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『映画におぼれて』第325回 ウエスタン/ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト

第325回 ウエスタン/ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト

令和元年八月(2019)
渋谷 ユーロライブ

 イタリアでクリント・イーストウッド主演の西部劇を三本撮り、世界で大ヒットさせたセルジオ・レオーネ監督は、マカロニウエスタンの名手としてハリウッドに進出、そこで撮ったのが『ウエスタン』である。日本では短縮版が公開されたが、後にタイトルを『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』として、オリジナル全長版が上映された。
 荒野の小さな駅に三人の無法者が現れ、駅員を脅して、汽車を待つ場面。その映像美に最初から引き込まれる。
 降り立ったのはチャールズ・ブロンソンふんする一匹狼、いつもハーモニカを吹いているのでその名もハーモニカ。
 開拓民一家の父親が都会で再婚し、花嫁を迎えるパーティの準備。そこに現れる黒いコートの一団、残忍な一家皆殺し。いつもは善人役の多いヘンリー・フォンダが不気味な殺し屋フランク。平気で子供を撃ち殺す。
 クラウディア・カルディナーレの花嫁ジルが到着すると、パーティ会場は葬式の最中だった。
 フランクに開拓民一家皆殺しの罪を着せられる盗賊団の首領シャイアンがジェイソン・ロバーズ。
 ハーモニカ、フランク、ジル、シャイアンを演じる四大スターが絡み合い、西部の町、鉄道、馬車、酒場、牧場、ガンマン、盗賊団など、古き良き時代のアメリカ西部劇のスタイルにマカロニウエスタンの味わいを組み合わせた作品である。ふんだんに盛り込みすぎて、全長版の上映時間は二時間四十五分。

エスタン/Once Upon a Time in the West
1968 イタリア・アメリカ/公開1969 オリジナル全長版2019
監督:セルジオ・レオーネ
出演:クラウディア・カルディナーレヘンリー・フォンダ、ジェイソン・ロバーズ、チャールズ・ブロンソン

