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書評『龍の袖』

書名『龍の袖』
著者名 藤原緋沙子
発売 徳間書店
発行年月日  2019年7月
定価  ¥未定

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 坂本龍馬には関わりを持った多くの女がいたが、「妻」として「室」として、墓石に刻まれている女性が二人いた。お龍と千葉佐那(ちばさな)である。龍馬がお龍と仮祝言していたことも承知で、龍馬の死後も「許婚」であると公言していたという千葉佐那とはどのような女性であったのか。

 『龍の袖』と題された藤原緋沙子の歴史小説は、龍馬を愛し、幕末維新の動乱の時代を生きた龍馬の許婚・千葉佐那(ちばさな)を主人公とし、ふたりの出会いから別れ、そして流転の晩年まで、佐那の愛と運命を描いている。
 物語は安政3年(1856)5月、千葉道場の女剣士・佐那19歳が広尾の伊達宇和島藩下屋敷で、伊達家の姫君・正姫(藩主伊達宗城の娘)の薙刀指南をしている光景にはじまる。物語はまた、16歳の佐那が初めて龍馬と会った時から書き始め、つい先ごろまで書きつけていたとされる「三冊の日記」を佐那自身がひもとく形で語られる。
 嘉永6年(1853)すなわち、ペリーの率いる黒船四艘が浦賀沖に現れた年の4月に、龍馬は江戸に出て、北辰一刀流開祖千葉周作実弟定吉(さだきち)の経営する京橋桶町の千葉道場に入門し、定吉の次女・佐那と知り合う。時に佐那は「まるで幼馴染みと一緒にいるようなそんな親しみを覚えて、慌てる」。運命の出会いであった。

 二人が婚約した時期は明確ではないが、物語では、「安政5年(1858) 佐那21歳の夏」としている。佐那は「龍馬さんが戻って来るまでに、龍馬さまの着物を縫って待っている」と龍馬に告げる。維新後、華族女学校(学習院女子部)に舎監として勤務した佐那が女学生に「坂本龍馬の許嫁でした」と見せて語ったという形見の紋付の袖については諸説がある。龍馬が千葉家に婚約の証として渡したとする説もある一方で、父の定吉が結婚のために準備すべく仕立てたものとする説がある。が、本書では、佐那自らが「桔梗紋入りの、絹地を黒く染めた袷の袖」を手縫いしたものであるとする。ともあれ、書名となった『龍の袖』は婚約の証であり、「私の人生は、この袖に翻弄され、この袖に泣き、この袖に守られてきた」とあるように、その後の佐那の生き方を決定づける。
 安政5年は安政の大獄の年である。この年の1月、師の定吉から「北辰一刀流薙刀兵法皆伝」を授けられた龍馬は9月に土佐に帰国している。
 安政7年(1860)3月3日 桜田門外の変
 その後、二人が再会するのは文久2年(1862)。3月 脱藩して土佐を離れた龍馬は、8月に江戸に到着し、千葉道場に寄宿している。すでに25歳になっている愛娘・佐那を案じて定吉は「そなたは、佐那のことをどのように考えているのだ」131頁と龍馬に詰め寄るが、龍馬は「脱藩の身なれば」と平身低頭するばかりで、二人の関係が進展した気配はない。
 文久から元治、慶応へ。将軍不在の江戸から、政局の中心は完全に京都へと移っている。文久2年以後、龍馬が江戸に立ち寄ることはあるが(龍馬最後の江戸入りは元治元年6月のこと)、「許婚」の佐那との仲は疎遠にならないにしても濃密に進行する気配はなかったようだ。
 元治元年(1864)は7月19日 禁門の変、8月下関戦争、11月長州征討。
 元治元年2月、再度脱藩した龍馬は5月、京都で楢崎龍(お龍)と出会い、8月1日にはお龍と内祝言を挙げている。「仮祝言」という事実から、恋多き龍馬自身が「妻」「生涯の伴侶」と認めたのは、京女のお龍だけだったとする見方もあるが、作家は、龍馬と親しい京都の商人弥治郎に、「龍馬さまは無責任な約束などはしない人」と言わしめ、「約束した佐那にすまないという気持ちがあるのは間違いなかった。……内祝言とはいえ、これで龍馬は、すっかりお龍にからめとられてしまったのだ。……龍馬の寝床に自ら身を投じていったのはお龍に決まっている」と記している。

