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『映画に溺れて』第363回 ショーシャンクの空に

第363回 ショーシャンクの空に

平成七年十一月(1995)
池袋 文芸坐

 これは大好きな作品で、映画館で四回観ている。原作はスティーブン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース
 泥酔したエリート銀行員アンディ・デュフレーンが銃を携え、妻の浮気現場であるプロゴルファーの家の前で自動車を停めている。
 妻とゴルファーは射殺され、アンディは無実を主張し、物的証拠がないまま有罪で終身刑となる。時代はリタ・ヘイワースがスターだった一九四〇年代。刑務所で新入りのアンディをじっと観察しているのが黒人の殺人犯で便利屋のレッド。これはレッドの視点から見たアンディについての物語である。
 所長は偽善者。冷酷な看守長は平気で囚人を殴り殺す。凶暴なゲイの囚人に襲われながらもアンディは耐えている。
 アンディの独房に貼られたセクシー女優のポスター、最初はリタ・ヘイワース。これがマリリン・モンローになり、最後には『恐竜百万年』のラクエル・ウェルチになる。それだけ長い期間、ずっと刑務所に入っているわけだ。終身刑だから。
 重労働に従事し、やがて銀行家としての才能を発揮し、看守や所長に優遇される。気取ったエリートのアンディを最初はバカにしていた他の囚人たちも、いつしか彼に一目置くようになる。この男は本当に有罪なのか、それとも無実なのか。
 アンディのティム・ロビンス、レッドのモーガン・フリーマンのふたりはもちろん、他の配役も凝っていて、偽善者の悪徳刑務所長がボブ・ガントン、鬼看守長がクランシー・ブラウン、図書係の老囚人がジェームズ・ホイットモア、陽気な囚人がウィリアム・サドラー、後に入ってくる若い囚人がギル・ベロウズ。
 囚人たちが娯楽として所内で映画を観る場面、上映される『ギルダ』がリタ・ヘイワースの主演作である。私は後に池袋の新文芸坐で観る機会を得た。

 

ショーシャンクの空に/The Shawshank Redemption
1994 アメリカ/公開1995
監督:フランク・ダラボン
出演:ティム・ロビンスモーガン・フリーマンウィリアム・サドラー、ボブ・ガントン、ジェームズ・ホイットモア、クランシー・ブラウン、ギル・ベロウズ

 

『映画に溺れて』第362回 スティング

第362回 スティング

昭和四十九年七月(1974)
大阪 曽根崎 梅田グランド

 

 詐欺師の映画というのは、主人公の詐欺師がカモを引っ掛けるトリックの面白さもあるが、実はもうひとつ、映画を観ている観客そのものも騙してしまう手口。わあ騙された、という快感を与えてくれる二重の楽しさがあるのだ。
 私が一番最初に騙されたのは『テキサスの五人の仲間』で、開拓時代の西部を舞台にしたもの。実はこの映画はTVの日曜洋画劇場で観て、大人になってからDVDで観ただけなので、このブログでは詳しい紹介はしない。ただし、未見の人は決してインターネットなどのあらすじを読まないように。
 詐欺師の映画もいろいろあるが、私はなんといっても『スティング』が一番好きだ。ロバート・レッドフォードの若造ジョニーが、相棒のルーサーと路上でカモを引っ掛けて大金をせしめる。それがギャングの賭博のあがりだったため、ロバート・ショーふんする大親分ロネガンの怒りにふれ、ルーサーは無残に殺さる。
 ジョニーはルーサーの親友ヘンリーを頼ってシカゴに逃亡。この詐欺の名人ヘンリーがポール・ニューマン。かつての詐欺師仲間を集め、ギャング相手にルーサーの敵討ち。
 その方法というのが競馬を利用した大掛かりな詐欺なのだ。時代背景は禁酒法時代のアメリカで、アンタッチャブルの世界。詐欺師とギャングの対決にジョニーを追う刑事や殺し屋やFBIが絡む。
 禁酒法時代のギャング映画というのは、歴史の浅いアメリカでは西部劇同様の一種の時代劇なのだろう。
 ポール・ニューマンロバート・レッドフォード、それに監督のジョージ・ロイ・ヒルは、この映画の前に『明日に向かって撃て』を作っており、そっちを先に観た人は『スティング』にはさらに騙されやすい仕掛けになっている。