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第六回 三好長慶襲撃計画

 天文十七年(1548年)、秋。
 都で随一の権勢を誇っていた細川晴元(国広富之)と、その家臣の三好長慶(山路和宏)が、京の覇権をめぐり、一触即発の緊張状態にありました。都では主君を家臣か討つ下克上が横行していました。
 三好長慶松永久秀(吉田鋼太郎)の陣所をたずねていました。三好は公家衆との連歌の集いのために密かに京を訪れていたのでした。松永は連歌の集いに行く三好の供をすることになります。
 その頃、明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、鍛冶師の伊平次が分解した鉄砲を調べていました。松永のことを話題に上げ、伊平次は気になることをいいだすのです。
「しかし松永様も、今日という日をうまく切り抜けられるかどうか。御主君の三好様と一緒に討たれてしまわれたらおしまいだ」
 問いただす光秀。伊平次はとぼけますが、ついに遊女屋で耳にした会話を白状します。
「切るのは二人か」
三好長慶と側近の松永久秀だ」
「場所は」
万里小路家の離れ」
「警護の数は」
「お忍びで行く連歌の会ゆえ、共は少ないはず。二十人もいればかならず殺れる」
 三淵藤英(谷原章介)の館に、将軍の足利義輝(向井理)が来ていました。将軍と共に能を鑑賞する三淵に、家臣が耳打ちします。三淵は弟の細川藤孝(眞嶋秀和)と共に別室を訪れます。そこには光秀が待っていたのです。光秀は伊平次に案内されて三淵の館にやってきたのでした。用を聞かれ、光秀は話します。
松永久秀様のお命に関わることを耳にし、ご相談したく参りました」光秀は説明します。「本日、万里小路様の館で連歌の集いがあり、その席に松永様が御主君の三好様とおいでになる由。その折を捕え、不逞の輩が、お二人を討つ企てがあると聞き及び、三淵殿のお耳に入れるべきかと」
 三淵の弟の藤孝は、すぐに駆けつけなければ手遅れになるといいます。
「しかし我らが駆けつける理由はあるのか」と、力む三淵。「三好殿も松永殿も、去年まで血を流して争うていた相手ぞ」
 三淵は情報を披露します。今日の連歌の会は、裏で細川晴元が動き、行うことになった。二人を討ちたいのは細川晴元だろう。三淵は続けます。であるなら、所詮、細川勢の内輪もめだ。手を出すまでもない。しかし藤孝は三淵が止めるのも聞かず、行こうします。三淵は三淵なりの理由を光秀に語ります。自分たちは将軍義輝に使える身。自分たちが動けば、将軍の意思と見られてしまう。それは困る。立ち去ろうとする三淵に、光秀は呼びかけるのです。
「私が幼き頃、父から教わったのは、将軍は武家の統領であらせられるということです。すべての武士の頭であり、武士の鑑であり、武士を一つにまとめ、世を平らかに治めるお方であると。今、この世は平らかではありませぬ。この京でも、将軍のお膝元で、御家臣どうしが争われている。それに目をふさぎ、背を向けて、関わりなしと仰せになる。それでは我ら武士が一つにまとまる手立てがないではありませぬか。将軍が、争うなと一言お命じにならねば、世は平らかにはなりませぬ。三淵殿が将軍のおそばにおいでのお方なら、そのようにご進言いただきたい。これは私情で申し上げているのではありませぬ。武士の一人としてお願い申し上げているのです」
 ではこれにて、と光秀は話し終えると足早に去って行きます。
 その言葉を隣の部屋で聞いているものがいました。将軍義輝その人です。義輝は将軍奉公衆に命じます。
「あの者の後を追え」
 万里小路の館では、連歌の会が始められていました。そして館に侍たちが乱入してくるのです。懸命に防ごうとする松永でしたが、多勢に無勢で押し込まれます。三好長慶が斬られようとするその刹那、光秀と将軍奉公衆が駆けつけるのです。光秀たちは三好長慶松永久秀を逃がすことに成功するのです。
 馬に乗り通りを欠ける三好と松永を、格子窓の奥から見送る者がいました。細川晴元です。
「しくじりおって」
 と、鞭を床にたたきつけます。
 光秀は戦闘により、肩に傷を受けていました。京に帰ってきている医者の望月東庵をたずねることにするのでした。
 光秀は寝床で目を覚まします。枕元で東庵の助手である駒(門脇麦)が唄を歌っていました。東庵の家でした。到着するやいなや光秀は気を失い、二日間眠っていたのです。その間、駒がつきっきりで看病をしてくれていたのでした。
 その十日後、ともに万里小路の館で戦った藤孝が東庵の家にいる光秀を訪ねてきます。松永が感謝していることを述べ、土産に水飴を持ってきます。
明智殿は不思議なお方だ」と、藤孝はいいます。「この都では、松永殿といえば鬼か蛇かといわれ、皆が恐れているお方です。そのお方に易々と近づかれ、親しくしておられる。美濃に置いておくのは惜しいご仁じゃと、兄が申しておりました」
 松永は田舎者の自分を、面白がっているだけだ、と光秀はいいます。
「失礼ながら、私も面白がっています」藤孝は真面目な顔でいいます。「明智殿はたいそう面白い」
 藤孝は光秀が三淵の館で述べたことをいいます。言い訳をしようとする光秀に対して、藤孝はいいます。
「その通りなのです。明智殿は当たり前のことをおおせられた。しかし今、この京で、そう思う武士はごくわずかにすぎぬ」藤孝は感情をあらわにします。「明智殿のようなお方が、あと二人でも三人でもいて、我らの味方になってくれればと」
 藤孝は光秀に、美濃に帰らず、しばらく京にいてくれないかと頼みます。
「そうはいきませぬ」という光秀。「美濃も京と同じです。美濃の柱であった守護の土岐家は力を失い、家臣が皆ばらばらになっている。かろうじて、私の主君、斎藤山城守が美濃を一つにまとめてはいるが、国のものが皆、土岐家に代わる柱として従っているかというとそうではない。心苦しいが、私も何かが違うと思っている。しかしどうすれば我らが一つになれるか、それがわからない。それゆえ美濃に戻り、考えなければならない」光秀は藤孝に向き直ります。「五年先か十年先か、美濃が一つになれた折、またお目にかかります。その折には、美濃を挙げて藤孝殿を支えます」
 藤孝はいいます。
「争いを終え、一つになった諸大名が京にのぼり、将軍家を支えるならば、世は平らかになるはず。我らはそれを待ちます。それまで、戦うほかない」
 その頃、斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)は、いくさを行っています。西美濃にある、大柿城を攻撃していました。織田に奪われたこの城を奪い返しに出たのでした。いくさは道三の勝利に終わります。
 光秀は美濃への道を歩いていました。東庵の助手、駒がついてくるのです。
「先生もおっしゃっていたではありませんか。そんな傷があるのに、旅をするのは無茶ですと。一人で行かせるのは医者としての面目に関わる。駒、そなたついて行け」
 と、駒はいうのです。
 二人は夜、廃寺に泊まることになります。これを掛けて寝ろと、駒は筵(むしろ)を持ってきます。壁により掛かり、筵を掛けて眠ろうとする光秀でしたが、目を開けて駒に呼びかけます。
「駒殿が気になる。ここに入らぬか」
 と、光秀は筵を持ち上げるのです。躊躇する駒でしたが、結局、光秀のいうとおりにします。駒の肩を抱く光秀。光秀は駒が、東庵に引き取られる前に、旅芸人の一座にいたことを知るのです。

