日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第11回 許されざる嘘

 頼朝(大泉洋)が仲立ちをすると請け合い、北条義時小栗旬)は八重(新垣結衣)と結婚するつもりになっていました。しかし

「お断りいたします」

 と、八重からはっきりと拒絶されるのでした。

 義時は頼朝の使者として、梶原景時中村獅童)の館を訪ねます。

「わしは頑固で融通が利かない。人の間違いをいちいち正さなければ気がすまぬような男」梶原は義時にいいます。「かえって足並みを乱すことになったら、申し訳ない」

 義時は首を振ります。

「大庭方でのお働きを聞き、わがあるじが、ぜひに、と」

 治承四年(1180)十二月十二日。鎌倉に頼朝の御所が完成しました。

 義時は挙兵以来の武功をまとめた書面を、頼朝に差し出します。

「これをもとに、あらためて恩賞を決めよう。平家の一味より奪った所領を分け与える」

 と、頼朝は述べ、義時の名がないことに気付くのです。遠慮する義時に頼朝はいいます。

「わしが誰よりも頼りにしているのは、お前だ」

「そのお言葉だけで十分でございます」

「ではこうしよう。舅殿が、江間の地を欲しがっておった。あそこをやろう。伊東も敗れ、ちょうど空いておる。舅殿にはわしからいっておく。もらってくれ」

「ありがたく、お受けいたします」

 義時は頭を下げるのでした。和田義盛横田栄司)がやって来ます。頼朝は和田に、侍所の別当を命じます。その役割は家人(けにん)のとりまとめ役です。頼朝の命令を皆に伝え、いくさとなれば、軍勢を集めることになります。和田は感激のあまり、言葉がまとまりません。

 御所に入ったこの日、頼朝は家人一同を集め、所領を与えて、主従の契(ちぎ)りを交わしました。まさに関東に独自政権が芽生えた瞬間でした。皆を代表して、上総広常(佐藤浩市)が述べます。

「我ら一丸となって、お支えいたします」

 頼朝は「鎌倉殿」となり、その家人は「御家人」となります。

 まさに同じ日、平清盛松平健)は、以仁王(もちひとおう)をかくまった園城寺を焼き討ちします。さらに平家にたてついた奈良の寺々が襲撃され、東大寺大仏殿も焼け落ちました。

