天正七年(1579年)、夏。丹波の八上城と黒井城がようやく落城しました。明智光秀十兵衛はこれによって、丹波全域を平定することに成功したのでした。
光秀(長谷川博己)は敗北した将を前に語ります。
「方々は、安土の織田信長様のもとに、送られる。戦いをやめ、城を明け渡した潔(いさぎよ)さに鑑(かんが)み、お命はお助けするよう申し上げてある。安んじて、旅立たれるがよい」
将たちは、光秀に頭を下げるのでした。
近江の安土城に光秀と細川藤孝(眞島秀和)は、勝利の報告に訪れます。信長(染谷将太)は上機嫌で二人を誉めます。そして近習の森蘭丸(板垣瑞正)に命じて、三つの甕(かめ)を持ってこさせるのです。甕の中には人の首が入っていました。近江で光秀に降伏した将たちです。信長はにこやかにいいます。
「生きたまま、よう送り届けてくれた。慈恩寺で磔(はりつけ)にし、そなたに見せようと思うて塩漬けにしておいた」
そしてそれらを皆に回すように命じるのです。
信長は、ひとり光秀を呼び出します。朝廷に頼んで、官位を授けるというのです。光秀は困惑し、信長が官位を辞したことを述べます。すると信長は、帝(みかど)が東宮(とうぐう)(誠仁親王)に譲位すれば、喜んでもらう、といい出します。
「では、上様は、どうあっても東宮へのご譲位を」
ゆっくりと光秀は発音します。
「むろん。その方が何かとやりやすい。その手始めに、東宮を二条に新たに造ったお住まいにお渡り願うて、そこを朝廷としたいのじゃ」
「それは」
光秀は身を乗り出します。
「その御所替えの奉行を、そなたと、細川藤孝にやってもらう」
「わたくし」
光秀は聞き返します。
「近頃、御所とは親しいそなたじゃ。適任だと思うぞ。何としても、東宮を御所からお渡りいただけ。よいな」
京の若宮御殿に光秀と藤孝はやってきます。意外にも東宮は承諾するのです。
帰りの廊下で光秀は首を振ります。
「やはり違うな。これは違うぞ」と立ち止り、藤孝を振り返ります。「武家が、帝のご譲位をとやかく申し上げるべきではない。二条へのお渡りも行き過ぎじゃ。そう思わぬか」
「それがしも、これはいかがかと存じます」
「これはわが殿の大きな誤り。やはり、明日のお渡りはやめていただこう。止めるぞ」
と、引き返そうとする光秀を藤孝は制します。
「今は事を荒立てぬ方がよろしいかと」藤孝はあたりを気にします。「上様が帝の譲位を望まれる限り、次々と手を打たれる」
藤孝の懸命な制止に、光秀は引き返すことをやめるのです。
その年の十一月、東宮は、二条の新しい御所に移りました。
三条西真澄の館では、伊呂波大夫(尾野真千子)が話していました。部屋には元関白の近衛前久(本郷奏多)と細川藤孝がいます。
「ここの爺様がお亡くなりになった途端、この始末ですか。爺様が生きておいでなら、東宮様をむざむざ御所から引き離すようなへまはさせなかったでしょうね」
それに対して前久がいいます。
「仕方がなかろう。爺様も所詮、信長の力を頼りに、朝廷を立て直そうとされていた。幕府があったころは、御所の塀も直せない有様であった。それに比べれば、信長になってからは、一応公家も大事にされておるしな」
大夫は首を振ります。
「駄目だめ、世の中は公家だけじゃないのです。武家だけでもない。百姓や商人(あきんど)や、伊呂波大夫一座の芸人もいるのです。皆がよい世と思えるような」
藤孝が発言します。
「私も長らく幕府に仕えていたい者として、まことに耳が痛い。わが殿なら、天下一統がなり、世が治まるかと思うたが、いくさのやむ気配がない。おのれの力不足というほかない」
「そう思うなら何とかしてくださいよ」と大夫。「信長様が頼りにならないのなら、帝は誰を頼りに世を治めればよいのです。前(さき)様。誰です」