 慶応2年(1866年)1月、薩長同盟が成立。同盟がなった翌日の1月23日夜、龍馬は寺田屋で伏見町奉行の捕吏に襲撃され、負傷する(寺田屋遭難)。龍馬はお龍を伴い京都を離れ、薩摩の霧島温泉で長期療養逗留。「日本で初めての新婚旅行」とされるものだが、龍馬はどんな心境でお龍と旅をしていたのだろうか。「許婚」佐那との事実上の訣別を龍馬自身に意識させた旅ではなかったのか。龍馬の体も心もすでに佐那の元を離れてしまっていたのではないか。
 定吉・重太郎父子には龍馬を北辰一刀流千葉道場の一員として迎えたいという気持ちがあったのは確かであろう。千葉家は龍馬を自分の下に引き留めておきたかったにちがいない。長州征討に従軍するなど、京と江戸を往復していた重太郎は龍馬がお龍という「妾」を伴って九州に行ったこと、そのお龍が私こそ龍馬の「妻」だと胸を張っていたことも知っていた。が、このことを妹の佐那には告げるわけにはいかない。龍馬がいずれ妹を「妻」にしてくれる筈と信じていたから、と物語られる。
 慶応3年(1867)11月15日、龍馬は京都の近江屋で暗殺される。
 佐那は龍馬の死を知ったのちも、一生独身で通したとするのが通説であったが、佐那が元鳥取藩士・山口菊次郎と結婚していたとの新たな有力説がある。本作はこれに拠り、明治7年(1874)春、横浜に移住していた佐那は、山口菊次郎と所帯を持つ。龍馬を亡くして希望を失い、藁をもつかむ思いで結婚した佐那であったが、菊次郎には幻滅し、やがて離婚している。以後、結婚の事実そのものを否定し、一切語らなかったとする。
 最晩年は千住の地に「千葉灸治院」を建て家伝の灸を生業とした佐那は、明治29年(1896)10月15日、59歳の生涯を閉じている。お龍は佐那逝去の10年後、明治39年(1906)1月15日、66歳で没している。

 佐那の墓は、生前、灸治を通じて親交のあった甲府の自由民権家小田切謙明の妻・豊次によって、甲府市の清運寺に建てられた。その墓には「坂本龍馬室」という文字が彫られている。豊次は 「許婚」というよりも「妻」でありたいと願った佐那の想いを込めて「室」と刻んだのだろう。
 一方、お龍と30年連れ添った西村松兵衛は自らの「妻」西村ツルのために、「阪本龍馬之妻龍子之墓」という墓を作った。
 夫婦の形とは何か。夫婦には二人にしかわからない愛の形がある。

 作家は、佐那を実の姉妹のように愛する正姫が自らの意思で伴侶を選ぶことのできない大名同士の結婚に身を委ねて短い一生を終えたことや、龍馬を慕う、「人斬り以蔵」こと土佐藩郷士岡田以蔵と居酒屋の女の交情を描くことによって、「結婚はかなわなかった」佐那と龍馬の愛の形を描いている。
 お龍と佐那には共通点がある。突然、永別の日が訪れたこと。不遇の晩年を再婚の夫と送ったこと。どれほど龍馬が自分を愛してくれたかを胸に秘め、終生、龍馬の「妻」であったことを誇りに、ひっそりと生きたことなど。そして、お龍も佐那も「明治維新」の犠牲者であったということである。

 最近の龍馬研究では、あくまでも武力討伐によって幕府権力を奪取するという西郷隆盛板垣退助らの武力倒幕派に対して、龍馬がいかにして平和裏に幕府専制を解消させて新しい政治機構をつくるかに腐心していたとする見方が多いが、龍馬が目指していた夢、志とは何であったか。定吉が龍馬の死を佐那に告げ、「佐幕派の中にも勤王派の中にも、龍馬がいては邪魔だと思う者がいたのだ。……佐那、龍馬は男一人が一生を掛けてもできぬような働きをした男だぞ。婿には過ぎた男だった」と語るシーンがある。佐那と龍馬の二人の恋の行方とともに、時代を駆け抜けた風雲児・龍馬の人間像がいかに描かれているかも、小説の読みどころとなっている。
 龍馬の生まれた土佐・高知県に生まれ、佐那の眠る甲府市にほど近い山梨県笛吹市に居住する作家にして、はじめて紡ぎだすことができた物語である。
          (令和元年6月15日 雨宮由希夫 記)