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書評『女スパイ鄭蘋茹の死』

書名『女スパイ鄭蘋茹の死』             
著者 橘かがり
発売 徳間書店
発行年月日  2023年3月15日
定価  ¥720E

 

 

 不幸な時代、日中のはざまで生きた女性として李香蘭川島芳子が著名だが、日本占領下の上海に生きた日中混血の女性・鄭蘋茹を知る人は少ないのではないか。
 鄭蘋茹の父鄭鉞は上海高等法院の検察官。清朝末期、官費留学生として来日し、中国同盟会に入会した孫文以来の国民党の幹部である。蘋茹は大正3年(1914)5月、そうした中国人の父と、茨城県真壁出身の日本人・木村花子(鄭華君)を母とし、東京牛込に生まれている。

 1930~40年代の日中関係――。日中戦争は拡大の一途を辿り、戦火は中国全土に広がり、泥沼に陥っている。日本軍占領下の上海には戦禍の難民が租界に群衆なって流れ込み、人間地獄と化している。日中双方の様々な思惑から謀略が渦巻き、「東洋のパリ」と謳われた上海はテロや戦火で荒廃していく。抗日テロ組織の巣窟と化していた「魔都」その街で、蘋茹が国民党の特務機関・中国国民党中央執行委員会調査統計局、略して「中統」上海弁事処行動隊の正式メンバーとなったのは盧溝橋事件、第二次上海事変が勃発し日本と中国が交戦状態に入った昭和12年(1937)の秋頃である。翌年1月、「爾後、蔣介石政府を相手とせず」との第一次近衛声明が出される。

 本書のもう一人の主人公ともいうべき花野(はなの)吉平(きちへい)は明治45年(1912)3月、北海道江別町(現・江別市)の生まれ、『歴史の証言』(龍渓書舎 1979年)の著書がある。鄭蘋茹が「中統」の工作員となった昭和12年の秋頃、吉平は奇しくもほぼ同時期に上海陸軍特務部総務班に勤務し始め、「和平工作」に少なからず関与している。その「和平工作」に参集したメンバーの中にいた一人の女「親愛なる中国工作員」(『歴史の証言』)が即ち鄭蘋茹であったのである。
 軍属でありながら、公然と軍を批判、和平を唱える吉平は昭和14年(1939)5月 上海憲兵隊に逮捕、勾留される。翌年3月30日の汪兆銘政権誕生の翌日に釈放されるが、吉平が憲兵隊に拘留され獄中にあったその間に「かけがえのない人」を亡くす。鄭蘋茹は処刑されていたのである。吉平にとって蘋茹の身に起きた「戦慄すべき事件」は到底承服できるものではなく、「事件の真相を突き止め、彼女の無念を晴らす」べく、吉平は動き出す……という形をとって物語は語られる。

 重慶国民政府の工作員となった鄭蘋茹への最初の「指令」は昭和14年(1939)春、敵国日本の宰相近衛文麿公爵の令息・近衛文隆に近づき、彼を篭絡して、囚われている工作員の釈放を要求せよ、であった。文隆はその年の2月に東亜同文書院の学生主事(講師)として上海に赴任していた。蘋茹は意図をもって文隆に近づくが、「偽装恋愛」はたちまち離れがたい関係に。蘋茹は自分の身分を明らかにして、文隆と共に手をたずさえて重慶を訪れ、蔣介石・近衛文麿の直接連絡ルートを作って、日中和平を図ろうとしたとする説が有力だが、この「和平工作」のことは本小説の中に直接の言及はない。文隆との熱き恋は文隆の日本への帰国送還であっけなく潰えるが、その年の12月には次に発せられた指令のもと、蘋茹は丁黙邨暗殺未遂事件に巻き込まれる。
 第2、第3の指令は汪兆銘政権の要人で「ジェスフィールド76号」の中心人物・丁黙邨に接近し懐柔して、暗殺を期して誘導せよ、「裏切り者の丁黙邨を排除せよ。直ちに行動を移せ」という最も過酷な任務であった。「……76号」とは汪兆銘擁立工作を前提として、日本軍のバックアップによって成立した抗日テロ弾圧組織である。
 吉平は蘋茹処刑までの経緯を調べるべく、亡き女の足跡を丹念に辿る。時には吉平の(=著者の)推測を交えつつ、物語は推理小説の謎を解くように進行していく。
 12月21日午後5時、暗殺は失敗。一人取り残された蘋茹はフランス租界の万宜坊の家に逃げ帰る。まず父の書斎に報告に行き、次に「信頼できる知人」上海憲兵分隊長藤野鸞丈少佐に電話している。藤野との電話やり取りは何度であったか不明だが、蘋茹は「どうしたらよいのでしょう。日本側にも悪いし、中国側にも悪くて、どうしたら良いのかわかりません」(252頁)と縋りついている。この謎めいた言葉の真意はどこにあるか興味深い。投降する前に、電話で相談した藤野に「自首しても罪を認めれば許されるはず」と断言され、家族に類が及ぶのを恐れ、投降、出頭を決めたとの母華君の証言もある。「できることなら何でもする」という藤野の甘い言葉を蘋茹も華君も素直に信じてしまったのか。蘋茹が投降した後、藤野は父鄭鉞に電話して、「娘さんが重慶のために働いているのは、以前から薄々知っていました。見逃すわけにはまいりません」と断固とした口調で告げている。鄭一家は「日本軍の手ごわさ、残忍さを見抜けなかった」(228頁)かくして、「家族を守るためには、自首するしかない。逃げるという選択肢は残されていないのだ」と鄭蘋茹は覚悟するに至る。

