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頼迅庵の歴史エッセイ14

14 柳生久通のキャリア(8)【補遺】

前回で「江戸の北町奉行柳生主膳正久通について」は、終わりますと宣言しましたが、一つだけ忘れていたものがあります。それは長谷川平蔵宣以との比較です。そのため、補遺として追加したいと思います。
ちなみに、あくまでも「北町奉行柳生主膳正久通」については終わりです。日を改めて、「勘定奉行柳生主膳正久通」について書くつもりです。史料の捜索や読み込みを行っていますので、もうしばらくお待ち願います。

さて、閑話休題――。長谷川平蔵宣以(以下「平蔵」と略します。)についてです。
平蔵が火付盗賊改(以下「火盗改」と略します。)に任じられたのは、天明7年9月19日のことです。柳生久通が北町奉行を拝命したのが、天明7年9月27日ですから、ほとんど同時期といってよいでしょう。ただし、このときの平蔵は、同じ火盗改でも、「当分加役」という臨時職のようなものでした。
火盗改は、「幕府の軍事職制の一つである先手頭の兼任」(注1)です。先手組は、役料1,500石で若年寄配下。弓組と鉄砲組とがあり、与力・同心を率いました。江戸城本丸諸門の警衛を司り、将軍他行の際の警固にもあたりました。当然、番方の役職になります。この頭のうち一人が、火盗改という江戸市中の防火と警察の任にあたったのです。本役または定加役といいましたが、冬期の間だけもう一人任命されました。これを当分加役といったのです。その勤務状況を見て、やがて本役を仰せつかる者が多かったようです。

当分加役とはいえ、平蔵の勤務評価が高かったことは、12で見ました。
「加役の長谷川平蔵は勤め方宜しきに付き、先だって御褒美下され候へ」(注2)
 平蔵は、天明8年4月28日に当分加役を免ぜられ、同年10月2日に本役を命じられます。9月10日に久通は、勘定奉行に転じていますので、ほぼ入れ替わりといって良いかと思いますが、このときは平蔵を町奉行にという噂はありません。当分加役でしたから当然のことだと思います。

 ですが、本役になってからも平蔵の人気は高まる一方でした。その故か否かは分かりませんが、どうやら平蔵が、町奉行への昇進を望んでいたというのです。『鬼平と出世』から見てみましょう。
 寛政3年12月20日に北町奉行の初鹿野河内守が亡くなります。このとき後任に名前が上がったのが平蔵だったようです。江戸で最も人気があり、盗賊追捕の功績も高く、かつ、人足寄場設立に尽力し、人足寄場取扱を兼任して軌道に乗せていますので、実績は十分といっても良いでしょう。
 ですが、このときは小田切土佐守直年という人物が、大坂町奉行から任じられ、平蔵は無念の涙を呑みました。寛政元年9月7日も池田筑後守に掠われており、これで2回目ということになります。(注3)

 では、なぜ平蔵は町奉行になれなかったのでしょうか。その理由を「スタンドプレーの多い平蔵は、上司や同僚のうけがあまりよくなく、冷や飯を食わされた」(注3)と山本氏は述べています。江戸の庶民や部下には評判がよかったが、上司の受けが良くなかったため江戸の町奉行になれなかったというのが、『鬼平と出世』のトーンですが、果たしてそうでしょうか。

例によって、『家譜』から、平蔵のキャリアを見てみましょう。
 明和5年12月5日:将軍家治へ拝謁
 安永2年9月8日:父宣雄の遺跡を継ぐ
 同 3年4月13日:西の丸御書院番士(番入り)
 同 4年11月11日:進物の事を役す
 天明4年12月8日:西の丸御徒頭(役料1,000石)へ昇進
 同 6年7月26日:御先(手)弓頭(1,500石)へ昇進
 同 7年9月19日:盗賊追捕の役(火付盗賊改)~同8年4月28日【当分加役】
 同 8年10月2日:再び火付盗賊改【本役】
 寛政7年5月16日:盗賊追捕の役(火付盗賊改)を辞す
 同      19日:死去(年50)

 平蔵のキャリアを見て気付くことは、番方の経験しかないということです。役方の経験のない者をいかに評判が良いとはいえ、旗本の最高ポストの一つである町奉行に抜擢するでしょうか。
確かに町奉行は警察や裁判の仕事もありますが、それ以上に民政が重要です。キャリアを見れば一目瞭然で、平蔵の経験不足は明らかです。人事を担当する者としては慎重にならざるを得ないでしょう。上司の受けが良くなかったために町奉行になれなかったというのは、単なる風説に過ぎないと思って良さそうです。

 では、どうすれば町奉行の目があったのでしょうか。先手弓頭からいったん地方奉行に転出し、そこから下三奉行や勘定奉行を経て町奉行へ(あるいは直接)昇進ということであれば文句のつけようもありません。
寛政7年に亡くなるまで地方奉行転任の話はなかったのでしょうか。それとも人足寄場の御用に掛かりきりで時期を逃してしまったのでしょうか。

平蔵は寛政7年5月に火付盗賊改を辞していますが、これば病を得てのようです。辞去して直ぐに亡くなっています。年50はまだ働き盛りです。
人足寄場を軌道に乗せた実績を見れば、決して民政に不安があったとは思われません。もう少し長生きしていれば、あるいは地方奉行転任もあり得たかもしれません。
残念でならないと思うのは、当時の江戸市民だけではなかったでしょう。


(注1)『旗本たちの昇進競争-鬼平と出世-』(山本博文、角川文庫)、以下『鬼平と出世』と略します。
(注2)『よしの冊子』130ページ
(注3)『鬼平と出世』53ページ