日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十回 朝倉義景を討て

 永禄十二年(1569年)、夏。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は京の二条城から、美濃に出発しようとしていました。木下藤吉郎(のちの秀吉)(佐々木蔵之介)見送りにやってきます。木下は探りを入れるようにいいます。

「こたびは岐阜城に、松永久秀吉田鋼太郎)様や奉公衆の三淵藤英(谷原章介)様なども信長様に招かれておいでと、密かに聞いております。明智様も行かれるとなると、やはり次のいくさのお話でもあるのですかなあ」

 とぼける光秀。木下は立ち上がって障子戸を閉めます。

「この幕府には、越前の朝倉義景ユースケ・サンタマリア)とつながりのある者があまたおります。成り上がり者の織田に支えられるより、由緒正しき大大名、朝倉あたりに支えてほしいといろいろ企てをいたす者がおる。かかる輩を一掃せねば幕府は新しくなりませぬ。そのためには、朝倉を倒すのが一番。そう思われませぬか」

 光秀は木下にいいます。

「私は十年もの月日を、越前で過ごした。朝倉様といくさをするには、相当の兵の数と、銭がいる」

 木下と別れ、光秀は城中で駒(門脇麦)と会います。駒は将軍足利義昭滝藤賢一)に会いに行くところでした。

 駒は義昭に銭を届けに来たのでした。義輝は貧しい者、病に苦しむ者を救う館を造ろうとしていました。駒はそのための資金を持ってきたのです。

 光秀は美濃の岐阜城に到着していました。松永久秀と出会います。松永はいいます。

「今の信長殿の勢いをもってすれば、例え相手が誰であろうと、負けることはあるまい。朝倉は、上洛を果たした信長殿が憎いのだ。隙あらば、取って代わろうと思っておるのだ」

 そこへ三淵藤英がやってきます。松永が聞きます。

「信長殿とは、どのような話になったのじゃ」

 三淵は答えます。

「信長殿ははっきりとおおせられた。朝倉と一戦交えたいと」

「それで良いのじゃ」

 という松永。

「しかし私は申し上げた」三淵は冷淡に話します。「公方様は、朝倉にお世話になったことがあるゆえ、共に戦うわけには参りますまいと。いくさに加わるには大義名分が必要」

 そして光秀は信長に呼ばれるのです。

 しかし部屋に信長はいませんでした。子供が座っています。信長の嫡男である奇妙丸(のちの織田信忠)でした。帰蝶川口春奈)がやってきて奇妙丸を下がらせます。帰蝶は光秀に信長の様子を話します。

「こたびも、ずいぶんお悩みのご様子。いくさをしてよいものかどうか、お集まりになった方々の話を聞き、さらに迷うておられる。今、庭におられる。お話しすれば、お聞き入れになるはず。なにとぞ、よしなに」

 帰蝶は光秀に頭を下げるのでした。光秀は立ち上がり、振り返ります。

帰蝶様は、朝倉とのいくさをどう思われますか」

 帰蝶も立ち上がります。

「我が兄の子、斎藤達興は、朝倉をそそのかし、この美濃を取り返そうと企んでおる。国境(くにざがい)ではすでに、朝倉方と小競り合いが続いておる。京は一時(いっとき)穏やかになったとて、足下の美濃に火がつけば、すべてまた一から始めねばなりますまい。それゆえ私は申し上げました。朝倉をお討ちなされと」

 光秀は庭にいる信長に会います。信長は鷹を前にし、光秀に背中を向けたままいいます。

「朝倉相手に、一人では勝てぬ。何かよい手はないか」

 光秀は話し始めます。

「こちらへ参る日、京の御所の前を通りました。崩れていた塀が、いつの間にか、見事に修繕されておりました。聞けば、信長様が命じられ、塀と南の御門をお直しになったと」

「昔、父上が、荒れ果てた御所の話を聞き、帝(みかど)の御座所がそれでは、武士の面目が立たぬと、お直ししたのだが、今また、見る影もないと、公家たちが嘆くのを聞いた」信長は光秀に振り返ります。「父上への、供養と思うてな」

 光秀はうなずき、前に出ます。

「昔、読んだ書物に、八歳の子が、父親に問う話がありました。尊い仏は、誰から仏の道を教わったのか、と。一番尊い仏から教わったのだ、と父親が答えると、その一番尊い仏は、誰から教わったのかと問われ、父親は答えられず、空より降ってきた者から、と答えたという話です」

 信長も話します。

「以前話した父上の話とよう似ておるな。この世で一番えらいのはお天道様で、その次は、都におわす帝(みかど)。将軍は、その帝の門を守るものであると。その将軍が帝の門を守る役目を放り出し、門は破れ、世が乱れた」そして信長は気付くのです。「帝は、このいくさをどう思われるかお聞きしてみたいものだな。このいくさが、天下を平らかにするための、避けて通れぬ道であると申し上げ、それをお認めいただければ大義名分が立つ。違うか」

