日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十回 家康への文

 永禄三年〈1560年〉。駿府。駒(門脇文)は商人から、近々大きないくさがあるとの話を聞きます。
「また、いくさですか」
 と、駒はつぶやきます。
 越前では、浪人の明智光秀十兵衛(長谷川博己)が寺で、子供たちに教えていました。授業を終えて家に帰ると、光秀のいとこである明智左馬助(間宮祥太郎)が尾張から戻った所でした。光秀には娘が生まれています。左馬助の所に行こうとする光秀を、妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)が呼び止めます。左馬助に湯漬けを出そうと思ったのだが、もう米がない、というのです。
 光秀は左馬助から報告を聞きます。今川義元が勢いを強め、尾張との国境の主だった城が、次々に今川に取り込まれているとのことでした。
「この大高城がくせものだな」
 と、光秀はいいます。
三河の兵で守りを固めております」
 と、左馬助。
「今川は尾張といくさをする時、必ず三河の兵を先陣につける」光秀は図面を見ながら立ち上がります。「となると、いくさは近いぞ。今、戦えば、尾張は危ない」
 夕暮れ時、光秀は思いつきます。
「左馬助。すまぬが、もう一度、尾張に足を運んでくれぬか」光秀は深刻な顔です。「今川と五分(ごぶ)に戦う手立てだが。帰蝶様に文(ふみ)を書くゆえ、渡してほしいのだ」
 そのころ、駿河では、今川義元が家臣たちに尾張に攻め込むべきかどうかをたずねていました。賛同する家臣たち。尾張を落とせば今川は、日の本(ひのもと)一の大大名となる、と家臣の一人がいいます。
 医者の望月東庵(堺正章)は、若い徳川家康(このころは松平元康)(風間俊介)と、将棋を指していました。場所は駿府(すんぷ)の智源院です。そこへ東庵の助手の駒と、家康の祖母である源応尼(真野響子)がやってきます。駒は灸(きゅう)の腕をたいそう上げたとのことでした。家康は尾張にいくさに行くことを東庵に打ち明けます。黙り込む東庵。駒が次の家に行くといって、部屋を後にします。家康も別れを告げて去っていくのです。残された東庵と源応尼は話します。
「先鋒を任され、織田信長勢の真っただ中に送り込まれるそうです」源応尼は話します。「三河の者は長らく、今川様の支配を受けてきて、尾張との戦いともなると、必ず、矢面(やおもて)に立たされます。自分の孫ゆえ、面倒を見ろと今川様に命じられておるが、やるせないかぎりじゃ」
 駒とともに、家康は歩いていました。
「館に帰っても家臣たちがいくさの話ばかりでつまらん」
 と、家康はいいます。
「いくさですから、いたしかたありませんね」
 という駒。
「いたしかたない。三河を今川様に返していただくまでは、いたしかたない。父上は亡くなり、母上は織田方の実家に帰され、私とおばば様はここで人質として置かれ。なにもかもいたしかたないのだ。されどな」家康は駒を振り返ります。「時々投げ出しとうなる。このまま寄り道を続けて、あれもこれも」
 駒はこれから、不思議な人にお灸をおこないに行くといいます。頭痛、腹痛、打ち身、何にでも効く丸薬をつくっている者だというのです。
「それを信じる人がいて、いくさの前にお守り代わりに買(こ)うていく人が多いのだそうです」駒はいいます。「何にでも効く薬など、この世にあるとは思いませぬが。効くと信じる人には、お守り代わりにはなるのかも知れませぬ」
「そのような薬があるのなら、誰でも心を動かされよう」家康は深刻な顔です。「私も、生きて帰れるのなら信じてみようかと」
 家康は駒からその丸薬を分けてもらうのです。
「それで元康(家康)様がご無事に帰るのなら、私も信じてみます」
 駒はいいます。
「これは駒殿からもろうたお守りじゃ」家康は駒を見つめます。「必ず生きて返って参る」
 駒はその言葉に深く頭を下げるのです。
 東庵は今川義元と会っていました。東庵は家康はここ数年、将棋を指す仲だそうだな、と義元は聞いてきます。
