日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第23回 篤太夫と最後の将軍

 パリにいる幕府の使節団に、フランスからの六百万ドルの借款(しゃっかん)が消滅したとの知らせが入ります。同時にパリに来ていた薩摩が風聞を流し、幕府の信用が落としめられたためです。問題は民部公子(徳川昭武)(板垣李光人)が諸国へあいさつ回りするための十万ドルをどうするかということです。

「いや、策はある」外国奉行支配の田辺太一(山中聡)がいいます。「民部公子の名義で為替(かわせ)を発行し、買い取らせた先から日本の公儀に対し、取り立てさせる」

 フランスが駄目でも、オランダの貿易商社や、イギリスのオリエンタルバンクなら応じてくれる。その交渉を、篤太夫吉沢亮)が引き受けるのです。

 当面の費用をなんとか調達した昭武一行は、条約を結んだ諸国への旅に出発しました。スイスのベルンにて、外国奉行の栗本鋤雲(池内万作)と合流します。なぜわざわざ来たのかとの問いに、栗本は答えます。

「薩摩めに落とされた、公儀の信用を取り戻しに来たに決まっておりまする」栗本は一行の顔を見回します。「私は上様より、日本は公儀のものであることを示す弁明を持参した。借款もやり直さねばならぬ。あの借款は、公儀の命運を握る金だ」栗本は振り返ります。「杉浦は今後の方針を仰ぐために先に帰国せよ。渋沢。これは小栗様より預かってきた為替だ。公儀は金のない中、こたびの旅も中止にせよとのことであったが、諸国の信用を失わぬためにも、この為替を使って至極簡素に旅を続けよ。おぬしに任せたぞ」

 と、栗本は篤太夫を見つめるのでした。。

 日本では慶喜の側近である原市之進(尾上寛之)が斬られます。下手人は直参の二人でした。慶喜(草彅剛)は嘆きます。

「なぜだ。なぜわたしの大事なものを次々と奪う」

 血洗島では平九郎(岡田健史)が正式に篤太夫の養子となります。しばらく直参として江戸に暮らすことになります。平九郎は栄一の妹、てい(藤野涼子)、と結婚の約束をするのでした。

 京では岩倉具視山内圭哉)が大久保一蔵(石丸幹二)に図面を見せていました。

「これがあれば、いくさになっても心配あらしまへん」

 大久保が聞きます。

「こいは、錦(にしき)の御旗(みはた)」

「そうです。この御旗も源平から足利の頃までいろいろありますよって、生地を大和錦に紅白緞子で、ぱーっと。目切ったらそれでよろしい。けちったらあかん」などと岩倉は話します。「まつりごとを朝廷に返すはもちろんのこと、徳川を払わねばとてもとても、真の王政復古とはいえしまへん」

 大久保がいいます。

「わが薩摩や、長州と芸州は、王政復古の大業のため、国を投げ打ち、悪逆徳川を討ち払う所存でごわすが、土佐などはまだ、内部でもめちょります」

「はあ、その間に徳川が勢いとり戻したらどないする」

「そげんなる前にどうか、一刻も早う倒幕の宣旨(せんじ)をいただきとうございもす」

 伏見の薩摩藩邸に、おびただしい武器が運び込まれています。

「いくさじゃ」

 と、西郷吉之助(博多華丸)がつぶやいています。西郷は天璋院様御守衛という名目で浪人を集め、きたるべき時に備えていました。

 慶喜は一人で碁を打ちながらつぶやいています。

「このままではいつ薩摩が兵を起こすか分からぬ。いまだ借款はならず、陸海軍も整わぬ中、このまま後手に回り、いくさとなれば、必ず長州征討のような負けいくさとなろう。いっそ、朝廷にまつりごとをお返しするか。さすれば薩摩は、振り上げた拳を下ろす場所を失う。五百年まつりごとから離れている朝廷に力がないのは明らか。こうなればまだ公儀に見込みがある」

 慶応三年(1867)十月十二日。二条城にて、慶喜は政権を帝(みかど)に返すことを宣言します。

 江戸城では小栗忠順(上野介)(武田真治)が話していました。

「大政の奉還は、公儀の滅亡を急がせるもの」皆が騒ぎます。「さような議論より、この公儀未曾有の危機に際し、まずはまつりごとを一刻も早く取り戻すのが急務でございまする。すみやかに江戸より軍を上京させ、薩長、土佐、芸州など、公儀に刃向かう者らに兵端を開かせ、その機に乗じて、天子様の周囲から奴らを一掃し、その巣窟を滅ぼすのです」