 

『映画に溺れて』第324回 夕陽のガンマン

第324回 夕陽のガンマン

平成二十一年七月(2009)
京橋 フィルムセンター

ぴあフィルムフェスティバル」のイーストウッド特集で鑑賞。『夕陽のガンマン』は昔、TVの洋画劇場で一度観ただけだった。
 荒野を馬で行く男が、かなりのロングで映り、やがて銃声、馬から落ちる男。そしてエンニオ・モリコーネの有名な主題歌。
 マカロニウエスタンにはアメリカの西部劇とは違う形の独特の様式美がある。臭いほどに主人公を目立たせる。音楽で盛り上げる。アクションの見せ場。暴力とお色気。これは当時の日本の時代劇にも大いに影響を与えた。
 ポンチョをまとった流れ者の賞金稼ぎ。イーストウッドの独特のスタイルは前作『荒野の用心棒』と次回作『続・夕陽のガンマン』でもそのまま同じだが、ストーリーは関連していない。
 黒づくめのガンマン、賞金稼ぎの大佐を演じるリー・ヴァン・クリーフ。その後、マカロニウエスタンに出続けてスターとなるが、デビュー作は『真昼の決闘』の無法者のひとりだった。マカロニで主演の後、『荒野の七人』のリメイク『荒野の七人 真昼の決闘』で七人のリーダー格も演じている。
 メキシコ人盗賊団の首領がジャン・マリア・ボロンテ。悪役が凄味があると、たいていは成功する。ジャン・マリア・ボロンテはイタリアの名優で、『死刑台のメロディ』や『殺人捜査』『黒い砂漠』など社会派ドラマにも主演作があり、私は好きだった。
 イーストウッドはもとより、ニヒルリー・ヴァン・クリーフも野獣のようなジャン・マリア・ボロンテも三人とも絵になるのだ。
 ふたりの賞金稼ぎが協力しあったり、裏切ったりしながら、凶悪な盗賊一味を退治するストーリーだが、アメリカ西部劇のような正義のヒーローは出てこない。

夕陽のガンマン/Per qualche dollaro in più
1965 イタリア/公開1967
監督:セルジオ・レオーネ
出演:クリント・イーストウッドリー・ヴァン・クリーフ、ジャン・マリア・ボロンテ、クラウス・キンスキー

 

『映画に溺れて』第323回 真昼の決闘

第323回 真昼の決闘

平成二十四年八月(2012)
渋谷 シネマヴェーラ

 西部劇は正義のヒーローによる勧善懲悪の物語である。ジョン・ウェインのような強い主人公が弱きを助け、強きをくじく。そして平和を取り戻した人々は彼に感謝する。
 実をいうと、私はジョン・ウェインの出演作をほとんど観ていない。最初に映画館で観た西部劇はクリント・イーストウッド主演の『続・夕陽のガンマン』だった。すでにこのころ、ジョン・ウェインがインディアンをばたばたと撃ち殺すような西部劇はなくなっていた。後に名作の誉れ高い『駅馬車』もリバイバルで観たが、さほど心に残らなかった。
 ゲイリー・クーパー主演の『真昼の決闘』は西部劇全盛時代に作られたものだが、かなり異色作であると思う。
 主人公ケインは町の保安官である。午前中に結婚式を挙げ、妻となったエミーと新生活を築くため、退職してふたりで町を出て行くばかり。そこへ知らせが届く。
 正午に到着する列車で無法者のミラーが町にやって来る。昔、ケインが逮捕した男で、刑務所を出所し、三人の仲間とともに保安官に復讐するつもりなのだ。
 さて、どうするか。いったんは新妻とふたりで逃げ出すが、思い直して引き返す。四人の悪人を町に野放しにはできない。だが、町の人たちの反応は冷たかった。ミラーの狙いは保安官である。ケインさえいなければ、やつらは何もしないだろう。ケインが保安官助手を募っても、迷惑がってだれひとり協力しない。
 そして、汽車が到着。ケインはジョン・ウェインのような無敵のスーパーヒーローではないので、ひとりで四人を相手に苦戦することになる。
 ケインとエミーの結婚式が終わったのが午前十時三十五分、ミラーの列車が到着するのが正午。この映画の長さがちょうど一時間二十五分である。
 赤狩りが荒れ狂う時期に作られた名作。タカ派ジョン・ウェインがこの頃、マッカーシーに加担し、仲間の俳優たちを脅していた場面が『トランボ』に出てくるが。

