日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第36回 武士の鑑(かがみ)

 三浦義村山本耕史)が、北条時政坂東彌十郎)にいいます。たい

「畠山追討の、御下文(おんくだしぶみ)、拝見しました」

 時政はうなずきます。

「これよりすべての御家人に送る」

「驚きました。なにゆえ畠山が鎌倉殿に反旗を」

「よう分からん。しかしあいつは今、武蔵で兵を整えておる。鎌倉殿をお守りするため、これより畠山一族を滅ぼす」

 時政は手はずを述べます。畠山の息子の重保(杉田雷鱗)を、由比ヶ浜に誘い出す。三浦は待ち伏せして、それを捕える。息子を人質に取られれば、畠山重忠中川大志)も観念するだろう。

 義時(小栗旬)は、弟の時房(瀬戸康史)を怒鳴りつけます。

「では、鎌倉殿はすでに畠山追討を、命じられたのか。どうしてそういうことになる」

 時房はいいます。

「父上に押し切られたようで」

「次郎(畠山重忠)には、いくさをする気などない」

 畠山重忠はすでに鎌倉に向かっていました。義時に、鎌倉殿と話をするようにと、説き伏せられたのです。

 由比ヶ浜で、三浦義村は、畠山重保を捕えようとします。しかし抵抗されて殺してしまうのです。畠山重忠は、二股川の向こうに留まりました。そのまま進めば、すぐに鎌倉へ入れます。息子の死を知ったようでした。時政の妻の、りく(宮沢りえ)がいいます。

「すぐに兵を差し向けなさい」

 義時は従いません。

「様子を見るべきです。このまま所領へ戻れば、兵を整え、いくさに応じるということ。しかしそうでなければ……」

 りく、は義時の言葉をさえぎります。

「そこまで来ているのですよ。すぐに兵を出しなさい」

 三浦義村がいいます。

「もしこのまま鎌倉に進めば、戦うつもりはないということだな」

 義時が答えます。

「戦うには手勢が少なすぎる」

 和田義盛横田栄司)が発言します。

「向こうが、いくさをする気がねえのなら、戦ってもしょうがねえぞ、これは」

 りく、が強くいいます。

「畠山は謀反人ですよ」

 今まで黙っていた時房が口を切ります。

「母上。政範を失った無念はお察しします。だからといって、すべてを畠山殿に押しつけようというのは良くない」

 りく、は時房に食ってかかります。

「そんなに私が憎いですか。憎いからそうやって、畠山の肩を持つ。政範がああいうことになって、いい気味だと腹の底で笑っているのだ」

 そこへ畠山の手勢が、鶴ヶ峰に陣を敷いたとの知らせが入ります。鶴ヶ峰は敵を迎え撃つには絶好の高台です。三浦がいいます。

「今の手勢で戦うつもりか。腹をくくったようだな」

 和田がいいます。

「あいつは死ぬ気だ」

 りく、が皆を見回します。

「だったら、望みを叶えてあげましょう」

 ここに至って時政が、りくに怒声を放つのです。

「それ以上、口をはさむな」時政は声を落とします。「腹をくくった兵が、どれだけ強いか、お前は知らんのだ」

 三浦がいいます。

「こっちも本腰を入れるしかなさそうだな」

 義時が時政の前に進み出ます。

「お願いがございます。私を、大将にしてはいただけないでしょうか」

 時政はうなずくのでした。

 北条政子小池栄子)は、鎧(よろい)を身につけた義時と話します。

「畠山殿は、本当に謀反をたくらんでいたのですか」

 義時はうめくようにいいます。

「父上がいっているに過ぎません」

「だったら」

「しかし、執権(しっけん)殿がそう申される以上、従うしかない。姉上、いずれ、腹を決めていただくことになるかもしれません」

「どういうことですか」

「政(まつりごと)を正しく導くことのできぬ者が上に立つ。あってはならないことです。その時は、誰かが正さねばなりません」

「何を考えているの。何をする気」

「これまでと同じことをするだけです」

 義時の陣では、軍議が行われていました。畠山は見通しの良い丘の上にいます。攻め手の動きは丸見えです。和田義盛がいいます。

「次郎(畠山重忠)は、はなから逃げるつもりなんてない。暴れるだけ暴れて名を残す気なんだよ。死を怖れない兵は怖えぞ」

 義時が立ち上がります。

「まずは次郎に会って、矛(ほこ)を収(おさ)めさせる」

 三浦がいいます。

「収めるかな」

 義時が言葉に力を込めます。

「望みは捨てん」

 その役目を、和田義盛が買って出ます。

 和田が畠山の陣にやって来ます。親しげに話します。

「お前もさ、いい歳なんだから、やけになってどうする」

 畠山がいいます。

「やけではない。筋を通すだけです。今の鎌倉は、北条のやりたい放題。武蔵をわが物とし、息子には身に覚えのない罪を着せ、だまし討ちにした。私も小四郎(義時)殿の言葉を信じて、このざまだ」畠山は立ち上がって叫びます。「いくさなど誰がしたいと思うか」そして和田を振り返ります。「ここで退けば、畠山は北条に屈した臆病者として、そしりを受けます。最後の一人になるので戦いぬき、畠山の名を、歴史に刻むことにいたしました」

