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書評『宗歩の角行』

書名『宗歩の角行』
著者 谷津矢車
発売 光文社
発行年月日  2022年4月30日
定価  ¥1800E

 

 

 文政3年(1820)8月、天野宗歩(あまのそうほ)は5歳で大橋本家十一代大橋宗金(後の大橋宗桂(おおはしそうけい)の門下となり、31歳の弘化3年(1846)9月、七段に昇段しているが、「棋聖」と呼ばれ、実力十三段」といわれた宗歩は将棋家の人でないために段位はついに七段で終わった。江戸時代は将棋家が家元として頂点に立ち、徳川幕府お抱えの将棋所(しょうぎどころ)名人は九段であった。次位の八段は名人である将棋所が死去すれば将棋所となる。よって、八段を許されるものは同時代では一人に限られていた。八段を与えては次期名人候補の有資格者となるからで、将棋家からしか名人を出さないしきたりを崩さなかった。
 宗歩が、将棋家の血につながらないという理由だけで八段に昇り得なかったのは遺憾なことであるが、宗歩が人間としてどう生きたかを当時の時代背景を踏まえて一考する必要がある。
 将棋三家の者(家元派)は将棋家の面子に関わることとして賭将棋(かけしょうぎ)には手を出さなかった。将棋所は免状発行権を独占していて「免状料収入」だけ、つまり将棋だけで生活していけた。一方、将棋では生活できない在野派は賭将棋渡世をせざるをえなかった。
 残存する宗歩の棋譜を全局並べた“自在流”内藤國雄九段は「一生を在野棋士で通した宗歩は、なによって生活の糧を得ていたのだろうか」と疑問を投げかけ、「その時代的性格から宗歩も幾多の真剣を指したが、真剣(賭将棋)をさすと、将棋が歪んだり濁ったりはすこしもしていない。宗歩の将棋のなかに、他の棋士の追随を許さない独特の美を感じる」(内藤國雄『棋聖天野宗歩手合集』)としている。同じように宗歩の実戦譜を並べてみた中原誠十六世名人は「私の場合、その将棋を通じてしか人間を語り得ないが、少年のころからすでに宗歩は王者の風格を備えていることを感じ取った」(中原誠日本将棋大系11 天野宗歩』)と記している。

 本作は歴史時代小説作家・谷津矢車による天野宗歩の人物伝記小説である。「江戸のどこかの商家の旦那はんで、宗歩の足跡を調べたいとする裕福な町人」による、宗歩の周囲にいた証言者20人へのインタビューという形式をとっている。
宗歩が慕い薫陶を受けた大橋柳雪、「遠見の角」の伊藤宗印、「吐血の対局」のライバル八代大橋宗珉、幼馴染みで「宗歩の四天王」のひとり市川太郎松など同時代の棋士たちはもちろん、肌身を接した前妻・後妻、弟子といった身辺の関係者。賭け将棋の胴元、行きつけの煮売り屋、職人、芸者と顔ぶれは多岐にわたる。
 トップバッターは宗歩という不世出の天才を弟子に持ったが故に晩年は不仲であったと言われる十一代大橋宗桂である。一話加わるごとに宗歩の謎に包まれた闇が解き明かされ、インタビュアの正体も輪郭がはっきりしていく。果たして、20人の証言で宗歩の実像がどのように実を結んでいくのか、読者は手に汗握るばかりである。

 インタビューによる結論から言えば、宗歩を「家族の生活の面倒さえできない変人」とみるか、「常識人」と見るかの両極に分かれるということであろうが、そもそも、宗歩には三つの謎がある。一つは生まれ、一つは京都行き、一つは死である。
 まず、生まれから。文化13年(1816)11月、江戸の本郷菊坂にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次郎。後に天野家の養子に入る。本当の父は大橋本家十代宗桂であるとする説もある。小幡甲兵衛は甲州の神官だったという説もあるが、本書では悪徳な代官所手代であったとしている。
 一つは京都行き。天保4年(1834)から天保14年(1843)までの11年間、しばしば京都を訪れているが、18歳の天保4年(1834)3月、五段に昇段するや上方に旅立った最初の京都行きは師宗桂の許しを得た将棋修業の旅との説があるが妥当だと思える。一方、「上方探題」という使命(公儀の命による探索)を帯びていたのではないだろうか(山本亮介『将棋文化史』)との説もあり、斎藤栄の小説『棋聖忍者・天野宗歩』は、宗歩は上忍で西国諸藩の動向を探るとの上忍としての役目があったとしている。
 弘化3年(1846)31歳 9月、七段を許されるや、すぐに江戸を後にしている。家元が居る生き苦しい江戸を離れたかったのであろうか。
 嘉永2年(1849)34歳 5月24日、妻お龍が死去。翌年5月 亡妻の一周忌にあたり、初代宗桂と同じ京都深草霊光寺に墓を建てている。京都の女の人と結婚するほどにお気に入りの京都で永住するつもりであったのか、あるいはこれを機に青春の思い出を刻み付けた京都の地を去ろうと決心したのかどうかはわからない。嘉永4年夏、江戸に戻るが、夫人逝去前後にあたる嘉永初期の棋譜が驚くほど少ないこともなおさらに謎を深めている。