真昼の決闘/High Noon
1952 アメリカ/公開1952
監督:フレッド・ジンネマン
出演:ゲイリー・クーパーグレイス・ケリー、トーマス・ミッチェル、ケティ・フラド、ロイド・ブリッジス、ロン・チェイニー・ジュニア、イアン・マクドナルド、シエブ・ウーリー、リー・ヴァン・クリーフ

 

『映画に溺れて』第322回 大いなる西部

平成二十五年五月(2013)
池袋 新文芸坐

 

 池袋新文芸坐でのクラシック特集で鑑賞。
 西部劇の古典の一本ではあるが、早撃ちガンマンの決闘などはなく、人間ドラマになっている。最初の荒くれ男たちの馬の曲乗り、いきなり目を瞠った。
 西部の町に駅馬車から降り立ったのは、荒野には似つかわしくない洒落た身なりの都会人ジム。これがグレゴリー・ペック
 東部に旅行中のパトリシアと婚約し、彼女の実家のあるテキサスへやってきたのだ。彼女の父親テリル少佐は地域の大地主で、勢力を二分する丘の牧場主ヘネシー一家といがみあい、互いの使用人であるカウボーイたちも争いが絶えない。
 丘の連中にけんかを売られて無抵抗のジムにパトリシアは怒り、少佐は仕返しに配下のカウボーイを引き連れて丘を荒らす。
 警察もなく、保安官もいない地域では、有力者が銃でものごとを解決する。
 血の気の多い荒くれ男たちの中に突如として入ってきた都会人ジム。が、実は臆病者ではなく、彼に敵意を見せる牧童頭と殴りあったら、五分五分の腕力の持ち主。パトリシアに気のある牧童頭を演じるはチャールトン・ヘストン
 二大勢力の中間にある中立地帯に水源があり、ここを守っているのが女教師ジュリー。この土地を奪おうと、ヘネシーと少佐はさらに対立を深める。無抵抗主義のジムはジュリーに共感するが……。
 この映画が作られたのは冷戦時代。テリル少佐とヘネシー一家はアメリカとソ連ではないかと、深読みしてしまった。好戦的な指導者が上にいると、国民は簡単に戦争に巻き込まれてしまうよ、と言ってるような気がする。

 

大いなる西部/The Big Country
1958 アメリカ/公開1958
監督:ウィリアム・ワイラー
出演:グレゴリー・ペックジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、チャールトン・ヘストン、バール・アイヴス、チャールス・ビックフォード、アルフォンソ・ベドーヤ、チャック・コナーズ

 

『映画に溺れて』第321回 シェーン

平成二十四年十一月(2012)
日比谷 TOHOシネマズみゆき座

 

 私は基本的には映画館(試写室も含む)でしか映画を観ないので、なかなか昔の名作にはありつけない。だからTOHOシネマズの午前十時の映画祭は大変ありがたく、そのうちの一本が『シェーン』だった。これぞ、古き良き時代の西部劇の代表であろう。
 西部で妻と幼い息子と三人で小さな牧場を営む善良な牧場主ジョー。そこへひとりの流れ者がやって来て世話になる。男の名はシェーン。
 近隣の大地主であるライカーは、新参の開拓民である農夫や牧場主を追い出し、土地を取り上げようとして、いろいろといやがらせをする。牛の大群をけしかけて畑を荒したり、小屋に火をつけたり。
 シェーンは実は凄腕の早撃ちガンマンで、親切なジョー一家への恩義から、ライカー一味と対決することに。
 ライカーは黒ずくめの殺し屋ガンマンを雇い、開拓民のリーダーであるジョーを片付ける悪巧み。罠と知って話し合いに出かけようとするジョーを殴り倒し、シェーンがひとり立ち向かう。
 主演のアラン・ラッド、誠実そうな甘い二枚目で、凄腕のガンマン。ジョーの奥さんのジーン・アーサーは戦前からの美人スター。黒ずくめの悪役ジャック・パランスも渋くて、晩年は『スリースティッカーズ』の老カウボーイだった。
 酒場で最初にシェーンに因縁をつける男クリス。ライカーの手下だが、最後はボスの悪巧みに嫌気がさして、シェーンのところに忠告に来るという儲け役。演じるベン・ジョンソンは西部劇でよく脇役を演じており、現代劇では私が大好きな『ラストショー』の老カウボーイでもある。
 主題曲は有名な『遥かなる山の呼び声』で、山田洋次監督が北海道を舞台に高倉健主演で撮った映画がこのタイトル。

