやらぬことだ」と自らの首をめぐる秘策を打ち出し自身の最期を迎えるシーン、信長亡き後、インドに渡り、戦士としてムガル帝国と戦った弥助が、世界的視野を持っていたサムライ信長を回想するラストシーンも忘れ難い。「信長には明晰な認識者としての孤独感ともいうような虚無のにおいがただよっている」と記したのは『下天は夢か』の津本陽だが、自らの死後をも見通した信長の死生観が圧巻である。
信長公記』(全16巻)は信長の旧臣太田和泉守牛一が、慶長15年(1610)、84歳の時、完成した信長の一代記である。太田牛一は信長の同時代人とはいえ、「信長公記」の完成は信長の死の天正10年(1582)より28年後のことである。
 太田牛一の心中には、戦国の世で長寿の晩年を迎えた自分の来し方と、7歳年下ながら49歳で夢幻のごとくに消えた信長の生涯が、渦巻いていたことだろう。
 長篠設楽が原の戦いにおける鉄砲の三段式装填法と馬防柵の設置、石山本願寺攻めの鉄甲船建造など、近代的合理主義によるアイデアの勝利といってもいいのだが、信長の勝利の裏側には常に、恐ろしいまでの合理的思考があったことは紛れもない。作家はただそこで思考をとどめていない。信長をして合理的思考を然らしめたのは何か、と作者は信長の深層にまで立ち入ろうとしている。著述に要した三年の歳月を思うと、信長像をめぐって木下昌輝の思考の軌跡をまとめたものが本書であることがわかる。信長の若き日から本能寺で斃れるまでの信長の生涯に起きた出来事を、ひとつひとつ丁寧に、史料に即して、ある時はあえて史料から離れて、その歴史的意義をとらえ直し、最後にそれらを統合したうえで信長という一人の人物像を等身大で捉えようとしている。
 本書はまた信長にまつわるエピソードの謎に関する異説論集であるといえる。人物や素材に執拗に迫り、定説、通説への疑問、異説を唱えるその用意周到な構成と斬新極まりない謎解きする姿勢は一貫している。
「弾丸」の章では、杉谷善住坊はむごたらしく処刑されたはずだが、不思議なのはどうしてその子孫が生き残ったのかと、疑問をもった「筆者である私」は運に恵まれ、11番目の子の子孫と語り合うことができたとし、戦慄すべき異説の中に、鉄砲にとりつかれた同類相憐れむ者としての善住坊と信長の心の交流が一陣の爽風のようにそよぐ人情譚を紡いでいる。
 本能寺の変にからむ「鉄砲」や「首級」の章では、光秀の人物造形が大胆で、史実ばかりに拘る研究者が目くじらを立てて怒りそうな設定で、変に至る経過も盛り上がりに欠けるとの批評もありえようが、いずれの作品も短編小説の技巧が冴えわたる。連作による多方面からの切り口が鮮やかで人間性を備えた信長像を浮かび上がらせることに成功している。
 本作は小説としての凄まじい破壊力を持ち、凡百の<信長もの>とはまったく質を異にする端倪すべき作品であるということである。

 

         (令和元年6月2日 信長公忌の日に 雨宮由希夫 記)