 

スティング/The Sting
1973 アメリカ/公開1974
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
出演:ポール・ニューマンロバート・レッドフォードロバート・ショウチャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン、アイリーン・ブレナン、ロバート・アール・ジョーンズ

明治一五一年 第11回

明治一五一年 第11回

森川雅美


途切れる記憶の内側を
過ぎていくのは誰の瞳かと
いくつもの軽くなる足音たち
多くの人がまた亡くなりました
が踏み締めるままに
哀しみの破片なのだと
越えていく掌の浅い窪みへ
あれは境界に触れる足でした
散在する傷口の内側
からの死者たちが静かに集う
喉元までの裂け目が
多くの人がまた亡くなりました
埋もれる側からの開く眺めは
もっと眩しい光が
射していた忘れかけた安らぎと
ひとつずつ消えていきました
途切れる囁きは静かな脊髄
に弱る震えと共に届き
失われた心音の痛みを見出す
多くの人がまた亡くなりました
記録の淀みの狭間へ
割れる暗さに曝される
時代の傾きは足裏に留める
帰れず沈みました
水もまた重さを持つ
のだから体の中心に傾くのは
幾重もの吐息に似た言葉の
多くの人がまた亡くなりました
ぶれに訪れる古い声と
途切れるもう会えない人人
の眼に光るために綴り
何度も亡くなっていきました
違う切り傷になる
片割れに会う踏みだせない端へ
傾き見られているなら
多くの人がまた亡くなりました
かたちになるより早く満つ
散らばる名残を結びながらも
追われていく背中は
いつまでも張り付いていました
ごく小さな波紋になるまで
繰り返し拡がりいくと
途切れる命の連鎖を
多くの人がまた亡くなりました
紡ぐためささやかな空を放ち
はるか遠い彼方に連なりいく
ながい列の始まりへ
まだ戻っていいですか
目を凝らしゆっくり歩調を
整えながら種子を包む
額とは大きな影だから歪に
多くの人がまた亡くなりました
伸びる言の葉の裏側は
ざらつく荒れ野の
ままに燃えない熱い火を放てと
いつか振り返りました
途切れる記憶のさらに奥に人
の現在の予感は兆し
また違う眼の内側に芽生える
多くの人がまた亡くなりました
澄んだ残響の結晶へ
つぶやく傷ついたいくつもの
古い声たちを結わく
留まり続けました
新しい営みの始まりに
繁茂する葉影が揺れ一瞬は
まだ止まらずに眩い
多くの人がまた亡くなりました
骨片が延々と降る野を行くと

『映画に溺れて』第361回 壁女

第361回 壁女

平成二十三年九月(2011)
西東京 保谷こもれびホール

 西東京市で毎年開催されている西東京市民映画祭自主制作映画コンペティションの審査員を、第一回より何年か続けてやらせていただいた。全国から寄せられた短編作品の中から各賞を選ぶのだが、プロと見紛う達者な作品、アイディア勝負の個性派、手間暇かけて作った労作。印象的なたくさんの作品に出会うことができた。
 中でも忘れられない作品のひとつが『壁女』である。タイトルだけで、どんな内容だろうと想像をふくらませた。壁女という妖怪の出てくる怪談だろうか。
 予想は見事に外れた。
 休日に河川敷などに出かけ、壁にべったりと張り付き、自動タイマーで撮った写真をブログに掲載するのが趣味というOLの話。
 一人暮らしのアパートは散らかり放題の汚さ、食事は毎度カップ麺、職場ではいつも遅刻して叱られている。そんな彼女が恋をする。そのいじらしい恋の顛末を描いた異色コメディで、十七分の短編ながら伏線を張り巡らした密度の濃い内容、大変味わい深かった。
 監督は原田裕司、主演は仁後亜由美。
 翌平成二十四年、下北沢トリウッドで原田裕司監督特集があり、再び『壁女』を観た。同時上映が『コーヒー』『苦顔』『冬のアルパカ』、四本全部合わせて八十七分。トリウッドは短編を中心に上映するミニシアターで、下北沢の南口商店街を抜けた小さな雑居ビルの二階にある。初めてここへ来たときは、見つからなくて探し回り、さんざん迷ったあげく郵便局で尋ねてようやくたどり着いたのだった。
『コーヒー』と『苦顔』はどちらも個性の強い主人公の生き方を描いたラジカルできわどい作品。『冬のアルパカ』は『壁女』の仁後亜由美主演で、アルパカを飼う女と、彼女に金を貸しているローン会社の取立て屋との奇妙な交流。アルパカと雪国と変な人たち。
 自主映画の中には、商業映画よりも面白い作品が実はたくさんある。自主製作映画コンペティションの審査に毎年予選から参加して、夏の間に数えきれないほどの短編を見続けたこと、いい経験だったと今でも思っている。