 自首。本小説では、「翌朝」、家族に自首することを告げ、「12月26日の夕刻4時頃」自首したとする。が、家を出た後の足取り及び投降の日についても諸説あり。「犯行後3日目」説もあり、「年が明けた1月初旬=二週間後」説もある。
 藤野の連絡所に蘋茹が突然やってきて自首したので逮捕したとの日本側の記録もある。いずれにせよ投降したその日のうちに中国側(丁黙邨)に渡されたことは確かであろう。逮捕後、蘋茹は処刑される日まで、憶定盤路のさる大邸宅に監禁される。

 汪兆銘政権の要人の暗殺未遂は南京国民政府樹立を目前とした汪兆銘政権と日本にとっては到底見すごすことのできない大事件であったが、ここで、日本側はさもしくも醜い取引を父鄭鉞にもちかける。「和平派(=汪兆銘側・日本側)への参加に応じれば、鄭蘋茹を釈放する」というのだ。蘋茹の生死は父鄭鉞の対応次第となった。鄭鉞は正義と名誉を守り抜く高等法院の検察官であった。日本軍に阿るか否か悩み、己れの決断次第で愛娘の生死が決まると知って苦悶した末、やむなくこれを拒絶する。鄭鉞は節を曲げなかったのである。この段階で、鄭蘋茹の運命は決定した。
 鄭鉞は丁黙邨と時々会うようになった娘の様子から異変を察していた。蘋茹は結果的に婚約者の王漢勲を裏切り、文隆への思いも振り切り、両親を欺き、類稀なる美貌を武器にして生贄のように丁黙邨の前に身を投げ出し時には官能の愉悦に浸ってきた。勘の鋭い父は娘の本性をとうに見抜いていて、白羽の矢を立て工作員になる運命をうけいれさせたのではなかったか。もしそうなら……、あらためて父の底知れなさを思い知ると蘋茹自身に述懐させている(212頁)。父と娘の血涙滲む凄まじい葛藤を記したこの下りは 本作品のクライマックスシーンであろう。

 処刑。日本の傀儡政権である汪兆銘新政権が南京に成立する直前の昭和15年(1940)「2月半ば」(日時は特定できないらしい)、「76号」と日本憲兵隊の監視の下、暗殺未遂の実行犯、重慶側のテロリストとして銃殺刑に処せられた。享年25。
 映画『支那の夜』(伏水修監督 長谷川一夫李香蘭主演)の大ヒットによって、李香蘭(20歳)がスターの座に駆けのぼったのは、奇しくもこの年のことである。
 日中混血の生まれという宿命を享受し葛藤しながらも中国人としての愛国意識に目覚めた蘋茹が諜報員としての活動したのはわずかに約2年半ということになるが、 暗殺に失敗し、「本物の中国人になって、日本の侵略から母国を守るために」とのすべての目論見が一瞬で水泡に帰したと知った時、蘋茹はそもそも自分の役割とは何だったのか振り返っている(248頁)。  
 鄭蘋茹の両親は中国人を「支那人」と見下げた社会背景での国際結婚で結ばれ、子らには「日中二つの国の役に立ってもらう」ことを切望したが、皮肉なことに夫妻のそんな揺るぎない決意が蘋筎を追い詰めた――そう思えないでもない、と著者は吉平 に語らせている(58頁)。花野吉平は蘋茹を通じて鄭家にも出入り、蘋茹の両親とも交流し、蘋茹の処刑後も、そして戦後も、鄭家と家族的な交際を続けることになる。吉平の行動には日本人としての贖罪の気持ちも込められていたのであろう。
 謀略あり、暗殺あり、国境を越えた恋愛ありの日本占領下の上海という「時代」と「場所」の制約の下に生きた一人の女性・鄭蘋茹の行動と思想形成に思いを致し、佇立することを禁じ得ない。鄭蘋茹は川島芳子李香蘭に勝るとも劣らない悲劇をそのまま生身の女として負うという鮮烈なる生を刻している。
 若き鄭蘋茹の人間像に迫り、人間の運命を浮き彫りにした歴史小説の傑作、真に優れた文学作品の誕生を心より嘉したい。

