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書評『「賊軍」列伝 明治を支えた男たち』

書 名   『「賊軍」列伝 明治を支えた男たち』
著 者   星 亮一
発行所   潮書房光人新社
発行年月日 2022年1月20日
定 価    ¥790E

 

 会津側の視点を踏まえ、明治政府に蔑まれた東北の戊辰戦争史を書き続けた歴史小説作家の星亮一が昨年12月31日、死去した。享年86。「東北人である私にとって、明治維新は慙愧で無念の歴史なのである」と公言して憚ることがなかった著者は、「明治維新の検証が十分に行われていない。幕府は何をし、徳川慶喜はいかなる政治家だったのか。なぜ会津戦争が起こったのか。そもそも、明治維新とはいかなる変革であり、明治国家は何をどう改革していったのか」(『運命の将軍 徳川慶喜』さくら舎 2021年9月刊)を終生のテーマとした。

 本書は2010年に刊行された『明治を支えた「賊軍」の男たち』(講談社)の文庫版で、収録された「明治を支えた男たち」は幕臣以外は会津、盛岡など賊軍の風土に育った人々である。彼らは明治の世にあって脇役に甘んじたが、自己の信念とするところに徹し、大きな足跡を残した誇り高き男たちである。

第一章 渋沢栄一――天保11年(1840)~昭和6年(1931)
第二章 福沢諭吉――天保5年(1835)~明治34年(1901)
第三章 榎本武揚――天保7年(1836)~明治41年(1908)
第四章 原  敬――安政3年(1856)~大正10年(1921)
第五章 山川健次郎――安政元年(1854)~昭和6年(1931)
第六章 後藤新平――安政4年(1857)~昭和4年(1929)
第七章 藤原相之助――慶応3年(1867)~昭和23年(1948)
第八章 内藤湖南――慶応2年(1866)~昭和9年(1934)
第九章 野口英世――明治9年(1876)~昭和3年(1928)
第一〇章 朝河貫一――明治6年(1873)~昭和23年(1948)

