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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第26回 篤太夫、駿府で励む

 明治元年も暮れになります。篤太夫吉沢亮)は駿府藩庁にいました。

「渋沢篤太夫に、駿府藩の、勘定組頭を申しつける」

 といったのは、駿府藩中老の大久保一翁(いちおう)(木場勝己)でした。

「いえ、お受けできません」

 と、篤太夫は断り、理由を語ります。自分は民部公子から頼まれ、慶喜の返書を受け取りに来ただけだ。駿府藩の家臣である平岡準がいいます。

「その御返書なら、当方から直(じか)に差し出すゆえ、そなたが持参する必要はなくなった」

「それは異な」篤太夫は納得できません。「民部公子は必ず届けよと仰せになられた。上様のご様子を直に聞きたいという兄弟の情さえ叶えていだけぬとは、なんたる非情」

 それについて大久保が説明します。これは慶喜の取り計らいだ。水戸は情勢不安定で、危険な場所だ。篤太夫が水戸に行けば、民部公子に重く用いられる。そうすれば必ず妬まれ、平岡円四郎のように斬られることが予想される。慶喜の心を知り、篤太夫は頭を下げます。

「それがしの思慮が足りず、お恥ずかしい限り。しかし」と、篤太夫は顔を上げるのです。「勘定組頭への仕官は、辞退させていただきたい。今や、駿府徳川家は七十万石の大名に過ぎず、そこに八百万石の頃からの家臣たちが、養って欲しいと押し寄せている。それがしは、一時(いっとき)でも幕臣としていただいた、百姓の矜持(きょうじ)として、録(ろく)をいただくことなく、この地で百姓か、あるいは商(あきな)いをして、心穏やかに、余生を過ごしたく存じます」

 篤はパリで一緒だった杉浦愛藏(志尊淳)と話をします。杉浦は今、学問所で漢学や洋学を教えているとのことでした。二人は大勢の武士たちが列を作っているのを見ます。杉浦はいいます。

「僕は洋行できたから良かった。録もなく、扶持(ふち)米で食いつないでいる元幕臣の方がずっと多い。駿府に流れてきたものの、空き家や馬小屋に泊まるほか無く、民からお泊まりさんと呼ばれ、厄介者扱いだそうだ」

 武士たちは金を受け取るために並んでいたのでした。篤太夫は列の中に、慶喜が将軍になる前からの家臣であり、篤太夫とも共に働いていた川村恵十郎(浪岡一喜)の姿を見つけます。そこへ大久保一翁と共にいた平岡順が、勘定組頭になるように熱心に口説いてきます。断る篤太夫でしたが、平岡の「太政官札」の言葉に反応します。

「その太政官札、見せてもらえますか」

 篤太夫は山と積まれた太政官札を前にします。平岡順がいいます。

「これだ。新政府が諸藩の財政を救うため、石高に応じて一石一両の割で各藩に貸し付けたのだ」

「いや、財政を救うというのは新政府とやらの建前で、これはただの借金です。もしうっかり使い、返すことができなければ駿府は破産しますぞ」

 と、いう篤太夫に、平岡順は、もう半分ほど使ってしまったといいます。篤太夫は驚きます。

「なんと、それだけ多くの金を使い、この先、駿府に金が入ってくる確かな見込みはあるのですか」

 平岡順はうなだれ、いいます。

「頼む渋沢、駿府を救ってくれ」

 篤太夫は多くの家臣たちと、商人たちの前で語ります。

「これ以上、藩の借金を増やさぬためにはこの先、太政官札はもう藩の費用とは思わず、別会計とされたほうがよい。そして、残りの二十五万両分の拝借金である太政官札を、この渋沢に預けていただきたい」篤太夫は、後ろに居並ぶ商人に近づきます。「それがしは、この駿府藩の預かり金と、ここにおられる商人の皆様の金をできるだけ多く集め、新しきこと、始めたいと思っております」篤太夫は、図面を皆の前に広げます。「西洋でいうところの、コンパニーを始めさせていただきたい」

 篤太夫は説明します。西洋では、商人は自分の金だけでなく、民から金を集めて商売をしている。一人ひとりの金は小さくても、集めれば大きな金になる。一人ひとりの力が小さくてできないことも、皆の力を合わせることでそれが可能になる。その商売が大きくなれば、利益が大きくなる。利益で貸借金を返納し、元手を出したものに、利が出た分の、配当金を支払う。ここで川村恵十郎が発言します。