                (令和5年3月25日  雨宮由希夫 記)

 

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー20

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー20

「近藤富蔵と近藤富蔵 寛政改革の光と影」
(谷本晃久、山川出版社(日本史リブレット058))

 

 

 本書は近藤富蔵とその子近藤富蔵の生涯を概観したものです。
山川出版社から出ているシリーズ『日本史リブレット』の58番目の本です。本シリーズは、日本史と世界史の人物を取り上げていますが、一人一冊というわけではなく、本書のように親子や関係する複数人を一度に扱っているのが特徴です。むろん、一人一冊もあります。
 本シリーズは、だいたい100ページ以内で取り上げた人物の生涯と時代背景をおおまかにつかめるのが特徴で、入門書として最適ではないかと思っています。
 近藤重蔵といえば、「江戸時代後期の幕臣(旗本)、探検家。諱は守重、号は正斎・昇天真人。5度にわたって蝦夷地探検」を行い、「『大日本恵登呂府』の標柱を立てた人物として知られる一方、書誌学や北方地図作製史の分野でも論じられている人物」です。(注1)
 しかしながら、本書はその副題に「寛政改革の光と影」とあるように、寛政の改革近藤重蔵の歴史への登場の道を開き、その才能と相まって大きな輝きを放つと同時に、その改革の火が消えるのと併せて輝きを失っていく過程を重蔵の変転に寄り添い、その心情にを推し量りながら描写しているのが特徴です。併せて、嫡子富蔵の運命とともに……。
 私が本書を紹介するのは、そのテーマと同時に、近藤重蔵という人物が、徳川幕府御家人のまさに光と影を体現した人物だと思われるからです。
 近藤重蔵守重は、御先手鉄砲組与力を勤める近藤右膳守知の子です。
御先手鉄砲組とは、その名の通り戦場で先鋒を承る鉄砲隊のことです。与力ですから同心を率いる小隊長といってよいでしょう。番方の役職ですので、平時は江戸城各門の警護にあたりました。
火付盗賊改の増役(応援)として動員されることもありす。事実、火付盗賊改長谷川平蔵のときに江戸市中見回りへ動員されているようです。(6頁)
江戸町奉行所の与力は給地で200石です。御先手組の与力も同じでしたが、重蔵が跡を継いだ頃には、80石(玄米)の蔵米取りに改められていたようです。80石とは228俵1斗7升余のようですが、面倒なので従来の標記に従います。
ちなみに、御先手組の与力は、一代限りの抱席ですが、実質世襲のようになっていました。また、非番の多さとある程度の収入の多さから、学芸、武芸等に耽溺し、御徒のように出世思考は強くなかったようです。(7頁)
しかしながら、重蔵は違いました。寛政6年(1794)に実施された第二回の学問吟味に応じて、丙科及第という判定を得ます。このときの及第者は69名(甲科37名、乙科14人、丙科18人)でした。甲科には、大田南畝蜀山人)、遠山景晋(江戸町奉行遠山景元の父)がいました。
本書は、折に触れて重蔵の心情に寄り添うように記載されていますが、学問吟味の結果については、立身の始まりとしているだけで、その心情を推量していません。私は、このときの丙科及第(内心は甲科及第を望んでいいたのではないかと思っています。)こそ、重蔵の落胆とそれゆえに長崎奉行手附出役という抜擢に勇躍したのではないかと思っています。御先手轍鮒組与力は、上記のような事情で他職に抜擢されることはまずないからです。
重蔵を抜擢したのは、試験監督を務めた中川忠英という旗本です。中川は、自分が長崎奉行に任じられたことから、重蔵を抜擢したものと思われます。
 長崎奉行手附出役を命じられて後の重蔵の職歴は以下の通りです。