 

壁女
2011
監督:原田祐司
出演:仁後亜由美、朝倉亮子、阪東正隆、伊藤公一、香取剛、後藤慧、鈴木敬子、竹田尚弘

 

『映画に溺れて』第360回 吹けよ春風

第360回 吹けよ春風

平成十一年四月(1999)
京橋 フィムルセンター

 三船敏郎といえば、剣豪や豪傑、凄腕の素浪人といった時代劇が多いが、その三船が主演のコメディタッチの現代劇。終戦からまだそんなに経っていない東京を舞台に、タクシーの運転手が見た人間模様を描いた佳作である。
 岡田茉莉子と小泉博のカップル。痴話喧嘩しながらも最後は仲良く降りて行く。
 大勢の子供たちを乗せて銀座をまわるエピソードは自動車がまだ珍しく、簡単に乗れない時代を思い出させる。
 舞台の大スター越路吹雪を乗せて「黄色いリボン」の替え歌をふたりで歌う。三船が歌うのだ。
 青山京子の家出娘を乗せて東京駅まで送ったが、心配で連れ戻す。が、途中で去って行く。あの娘はどうなるのだろう。
 小林桂樹藤原釜足の酔っぱらい二人。小林は走るタクシーのドアから外へ抜け出して車の上を通って反対側のドアから入って来るのが得意だと繰り返し、とうとういなくなる。あわてて外を探すがどこにも落ちていない。すると、座席の下で鼾をかいて酔い潰れている。
 三国連太郎は若いタクシー強盗。
 復員兵とおぼしき山村聰とその妻山根寿子。どうやら山村は刑務所に入っていたらしい。それを世間体もあり、子供の手前もあるので、復員してきた風に装っている。そういう時代なのだ。
 そんな軽いスケッチのようなエピソードが次々と流れ、最後に家出娘が母親と仲良く銀座で買物している姿を見つけて安心する。観ている観客もほっとする。
 昭和二十八年、実は私の生まれた年である。だからよけいに懐かしい。

 

吹けよ春風
1953
監督:谷口千吉
出演:三船敏郎、小泉博、岡田茉莉子、青山京子、越路吹雪小林桂樹藤原釜足、小川虎之助、三好栄子、島秋子、三國連太郎山村聰、山根寿子

 

