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頼迅庵の歴史エッセイ11

11 柳生久通のキャリア(5)

○ 柳生久通の勤務状況等(前編)

 久通は天明 7 年 9 月 27 日に北町奉行に就任します。43 歳でした。天明8年9月10日に勘定奉行へ移動となるまで、およそ1年間北町奉行を務めることとなります。
 この人事が左遷であったことは、4で述べましたが、ではその勤務評定はどのようなものだったのでしょうか。左遷になるような酷い勤務状況だったのでしょうか。まずは1年間の久通の勤務状況を見てみましょう。
 といっても、評価者は松平定信などの老中ではありません。どちらかというと江戸の庶民です。水野左内為長の『よしに冊子』(随筆百花苑、中央公論社、以下同じ)によって見てみましょう。勤務評定という畏まったものではなく、世間の噂や評判といった方が正しいでしょうか。

 さて、その『よしの冊子』は、天明7年6月から始まっています。(注1)

「柳生主膳正ご奉公向き至って出精、大概(おおかた)功者何事も細かに念入りぬ。賄賂到って嫌いなり。併し、石河ほどの器量はなきよし」(17ページ)

 最初の内にに久通の評判がでてきます。「功者」とは「巧者」のことでしょうか。石河とは、前任の石河土佐守政武(注2)のことでしょう。
 時期的にまだ北町奉行に任じられる前ですので、小普請奉行時代の評価と思われます。石河の名がありますので、町奉行就任が噂されていたのでしょうか。

「柳生町奉行に仰せ付けられ候事(そうろうこと)、世間色々に申す沙汰あり。ご三代ご師範せしゆえ仰せ付けられ候や共いい、いずれ柳生など仰せ付けられ候はめずらし。大の通人なり。是まで撰挙の人、まず実体の方のみ多きに、柳生などの通人も召し出され候と申し合わせ候よし」(17~18ページ)

 ご三代とは徳川家光のことで、その師範とは柳生但馬守宗矩のことと思われます。選挙の人というのがもう一つよく分かりませんが、通人というのは、趣味的なことに通じている人のことで、特に吉原通いの人に用います。褒め言葉の一種です。就任当時は、概ね歓迎されていたようです。

「柳生主膳雑評勤向きは出精いたし候へ共、もと遊び好きにて、只今内に居り申し候妾は赤城(赤坂か?)か市谷の遊女にて、右妾の親分ロテウ(・・・)と申し候矇人(盲人のこと)にて、柳生家に浸り居り申し候よし。家事をば右矇人取り計らい候よし。もっとも金銀などもこの矇人借り出し候よし。右の事を存じ居り候者は、柳生を信仰仕らず候さた。一説に主膳正妾は芸者にてたいこ持ちキジヤウ(・・・・)と申すものの子分なり。右ゆえキジヤウ折々柳生々々と自慢致し候よし。一説に物をこらえ候人にて、先達て奥方侍と姦通致し候節も、知らぬふりにて侍を暇を出し、その後何となく奥方を離別いたし候よし。又一説に岩本内膳と續き御座候ゆえ、橋邸の方首尾宜しからんともいう。又一説に久世下野守は柳生が精勤を感じて心易くするともいう。世上にても未だ柳生には感服仕らず候さたも御座候よし」(40ページ)

 勤め向きは、出精ということですが、この辺りから、柳生の評判が少しずつ怪しくなってきます。私生活までが取り沙汰されるようになってきています。今も昔も公人は大変ですね。
 なお、文中「ロテウ」は意味不明です。「キジヤウ」は喜十でしょうか。いずれも人名と思われます。
 久通は奥方が侍と姦通したとき、まずその侍を解雇し、その後奥方と離別したようです。5で述べた通り、どちらの妻かは不明です。年齢的に考えて、後妻の新庄能登守の女でしょうか。奉行就任のこの頃は、赤坂(又は市ヶ谷)のたいこ持ち喜十の子で元芸者を妾にしていたようです。

「柳生用人を二人抱え申し候。一人は曲淵より山村へ送り候者にて、山村より右の者を柳生へ遣わし候よし。今一人は、土屋越前守町奉行時分の用人にて石川宗助と申し候。この宗助土屋の倅駿河守京町奉行時分にも用人をいたし居り、それより長崎奉行を拵え長崎奉行に仰せつけられ候ところ、土屋大病にて参り申さず候に付きこの用人も鎌倉へ引き込み候よし。土屋父子の時分に専ら賄賂取り候さた」(42~43ページ)

 久通は町奉行就任にあたり用人を二人抱えたようです。曲淵とは、天明の打ちこわし事件の際に「犬を食え」発言で失脚した北町奉行曲淵甲斐守のことです。山村とは、南町奉行山村信濃守良旺のことです。
 町奉行は小普請奉行と異なり、内与力と呼ばれる用人が必要となります。内与力とは、町奉行の秘書的な存在で、奉行所の与力や町役人との調整を行う等重要な役まわりです。そのためベテランを求めたものと思われます。信頼できる部下がいてこそ仕事もまわるものです。もしかしたら、町奉行に特化した渡り用人という形態は一般的だったのかもしれません。