 江戸城では大奥でも混乱が起っていました。自害して果てようというものが出ていたのです。天璋院上白石萌音)に喉に突きつけた刃を押さえられた歌橋はいいます。

「この世はもう、終わったも同じでございまする。奥に関わったものとして、生きてこの先を見とうはございませぬ」歌橋は泣き崩れます。「慶喜が、徳川を殺したのです」

 あばら屋で洗濯板を使う岩倉具視が、大久保一蔵にいいます。

慶喜というのはえらい男や。せっかく蟄居(ちっきょ)のわしが、あっちに手紙を出し、こっちにこっそり足を運んでと、えらい思いして倒幕の密勅をひねり出したというのに、先手を打ってくるとはな」

 大久保がいいます。

「大政を奉還しても結局、朝廷は、先のことが決まるまで、将軍職はこれまで通りと申しております。こげんなことでは、ないも変わらん」

 そこへ岩倉に文(ふみ)が届きます。蟄居が解かれたとの内容でした。岩倉は喜び、張り切ります。

 パリでは、各国歴訪を終えた昭武たちが、留学生活に入りました。教師となるのは、陸軍中佐ヴィレットです。民部公子に見合った帝王学を学ばせるようにと、ナポレオン三世より遣わされたのでした。ヴィレットは 民部公子をはじめ皆が、髷(まげ)を落とし、刀を外し、洋服を着ることを要求します。水戸藩士たちはヴィレットに凄みますが

「そのような格好では何も学べない」

 と、叱りつけられます。

「郷に入れば郷に従えじゃ」

 と、栗本鋤雲もいいます。篤太夫はこの成り行きを面白がっている様子でした。

 篤太夫は軍人のヴィレットと銀行のオーナーのエラールが親しげに話しているのを目撃します。

「商人(あきんど)と身分の高い武士が、まるで友のように話をするとは」

 エラールは答えます。

「フランスでは役人も軍人も商人も同じです」

 篤太夫はベルギーで国王自らが、民部公子に鉄を売り込んできたことを思い出します。

「そうか。異国がどこか風通しいいのはこのせいか。日の本では、民はいくら賢くてもお上の思し召し次第。なかったことでも『うん』とうなずかされ、サギをカラスだと無理な押しつけをされることは良くある。ここにはそれはねえ。皆が同じ場に立ち、皆がそれぞれ国のために励んでおる。そうだい、本来これこそが真(まこと)のはずだ。身分などに関わりなく、誰もが、その力を生かせる場で励むべきだと。こうでなくてはならねえ。鉄道や、水道やガスもニュースペーパーもだが、この理(ことわり)こそ、日の本に移さねば」

 水戸藩士三人はフランスの生活になじめず、外国方の向山、田辺らと共に日本に帰ることになります。

 慶応三年(1868)十二月九日。京の御所に公家たちが入ろうとすると、薩摩兵に制止されます。薩摩の西郷ら、反幕府勢力がついに動き出したのです。朝廷を一気に支配下に置こうという、クーデターの始まりでした。そして王政復古が宣言されるのです。

 その夜、国の方針を立てるための小御所会議が開かれました。

慶喜公がこの席に見えんな」前土佐藩主、山内容堂が発言します。「このたびの一件は、実に陰険なところが多いき。ことに王政復古の始めにあたり、兵で御所の門を固めるとは、もってのほか。そもそも二百年このかた、天下を無事に治めてきたのは、徳川の功績ではないかね。慶喜公は、祖先から受け継いだ将軍職をも投げ打って、大政を奉還された。慶喜公が優れた人物いうことは、もう天下に知られておる。会議をするなら、ここに呼ばんでどうするのじゃ」

 松平春獄要潤)も同意します。

「この場に、その主たる位置に付くべき慶喜公がおられぬのは解(げ)せん。また、徳川宗家のご領地を、返還せよとの命も、的外れに思える」

 会議は紛糾します。会議の間に大久保と話す岩倉に、西郷が話しかけてきます。

「こいはいっといくさをせんな」

 岩倉がいいます。

「向こうが戦おうともしてへんのに、こっちがいくさを仕掛けたんでは道理が立たしまへん」

 西郷は不敵な笑みを浮かべます。

「いくさがしたくなかちゅうなら、したくなるようにすっだけじゃあ」

 大阪城にいる慶喜のもとへ、成一郎(高良健吾)が報告に訪れます。

「三日前、江戸城二の丸が放火されたとのこと。薩摩が、奥におられる天璋院様を奪うために、仕組んだこととの風説でございます」

 慶喜はいいます。

「いや、これは罠だ。動いてはならぬ」

 他にも知らせを持ってくる者がいます。

「庄内を先鋒とする諸兵が、薩摩屋敷を砲撃。ただちにいくさと相成りましてございます」

「戦端を切ったのか」慶喜はつぶやくようにいいます。「何が起っても、耐えろと申したのに。耐えて待ちさえすれば時は来ると」

 慶喜重臣たちの前に出ます。

「薩摩を討つべし」

 重臣たちは口々にそれを述べるのでした。