シェーン/Shane
1953 アメリカ/公開1953
監督:ジョージ・スティーヴンス
出演:アラン・ラッド、ジーン・アーサーヴァン・ヘフリン、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランスベン・ジョンソン、エライシャ・クック・ジュニア

 

『映画に溺れて』第320回 長いお別れ

第320回 長いお別れ

令和元年十一月(2019)
飯田橋 ギンレイホール

 

 少年も、青年も、中年も、いつしか時の流れとともに、頭髪は薄くなり、腹部はせり出し、眼鏡なしでは本も読めず、固いものを食べれば奥歯が痛む。血圧は高くなり、歩行の速度は遅くなり、なにをするのも億劫で、物忘れがひどくなる。
 人はだれでも長生きすれば老人になるのだ。肉体も知能も衰えて、やがては死んでいく。それが世の常、人の定めである。 
 認知症と介護を題材にした映画、森繁久弥の『恍惚の人』や千秋実の『花いちもんめ』を以前に観たときは、周囲の家族は大変だなあ、と思った。今思えば、私もまだ若かったのだ。
 今回、山崎努が老人の『長いお別れ』を観て、はっとした。私は介護するよりも介護される側の年齢に近い。いずれ認知症も先のことではないかもしれない。
 主人公は元校長先生で読書好きの勉強家。立派な人物である。それでも認知症はやって来る。
 妻が松原智恵子。やさしく賢い女性である。娘がふたり。竹内結子の長女は結婚してアメリカ暮らし。蒼井優の次女はレストラン経営を夢見ながら東京のスーパーマーケットでアルバイト。
 認知症が始まり、最初はちょっとした物忘れぐらいだったのが、だんだんと重くなってくる。ふたりの娘は家を出ているので、介護するのは妻の役目。これがよくできた妻なのだ。
 森繁や千秋実のときは、息子の嫁が介護していた。今回は妻が介護する。たとえ結婚した息子がいても、その嫁が義父の介護をするような時代ではない。家族が世話できない場合は病院や様々な施設がある。
 軽い発症から、認知症の度合いが徐々に進行して、十年後に別れの日がやって来る。その間の家族の思いを描いた佳作である。

 

長いお別れ
2019
監督:中野量太
出演:蒼井優竹内結子松原智恵子山崎努北村有起哉中村倫也、杉田雷麟、蒲田優惟人、松澤匠、清水くるみ、倉野章子、不破万作

 

『映画に溺れて』第319回 セッソマット

第319回 セッソマット

平成十八年七月(2006)
新橋 新橋文化

 

 以前、新橋文化の二本立てで観た一本がこれだったのだ。まったくなんの期待も予備知識もなかったので、驚いた。一九七三年の作品で、ジャンカルロ・ジャンニーニラウラ・アントネッリが主演、九つの短編を集めたセックスコメディのオムニバスである。そして、九編ともにジャンニーニとアントネッリが主演する。ジャンニーニは三十前後、アントネッリは二十代後半の頃である。
 ジャンニーニは金持ち、貧乏人、インテリ、田舎者、変人、若者、初老、様々な役を演じ分ける。相当の芸達者なのだ。
 アントネッリは昔、『青い体験』で軽薄少年を誘惑するメイドの役でぞくぞくするほどの性的魅力を発散させていたが、今回もまったくフェロモン全開である。
「寝起きの悪い金持ちの夫人と使用人」
「小屋に住む貧乏人の子沢山夫婦」
「美人の妻に見向きもしない老女好きの変態男」
「乗り物でしか欲情しない新婚夫婦」
「町で拾った娼婦に別れた妻の恰好をさせる初老のしょぼくれ男」
精子提供者と修道女」
「殺された夫の仇を打つためマフィアのボスをセックスで衰弱死させる未亡人」
「田舎出の青年と男娼」
「実業家夫妻に招待され夫人に誘惑されるビジネスマン」
 どれもこれも味の濃い凝った逸品ぞろいである。長らく公開されなかったこの映画に出会えたことは僥倖であった。今はなき二本立て新橋文化に感謝する次第。

