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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第30回 黄金狂時代

 四百メートル自由形水泳選手の、大横田努(林遣都)はトイレに駆け込んでいます。だいぶ苦しい様子でしたが、素知らぬ顔で皆のところに戻っていきます。
 ロサンゼルスの地にて昭和7年(1932)7月30日、第十回オリンピックが開幕します。参加国は37。日本からは過去最高の131人が出場します。アメリカに着く二番目の大所帯でした。競技は二週間にわたって行われます。田畑率いる水泳チームの登場は、大会八日目でした。
 選手村は活気にあふれ、英語からヒンズー語飛び交う、まさしくスポーツの楽園でした。
「あーあ、終わっちゃうな」
 水泳総監督、田畑政治阿部サダヲ)がうめきます。昨日始まったばかりですよ、と助監督に言われます。
「始まったら終わるだろう。終わったら帰らなくちゃいけないだろう。ずーっといたいよ」
 選手村が何やらざわついています。大砲のような音が響き渡っていました。田畑たちが近づいてみると、嘉納治五郎役所広司)が柔道の模範演技をしていました。田畑は嘉納の海外での人気に驚きます。田畑は嘉納に聞きます。
「なぜオリンピックで柔道をやらんのです」
 まだ機が熟していないからだ、と、嘉納はこたえます。
「今は、陸上水泳で様子を見つつ、水面下で普及活動をし、世界中に弟子を増やし、満を持して正式種目にする。その頃私は、百歳をとうに越え……」
 嘉納が放している途中に、本物の大砲の音が響き渡ります。アメリカ軍の演習でした。
 田畑はラジオのアナウンサーたちが、とぼとぼと引き上げるのに行き会います。田畑がたずねると、実況放送が中止になったというのです。スタジアムの放送席から、アメリカのスタジオを経由して、日本まで音声を無線で飛ばす計画でしたが、アメリカの組織委員会から待ったがかかったのです。ラジオで実況などすれば、客足が遠のくと。日本は関係ないだろう、と言う田畑。しかし日本だけ認めるわけにはいかない、というのがアメリカの言い分でした。仕方がないから競技が終わってから、その日の結果だけ放送しようとします。
「それだと新聞に勝てませんな」
 と、田畑は言います。ラジオは音声だけだが、新聞は写真を使って目に訴える。新聞は、撮ったフィルムをまず飛行機で運びます。それを洋上に落下させ、船で拾い上げます。飛行機からすぐにオートバイで受け取り、新聞社に運んだりします。ラジオアナウンサーの河西三省トータス松本)がアイデアを出します。
「ただ結果を伝えるのではなく、我々がスタジアムなりプールなりで競技を見て、その見たまま、感じたままを記憶し、それをこのスタジオで、実況のように再現するんですよ」
 それは「実感放送」と名付けられます。アナウンサーがまずノートを片手に試合を見、夜になってから車で放送局に、選手同伴で移動します。そして実感を込めてしゃべるのです。実感がこもりすぎて約十秒の競技を、一分かけて放送したりします。
 8月7日、いよいよ水泳競技が開幕します。若手の宮崎康二西山潤)の百メートル自由形の決勝で、田畑は気合いを入れます。
「全種目制覇だ」
 そして宮崎は金メダル。結果を出すのです。一緒に泳いでいた日本人選手も二位つけ、日本が金、銀のメダルを得ます。
 そして実感放送では、すぐに選手のインタビューが放送されるのです。チームメイトに感謝の言葉を伝える宮崎。田畑も大喜びです。
 喜びのあまり田畑は、リトルトーキョーにあるレストランで水泳選手たちにごちそうします。肉を食らう選手たち。監督の松澤一鶴皆川猿時)には内緒です。四百メートルの大横田に
「次はお前だ。宮崎に続け」
