源義経(菅田将暉)は、後白河法皇(西田敏行)に呼ばれ、一ノ谷の合戦についてほめられます。
鎌倉では、頼朝が側近たちに話しています。
「義仲を討った今、片付けておかねばならぬことがある。一つは、甲斐の武田信義(八嶋智人)。奴に、誰が源氏の棟梁か分からせてやる」
「武田殿は近々、嫡男、一条忠頼(前原滉)を伴って、こちらに参る由(よし)にございます」
「いずれ信義には消えてもらう。もう一つは、木曽のせがれ。あれにとってわしは父の敵(かたき)。義高(市川染五郎)が生きている限り、枕を高くして眠ることができぬ。小四郎」と、頼朝は義時にいいます。「お前に任せた。三日やろう。義高を討て」
義時は義高を牢に閉じ込めます。
義時に父の時政(坂東彌十郎)が話します。
「つらい役目をおおせつかったもんだなあ。上総介の一件で、鎌倉殿は腹をくくられた。あの方に逆らっては、この鎌倉で生きてはいけん」
「命は助けるとおっしゃったではないですか」
「考えるといっただけだ」
「まだ年端のいかぬ子供です」
「わしのの父、義朝は、平家に殺された。その怒りの炎は、二十年以上経っても消えることがない。そしてわしは今、平家追討に、この身のすべてをかけておる。武士にとって、父を殺された恨みはそれほど深いのだ」
「義高もそうだとは限りません」
「あやつの恨みは必ず万寿にふりかかる」
頼朝を説き伏せられなかった政子は、牢にいる義高に会いに行きます。政子は、義高を伊豆山権現に匿(かくま)ってもらうことを思いつきます。しかし義高はいうのです。
「御台所(みだいどころ)は一つ、考え違いをされております。私は鎌倉殿を決して許しはしない。機会さえあれば、軍勢を率いて鎌倉を襲い、あのお方の首をとるつもりでいます。そしてその時は」義高は義時を振り返ります。「小四郎殿。あなたの首も。あなたは父の思いを分かっていると思っていた。しかし何もしてくださらなかった。私を生かしておいても、皆さんのためにはなりません。こうなってしまった以上、一刻も早く、この首をとることをおすすめいたします」
その頃、京では、義経が後白河法皇より検非違使(けびいし)の役目を与えられていました。
「わしの思いを、形で示したかったのだ」後白河法皇は述べます。「検非違使になって、京の安寧(あんねい)を守ってくれ」
義経には、頼朝からの任官推挙が出ていません。しかし後白河法皇はいうのです。
「頼朝は忘れて良い」
頼朝は仲間たちのもとに戻ってきて、喜びを表現します。
「法皇様は、私のことが大好きだとおおせられた。こうなったらどんどん偉くなって、いずれは清盛を超えてやる」
任官の前祝いにと、法皇がよこした一人の白拍子に、義経は見とれるのでした。
鎌倉では、捕えられた巴御前(秋元才加)が、義時と会っていました。巴は女の格好をしています。
「義仲様より文(ふみ)を預かっております。義高様宛にございます。お渡し願いますでしょうか」
義時は「無礼者」と、怒る巴にかまわず、文を広げて書いてあることを確かめます。
義時は、牢いる義高に会いに行きます。
「木曽殿は、鎌倉殿を敵(かたき)と思うな、諭(さと)されておられます。これ以上、源氏どうしで争ってはならぬと」
義時はしゃべり終えると、巴に合図します。巴が話します。
「義仲殿は申されました。自分が亡き後、平家討伐を成せるのは鎌倉殿しかいない。義高様には生きて、源氏の悲願成就を見届けてほしい、と」
義高がいいます。
「父の思い、しかと受け止めた」義高は政子に呼びかけます。「御台所(みだいどころ)、私が間違っておりました。改めて、父の大きさを知ることができました」
政子が問います。
「生き延びてくれますか」
義高はうなずくのでした。
義高を女人(にょにん)に化けさせて、御所を抜けることにします。その後、三浦義村(山本耕史)の手引きで寺で一泊し、三浦から船で伊豆山権現に向かうことになります。
