大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第15回 篤太夫、薩摩潜入
栄一(吉沢亮)と喜作(高良健吾)は一橋(ひとつばし)家から、初めての俸禄(給料)をもらいます。平岡円四郎(堤真一)は二人の故郷の領主であった、岡部に話を通してくれていました。これで栄一と喜作は、正真正銘の武士となったのでした。平岡は二人に武士らしい名も与えます。栄一は篤太夫、喜作は成一郎となったのでした。
京の一橋邸(若洲屋敷)で働く栄一、もとい篤太夫はしだいに同僚たちと打ち解けていきます。そうして一橋邸で働く者たちの多くが、様々な所から地位にもこだわらず集められたことを知ります。古くからの一橋家の家臣はむしろ少なかったのです。一橋家には身分の別がないことを篤太夫は知ります。関守だろうが農民だろうが、有能な者が集められていたのでした。
ある日、篤太夫はひとり平岡に呼び出されます。
「おぬしに頼みたいのは、いわば隠密だ」
公儀は天子の膝元である大阪湾を、異国の船から守らなければならないと思っている。そこで台場を築くことになり、対岸防備にくわしいと評判の、折田要蔵という者が抜擢された。折田は薩摩人だ。篤太夫にその人物を調べて来て欲しい。江戸のまつりごとは将軍に任せ、慶喜(草彅剛)は禁裏(京)を守ることに専念してもらいたい。そのため、もし折田の評判が本当であれば薩摩から引き抜きたい。折田は今、大阪にいる。篤太夫はそこに入り込み、どんな人物であるか探ってきて欲しい。平岡は篤太夫を脅かします。
「向こうはなんかあれば即、斬っちまうような、血の気の多い薩摩隼人だ。ひょっとすると、やられちまうかもしんねえが」
栄一は即座にいいます。
「そう易々とはやられません。日の本の役に立ちてえと、幼い頃から鍛錬して参りました」
こうして篤太夫は大阪の折田要蔵のもとにやって来ます。篤太夫が一橋の家臣と知って、怪しむ二人の薩摩藩士がいました。篤太夫は折田に、掃除や写本を申しつけられます。
折田のもとには、薩摩藩はもちろん、幕府の役人や、会津、備中、土佐など、台場造りを学ぶ多くの武士が出入りしていました。二人の武士が篤太夫にこぼします。
「折田先生の話、よく分かんねえ」
篤太夫は折田の鹿児島弁を解説してみせるのです。感心する二人の武士。
「なまりのせいだけじゃね。折田先生は話も大風呂敷広げてるばあで、あんま信用できん」
と、一人の武士が言います。折田の評判は良くありません。
「大変だ。喧嘩が始まってしもうた」
と、飛び込んでくる者がいます。行ってみると、折田が首を押さえられていました。その相手こそ西郷吉之助(博多華丸)だったのです。
夜になり、折田と西郷は酒を酌み交わして談笑します。その場に篤太夫もいました。篤太夫は西郷に気に入られるのでした。
それから篤太夫は折田の使い走りをしたり、書類や絵図を書いたりと、数週間真面目に働いて休みの日に、一旦、京へと戻ってきました。平岡に会い、折田がたいした人物ではないことを伝えます。
「よくやった」と、平岡は立ち去ろうとします。「荷物をまとめて帰ってこい」
それを篤太夫が建言したいことがある、といって引き止めます。篤太夫はいいます。
「この一橋家は、すでに我々のごとき、草莽(そうもう)の者をお召し抱えになっております。もし、少しでもそれがしがお役に立ったとお考えであれば、この先、さらに広く、天下の志士を抱えられてはいかがかと存じます」
「それってえのは、お前の昔の仲間のことか」
「はい。関東の仲間には相当な者がなっからおります。大阪から戻りましたら、その者たちの人選のため、それがしと喜作、成一郎を関東へと差し遣わせてはいただけませんでしょうか」
「いや、実はこっちも、優秀な家臣や兵を増やさねばと、常々思っている。しっかし、金がねえ。さほど高い録や、高い身分を望まずに、一橋家に仕えてやろうという了見の者がいると思うか」
「おります。必ずおります」
平岡はこの案を慶喜に建言することを約束するのでした。
薩摩は、朝廷と深く関わり、政治の表舞台に再び立とうと目論みました。そのため禁裏、つまり京都御所を警護する、禁裏御守衛総督の座を手に入れようとしました。
それを慶喜たちは知ります。平岡がいいます。
「もしそうなれば、薩摩が正式に朝廷を取り込み、京でまつりごとを始めることになる。つまりこの日の本に、薩摩七十七万石の、もう一つの政府ができると同じ」
冷静な表情で、慶喜がいいます。
「そのはかりごとは、何としても止めねばならぬ。もとはといえば、私を担ぎ出したのも天子様を担ぎ出したのも薩摩ではあるが、今、天子様に信が厚いのは、ご公儀と、京を守っている会津殿と、そして私だ」
平岡は公家方を回り、禁裏御守衛総督は慶喜に仰せつけられたしと運動するつもりだと述べます。
三月二十五日、慶喜は将軍後見職を免じられ、それと同時に朝廷から、禁裏御守衛総督に任命されました。
島津久光は大久保一蔵から、国に戻るよう勧められます。国に戻って兵を整え、将来のいくさに備えるのだと諭されます。久光は西郷たちを藩邸に残し、側役の大久保一蔵らと京を去ることになりました。そしてこの時から、薩摩藩の方針は、打倒徳川へと向かい始めたのでした。
その頃、水戸では藤田小四郎以下六十二人が、攘夷を唱え、筑波山にて挙兵しました。
大阪では篤太夫が折田要蔵の屋敷を後にしようとしていました。篤太夫は各国の者たちの間に入って話をまとめたるなどして、皆の信望を得ていました。篤太夫は西郷に誘われ、二人で話をすることになります。西郷は篤太夫に問います。
「おはんはこん先、こん世はどげんなるちゅう思う」
篤太夫は考えながら述べます。
「それがしは、そのうち幕府が倒れ、どこかしらの強い豪族による、豪族政治が始まると思います。幕府には、はあもう力がねえし、天子様のおわす朝廷には兵力がありません。徳川の代わりに、誰かが治めるべきです。それには、一橋様がよろしいのではないかと考えます」
西郷は酒を取りに立ち上がります。そしてつぶやくようにいうのです。
「薩摩が治めっとじゃいけもはんか」
栄一ははっきりといいます。
「薩摩の今のお殿様には、その徳がおありですか」
西郷は答えることができません。栄一は西郷を振り返ります。
「おありなら、それも良いと思います。それがしは、徳ある方に、才ある者をもちいて、この国を一つにまとめてもらいてえ。しかし、一橋の殿もああ見えてなかなかのお方で」
二人は豚肉を食いながら飲み直します。その中で西郷は平岡について述べるのです。
「あまい先んこつが見えすぎる人間は、往々にして非業の最期を遂げてしまうとじゃ」
平岡は家老並に昇進していました。篤太夫の建白は聞き届けられ、成一郎と共に、関東に人を集めるための出張を命じられるのでした。