 と、気合いを入れる田畑。そこへ嘉納治五郎と、大日本体育協会会長の岸清一(岩松了)もやってきます。
「これで招致にもはずみがついたでしょう」
 と、うそぶく田畑。しかしIOC総会に出席した嘉納に待ち受けていたのは、想像よりも厳しい現実でした。1940年の候補地には、すでに世界の九都市が名乗りを上げていました。ローマ、ヘルシンキバルセロナブダペスト、ダブリン、アレキサンドリアブエノスアイレスリオデジャネイロトロント、そして東京は十番目。完全に出遅れた形でした。特にイタリアはムッソリーニが熱心に動いています。独裁体制のもと、オリンピック誘致を進めていました。距離の問題に加え、満州の一件以来、日本の評判は落ちています。
「わずかに可能性があるとすればドイツ次第」
 と言ったのは岸会長でした。ドイツのヒトラーはかねてよりオリンピック無用論を説いていました。ヒトラーが首相になれば、1936年にドイツで行われるはずのオリンピックを返上する可能性が高く、その場合、最も準備が進んでいるローマが繰り上がり、1940年はほかの候補地になるかもしれない。ナチスが政権を取れば、1940年のオリンピックが、東京に転がり込んでくる可能性があるのです。嘉納は言います。
ユダヤ人を公然と差別するような男だぞ。そんな奴のお下がりなど、絶対に嫌だ。スポーツが政治に屈するなど絶対にいかん」
 嘉納が驚いた大砲の音も、アメリカが日本を敵国と想定した訓練でした。
 オリンピック村の宿舎では、十六歳の小池礼三(前田旺志郎)が鶴田義行大東駿介)に相談していました。女子選手が気になって仕方ありません。
「僕には刺激が強すぎる。全員悩ましい。練習中どこを見ていいかわかりません。眠れないし毎日夢にまで出てくるんです。ああ、女子のせいで全然調子が出ない。悩ましい」
 と、もだえまくるのです。
「落ち着け小池。それは健康な証拠じゃ。スポーツで発散するんだ」
 と、言い聞かせる鶴田。しかし小池には効果がありません。
「スポーツで発散できないモヤモヤだったあるんです」
 といって小池はトイレにこもるのです。
 監督たちはその頃八百メートルリレーの選考を行っていました。アンカーを決めようとします。
「大横田でいいよ」
 と、監督の松澤は言います。リレーと四百決勝は同日だが、大横田ならやってくれる。そこに大横田が訪ねてくるのです。
「腹が痛くて、薬いただけますか」
 田畑が駆けつけ、大横田を心配します。
「何か悪いものでも食べたんですかね」
 と、助監督が言います。田畑は心当たりがありました。松澤に内緒で牛鍋を食わせていたのです。医者に診てもらうと、大横田は胃腸カタルだと判明します。大横田は四百に集中させるとして、リレーには誰を出すか皆で考えます。高石勝男(斎藤工)との声も出ましたが、松澤は反対します。田畑も高石の出場を支持していましたが、松澤にたしなめられます。
「一種目も失わないんでしょ。全種目制覇して日本を明るくするんじゃないんですか」
 結局ほかの選手が選ばれます。
 八百メートルリレー決勝が行われ、日本が大差をつけて優勝します。世界新記録を出しました。
 四百メートル自由形決勝が始まります。スタート台に立つ大横田。リレーを辞退しての体力を温存しての出場です。ピストルが撃ち鳴らされます。選手が一斉に飛び込みます。会場は総立ち。しかし大横田にいつもの伸びが見られません。大横田は三位にまで追い上げます。ついに大横田は二位に並びます。追い上げていきます。最後の粘り。しかし大横田は体が崩れてしまうのです。
 大横田は銅メダルでした。日本の全制覇の野望はここについえたのです。インタビューで大横田は言います。
「試合に出られない者もある中で、自分は恵まれていました。それなのに。肝心なときに。期待にこたえられず」
 泣いてしゃべる大横田を高石が止めるのです。