武田信義(八嶋智人)の率いる甲斐源氏。頼朝と義仲の対立の際には、頼朝側に付いていました。信義は嫡男の一条忠頼(前原滉)を伴い、頼朝に会いに来ていました。自分たちが法皇に恩賞をもらえないことに、抗議にやって来たのです。頼朝はとぼけます。
頼朝を必ず潰してやると怒る信義に、息子の忠頼が情報をもたらします。義仲の息子の義高が、幽閉されているというのです。
「使えるな」
と、信義は喜びます。
信義は牢にいる義高に訴えます。
「わしらは、頼朝のやり方にはついていけんのだ。源氏どうしで力を合わせることがなぜできない」
しかし義高は信義を責める口調です。
「武田殿の軍勢も、九郎殿に従って父と戦ったと聞いています」
忠頼がいいます。
「鎌倉殿に強いられたのだ。共に頼朝を倒そう」
信義が熱弁します。
「おぬしが立てば、散り散りになった信濃の者たちも戻ってくる。我が兵と合わせれば必ず勝てる」
義高は信義たちに背を向けます。
「お断りします。父は、鎌倉殿を恨むなと書き残しました。お引き取りください」
このことが頼朝の耳に入ってしまったのです。
「武田が義高と何の話を」
「しばらく部屋から出てこなかったようです」
と、義時が報告します。
「信義め、義高を連れて行く気か」
と、頼朝はつぶやくようにいうのでした。
政子たちは義高を女人の服に着替えさせ、牢から連れ出すことに成功します。危ない場面もありましたが、頼朝の古くからの側近である、安達盛長(野添義弘)も協力してくれます。曰く、
「御家人たちの心がこれ以上、鎌倉殿から離れていってほしくはござらん」
しかし夜には義高が逃げたことが露見するのです。頼朝は立ち上がり、命じます。
「義高を捕えるよう御家人たちに伝えよ。見つけた者には褒美(ほうび)をとらす」
「冠者殿(義高)は」
と、恐る恐る義時が聞きます。
「見つけ次第、首をはねよ」
義時は御家人たちが見当違いの西を探すように細工します。
しかし寺に隠れていたはずの義高が逃げたのです。義時に文を残しています。
「小四郎殿。私はやはり、あなたを信じることができません。御台所から遠ざけた上で、私を殺す気ではないのですか。鎌倉は恐ろしいところです。私は、故郷(ふるさとの)の信濃で生きることにします」
義高が逃亡した西の方角には、御家人たちがひしめいています。
政子と、大姫が頼朝の所にやって来ます。大姫は自分の喉に刃物を突きつけ、義高を救ってくれるように迫ります。
「わしの負けじゃ」頼朝は義時にいいます。「捕まえても殺さぬよう、皆に伝えよ」
しかし頼朝のもとへ、桶(おけ)を持った御家人が現れるのです。
その夜、時政が、頼朝からという文を義時に渡します。時政はいいます。
「あのお方は試しておられる。お前を、いや、北条を」
義時は立ち上がり、父の時政に文を突きつけます。
「これはできませぬ」
時政がいいます。
「覚悟を決めるんじゃ。小四郎」
翌朝、武田信義の嫡男である、一条忠頼が頼朝に呼び出されます。義時の手の者が、忠頼の背後に立ちます。義時が告げます。
「一条忠頼。源義高をそそのかし、鎌倉殿への謀反をたくらんだ。その咎(とが)によって、成敗いたす」
忠頼の体に、刃が振り下ろされるのでした。
義時は義高の首を持ってきた、御家人をも殺します。これにて事件は幕を閉じたのでした。
武田信義は、義時に起請文(きしょうもん)を渡します。
「この武田信義、頼朝殿に弓引きつもりなど、微塵(みじん)もなかった。息子は死ぬことはなかったのだ」
義時は静かにいいます。
「これは警告です。二度と、鎌倉殿と競い合おうなどと、お思いになりませぬよう」
信義はいいます。
「お前たちはおかしい。狂っておる」
義時が去った後、信義は床に崩れるのでした。