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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第21回 篤太夫、遠き道へ

 篤太夫(吉沢亮)は、慶喜(草彅剛)の側近である、原市之進(尾上寛之)に会っていました。

「内々の話であるが」原は膝を進めます。「きたる卯の年、フランスのパリにて、博覧会という催しが開かれる。なんでも、西洋東洋の万国が、おのれの国の自慢の物産を持ち寄り、これはいい、あれはいいなどと品定めをする会だそうだ」篤太夫が話し出しますが、原は無視して続けます。「その会に、わが国も初めて公に参加することとなった」

「それはご英断でございます」篤太夫は頭を下げます。「まあ確かに、異国には優れた品もありますが、日の本とて優れたものは存分にございますので、それを夷狄に見せつける好機」

 篤太夫がなかなか話し終わらないので、いらついた原は扇子で膝を打って見せます。

「話を最後まで聞け。その博覧会には、国の威信をかけ、各国の王族が集まる。それゆえ、フランスは我が国からも王族を送るよう求めておる。天子様は異国に行くなどもってのほかゆえ、上様の弟君の民部公子(徳川昭武)をお送りすることとなった。民部公子は、会津松平家にご養子に入られることになっていたが、このたび上様のご意向により、清水家をご相続された。これほどの身分のお方が国を出るのは初めてのこと。しかし、お付きの水戸の者が反対し、行くなら三十人は付いて参るといいだす始末。どうにか数を減らしたが、異人と見れば斬ってかかるような連中ばかりだ。それゆえ、上様が内々におっしゃられたのだ。渋沢であれば公儀との間を取り持つのに適任ではないかと。つまり、おぬしに頼みたいのは、一行の一員としてパリへ参ることだ」

 原はよく考えてから返事をするように篤太夫にいいます。しかし篤太夫は胸を押さえ、驚きながらも

「参ります」

 と、即答するのです。いぶかしむ原に、篤太夫は自分の気持ちを説明します。

「それがしは今、まことに胸がぐるぐるとしております。詰まっちまった道に、思わぬ一条の光が差し、ぐるぐるした、ああ、おかしろくてたまらねえんでございます」

 後日、篤太夫大目付の永井尚志から帳面を受け取り、説明を受けます。異国に出る際には、公儀から旅費を前貸しする。帰国したらそれぞれ、何にいくら使用したかを報告し、篤太夫が勘定を仕上げなければならない。通辞や医師なども同行する。永井は篤太夫に「見立て養子」のことも説明します。家を断絶させないために、先に跡継ぎを決めておかねばならない。

 孝明天皇の強い希望もあり、慶喜は、第十五代将軍の座に着きました。

 その数日後、孝明天皇崩御します。

 慶喜の聞こえないところで家臣たちが話します。

「ここからが朝廷と一丸となり、公儀を盛り上げる好機だったと申しますのに」

 まもなく睦仁(むつひと)親王(後の明治天皇)が位を継ぐ。その後ろについているのは、以前追い出された、公儀に歯向かう公家ばかりだ。

 慶応三年(1867)。二条城に篤太夫は来ていました。ひれ伏して慶喜の到来を待ちます。

「おもてを上げよ」

 と、慶喜にいわれてその姿を見、篤太夫は驚くのです。慶喜はなんとフランスの軍服を着ていたのです。慶喜ナポレオン三世から送られたものだと説明します。慶喜は弟の昭武(あきたけ)(板垣李光人)に篤太夫を紹介します。慶喜は昭武に五つの心得を話します。

一、会が終わった後、イギリス、オランダ、プロシアなどの各国を訪れ、その地の者にあいさつをすること。

二、それが終われば、フランスにて、学問を修めること。三年から五年。まだ足りぬ時は、さらに長く学んでも構わない。

三、学んでいる間は、師を必ず重んじよ。

四、もしも日の本に、常ならぬ事変が起きたと風聞を耳にすることがあっても、決してみだりに動かぬこと。

五、このたびの渡欧の一行は、一和に円満につとめること。

 慶喜は篤太夫と話すために人払いをします。二人きりになると打ち解けた様子で慶喜はいうのです。

「どうする。もう将軍になってしまった」慶喜は表情を引き締めます。「内外多難の今、かように重き荷を負っても、もはや私の力などでは及ばぬことも分かりきっておる。ゆえに行く末は、欧州にて、じかに広き見よう見知った、若き人材に将軍の座を継がせたい。それにはあの昭武がふさわしい」

「まさかそのようなお考えだったとは」

「それより問題は、昭武が一人前となって戻るまで、私が公儀を潰さずにおられるかどうかだ。しかしこうなった以上、私も易々と潰されるわけには参らぬ」

 翌日、昭武の一行は京を出発し、船で横浜に到着しました。神奈川奉行所にて、篤太夫は昭武にあいさつする小栗忠順(上野介)(武田真治)の姿を目にします。そしてフランス公使のロッシュが昭武と握手をする様子を目撃するのです。