 


(37頁の表をもとに一部修正、原則1俵=1石と見て比較願います。)

 重蔵は、旗本・御家人という家格によらず各自の資質に応じた役職が与えられるべきという考え方を持っていたようです。ゆえに筆者は、抜擢された役目をこなし、さらに高見を望む、そんな生き方が後年の刃傷沙汰につながっていったと見ているようです。(14・15頁)
近藤重蔵といえば、蝦夷地調査が有名で、先に述べたように択捉島に建てた「大日本恵登呂府」の標柱が大きな事蹟として評価されています。
重蔵が蝦夷地に関心を持ったのは、長崎奉行手附出役として長崎に赴いたときにロシアを知り、国際情勢に目覚めたのがきっかけだと思われます。重蔵は、蝦夷地を幕府直轄とする考えを持っていたようです。
しかしながら、この考えは重蔵を引き立ててくれた中川忠英及び寛政の遺老(注2)たちの考えであり、当時は一橋治済、水野忠成など松前氏に任せようとする考えを持つ人達もいました。将軍家斉の親政を巡って派閥抗争のような状況があったのです。
最終的には水野忠成派が勝利することとなります。そのため重蔵は、番方の大坂御弓奉行へと追いやられてしまいます。左遷といってよいでしょう。このとき重蔵は、48歳の働き盛りでした。
大坂御弓奉行は、1月にわずか3日櫓を見回り、武器数取調を行うだけの閑職だったようです。(65頁)
働き盛りの重蔵にとって、閑職は苦痛だったようで、無断で大坂城下を離れて有馬温泉に外泊したりとかなり先例を逸脱した行いが多かったようです。その態度が傍若無人とみられたのでしょう。幕府の忌避するところとなり、結局、江戸に召喚され、差控を命じられて小普請入りすることとなります。(66・67頁)
子息富蔵とも確執を抱えた重蔵は、その富蔵の起こした事件に連座して、近藤家は改易、自身は近江国大溝藩主分部左京亮御預けとなってしまいます。
大溝陣屋の獄舎に幽閉された重蔵は、失意のまま文政12年(1829)6月、享年59歳で世を去ります。
その生涯は、今日のサラリーマン(御家人なのでノンキャリの公務員でしょうか)の栄光と悲惨、光と陰を象徴しているように私には思われてなりません。

(注1)ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%87%8D%E8%94%B5

(注2)寛政の遺老については、「頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー18」を参照願います。

『映画に溺れて』第563回 バイオレント・ナイト

第563回 バイオレント・ナイト

令和五年二月(2023)
新宿歌舞伎町 TOHOシネマズ新宿

 

 クリスマスストーリーといえば、アルバート・フィニー主演のミュージカル『クリスマスキャロル』や、フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生』など、文句なしに大好きな作品が数えきれない。あの『ダイハード』さえ聖夜が舞台である。
 さて、クリスマスイブの夜、パブでサンタクロースの衣装を着た初老の男がビールをがぶがぶ飲んでいる。げっぷをしながら、近頃はプレゼントに現金を欲しがる夢のない子供が増えたと世相を嘆き、年配の女性スタッフに孫にやってくれとプレゼントの包みを渡して、非常口から出ていく。あら、どうしてサンドイッチマンがあたしの孫の名前を知ってるの。そっちは出口じゃないわよ。すべったら危ないわ。女性スタッフが酔っ払いサンタを追って屋上に出ると、男の姿はなく、トナカイの橇が夜空を飛んでいくのが見えるのだ。
 コネチカットの大富豪ライトストーン家のクリスマス。この広大な屋敷の女主人ガートルードが息子のジェイソン一家と娘のアルヴァ一家を招いての豪華なホームパーティ。ジェイソンは幼い娘のトルーディと元妻のリンダと参加。この豪邸に空から酔っ払ったサンタが舞い降りる。プレゼントを待つ子供たちの名が書かれた巻物となんでも出てくる袋を持参だが、部屋にある高級酒の瓶につい目が行ってしまう。
 屋敷にスクルージと名乗る男が乗り込み、その合図でケータリングサービスのスタッフたちが銃を取り出し、屋敷の使用人や警備員を皆殺しにして家族を一室に集める。首領のスクルージの目的はこの屋敷の地下金庫に眠る三億ドル。
 たまたま惨劇に居合わせ、少女トルーディの願い事を聞いたサンタは、酔っ払いながらも凶悪な強盗団と戦うことになる。サンタとはいえ、不死身ではなく、銃で撃たれたりナイフで突かれたりすれば傷つく。が、とてつもなく強い。巻物のリストに名前のある悪い大人たちは次々とサンタのハンマーで頭を叩き潰される。が、クリスマス嫌いの悪賢いスクルージも負けてはいない。クリスマスマジックは起きるのだろうか。