 

セッソマット/Sessomatto
1973 イタリア/公開2005
監督:ディーノ・リージ
出演:ラウラ・アントネッリジャンカルロ・ジャンニーニ、アルベルト・リオネロ、デュリオ・デル・プレト

『映画に溺れて』第318回 ボッカチオ‘70

第318回 ボッカチオ‘70

平成十年五月(1998)
千石 三百人劇場

 

 四人の監督によるセックスコメディのオムニバス。
 第一話『レンツォとルチアーナ』庶民の男女が会社で仕事を続けるために結婚を隠すが、やがてばれて解雇。それでもたくましく生きていく。
 第二話『アントニオ博士の誘惑』キリスト教の文学や絵画で有名な聖アントニウスの誘惑を下敷きにしたコメディ。禁欲的な生活を送っている学者のアントニオ博士が、広場の看板に描かれた美女の絵に誘惑されるというもので、アニタ・エクバーグふんする巨大な美女が迫ってくる。
 第三話『仕事中』ヴィスコンティの貴族趣味。遊び人の伯爵が遊里に入り浸るので、夫人はとうとう自分が高級売春婦になろうとする。そこで伯爵は妻の魅力に目覚めるというもの。伯爵夫人役のロミー・シュナイダーが着ているのがシャネルのスーツ。
 第四話『くじ引き』射的屋の娘がくじ引きの景品になり、男たちがくじを買うというデ・シーカの艶笑譚。くじを引き当てたのが冴えない寺男。ところが娘は別の男を好きになってしまい、景品になったことを後悔する。さて、ことの顛末は。ソフィア・ローレンがなんともセクシー。
 日本初公開は一九六二年であるが、このとき第一話の『レンツォとルチアーナ』がカットされていた。私が最初に観たのはTVの深夜放送だったが、そのときも第一話『レンツォとルチアーナ』はなかった。完全版が劇場公開されたのは一九九八年のことである。 

 

ボッカチオ‘70/Boccaccio '70
1962 イタリア/公開1962(短縮版)、1998(完全版)
監督:マリオ・モニチェリフェデリコ・フェリーニルキノ・ヴィスコンティヴィットリオ・デ・シーカ
出演:第一話マリサ・ソリナス、ジェルマーノ・ジリオーリ、第二話ペッピーノ・デ・フィリッポ、アニタ・エクバーグ、第三話ロミー・シュナイダー、トーマス・ミリアン、パオロ・ストッパ、第四話ソフィア・ローレン

『映画に溺れて』第317回 カンタベリー物語

第317回 カンタベリー物語

昭和四十八年三月(1973)
大阪 難波 南街スカラ座

 

 パゾリーニの『デカメロン』は相当に話題になったようで、類似作がたくさん出た。私が観た『ブラック・デカメロン』はアフリカが舞台の黒人版だったが、原作はボッカチオではなく、アフリカの艶笑民話を集めたものらしい。主題歌が有名で、その後あちこちで耳にした。
 パゾリーニ自身もさっそく艶笑ものの第二弾を作っている。ジェフリー・チョーサー作の『カンタベリー物語』である。
 前作『デカメロン』で画家ジョットーに扮したパゾリーニ監督、今回は作者チョーサー役で出演もしている。
 常連のフランコ・チッティとニネット・ダボリはどちらにも出てくる。そして裸の女性がいっぱい出てくる。十代の私にとっては、それが一番うれしかった。
 この映画で特に印象的なのが地獄の場面。ある司祭が地獄に行く。そこには死後苦しめられている亡者たちが蠢いている。司祭はそこに聖職者がひとりもいないので、さすがに聖職者は地獄には堕ちないのだろうというと、悪魔たちがいっせいに排泄する。聖職者たちはその排泄物にまみれて悶えているのだった。なんとも壮絶な皮肉である。
 ヒース・レジャー主演の『ロック・ユー』は中世の騎士物語に現代のロックミュージックを被せたもので、従者の身分でありながら、馬上槍試合で勝ち抜く若者が主人公。その遍歴の旅の途中で主人公が出会う詩人がジェフリー・チョーサーポール・ベタニーが演じていた。

 

カンタベリー物語/I Racconti di Canterbury
1972 イタリア/公開1973
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
出演:ヒュー・グリフィス、ニネット・ダボリ、フランコ・チッティ、ジョゼフィン・チャップリン、ラウラ・ベッティ