 江戸に落ち着いて後妻ふさを迎えた宗歩は、嘉永5年(1852)5月、大橋本家の別家を立てて御城将棋に出勤するが、嘉永6年(1853)正月、定跡書『将棋精選』を開板するや、翌年、奥州路の旅に出ている。師の十一代宗桂との間は冷たくなるばかりで、やがて、東北越後を歩き、将棋普及に努めるとともに、酒と女と金(賭将棋)に遊ぶこととなったとされる。宗歩とすれば、将棋家の血に繋がらないために八段を許されないことに不満を懐き続けたことであろう。将棋家への養子という話もあった。現代に生きたならなら当然に永世名人になれた人。それが最後まで名人にならずして。“酒と女と金”とは非常に人間的な部分であり、それが自由だったということは宗歩が人間味溢れる 人物であったことの証であるが、「天野宗歩は御城将棋の出仕を許された後も、賭将棋を続けるなど不道徳な行為が多かった。将棋の強さが必ずしも高潔な人格と結びつかない典型であろう」(増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』)とする冷めきった観方もある。

 最後の謎は死。安政6年(1859)5月14日 44歳で忽然と死んだ。師宗桂によって表向きは病死として寺社奉行に届け出されたという。本当は病死ではなく、別であったと言っているようなものではないか。死因については何も残していない。自殺?他殺?賭将棋との経緯で他殺、家元との諍いでの自殺も考えられる。あるいは「頓死」かも。
 享年44歳の短い生涯は奇しくも小池重明(こいけじゅうめい)と同じである。「新宿の殺し屋」と呼ばれ恐れられた最後の真剣(賭将棋)師といわれる小池重明は女に狂い、酒に溺れ、終生、放浪癖の抜けなかった人物である。この男はアマながらプロの八段をなぎ倒すほどの唯一無二の天才というだけではなく、前代未聞の愛すべき変人だったという(団鬼六真剣師小池重明』)。時代背景が比較にならない程ちがうが、勝手ながら、その重明に、宗歩を重ねている。
 将棋一途に生き抜く。ただ、将棋盤の前に座っているときだけが幸せである。天才の研ぎ澄まれた刃ほど、たやすく人を傷つけるものであるに違いない。常識という言葉をすっかり捨て去っている当人には他人の感情の機微がわからない。だが、読めないだけであって、その根底には優しい気持ちがあるのかもしれない。天才の持つ宿命。宗歩から将棋を問ったら何が残る。中原誠は「地位を望むよりは、将棋を愛し、なによりも将棋に打ち込める生活を宗歩は喜んでいたようである」とみる(前掲書)。
 本作の、20人によるさまざまな逸話が、天才だけが知る孤独と悲哀に収斂されていくさまは実に納得できるものであったが、伝説の棋士天野宗歩」はやはり難解であった。
 当時の将棋ファンはその実力と人柄を評して「棋聖」と呼んだのであり、春風駘蕩長者の風格を備えていたのは確かであろうが、晩年は不遇であり、家庭的にも恵まれず、その生涯は必ずしも幸せとは言えない。  

 本作は現代の歴史時代小説界の奇才天才である谷津矢車が孤高の勝負師・天野宗歩の数奇な人生を丹念にたどった歴史小説である。
 今日、将棋にさほどの関心がなかった人たちも、藤井聰太(ふじいそうた)(現、5冠)の出現によって将棋が注目され、約25年前、羽生善治(はぶよしはる)が全冠制覇したとき以来の盛り上がりを見せているが、この将棋人気の活況を宗歩が目の当りにしたら、宗歩は「令和の棋士たちの何と幸せなことか」と後輩たちにエールを送るだろう。本書を手にした読者諸氏、将棋ファンはむろんのこと、将棋を知らない方も、現代とは異なる幕末という苦難の時代をひたむきに将棋ひと筋に生きた一人の人間の姿に心打たれることであろう。
             (令和4年5月31日 雨宮由希夫記)