 

バイオレント・ナイト/Violent Night
2022 アメリカ/公開2023
監督:トミー・ウィルコラ
出演:デヴィッド・ハーバー、ジョン・レグイザモ、アレックス・ハッセル、アレクシス・ラウダー、リア・ブレイディ、ビヴァリー・ダンジェロ、エディ・パターソン、カム・ギガンデット、アンドレエリクセン

 

『映画に溺れて』第562回 秋日和

第562回 秋日和

平成元年五月(1989)
下高井戸 下高井戸シネマ

 

 小津安二郎監督の『秋日和』は『晩春』の焼き直しだが、私はこちらのほうが好きである。もちろん、『晩春』も決して悪くはない。親子の関係から言うと、『晩春』の笠智衆原節子のほうが情愛があり、ことに、婚期を過ぎた娘と二人暮らしの父というのが、リアリティをもたせて無理がなく、笠智衆演じる父親が結婚しない娘を心配するあまり、自分が再婚するという嘘をつくあたりが泣かせる。笠智衆原節子の親子が関西へ旅行するシチュエーションはそのまま『男はつらいよ』の笠智衆光本幸子に引用されていたように思う。
 私が『秋日和』を好きなのは、ここに登場する『彼岸花』のトリオ、佐分利信中村伸郎、北竜二の絶妙な組合せが好きなのだ。小津作品には同じ固有名詞がよく使われるが、間宮、田口、平山の三人は、『秋日和』では、佐分利の間宮が会社重役、中村の田口も会社の管理職、北の平山が大学教授となっている。
 彼らは学生時代からの友人で、初老となった今でも、会うと、学生のように、軽口を叩きあう。それがトリオ漫才のごとく面白いのである。
 この三人に原節子司葉子の親子が絡み、さらに司葉子の同僚、岡田茉莉子が絡むのだが、三人組と岡田茉莉子のユーモラスなやりとりには、和やかな笑いが溢れている。娘を結婚させるために再婚すると思わせる中年の母親、原節子もまだまだ美しい。
『晩春』や『東京物語』の頃は、世の中全体が生活に追われていたので、映画の中にもその影響が多少感じられるが、『彼岸花』や『秋日和』『秋刀魚の味』となると、まったく生活感がない。そこが実にいいのである。
 結婚適齢期の娘を持った親の心理と、それを取り巻く人々を描いただけのワンパターンな設定で、ここまで観客を引きつけるというのは、実にすばらしい。

 

秋日和
1960
監督:小津安二郎
出演:原節子司葉子佐分利信岡田茉莉子中村伸郎、北竜二、佐田啓二沢村貞子桑野みゆき、島津雅彦、三宅邦子、田代百合子、設楽幸嗣、三上真一郎笠智衆渡辺文雄千之赫子桜むつ子、十朱久雄、南美江、須賀不二男、高橋とよ、岩下志麻

 

『映画に溺れて』第561回 お嬢さん乾杯!

第561回 お嬢さん乾杯!