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十一回 将軍の涙

 天文十八年(1549)十一月。尾張の笠寺にて松平竹千代(後の徳川家康)と、今川に捕えられていた織田信広織田信長の腹違いの兄)の人質交換が行われました。
 尾張の末盛城では、織田家の家臣である平手政秀(上杉祥三)が、織田信秀(信長の父)(高橋克典)に人質交換の報告を行っていました。尾張一の弓の使い手といわれた信秀は、以前受けた傷の悪化から、弓を引ききることもできなくなっていました。信秀はいいます。
「信広があのざまで、信長も何を考えておるのかさっぱりわからん。信勝はまだ若い。子たちが頼りにならず、わしがこのようなありさまでは。今川に今、いくさを仕掛けられては勝ち目がない」
 一方、駿河今川義元の館には、竹千代が到着していました。義元(片岡愛之助)は竹千代に優しく声をかけ、食事を供します。竹千代はいいます。
「私は三河へ、いつ帰していただけるのでしょうか」
 義元の軍師である太原雪斎伊吹吾郎)が答えます。
「ご案じなさいますな。いずれお帰りいただきましょう。ただ三河は今、織田信秀に味方される方々、われらと共に豊かな国をつくりたいと申される方々に割れ、相争うておりまする。このままではいずれ三河は滅びる。われらは隣国として、それは見るに忍びない。間もなくわれらは、三河を毒す、悪(あ)しき織田勢を完膚なきまでに叩く所存。それまでのご辛抱じゃ」
 竹千代は顔を落とします。義元は雪斎に語気を強めていいます。
「年が明けたらいくさ支度じゃ。三河を救うためのいくさぞ」
 翌年、今川義元尾張の南部に攻め寄せ、次々と制圧していきます。これにより、織田信秀の非力ぶりが明らかとなります。信長と帰蝶の婚姻による、織田、斎藤の盟約は、迫り来る今川義元の脅威に、今にも崩れようとしていました。
 美濃の稲葉山城では、古来より美濃を支えてきた国衆を含めた評定が行われていました。国衆の一人である稲葉良通(村田雄浩)が斎藤道三(このときは利政)(本木雅弘)にいいます。
「盟約を結んだ以上、織田から頼まれれば、共に今川と戦わねばならんのです。そのおつもりは、あるのかどうかをうかがいたいのじゃ」
「わしはそのつもりであるが、いくさは一人ではできん」と、道三は答え、皆の顔を見回します。「むしろ皆に聞きたい。おのおの方は、今川と戦う覚悟はあるか」
 稲葉は稲刈りなどの理由をつけて、兵を出すことを拒みます。他の者も無言で稲葉に賛同する態度を示します。道三はいいます。
「織田が今川の手に落ちれば、次は美濃が餌食になる番じゃ。その時が来ても、皆は戦わぬのか」
「その時はわれらも刀を取りまする」
 という稲葉。織田のためには戦わない、美濃のためには戦う、ということなのでした。笑い出す道三。
「もうよい。皆さっさと村へ戻って稲刈りでもせい」
 と、道三は告げます。引き上げる道三に、光秀の叔父である明智光安(西村まさ彦)が付き従います。道三は光安に打ち明けます。
「織田の家老、平手政秀が、援軍をよこせと申してきた。急ぎ返答せねばならん」
 その使いとして、道三はすぐに光秀を思いつくのです。
 明智光秀長谷川博己)はしぶしぶと尾張那古野城に向かいます。
 光秀が到着した時、信長は家来たちと、角力を楽しんでいました。平手政秀が取り次ぎをしようとしても、あとで参る、という始末。平手政秀が光秀の相手をします。平手は愚痴るようにいいます。
「若殿は今のところ鉄砲以外は眼中にないご様子。先日も近江の国友村の鉄砲職人に数百もの鉄砲を注文なされ、職人を困惑させたそうです」
 平手は光秀に探りを入れるように話します。ついに光秀は正直にいわざるを得なくなります。
「わがあるじ斎藤利政は、織田信秀様に、援軍は送らぬとお決めになりました」
 平手は驚きます。光秀は頭を下げて謝るのです。平手は無言で部屋を後にします。残された光秀は帰蝶と話します。帰蝶はいいます。自分は人質であり、道三が裏切れば、はりつけになる。そこに角力を終えた信長が入ってきます。先ほどの話は平手から聞いていました。今川を押し返すのは難しいだろう、と信長はいい、くつろいだ様子で、帰蝶の膝枕に頭を乗せます。
「和議じゃな」と、信長はいいます。「刈谷城を渡すゆえ、いくさはここまでにしてくれと、今川に手を止めさせるほかあるまい」
 光秀は驚きます。
「それができましょうか」
 帰蝶も聞きます。
「誰が仲立ちを」
「それがわからん」
 と、信長は小声になります。光秀は思い出します。以前、美濃の守護家の内紛があり、京の将軍家のとりなしで収まったことがあった。帰蝶がいいます。光秀が京に行った折、将軍のそばに仕える者と、よしみを結んだのではなかったか。それを頼ってみてはどうだ。
 美濃に帰ってきた光秀は、将軍にとりなしをしてもらう案を道三に話します。道三は賛成しません。
「そなたの役目はここまでじゃ。ご苦労であった」
 光秀は食い下がります。
「それではあまりに。せめて頼芸様にお頼みし、将軍家におとりなしの議を願い出るのが、美濃の取るべき道かと」
 道三は目を見開いていいます。
「やりたければ勝手にやれ」
 光秀は道三の長男である斎藤高政(伊藤英明)と話をします。光秀は土岐頼芸(尾美としのり)のところへ、自分を連れて行ってくれるよう頼むのです。高政は嫌がります。
「頼む。会わせてくれたら、今後そなたの申すことは何でも聞く」
 と、光秀はいってしまうのです。
 高政の引き合わせで光秀は頼芸に会うことができます。尾張のいくさの件で、将軍家へ和議のとりなしを願えるかと、たずねる光秀。
「それはわしに文(ふみ)を書けということか」
 と、頼芸。
「使者を立てていただいてもよろしいかと。お許しがあらば、私が使者のお供をいたします」
 光秀が言うと、話が思わぬ方向に進みます。道三が頼芸を美濃から追い払い、自分が守護につこうとしている、と頼芸がいい出すのです。高政が頼芸にいいます。
「それがまことなら、私にも覚悟が」高政が頼芸にいいます。「私がお館様(頼芸)をお守りし、父、利政(道三)を」
「殺せるか」
 と、問う頼芸。うなずく高政。
「文を書こう。紙と筆を持ってまいれ」
 と、頼芸はいうのです。
 そのころ京では、細川春元と三好長慶による戦いが起こっていました。十三代将軍である足利義輝(向井理)は、近江に落ち延びることを余儀なくされます。京、近江一帯は、長慶による取り締まりが厳しく行われていました。
 光秀は将軍に会いにやってきていました。宿を断られた光秀に、声をかけてくるものがいます。その男こそが京でよしみを結んだ細川藤考(眞島秀和)でした。藤考はいいます。将軍は今、朽木に落ち延びている。自分は何とか将軍が京に戻れるよう、京と朽木を行き来している。
 光秀は藤考の案内のもと、朽木にたどり着きます。将軍義輝に拝謁(はいえつ)し、頼芸の文を渡すことに成功するのです。将軍義輝は、光秀が藤考にいった言葉を覚えていました。将軍は武家の統領であり、武士を一つにまとめ、世を平らかに治めるお方である。今、世は平らかではない。将軍が命じなければならない。争うなと。それを聞いて義輝は励まされたというのです。義輝は立ち上がり、雪のちらつく庭を眺めながらいいます。
「そなたの申す通りじゃ。いまだに世は平らかにならぬ。わしに力が足りぬゆえ、このわしもかかる地で、このありさまじゃ」
 将軍奉公衆が嘆きの言葉を出します。将軍義輝は続けます。義輝の父がいっていた、立派な征夷代将軍となれ。世を平らかにできるような。
「さすれば麒麟が来る。この世に麒麟が舞い降りると。わしは父上のその話が好きであった。この世に、誰も見たことのない麒麟という生き物がいる。穏やかな世をつくれるものだけが連れてこられる、不思議な生き物だという」将軍義輝は光秀を振り返ります。「わしは、その麒麟をまだ連れてくることができぬ。無念じゃ」
 そういって将軍義輝は嗚咽(おえつ)するのです。義輝は座に戻り、今川と織田について、両者に和議を命じることを約束するのです。