 和田が訴えます。

「もうちょっと生きようぜ。楽しいこともあるぞ」

「もはや、今の鎌倉で生きるつもりはない。命を惜しんで泥水をすすっては、末代までの恥」

 和田も説得をあきらめます。

「その心意気、あっぱれ。あとは正々堂々、いくさで決着をつけよう」

「手加減抜きで」

「武士なら当然よ」

 和田義盛が義時の陣に帰ってきます。義時は皆に宣言します。

「これより謀反人、畠山次郎重忠(はたけやまのじろうしげただ)。討ち取る」

 両軍が対峙(たいじ)します。畠山重忠が、かぶら矢を放ち、戦闘が開始されます。

 畠山は義時の息子、泰時(坂口健太郎)に狙いをつけます。一騎、義時がそこに駆けつけるのです。畠山と義時は激しい戦いを繰り広げます。義時は馬上の畠山に飛びつき、地面にひきずり下ろします。刀も失い、両者は取っ組み合いになります。ついに畠山が馬乗りになり、義時に脇差しを突きつけます。しかし畠山は義時を殺しません。畠山は騎乗し、戦場を抜けていきます。顔に満足げな笑顔を浮かべていました。

 いくさは夕方には終わりました。時政が鎌倉殿である、源実朝(みなもとのさねとも)(柿澤勇人)に報告します。

畠山重忠の謀反、無事、鎮(しず)め申した」

 実朝が聞きます。

「重忠は」

 北条時房が報告します。手負いの所を討ち取られた。まもなく首がこちらに届く。実朝は精一杯の声を出します。

「ご苦労であった」

 義時は、父の時政の前に畠山の首桶を置きます。うめくようにいいます。

「次郎(畠山)は、決して逃げようとしなかった。逃げるいわれがなかったからです。所領に戻って、兵を集めることもしなかった。戦ういわれがなかったからです」

「もういい」

 と、時政が立ち上がります。義時は声を強めます。

「次郎がしたのは、ただ、おのれの誇りを守ることのみ」義時は首桶を持って時政に近づきます。「あらためていただきたい。あなたの目で。執権を続けていくのであれば、あなたは見るべきだ。父上」

 時政は行ってしまうのでした。

 義時は大江広元栗原英雄)にいわれます。時政が強引すぎた。御家人たちのほとんどは、畠山に非がなかったことを察している。どうすれば良いのかと問う義時に、大江は、罪を他の者に押しつけることを提案します。時政の娘婿である稲毛重成(いなげのしげなり)(村上誠基)の名を上げます。

 稲毛を殺すことを抗議する時房に、

「それで良いのだ」

 と、義時はいい放ちます。稲毛を見殺しにしたとなれば、御家人たちの心は、時政からますます離れる。これぐらいしなければ、事は動かない。

 稲毛は首をはねられます。義時は、畠山の残した所領の分配を、北条政子小池栄子)にやらせようとします。政(まつりごと)が混乱すると辞退する政子に、義時はいいます。

「恐れながら、すでに混乱の極みでございます。今こそ、尼御台(あまみだい)のお力が必要なのです」

「それで事がおさまるのならば」

 と、政子は承諾(しょうだく)します。政子は稲毛が時政に殺されたことをいいます。なぜ止めなかったのかと義時を責めます。義時はこともなげにいいます。

「私がそうするようにお勧(すす)めしたからです」義時は政子の前に座ります。「これで執権殿(時政)は、御家人たちの信を失いました。執権殿がおられる限り、鎌倉はいずれ立ちゆかなくなります。此度(こたび)のことは、父上に政(まつりごと)から退(しりぞ)いていただく、はじめの一歩。(稲毛)重成殿は、そのための捨て石」

「小四郎(義時)。恐ろしい人になりましたね」

「すべて、頼朝様に教えていただいたことです」

「父上を殺すなんていわないで」

「私の今があるのは、父上がおられたから。それを忘れたことはございません」

「その先は。あなたが執権になるのですか」

「私がなれば、そのために父を追いやったと思われます」

「わたくしが引き受けるしかなさそうですね」

「鎌倉殿が、十分にご成長なさるまでの間です」

 義時は時政に名を連ねた紙を見せます。

「訴状に名を連ねた御家人の数は、梶原殿の時の比ではございません。少々、度が過ぎたようにございます」

 時政はいいます。

「小四郎(義時)。わしをはめたな」

「ご安心下さい」義時は紙を破いて見せます。「これは、なかったことにいたします。あとは、われらで何とか。ただし、執権殿には、しばらくおとなしくしていただきます。執権殿が前に出れば出るほど、反発が強まるのです。どうか、慎(つつし)んでいただきたい」

「恩賞の沙汰は、やらせてもらうぞ」

 との時政の言葉に、義時は首を振るのでした。

「すべて、ご自分のまかれた種とお考えください」

 時政は大声を上げて笑い出します。

「やりおったな。見事じゃ」

 七月八日。北条政子の計らいにより、勲功(くんこう)のあった御家人たちに、恩賞が与えられます。