 梶原景時が頼朝の前にやって来ます。

「おぬしが石橋山で、見逃してくれたからこそ、今のわしがおる。その恩に報いようではないか」

 と、梶原は、侍所の所司(補佐役)を申しつけられます。

 治承五年(1181)閏(うるう)二月四日、大きく歴史が動きます。平清盛は床に伏していました。息子の平宗盛小泉孝太郎)にうめくようにいいます。

「頼朝を殺せ。わしの墓前に、あやつの首を供えるのだ」

 英雄、平清盛は享年六十四にして、この世を去ったのでした。

 親族たちのいる前で、頼朝は手を合わせていました。笑い声を上げ、無念そうに顔をゆがめます。やがて決意の表情で立ち上がります。

「清盛の首をこの手で取ることはかなわなかったが、平家のとどめは、わしが刺す。我らの力で、必ずや滅ぼして見せようぞ」

 清盛の死を受け、宗盛は、後白河法皇西田敏行)に政権を返上します。しかし宗盛はいいます。

「いくさをやめるつもりはございませぬ。改めて、頼朝追討の院宣(いんぜん)を賜りたく存じます」

 頼朝を殺せ。清盛の死に際の一言が、平家の運命を狂わせていきます。

 源行家杉本哲太)が頼朝を訪ねてきます。

「またあの叔父上か、関わるとろくなことがない」

 と、頼朝は追い返すように命じます。

 行家は義時と安達盛長(野添義弘)に迫っていました。

「なぜ頼朝は京に攻め上らぬ。兵を一万ほど貸してもらいたい。美濃、尾張で平家を討つ」

 義時は答えます。

「今は飢饉で、兵を挙げる余裕がございません」

「もうよい」

 と、行家は怒っていってしまいます。

 義経菅田将暉)は、兄の義円(成河)をそそのかし、行家についていかせます。頼朝に向けて書いた文(ふみ)を、義経は破り捨てるのでした。

 しかし頼朝は破り捨てられた義円の文を入手していました。

「なぜ捨てた」と、義経を責めます。「義円は目障りか。我ら兄弟が力を合わせねばならぬ時に」頼朝は義経を叱りつけます。「愚か者。しばらく謹慎して頭を冷やせ」

 義円が鎌倉に戻ることはありませんでした。行家の軍勢が、墨俣河で平家とぶつかり、大敗したのです。

 飢饉のためにいくさが止んだその年の冬、北条政子小池栄子)が懐妊します。

「今度は男を生んでくれよ」

 と、頼朝は政子にいいます。僧侶である頼朝の弟の阿野全成新納慎也)が発言します。

「親が徳を積めば望みの子がうまれるようです」

 義時が提案します。

「こういうのはいかがです。先のいくさで捕えられている者たちを許してやるというのは」

「恩赦(おんしゃ)か」

 と、頼朝が確認します。

「それ、いいもしれない」

 と、政子がいいます。

 義時は捕らわれている伊東祐親(浅野和之)と、その息子祐清(竹財輝之助)に会いに行き、恩赦があることを伝えます。頼朝に頭を下げることをためらっていた祐親でしたが、清盛が死んで力が抜けていました。義時はいいます。

「じさまは、お顔付きが柔らかくなられました」

 義時は八重にも、恩赦のことを知らせます。領地は誰かのものになったのではないか、と問う八重に、

「私です」

 と、義時は答えるのでした。

 畠山重忠中川大志)が、館に盗みに入った者を捕えました。伊東の所に務めていた善児(梶原善)です。千鶴丸に直接手に掛けたのは、この男でした。そして義時の兄である、宗時が身につけていたものを持っていました。

「ひょっとして、三郎(宗時)殿を討ったのはこの男では」

 と、畠山は梶原にいいます。

 全成が頼朝に話をします。

「生まれてくるお子ためには、まず千鶴丸様が成仏しなければなりません。その功徳によって、再び男として生を受けるのです。お命を奪ったのは、伊東祐親殿と聞いております。伊東殿が生きておられる限り、千鶴丸様の成仏は難しいかと」

 牢から出て、着替えた祐親のところに、やってくる影があります。

「善児ではないか」と、祐親は声を挙げます。「生きておったか」

 善児はひとり、建物から出てきます。梶原景時が、それを見ていたのです。

 頼朝に安達盛長が報告します。

「すべて終わりました」

 義時は梶原に事情を聞きます。

「伊東祐親殿は、わしがお迎えに参ったところ、ご子息と共に、ご自害された」

「あの方に限って決してそのようなことは」

 義時は信じられません。骸(むくろ)もすでに引き取られています。

 義時は頼朝のところに向かいます。

「知らん」

 とだけ頼朝はいいます。

「鎌倉殿がお命じになられたのではないのですか」

「伊東祐親は意地を通したのだ。あっぱれなことよ」

「一度口にされたことは必ず守られる。恐ろしいお方です」

「口が過ぎるぞ、小四郎」

「人を許す心が、徳となるのではないのですか。それゆえ、望みのお子を授かるのでは」

「生まれてみればわかることだ」

「じさまはもう、帰っては来ません」

 全成が義時の妹の実衣(宮澤エマ)にいいます。

「体内のお子は、産まれても定命(じょうみょう)が短いと出ておる」

「長生きできないんですか」

「千鶴丸は今だ成仏できておらぬ。千鶴丸を殺(あや)めたものが生きている限りは」

 梶原はすれ違う善児に呼びかけます。

「わしに仕えよ」

 善治は振り返り、ひれ伏します。

「ええ」

 と、返事をするのでした。