「待て。我らに、商人と共に働けというのか」

 篤太夫は答えます。

「そうです。西洋では、商人と武士は共に働き……」

 篤太夫をさえぎり、家臣の一人がいいます。

「ふざけるな。さようなことができるか」

 他の家臣たちも同意します。商人の方もいいます。

「渋沢様、お言葉ではございますが、商人もなんとも懐が厳しく」

 家臣たちが去り、話はまとまりませんでした。

 篤太夫はその後も旧幕臣や商人らの説得を続け、ついに銀行と商社を兼ね備えた「商法会所」を設立するのです。

 篤太夫は東京に行くことにします。三井組事務所に番頭の三野村利左衛門(イッセー尾形)を訪ねます。

「ついては」と、篤太夫は切り出します。「三井が作られたというこの太政官札を、正金に替えていただけぬかと、ご相談に参りました」

 しかし三野村が用意した正金は、札の額面より二割も安かったのです。

「今はそれぐらいが相場でござんしょ」

 と、いってのける三野村。篤太夫は食い下がりますが、結局は引き下がるしかありませんでした。東京で干鰯(ほしか)や油かすなどを購入している時、篤太夫はザンギリ頭の男に話しかけられます。この辺りは荒っぽい官軍崩れが多い。新政府が官軍の兵に録を払えないため、商人や町人へのゆすり、たかりを黙認している、とのことでした。そして篤太夫は、その男が五代才助(ディーン・フジオカ)であることを知るのです。パリで公儀の一行を苦しめた薩摩の代表でした。しかし篤太夫は五代を見失ってしまいます。

 篤太夫駿府に妻子を呼び寄せます。篤太夫たちの暮らす部屋は、商法会書の中にありました。娘のうたは

「小せえ」と文句をいいます。「じいさまのとこのお蚕様のお部屋よりも小せえに」

 その後、三人は楽しく夕食をとるのでした。

 商法会所に入ろうとする武士に、篤太夫は刀を外すようにいいます。武士の一人が食ってかかります。

「なぜじゃ。なぜそれがしが商人の様な格好をせねばならぬ」

「私も商人です。それに、武士も商人も、上も下もない。むしろここでは、商人の皆さんの方が手練(てだ)れだ」篤太夫は今度は商人に向けて話します。「そしてあなた方も、商人だからと卑屈になられては困る。金だけ儲ければいいと、道理に背くようなことがあってはなりませぬ」

 商人の側から萩原四郎兵衛(田中要次)が話します。

「ほりゃほうだね。駿府にお武家様がたんとおいでになった際は、おいらも頭、抱えました。今まで以上に御用金を頼りにされちゃ、たまらんわと。ほいでも、合本(がっぽん)がええ塩梅(あんばい)に転がりゃ、きっと日本中がまねすることにならあ。おもろい。渋沢様。この茶問屋、萩原四郎兵衛。この先は、矜持をもって協力いたしまする」

 萩原が頭を下げ、商人たちも共に頭を下げるのでした。感激する篤太夫。武士たちの中にいた川村恵十郎が、刀に手をかけるのです。川村は篤太夫に近づき、二本の刀を渡すといいます。

「何から始めればよいのか教えよ」

 そして机の前に腰を下ろすのでした。他の武士たちも次々と刀を外していきます。篤太夫は宣言します。

「我ら駿府が、新しき商(あきな)いの、先駆けとなりましょう」

 こうして、篤太夫が手がけた商法会所は軌道に乗り、順調に利益を出すようになっていきました。

 一方、函館では、土方歳三(町田啓太)が、自分の髪を故郷の日野に届けるように命じていました。そこへ成一郎(高良健吾)がやって来ます。

「俺はこれ以上死に遅れるわけには行かぬ」土方がいいます。「この勢いでは遅かれ早かれ我らは負ける。だとすればせめて、新撰組の名に恥じぬよう潔く散り、胸を張って、あの世で共と酒を酌み交わしたい」

「それならば俺も」

 という成一郎を土方はさえぎります。

「おぬしの友は生きるといったぞ。おぬしも俺とは違う。生のにおいがする。おぬしは生きろ。生きて日の本の行く末を見届けよ。ひょっとすると、その方がよほどつらいかもしれぬ」

 土方は成一郎を落ち延びさせるのでした。

 この数日後、五稜郭が開城します。全ての徳川の戦いが終わったのでした。

 商法会所で一人そろばんをはじく川村を篤太夫は見つけます。

「函館が、降伏したと」

 と、篤太夫は知らせます。

「知っておる」川村は作業をやめません。「俺は、平岡様の命も守れず、いくさでも死に損ない、徳川に捧げられなかった命を持て余してここに来た。皆、そうだ。ただ録が欲しくて流れてきたのではない。徳川のために、何かできぬかと」

 築地の大隈邸では、函館陥落の知らせに、伊藤博文大隈重信などが喝采を上げていました。そこに五代才助が入って来ます。大隈は五代に、フランスから来た民部公子の旅館の賃料などの払い戻しの書類を見せます。大隈は新政府の国庫に入れようとしましたが、その一行の会計係が、民部公子のために徳川が出した金のため、全部駿府藩に引き渡すのが筋だといってきた、と述べます。その財務担当の名前は「渋沢」でした。五代は別の記事を確かめます。駿府藩の渋沢篤太夫は、民部公子の一行に随行した際、自分一個の才覚で四万両の利益を蓄え、この四万両を、駿府藩内に配布……。

「フランスで四万両の利ば蓄えた」

 と、大隈重信は仰天します。

「渋沢」

 と、五代はつぶやきます。