 光秀は態勢を低くします。

「そうなれば、諸国の大名たちも納得いたし、兵も集まりましょう。しかし、お認めにならねば、信長様お一人のいくさとなります」

「賭けだな。帝は拝謁(はいえつ)を許されると思うか」

「あのように南の御門をお直しになったのです。叩けば、門は開くやも知れません」

 信長は城に光秀の妻子を呼んでいました。喜んで光秀は家族と会います。妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)はいいます。これは娘たちの願いであるし、自分の願いでもある。自分たちを京に呼んではもらえないか。父の苦労をしのぶのではなく、目の当たりにしたいと娘がいっている。

「いくさにおいでになるのなら、お見送りしたいと。それが、美濃ではかなわぬと。私も、十兵衛様のご出陣を、お見送りしとうございます」

 ついに光秀はいうのです。

「来るか、京へ」

 医師の長谷川東庵(堺正章)は、謎の人物と囲碁を打っていました。その人物は信長と会うことを迷っていました。東庵は、お会いになってはいかがかと、といいます。信長はどんな武将なのかとたずねる謎の人物。東庵は答えます。

「越後の上杉輝虎も上洛し、天下に平安と静謐をもたらせて見せると胸張っておりましたが、今日まで音沙汰はなし。信長はそれを曲がりなりにも果たした。見るべき所はあるかと」

 謎の人物はうなずくのです。

 永楽十三年(1570年)二月。上洛した信長は、直ちに参内し、帝に拝謁しました。信長は、昇殿を許される身分ではありませんでしたが、帝は破格の扱いをしたのでした。

 戻った信長を、光秀が待っていました。

「帝は。どのような」

 と、問う光秀。信長は満面に笑みを浮かべます。

「帝はわしをようご存じであった。今川義元とのいくさ。美濃とのいくさ。将軍を擁(よう)しての上洛。いずれも見事なりとおおせになり、武勇の誉れを天下に示したと。当代一の武将なりと、お褒めいただいた。帝が、わしを」信長は光秀の前に座ります。「御所の修復も、ありがたしとの言葉をたまわり、さらにこうおおせになられた。天下静謐のため、いっそう励むようにと。この都。この機内を平らかにすべし。そのためのいくさならば、やむなしと。勅命をいただいたのじゃ。いくさの勅命を」

 越前の一乗谷では、朝倉義景ユースケ・サンタマリア)が家臣の山崎義家(榎本孝明)から文(ふみ)を受け取っていました。それは幕府政所(まんどころ)頭人である摂津晴門片岡鶴太郎)からのものでした。山崎がいいます。

織田信長が上洛し、諸国の大名を集めいくさの用意を始めたよし。紛れもなく、この越前をにらんでの動きだと」

 朝倉義景は摂津からの文を読みます。

「幕府は、あくまでわしや上杉輝虎殿に将軍を支えて欲しいとある。摂津殿はわしの古き友じゃ。織田ごとき成り上がり者になにができる、との思いが、ひたひたと伝わる文ではないか。幕府はわしが織田を討ち、上洛する日を待ち望んでおるのじゃ。これはわしに立てという文ぞ」

 京の二条城では、足利義昭に光秀が謁見していました。光秀は信長の言葉を伝えます。

「帝の勅命は、天からのご命令であり、幕府も総出で、若狭の武藤を討つべきと」

 義輝はいいます。

「いくさがあれば和議の仲立ちをいたすのが将軍の務めと思うておる。この都にとどまり、吉報を待つ」

 若狭の武藤を討つとは、白々しい口実だ、というのは摂津晴門でした。

「はっきり申されればよいのじゃ。上杉まで足を伸ばして朝倉義景を討つつもりじゃと」

 同席していた三淵藤英(谷原章介)がいいます。

明智殿。以前に申したとおり、公方様は朝倉と戦うつもりはない。多くの大名に支えられることを望んでおられる。朝倉様もそのお一人じゃ。それを織田様も、わきまえるべきと存ずる」

 光秀は間も開けずにいいます。

「お言葉なれど、朝倉様にこの京都、機内を守り、天下を静めんとする気概はありませぬ」

 摂津が話し出します。

明智様も、よくよくお考えいただきたい。大事は、皆の力で成すのじゃ。どなたかお一人の力で天下を支えられるとお思いになられるのは、思い上がりというもの。幕府は、この都を守らねばならん。織田様が、いくさをおやりになろうとも、我らは京の外へ一歩たりとも出るつもりはない」

 妙覚寺では信長が家臣らと、杯を交わしていました。信長は立ち上がって叫びます。

「出陣じゃ」