 

『映画に溺れて』第359回 鬼火

第359回 鬼火

平成十九年一月(2007)
阿佐ヶ谷 ラピュタ阿佐ヶ谷

 怪談でもホラーでもないのに、これが妙に怖いのだ。
 終戦後の東京。
 加東大介ふんする主人公はガスの集金人である。昔は銀行の自動引き落としなどないから、受け持ち地区を一軒一軒、集金人が料金を集めて回る。
 勝手口から覗き込んで、無人の台所にガスがつけっぱなし、湯が煮立っていたりすると、親切に火を止めて、そこの家の主人に叱られたり。悪い人間ではない。
 新しい担当地区に支払いが滞っている家がある。戦前は金持ちだったらしいが、戦後は没落して苦しい生活をしている様子。
 この家の奥さんが津島恵子。病気で寝たきりの夫が宮口精二。落ちぶれたとはいえ、奥さんはなかなかの美人。
 ガス代が払えなければ、ガスを止めるしかない。
 が、そうなるとこの家は病人の薬を煎じることができないので困るのだ。
 そこでガスの集金人はよからぬ欲望を抱く。ガス代はなんとか立て替えてやるから、夜、俺の下宿へ来い。そんな提案を持ちかける。
 そして、その夜、待っているとほんとうに奥さんがやって来る。
 そこから一気に怖い結末となる。
 怪談ではないが、最後、ぞっとした。
 原作は吉屋信子。脚本は菊島隆三
 そういえば、加東大介津島恵子宮口精二も三人とも『七人の侍』に出ているのだ。