 「賊軍」の出である者はどんなに優秀でも、薩長政府の理不尽な仕打ちに辛酸を嘗め出世の道を開くのが困難を極めた。明治新政府の中央省庁のトップや次官は薩長閥だったが、実務スタッフは旧幕臣が圧倒的に多かった。優秀だったからだ。著者は「幕府は優秀な人材を抱えながら、なぜ簡単に滅んでしまったのか」と自問し、「一言でいえば、危機意識の驚くべき欠如と役に立たない重臣がはびこっていたせいだ」と自答している。
 「列伝」のトップバッターは元幕臣の渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)である。栄一は討幕の過激派から財界人に変身、実業界における明治大正期最大の指導者、真の経済人。「岩崎弥太郎のような勝者サイドの人間ではない。敗者サイドの人間である。それが日本の財界を仕切ったことが痛快だ」。「見事な大往生だった」享年92。
 中津藩士から幕臣となった福沢(ふくざわ)諭吉(ゆきち)は維新後は誘われても官職に就かず、独立自尊を主張する思想家、教育家、啓蒙的文明批評家として「終生、在野の人」で終わった。享年66。 
 蝦夷共和国の総裁で最後まで新政府軍に抵抗した榎本武揚(えのもとたけあき)は降伏後、薩長藩閥政治の真っただ中に身を投じ、財界人の渋沢と同じように幕臣の意地を示し、相手を認めさせた稀有な人物。「本来、総理大臣の器だったが、幕臣である以上、それは無理だった」「迷わずぶれないべらんめえの豪快な生涯だった」享年73。
 日本最初の政党内閣を組織し、「賊軍」最初の総理となるも、生涯授爵を拒み、 「平民宰相」と親しまれた原敬(はらたかし)は旧南部藩の人。原敬に惹かれる著者の思いは熱い。「伝記にトライしようと思うも筆を起こすことができずもう何年も書けないでいる。実はこれが原敬に関する最初の小文になる」とのことだ。盛岡での戊辰戦争殉難者50年祭で語った「戊辰戦役は政見の異同のみ」は不朽の名言である。「東北人の期待を背負った執念の生涯」享年65。 
 東京帝大総長となった山川(やまかわ)健次郎(けんじろう)は元白虎隊隊士。「西軍」(「官軍」に非ず)が母成峠から会津盆地に攻め込んだとき14歳。口には出さなかったが、無念な思いは終生消えることがなく、『京都守護職始末』『会津戊辰戦史』を編纂し、最終的な「朝敵」に仕立て上げられ征討の目標にされていく幕末の会津藩の立場を鮮明にした。「数奇な人生をたどった会津人の見事な生涯」享年77。
 後藤(ごとう)新平(しんぺい)は戊辰戦争時、11歳、生まれ故郷水沢は仙台藩領で、維新の際に藩が「賊軍」になったため辛酸を嘗めた。台湾の植民地行政に辣腕を奮い、“東京”を作った。敗者の痛みを知る東北人ならではの発想と行動力の持主で、「このような人物は日本の近代史では極めて少ない。イデオロギーにこだわらず、敵も味方にし、いつも若々しく生きた人」「これぞ理想の生涯」享年73。
 秋田県仙北郡の生まれで、「西に福本日南あり、東に藤原非想あり」と称された気骨のジャーナリスト藤原相之(ふじわら)助(あいのすけ)は仙台の戊辰史を編纂した『仙台戊辰史』の著者。官軍参謀世良修蔵を糾弾し、東北戊辰戦争の真実を暴露した。  
 京都帝国大学の教授を務めながら、薩長官製の維新史を強く批判したことで知られる東洋史家の大家内藤(ないとう)湖南(こなん)は南部藩の漢学者を父として鹿角(かづの)に生まれた。戊辰戦争時には南部藩の領地であった鹿角は明治4年岩手県でなく秋田県編入されたが、湖南は自分の故郷を決して「秋田県」とは書かず「陸中国鹿角郡毛馬内町」と書いたという。関東軍参謀石原(いしはら)莞爾(かんじ)との出会いのエピソードが湖南の生涯に興趣を添えている。享年69.
 世界的な医学者野口(のぐち)英世(ひでよ)は猪苗代湖畔の福島県耶麻郡翁島村の貧しい百姓家に明治9年に生まれた。その英世の口癖は「おれは会津の侍だ、白虎隊の末裔」だったという。農民だったが祖父が、松平(まつだいら)容保(かたもり)について二度も京に上り、時には薩長と斬り結んだことを英世が誇りとしていたのである。
 無謀な侵略戦争に反対し、日本人初のイエール大学教授・歴史学者朝河(あさかわ)貫一(かんいち)は逆賊となった奥羽二本松藩の遺児。少年の頃の貫一は、明治維新は因習を打破した革命であると信じていたが、やがて、「賊軍」とされた父祖たちが武士として“義”を貫いた戦いであったと知り、ついには第二次世界大戦のそもそもの原因は、不正義の戦争に勝利した薩長が明治国家を作ったことにあるとした。
 「賊軍」10人の列伝の誰もが不屈の士魂と高貴な人間性に溢れる魅力的な人物であることがわかる。一方、消えるべき幕臣や苦境にあえぐ幕臣を救う恩人というべき人々がいたことは救われる。榎本武揚の恩人は敵将黒田(くろだ)清隆(きよたか)(薩摩藩士)であることは夙に知られるが、原敬には井上(いのうえ)馨(かおる)(長州藩士)、山川健次郎には奥平(おくだいら)謙輔(けんすけ)(長州藩士)、後藤新平には安場(やすば)保和(やすかず)(熊本藩士)がいた。

 仙台市に生まれ、郡山市で逝去した著者自身も「賊軍」の風土に育った。奇しくも、星亮一最期の本となった本書で、著者は吐露する。「もちろん時代が違うので、明治に生きた人々のような屈辱感はないが、考えさせられることが多々あり、大変勉強になった」と。夥しい著作をものした著者だが、もはや晩年に至って、これだけは書き残しておきたいという思いとともに、著者の史家としてのエスプリが感じられる。

                (令和4年3月24日 雨宮由希夫 記)