前久は大夫を振り返ります。
「目下のところ、やはり明智でしょう。明智なら、信長も一目置いている」
藤孝もうなずきます。
「私もそう思います」
天正八年(1580年)、四月。本願寺の指揮者、顕如(けんにょ)は、五年にわたる籠城の末、力尽き、大阪の地を信長に明け渡しました。その直後、信長は、本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛を追放します。
光秀は夢を見て飛び起きます。望月東庵(堺正章)の治療院を訪ねるのです。そこで帰蝶(川口春奈)が京に来ていることを知らされます。光秀は駒と話をします。そして自分が毎日見ている夢の内容を打ち明けるのです。
「月にまで届く、大きな木を伐(き)る夢なのだ。見ると、その木に登って、月に行こうとしている者がいる。どうやら、それは信長様のように見える。昔話で、月に上った者は、二度と帰らぬという。わしは、そうさせぬため、木を伐っているのだ。しかし、その木を伐れば、信長様の命はない。わしは夢の中で、そのことをわかっている。わかっていて、その木を伐り続ける。このまま同じ夢を見続ければ、わしは信長様を」光秀は目を見開いています。「嫌な夢じゃ」
光秀は帰蝶を訪ねていました。帰蝶の父である斎藤道三なら、どう考えるかを聞きに来たのです。
「信長様のことであろう」
帰蝶は切り出します。
「道三様なら、どうなされましょう」
「毒を盛る。信長様に」
決意のまなざしでいう帰蝶。光秀は表情を変えません。帰蝶は続けます。
「胸が痛む。わが夫。ここまでともに戦こうてきたお方。しかし父上なら、それで十兵衛の道が開けるなら、迷わずそうなさるであろう」
「道三様は私に、信長様と共に、新たな世を作れとおおせられました。信長様あっての私でございます。そのお人に毒を盛るのは、おのれに毒を盛るのと、同じに存じます」
「今の信長様をつくったのは、父上であり、そなたなのじゃ。その信長様が独り歩きを始められ、思わぬ仕儀となった。やむを得まい」帰蝶は目に涙を浮かべます。「よろず、つくったものが、その始末を為すほかあるまい。違うか」
天正十年(1582年)、三月。織田信長と徳川家康の軍勢は、一斉に甲斐の国に攻め寄せ、武田信玄の子、勝頼を討ち取りました。信玄の死から九年、織田、徳川の宿敵、甲斐の武田氏は滅びました。
信濃の諏訪の館で、家康と光秀は話します。以前船中で光秀と話した後、家康は妻と息子を殺していたのでした。打ち解けた様子で家康は話します。光秀の治める近江と丹波の国がよく治まっている。どのようなことを心掛けているのか。光秀も親しげに答えます。その様子を森蘭丸が見ていたのです。
信長は家臣たちと酒盛りをしていました。安土の城に家康を招き、今回の戦勝祝いをしたいと語ります。森蘭丸が信長に伝えます。家康はその饗応(きょうおう)役を光秀にやって欲しいといっているというのです。丹波長秀がいいます。
「徳川殿は宴で毒を盛られるのを恐れておるのじゃ。武田が消えた今、東海を支配するのは徳川殿のみ。これを消してしまえば、上様の天下となる。わしならそれぐらいは考えるからのう」
天正十年(1582年)、五月。近江の安土城にて、家康をもてなす宴が開始されました。上機嫌でいた信長が、膳が違うといい出します。光秀は作法にのっとって用意したのですが、信長の命令と違っていたのでした。慌てて取り換えようとする光秀は、椀の汁を信長の膝にこぼしてしまうのです。信長は扇子で光秀の手を打ち、続いて首筋に当てます。さらに信長は、光秀を蹴り落とします。しかし責め寄る森蘭丸を光秀は投げ飛ばし、信長をにらみつけるのでした。