 

鬼火
1956
監督:千葉泰樹
出演:加東大介津島恵子宮口精二中村伸郎、中田康子

 

『映画に溺れて』第358回 怖がる人々

第358回 怖がる人々

平成二十四年一月(2012)
池袋 新文芸坐

 和田誠が監督した恐怖短編五話のオムニバス映画。
「箱の中」深夜に酔って帰宅したサラリーマンが、マンションのエレベーターで偶然に知らない女といっしょになる。と、エレベーターが故障で止まってしまう。閉じ込められた二人、どうなるのかと思っていたら、この女、美人なのにやたら怖いことを言い始める。都会のマンションに住んでいると、こういうこと、ないとはいえない。
吉備津の釜」失業中の女性、父親が病気で倒れたために、なんとか働きたいと思っているが、なかなか仕事が見つからず、困っているときに、酒場で見知らぬ女性から声を掛けられる。あなたが気に入ったので、親切な友達がいるから紹介しよう。その人なら必ず就職を世話してくれるはずだと。見知らぬ他人の親切には要注意。
「乗越駅の刑罰」田舎の駅の改札、だれもいないので通り過ぎようとした乗客を駅員が呼び止め、乗客は切符を持っていなかった。そこで。
「火焔つつじ」平山蘆江の怪談集にあった生霊の話。
「五郎八航空」無人島に取材に出かけて嵐に遭う雑誌記者とカメラマン。そこに現れる個人タクシーならぬ個人飛行機。操縦士が蝮に噛まれたとかで、操縦しているのは慣れないおかみさん。急いで本社に戻りたくて、この飛行機に乗る記者とカメラマンの恐怖。
 五作全体を通じて、ストーリーもさることながら、俳優の演技が充実している。これだけの名優と個性派が出ているのだから、当然ではあるが。さすがに和田誠はすごい。

 

怖がる人々
1994
監督:和田誠
出演:真田広之原田美枝子佐野史郎熊谷真実杉本哲太清水ミチコ筒井康隆、でんでん、逗子とんぼ島田歌穂奥村公延平田満上田耕一麿赤児マルセ太郎佐々木すみ江高品格、内田朝雄、フランキー堺斎藤晴彦萩原流行花王おさむ、杉山とく子、小林のり一、浅香光代、渡辺哲、小林薫黒木瞳三谷昇石黒賢嶋田久作レオナルド熊桜金造山谷初男不破万作、すまけい、唐沢寿明渡辺えり

 

書評『まむし三代記』

書名『まむし三代記』
著者 木下昌輝
発売 朝日新聞出版
発行年月日  2020年2月28日
定価  ¥1800E

まむし三代記

まむし三代記

  • 作者:木下 昌輝
  • 発売日: 2020/02/07
  • メディア: 単行本
 

 

 木下(きのした)昌輝(まさき)は2012年、デビュー作『宇喜多(うきた)の捨て嫁』が第152回直木賞候補となった。一作のみでははかりがたしとする意見が選考会で大勢を占め直木賞を逸したと仄聞するが、この種の見解がはなはだしき的外れであったことは、その後の木下の瞠目すべき活躍を見れば明らかであろう。デビュー以後、一作ごとに工夫を凝らしている絶妙な小説作法から見えるのは時代・人への透明感ある冷徹さである。
 『宇喜多の捨て嫁』で戦国の三梟(きょう)雄(ゆう)の一人、宇喜多(うきた)直家(なおいえ)を書いたので斎藤道三(どうさん)か松永久秀(ひさひで)のいずれかを書かないかと依頼されたことが執筆のきっかけだったという。

 かつて、「道三は一介の油売りから身を起こして一代で大国美濃(みの)の戦国大名となった」とするのが通説であったが、昭和39年(1964)に始まった『岐阜県史』編纂の過程で発見された、道三の出自に関する確たる情報が盛り込まれているとされた古文書「六角承禎(ろっかくじょうてい)条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、道三の父と道三の二代で美濃国を簒奪したのではないかという説が有力になっている。
 道三が油売りから戦国大名になったという旧説に基づいた小説としては、坂口安吾(あんご)の『梟雄』(昭和28年)、司馬遼太郎(しばりょうたろう)の『国盗り物語』(昭和38~41年)などがあり、国盗りは父子二代で行われたとする新説を踏まえた最初の小説は宮本昌孝(みやもとまさたか)の『ふたり道三』(平成15年)であった。歴史時代小説界の麒麟児・木下昌輝は当然に新説を踏まえるのだろうが、はたして、いかなる斎藤道三を描くのか。