「万が一、元康(家康)が尾張に寝返れば、我が身が危うい。元康は、信ずるに足る若者と思うが、どうじゃ」
 その義元の言葉、東庵は答えます。
「元康様は、裏表(うらおもて)のないお方。殿がご案じになるようなお方ではないと存じます」
「よう申した」
 義元は満足します。
 永禄三年五月。今川義元は二万五千の軍勢を率いて、尾張を目指しました。
 尾張清洲城では、軍議が行われていました。しかし家臣が発言するのを織田信長(染谷将太)は聞いていません。居並ぶ家臣の間を歩いて部屋から出てしまいます。信長は、出かけようとする帰蝶を見つけます。帰蝶は熱田宮に行こうとしていました。帰蝶は信長も共に来るようにと誘います。勝てぬまでも、負けぬ手立てを考えなければ、と帰蝶はいいます。
「熱田に松平竹千代(家康)の母君、於大(おだい)殿と、叔父の水野殿がおいでになるのです」
 帰蝶は歩き出し、信奈かがそれを追います。
「そなたが呼んだのか」
 と、問う信長。
「殿の御名をお借りして文(ふみ)で」
 歩きながら帰蝶は答えます。
「誰に知恵をつけられた」
 と訪ねる信長。帰蝶は答えません。
「察しはつくがな」
 と、信長はつぶやきます。
 光秀は朝倉の城で、鉄砲を撃って見せていました。仕官を求めにやってきていたのでした。別の日に改めて光秀がやってきてみると、朝倉義景は蹴鞠(けまり)に興じていました。光秀は憤慨(ふんがい)します。家に帰ると左馬助にいいます。
「わしは、かような国に身をゆだねようとは思わぬ。今、尾張織田信長は、大一番のいくさに向かっているのだ」光秀は叫び出します。「にもかかわらずわしはこの国で何をしておる」
 光秀は左馬助に命じます。
「そなた、尾張への抜け道を見つけたと申しておったな。わしを案内(あない)せよ」
 熱田では、信長と帰蝶が、家康の母である於大の方と、その兄の水野信元に会っていました。於大の方は家康と十六年、会っていないということでした。信長は於大の方にいいます。
「わしが元康(家康)殿なら、十六年会わずとも、二十年会わずとも、名を聞けば胸を刺される。母は、母じゃ」
 於大の方は、すでに家康に当てた文(ふみ)を書いてきていました。その内容を信長に告げます。
「もはや道ですれちごうても、我が子とわからぬ、愚かな母であるが、このいくさで、我が子が命を落としたと聞けば、身も世もなく泣くであろう」
 水野はこの文をすぐに家康に届けると信長にいいます。
「だだし、ひとつ、お願いの義がごさりまする。以後、尾張は、三河の国に野心は持たぬと、必ず三河の者は三河に戻すと、お約束いただきとうござる。元康も、それなら納得いたしましょう」
 信長は水野にいいます。
「わかった。約束しよう」
 水野は障子の向こうにいた者に於大の方の文を託します。それは薬屋で働いていたはずの菊丸(岡村隆史)でした。
 五月十六日。今川義元は、本隊の兵と共に、三河岡崎城に入ります。先鋒の徳川家康は、翌十七日、尾張に入ります。
 信長は側近と今川勢の道筋について話していました。地図において予想される地点には「桶狭間」の文字が記されてありました。
 家康は大高城に入城します。休もうと一人になったとき、庭に何者かいることに気づくのです。菊丸でした。家康は菊丸を春次と呼び、部屋に導き入れるのです。菊丸は於大の方の記した文を家康に差し出します。それを読み始めて家康は顔をゆがめます。
「このいくさは勝っても負けてもよきことは何もない。互いが傷つくばかりで。それゆえ、いくさから身を引きなされ。母はひたすら元康殿に会いたい。穏やかに、何事もなく、ほかに何も望まぬとも」
 家康は読んで涙をすすります。
「これが母上の」
 菊丸がいいます。
「殿、これは、三河の者すべての願いでございます。今川を利するいくさに、お味方なされますな。今川ある限り、三河は、百代の後も日が当たりませぬ。私は、この日のために、殿にお仕えして参りました。なにとぞ、今川をお討ちください。織田につき、今川勢を退け、三河を、再び三河のものに、戻していただきとうございます。どうか」
 その頃、光秀は左馬助と共に、尾張への道を急いでいました。