「柳生主膳正、町方へ内縁を以って願い筋のこと申し込み候事は決して相成らずと触れ候よし。右に付き町人ども小言申し候よし。町へそんなことを触れずとも、手前の家来を厳しくしたがよいと申し候よし。もっとも町人どもを朝呼び出し晩まで待たせ候事など御座候よし。右に付き町人どもムセウに(無性にか?)下手念計り入るる。石河にはとても及ばぬとさた仕り候よし。併し家来をも能く能く厳しく申し付けば御座候よし。いずれにも智恵が無いとさた仕り候よし。武家にても柳生よりはいっそ松平織部がよかろう、柳生が若いせいか、町人どもまでも承知せぬそうじゃなどとさた仕り候よし」(46ページ)

 久通の評判は宜しくありません。その理由がいくつか述べられています。「若い」とは、年齢の意ではなく、経験不足という意味合いでしょうか。あるいは64歳で町奉行となった石河政武に比べて、43歳の久通は若いということなのでしょうか。どちらとも取れそうです。

「柳生の妾の名はいしたいこ持ちキジヤウ(喜十)という者親分に候よし。只今にてはキジヤウもあまり柳生へ参り申さざるよし。いしの致し方宜しくなきゆえ参り申さず候と申し候よし」(49ページ)

 久通の妾の名は、いし(・・)と言ったようです。

「柳生は粉骨砕身仕り候て相勤め候積もりのさた。併し内に居候盲などは柳生の事を少々自慢仕り候よし。しかし悪き取り持ちなどは仕えざるさた。町方などにて十人よれば八人はよく申さざるさた。よく精勤候ところ存じ候者はよく申し候よし。人望は軽きよし」(57ページ)

 粉骨砕身勤めているが、町人の評価は今ひとつといったところでしょうか。ただ、文章のニュアンスからすると久通への同情が読み取れるのは私だけでしょうか。

「柳生は白州へ出られ候ても、衣紋を取り繕い候計りにてさしたる智恵出申さず、ただ帳面を繰り返し詮索いたし候よし。町人共の悪口に、白州にては衣紋の繕いはいるまい、女郎買いとは違うと嘲り候よし」(60ページ)

 白州での状況が述べられています。かなり評判は良くないようで、かつて通人だったことから「衣紋の繕い」で当てこすられています。

「柳生は白州でとかく尋ね事に行きつかえ、又は挨拶にこまる。何でも年が若いから町奉行にはねっから移らぬ。中々石河の様にきれて出る智恵もなく、何の珍しいさばきはない。石河今一年勤めたら町方は怪しからずよかろう。柳生が百年勤めても石河の一年にも及ぶ事ではない。もう町方で検使見分捕り方などにも大いに物が入る。門前の腰掛の様子も大いに直ったが、この節は又段々崩れかかった。何でも町奉行を勤める程の人ではないそうでござると、寺社などにても評判有るよし。但し廉直の人ですべて念が入り過ぎる。当時は多く廉直の人が出候ゆえ、それで柳生の様な人も町奉行などの大役に仰せつけられた、というとさた御座候よし」(62ページ)【下線は私が引きました】

 廉直で町奉行になったと評判ですが、散々ないわれようですね。ここでも前任の石河と比較されています。寺社などの評判も悪いとのことですが、これは評定所でのことでしょうか。
 ちなみに、わずか3ヶ月ほどの在任だった石河ですが、なぜこれほど評判が良いのでしょうか。山本博文氏は、『武士の人事』(角川新書、120ページ)で、石河の父政朝の存在を指摘しています。政朝は6年間町奉行の職にありました。
 
 試しに、例によって『家譜』から石河政朝のキャリアを抜き出してみましょう。(注2)

 宝永6年4月6日:御小姓組番士(番入り)
 享保9年2月15日:御徒頭(1,000石)へ昇進
 同 10年12月15日:御目付(1,000石)へ異動
 同 14年12月22日:家督相続
 同 19年12月11日:小普請奉行(2,000石)へ昇進(18日:従五位下土佐守叙任)
 元文3年2月28日:町奉行(3,000石)へ昇進(北町奉行
 寛保2年4月6日:仰せをうけて刑罰条目の事を考定せしにより時服4領を賜う
 延享元年6月11日:大目付(3,000石)へ異動
 宝暦4年5月1日:西の丸御小姓組番頭(4,000石)へ昇進
 同 6年2月28日:御留守居(5,000石)へ昇進
 同 9年9月12日:請うて職を辞し寄合に列す
 同 11年8月27日:致仕
 明和2年8月2日:死去、享年80歳。

 このうち、「刑罰条目の事」とは、「公事方御定書」のことです。上下2巻あり、下巻が完成したのが寛保2年。ただし、上巻は元文3年に完成していました。編纂は3奉行が中心になって行われましたが、町奉行は石河政朝だったようです。「石河今一年勤めたら町方は怪しからずよかろう」とは、このことを踏まえているものと思われます。

 もう一つ注目して欲しいのは、政朝が、目付 ⇒ 小普請奉行 ⇒ 町奉行という久通と同じキャリアを経ていることです。しかも、晩年ではありますが、徳川吉宗治下の時代でした。
 こうしたこともあって、何かにつけて石河と比較されたのかもしれません。
 (続く)

(注1)目次の「一」が「天明7年6月19日より」となっており、本文も「天明7年御初年也」となっています。
(注2)足高の制が実施されたのは、享保8年(1723)のことです。