 戦国乱世。美濃国土岐(とき)家に限らず、諸国の守護大名家のほとんどは烈しい内訌を繰り返している。「道三の父」は油売りの行商をしながら、美濃国に狙いを定める。
では、いつの時点で、いかなる形で、「道三の父」から「道三」へバトンタッチされたのかは真実の「道三」を知りたいと思う者にとっての最大の関心ごとである。
 歴史学では例えば、小和田哲男は「天文2年(1533)以前に道三は家督相続。病死した父・新左衛門尉(しんざえもんのじょう)の跡を継いだ」と推察しているが、われらが木下昌輝はいかに物語るか。

 本書は3話(章)構成。各章に主人公がいる。「蛇ノ章」の主人公は法蓮房(ほうれんぼう)(道三の父)。松波庄五郎、西村勘九郎、長井新左衛門などと名乗る。「蝮ノ章」は道三自身。「龍ノ章」は豊太丸(とよたまる)こと斎藤義龍(よしたつ)(道三の嫡男)。新九郎、范可などと名乗る。
 道三が弘治2年(1556)、長良川(ながらがわ)の戦いで嫡男の義龍に討たれるは史実である。が、おおよそ知られている後半生よりも、作家の構想力、創造力をためされるのは前半生の描き方である。その意味でとりわけ法蓮房が主人公の「蛇ノ章」は目が離せない。

 応仁の乱(おうにんのらん)が終結して24年後の文亀2年(1502)、応仁の乱における東軍の総大将・細川(ほそかわ)勝元(かつもと)の嫡男である細川政元(まさもと)の暗殺計画から、物語はスタートする。「道三の父」法蓮房は政元暗殺の一団に紛れ込むことによって、時の権力者細川政元に取り入り武士として風雲に乗ろうと画策するのである。
物語をリードし、全編を貫くキーワードは二つある。一つは「国滅(くにほろ)ぼし」である。
 著者はわずか20行足らずの「前書き」を用意し、短い表現ながら「国滅ぼし」の意味するところを暗示しているのはきわめて刺激的である。
 国盗りの野望を抱く法蓮房は“国滅ぼし”の存在を示唆する。「城攻めの武器、大筒」、「敵を倒す武器」、「銅を使った凶器」などの暗示的な表現から、読者は最新兵器なのかと想像しつつ、その正体は何なのか、探りつつ注意深く読みすすめることになろう。「国を医(いや)す薬」を経て、ある意外なものを通説より早く国産化していた事実にたどり着く。もう一つのキーワードとは「国を医す」であった。さらに、「信長も国滅ぼしの正体を、直感で見抜いた」の表現もある。「国を医す」をめぐって、応仁の乱細川勝元から信長までを透視したこの時空の広さは著者の懐の深さでもある。

 二代目を受け継いだ若き道三の描写。「父は国手などではない。父は国を毒する男。父が毒蛇なら、私はその毒を医す力を身につけたい」との道三の語りがある。国手とは、国を医す者のことである。道三自身は自らは蛇ではないとする。
 父道三はやはり蛇であると見做す「龍ノ章」の主人公たる三代目の義龍は道三の狂気を目の当たりにしつつ、「正気のあるうちに、美濃統一を」と策す道三に対して、「つくづく父上が歩むのは、蛇の道」と言い放つ。道三と義龍との関係性では、義龍が土岐(とき)頼芸(よりなり)の落とし胤で道三の子ではないという説を踏まえた作品が多いが、道三と義龍の父子の争いにも独自の解釈がなされている。

