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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第六回 三好長慶襲撃計画

 天文十七年(1548年)、秋。
 都で随一の権勢を誇っていた細川晴元(国広富之)と、その家臣の三好長慶(山路和宏)が、京の覇権をめぐり、一触即発の緊張状態にありました。都では主君を家臣か討つ下克上が横行していました。
 三好長慶松永久秀(吉田鋼太郎)の陣所をたずねていました。三好は公家衆との連歌の集いのために密かに京を訪れていたのでした。松永は連歌の集いに行く三好の供をすることになります。
 その頃、明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、鍛冶師の伊平次が分解した鉄砲を調べていました。松永のことを話題に上げ、伊平次は気になることをいいだすのです。
「しかし松永様も、今日という日をうまく切り抜けられるかどうか。御主君の三好様と一緒に討たれてしまわれたらおしまいだ」
 問いただす光秀。伊平次はとぼけますが、ついに遊女屋で耳にした会話を白状します。
「切るのは二人か」
三好長慶と側近の松永久秀だ」
「場所は」
万里小路家の離れ」
「警護の数は」
「お忍びで行く連歌の会ゆえ、共は少ないはず。二十人もいればかならず殺れる」
 三淵藤英(谷原章介)の館に、将軍の足利義輝(向井理)が来ていました。将軍と共に能を鑑賞する三淵に、家臣が耳打ちします。三淵は弟の細川藤孝(眞嶋秀和)と共に別室を訪れます。そこには光秀が待っていたのです。光秀は伊平次に案内されて三淵の館にやってきたのでした。用を聞かれ、光秀は話します。
松永久秀様のお命に関わることを耳にし、ご相談したく参りました」光秀は説明します。「本日、万里小路様の館で連歌の集いがあり、その席に松永様が御主君の三好様とおいでになる由。その折を捕え、不逞の輩が、お二人を討つ企てがあると聞き及び、三淵殿のお耳に入れるべきかと」
 三淵の弟の藤孝は、すぐに駆けつけなければ手遅れになるといいます。
「しかし我らが駆けつける理由はあるのか」と、力む三淵。「三好殿も松永殿も、去年まで血を流して争うていた相手ぞ」
 三淵は情報を披露します。今日の連歌の会は、裏で細川晴元が動き、行うことになった。二人を討ちたいのは細川晴元だろう。三淵は続けます。であるなら、所詮、細川勢の内輪もめだ。手を出すまでもない。しかし藤孝は三淵が止めるのも聞かず、行こうします。三淵は三淵なりの理由を光秀に語ります。自分たちは将軍義輝に使える身。自分たちが動けば、将軍の意思と見られてしまう。それは困る。立ち去ろうとする三淵に、光秀は呼びかけるのです。
「私が幼き頃、父から教わったのは、将軍は武家の統領であらせられるということです。すべての武士の頭であり、武士の鑑であり、武士を一つにまとめ、世を平らかに治めるお方であると。今、この世は平らかではありませぬ。この京でも、将軍のお膝元で、御家臣どうしが争われている。それに目をふさぎ、背を向けて、関わりなしと仰せになる。それでは我ら武士が一つにまとまる手立てがないではありませぬか。将軍が、争うなと一言お命じにならねば、世は平らかにはなりませぬ。三淵殿が将軍のおそばにおいでのお方なら、そのようにご進言いただきたい。これは私情で申し上げているのではありませぬ。武士の一人としてお願い申し上げているのです」
 ではこれにて、と光秀は話し終えると足早に去って行きます。
 その言葉を隣の部屋で聞いているものがいました。将軍義輝その人です。義輝は将軍奉公衆に命じます。
「あの者の後を追え」
 万里小路の館では、連歌の会が始められていました。そして館に侍たちが乱入してくるのです。懸命に防ごうとする松永でしたが、多勢に無勢で押し込まれます。三好長慶が斬られようとするその刹那、光秀と将軍奉公衆が駆けつけるのです。光秀たちは三好長慶松永久秀を逃がすことに成功するのです。
 馬に乗り通りを欠ける三好と松永を、格子窓の奥から見送る者がいました。細川晴元です。
「しくじりおって」
 と、鞭を床にたたきつけます。
 光秀は戦闘により、肩に傷を受けていました。京に帰ってきている医者の望月東庵をたずねることにするのでした。
 光秀は寝床で目を覚まします。枕元で東庵の助手である駒(門脇麦)が唄を歌っていました。東庵の家でした。到着するやいなや光秀は気を失い、二日間眠っていたのです。その間、駒がつきっきりで看病をしてくれていたのでした。
 その十日後、ともに万里小路の館で戦った藤孝が東庵の家にいる光秀を訪ねてきます。松永が感謝していることを述べ、土産に水飴を持ってきます。
明智殿は不思議なお方だ」と、藤孝はいいます。「この都では、松永殿といえば鬼か蛇かといわれ、皆が恐れているお方です。そのお方に易々と近づかれ、親しくしておられる。美濃に置いておくのは惜しいご仁じゃと、兄が申しておりました」
 松永は田舎者の自分を、面白がっているだけだ、と光秀はいいます。
「失礼ながら、私も面白がっています」藤孝は真面目な顔でいいます。「明智殿はたいそう面白い」
 藤孝は光秀が三淵の館で述べたことをいいます。言い訳をしようとする光秀に対して、藤孝はいいます。
「その通りなのです。明智殿は当たり前のことをおおせられた。しかし今、この京で、そう思う武士はごくわずかにすぎぬ」藤孝は感情をあらわにします。「明智殿のようなお方が、あと二人でも三人でもいて、我らの味方になってくれればと」
 藤孝は光秀に、美濃に帰らず、しばらく京にいてくれないかと頼みます。
「そうはいきませぬ」という光秀。「美濃も京と同じです。美濃の柱であった守護の土岐家は力を失い、家臣が皆ばらばらになっている。かろうじて、私の主君、斎藤山城守が美濃を一つにまとめてはいるが、国のものが皆、土岐家に代わる柱として従っているかというとそうではない。心苦しいが、私も何かが違うと思っている。しかしどうすれば我らが一つになれるか、それがわからない。それゆえ美濃に戻り、考えなければならない」光秀は藤孝に向き直ります。「五年先か十年先か、美濃が一つになれた折、またお目にかかります。その折には、美濃を挙げて藤孝殿を支えます」
 藤孝はいいます。
「争いを終え、一つになった諸大名が京にのぼり、将軍家を支えるならば、世は平らかになるはず。我らはそれを待ちます。それまで、戦うほかない」
 その頃、斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)は、いくさを行っています。西美濃にある、大柿城を攻撃していました。織田に奪われたこの城を奪い返しに出たのでした。いくさは道三の勝利に終わります。
 光秀は美濃への道を歩いていました。東庵の助手、駒がついてくるのです。
「先生もおっしゃっていたではありませんか。そんな傷があるのに、旅をするのは無茶ですと。一人で行かせるのは医者としての面目に関わる。駒、そなたついて行け」
 と、駒はいうのです。
 二人は夜、廃寺に泊まることになります。これを掛けて寝ろと、駒は筵(むしろ)を持ってきます。壁により掛かり、筵を掛けて眠ろうとする光秀でしたが、目を開けて駒に呼びかけます。
「駒殿が気になる。ここに入らぬか」
 と、光秀は筵を持ち上げるのです。躊躇する駒でしたが、結局、光秀のいうとおりにします。駒の肩を抱く光秀。光秀は駒が、東庵に引き取られる前に、旅芸人の一座にいたことを知るのです。