「何と馴れ馴れしい」

 篤太夫は欧州のあいさつに驚くのでした。篤太夫は外国方の杉浦愛蔵(志尊淳)に、福沢諭吉や福地源一郎らを紹介されます。

 篤太夫は小栗から、今回の欧州行きの大きな目的が、六百万ドルの借款(しゃっかん)だと聞かされます。小栗は篤太夫にこぼします。

「公儀については、五年はおろか、三年先、一年先も分からん」小栗は世界地図を見ます。「私がメリケンに行ったのは六年前だ。公用の後、いろいろと見学をしたが、驚いたのは造船所だ。蒸気機関の仕掛けで、重い鉄の骨組みや木の板が軽々と持ち上げられ、巨大な船を造っていた」小栗は懐から何やら取り出します。「ネジだ。船も蒸気機関も、ネジにより組み立てられている。このネジまでもが、メリケンでは機械によって驚くべき早さで作られていた。我が国は、何も勝てぬのだと知った。しかし心意気だけは負ける訳にはいかん。今すぐにでも、日本にあのような造船所をつくらねばと思った。今さら造船所ができたところで、その時分に公儀がどうなっておるかは分からん。しかし、いつか公儀のしたことが日本の役に立ち、徳川のおかげで助かったといわれるなら、それもお家の名誉となろう。おぬしなら、嫌いな異国からでも多くのことを学べよう。無事に戻れば、共に励もうぞ」

 篤太夫は杉浦に江戸行きの許可をもらいます。成一郎(高良健吾)に会うためです。しかし成一郎は、役目を終えて、京に戻ったと聞かされます。篤太夫は長七郎(真島真之介)を見舞うために、小石川の代官所を訪れます。そこで成一郎と出会うのです。成一郎は長七郎と面会するために代官所に通い続けていたのでした。再会を喜ぶ二人。篤太夫は成一郎にフランス行きのことを話します。説明しようにもうまく言葉が出てきません。

「ちっと、訳が分からねえ」

 成一郎がいいます。

「俺も訳が分からねえ。しかしこの先はきっと、もっと訳の分からねえところに、飛び込むことになるんだ」

「おめえ、ちっとわくわくしてねえか」

「わくわくなどしてねえ」篤太夫は距離を取るように立ち上がります。「日の本のために行くんだ。三年から五年は戻ってこられねえ。あさってには船が出るから、故郷には文(ふみ)で知らせるしかねえが、お前にはその前に何としても会っておきたかった。長七郎もだ。ずっと顔を見てねえ」

 そこへ二人に、代官所から声がかかるのです。

「今宵はよろしきようです」

 長七郎と会うことが許されました。二人は長七郎の牢の前にやって来ます。長七郎は嘆きます。

「ここは、生きたまんま死んでるみてえだ。捨てるべきだった命を、捨てることのできねえまま、今宵もこうして月を思い浮かべるしかねえ」

 長七郎と会った後、二人はそばを食べます。長七郎のことを話し、成一郎はこれからもなるべく顔を見に行くといいます。

「しかし、おめえがそのような公儀の大事な一行に加わるとはのう」

 と、成一郎。

「ただ、いくつかしんぺえ事が残っとる。一つは、見立て養子のことだい。俺は、市太郎を亡くしたから、息子がいねえ。そこでだ。尾高の平九郎を見立て養子にできねえかと思うんだが、どう思う」

 篤太夫の養子になれば、幕臣ということになります。成一郎はいいます。

「俺も、兄ぃや平九郎を徳川に呼びたいと思っておった」

 そのことを成一郎が故郷に行って話してくれるといいます。しかし篤太夫はほかにも心配事があるのでした。

「おめえも知っての通り、お千代はあの器量良しだ。なっから女盛りでもある。その女を、おのれの都合でなげー間、ほったらかしにして。もしやお千代は今頃」

 それを聞いて成一郎は笑い出すのです。お千代にはくれぐれも節操を守れと俺から伝えておいてやる、と成一郎は請け負うのでした。

 一月十一日、篤太夫は横浜からアルフェー号に乗り込んでいました。船内を見て回ります。荷物を置いた後、篤太夫は船の舳先に立ちます。幼い頃、岡部の陣屋に忍び込んだことを思い出していました。牢にいた砲術家高島秋帆が嘆くようにいうのです。

「このままでは、この国は終わる。誰かが守らなくてはな」

 少年の篤太夫は力強くいいます。

「俺が守ってやんべえ。この国を」