 本作には影の主人公がいる。それは冒頭の政元暗殺計画に参加した源太(げんた)である。源太は小牧源太道家という義龍の配下で長良川の戦いで道三の首をとったとして史料に名を残す実在の人物と同名であることが着目される。本作での源太は「父子三代の国盗りの結末をその目に刻みつける」役目を帯びている視点人物なのである。
「美濃の蝮(まむし)」こと斎藤道三の物語は結局のところ国を医すための父子三代の永い戦いであった。「父子三代の力で国を医したのだ。父子三代とは、道三の父、道三、義龍ではなく、道三の祖父、道三の父、道三だ」と、源太と義龍が回顧し、その上で、道三の祖父である松波(まつなみ)高丸(たかまる)を「国を医したまむしの親玉」とみている二人が「一度でいいから見えたかった」とするシーンは感慨深い。これにより本作が「道三一族の三代記ではなく、道三一族三代によりそった男の一代記」として書き上げられたことがわかる。本作は視点人物たる源太が道三一族四代の素顔に迫った歴史小説なのである。

 本作はもともと『蝮三代記』と題して、「小説トリッパ-」に2017年秋号から2019年夏号まで9度にわたり連載された。
 ふたつの「まむし三代記」がある。雑誌掲載の“蝮”と今回の単行本の“蝮”である。3章立ての構成は不変だが、そこでは、同じ“蝮”ながら、全く異質の“蝮”がそれぞれ這いずり回っていると言わざるを得ない。
 したがって、というべきか、「本書は書下ろしである」と、「あとがき」で作家は言い放つ。
 単行本化するにあたり大幅に加筆しようと思ったが、大幅改稿を決意したという。

 なぜ、加筆ではなく、改稿を決意せざるを得なかったのか? 締め切りばかりが念頭にある編集サイドから「一冊に収めるには三代記は長すぎる」と指摘された(?)ことが原因の一つであろう。長すぎて大いに結構ではないか。宮本昌孝の『ふたり道三』は単行本時4巻、文庫化3巻であった。木下昌輝に無尽蔵の時間と紙の量を与えて執筆させてほしかった。『国盗り物語』や『ふたり道三』に描かれた「道三」ではない。全く別の顔の「道三」を巻数物でじっくり味わいたかったと思うのは評者(わたし)ばかりではあるまい。おかげで、二匹の“蝮”を味わえるという余禄に与ることを寿ぎつつ。

 

                   (令和2年3月25日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第357回 ひとひらの雪

第357回 ひとひらの雪

昭和六十一年十一月(1986)
荻窪 荻窪劇場

 昔、阿佐ヶ谷に住んでいたとき、隣町の荻窪にあった映画館、荻窪劇場で『ひとひらの雪』と『化身』の二本立が上映されていて、歩いて行ったことを思い出した。かつては歩いて行ける場所に映画館があったのだ。普通の町の普通の駅前に。そういえば、練馬の桜台に住んでいたときは、江古田文化に歩いて行ったものだ。昔の話。
ひとひらの雪』はとても強く印象に残っている。その内容のエロチックさに。どきどきするような官能美だった。
 著名な中年の建築家が津川雅彦
 彼がかつて短大の講師だった頃に関係した教え子が、今は画廊のオーナーの後妻になっていて、これが秋吉久美子
 偶然に再会したふたりが浮気を重ねるという話。
 津川雅彦のねちねちとした中年のいやらしさ。
 秋吉演じる三十前後の人妻が欲望と恥じらいに身をよじる仕草が色っぽくて。
 大胆な濡れ場もたくさんあり、これがもう、大変にエロチック。
 さすがだなあと思ったのは、これだけ官能的に濡れ場を描いて、下品ではないのだ。津川、秋吉、そして根岸監督の品のよさだろうか。
 そして、最後に中年男は、妻から離婚され、若い恋人にも捨てられ、人妻からも拒絶され、ひとり炬燵に入って、窓の外の雪を眺めている。
 池田満寿夫が主人公の友人役で出てきて、建築事務所の部下が岸部一徳、まだまだ若かった。津川の妻が木内みどり、そして秋吉の夫の画廊のオーナーが、なんと池部良
 その後、銀座シネパトスで二十年ぶりにもう一度観た。最初に観たときは、ただただ興奮したのだが、二回目に見直してみて、映像の美しさ、大人の演技の渋さなど、文芸映画と呼ぶにふさわしい作品であると実感した。

 

ひとひらの雪
1985
監督:根岸吉太郎
出演:津川雅彦秋吉久美子、沖直美、池部良岸部一徳池田満寿夫木内みどり