平成元年五月(1989)
銀座 並木座

 木下恵介監督といえば、『二十四の瞳』や『野菊の如き君なりき』や『喜びも悲しみも幾歳月』などの悲劇や社会派作品が有名で、観客を泣かせるイメージが強い。私は木下監督の可哀そうな映画は何本も観ているが、どれも好みではないのだ。
 私が好きな木下作品は『お嬢さん乾杯!』や『破れ太鼓』や『カルメン故郷に帰る』や『春の夢』などのユーモア溢れる温かい喜劇である。『春の夢』はおそらく同じ松竹の山田洋次監督『男はつらいよ寅次郎春の夢』のタイトルに使われたのだろう。内容は違うが。
 木下コメディで私が特に大好きなのが、終戦後間もない時期に作られた『お嬢さん乾杯!』で当時の風潮を表した人情喜劇である。
 太宰治の『斜陽』が発表されたのが一九四七年、これがベストセラーとなり、戦後に没落する華族階級が斜陽族と呼ばれるようになる。『お嬢さん乾杯!』はその頃、一九四九年の公開となる。
 自動車修理工場を作って羽振りのいい独身の圭三に縁談が持ち上がる。その相手というのが元華族の令嬢、池田泰子。池田家というと、大名家の末裔であろうか。偉そうな華族のお嬢様が相手だなんて気が乗らない圭三だが、いざ見合いしてみると、泰子のやさしさにほだされ、上品な美しさに一目ぼれしてしまう。
 池田家では圭三との結婚を受け入れるが、訪れてみると、家具が壊れていたり、家のあちこちに綻びがあったり、思った以上に苦しい生活ぶりである。池田家には実は問題があった。泰子の父親が戦後の詐欺事件に巻き込まれ、刑務所に入っている。しかも池田家の土地や屋敷が借金の抵当になっていて、間もなく支払い期限であるという。
 つまり羽振りのいい自動車業者と娘を結婚させたがっているのは、斜陽族の魂胆に違いない。そう思ってがっかりした圭三は泰子の元を去り、これを泰子が追うのだ。
 戦後たくましく生きる圭三が佐野周二、元華族の泰子が原節子。輝くばかりに美しい。これはふたりのラブコメディであり、灰田勝彦の主題歌もヒットした。

 

お嬢さん乾杯!
1949
監督:木下恵介
出演:佐野周二原節子佐田啓二、坂本武、村瀬幸子、永田靖、東山千栄子、森川まさみ、青山杉作

 

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー19

「禅僧たちの生涯 唐代の禅」(小川隆、春秋社)

 

 タイトルを見て歴史の新書、専門書のレビューになぜ宗教書が? と驚かれた方もいらっしゃることと思いますが、本書は副題に「唐代の禅」とあるように、中国の唐の時代を中心に禅僧たちはどのように生きたのか、出家と受戒、禅寺の修行の様子と行脚、寺院の組織構成、そして悟りと寂滅等々禅僧の一生について紹介したものです。ただし、一人に焦点をあてているわけではなく、テーマ別にそれぞれ紹介していますので、読み物としても面白いです。
 周知のように、禅宗は天竺から達磨大師が伝え、その後唐代(618年~907年)に流行し、宋代(960年~1279年)に完成したといわれています。日本では、栄西の伝えた臨済宗道元の伝えた曹洞宗が名高いですが、よく考えれば、中国で最も充実した時代の禅宗だったことがわかります。ただし、本書はそれ以前の唐代の禅僧を中心に紹介しています。
 最近、2020年に『震雷の人』(注1)で千葉ともこさんが、第27回松本清張賞を受賞しました。また、2022年には『夢現の神獣 未だ醒めず』で武石勝義さんが2022年(2023年)に日本ファンタジー大賞を受賞しました。この作品は中華幻想ファンタジーのようで、中国を意識した作品となっているようです(本年刊行のため、雑誌『新潮』紹介の情報のみ)。中国小説ブームの兆しでしょうか。
 中国といえば、金庸等原作の武侠ドラマ(小説)が有名ですが、ドラマを見ると仏教の影響が強いことがわかります。さらに作中に少林寺が頻出しますが、これは嵩山少林寺(中国河南省)が、達摩大師による禅宗の発祥の地と伝わると同時に少林拳を伝えているからと思われます。
 しかしながら、日本では少林寺あるいは少林拳を取り上げた作品は少なく、私の知る限りでは故陳舜臣の『珊瑚の枕 風雲少林寺』(注2)のみではないでしょうか。
 さて、禅僧と言えば奇矯な行動や難解な問答で有名ですが、本作でも禅僧の思想が紹介されています。ただ、作者がわかりやすく解説しているため、それほど苦労することはないでしょう。
 宗教といえば、やはり最後は死をどのように迎えるかだと思われます。私もシングルで高齢者の仲間入りをしていますが、死をどのように迎えるかは大きなテーマです。
 本書では、むすびとして禅僧の死を取り上げていますが、その章は、
 ――我々の生まれ方は一つ、死に方はさまざま。
 という言葉で結ばれています。(P301)

 余談ながら、中国小説の第一人者といえば、やはり宮城谷昌光さんではないでしょうか。
私も氏の小説は大好きでほとんどを読破しています。
 最近は、月刊誌『新潮』で「公孫龍」を連載中です。

 

(注1)『震雷の人』(千葉ともこ、文春文庫)

※    千葉ともこさんは、2022年『戴天』で、当会主催の第11回日本歴史時代作家協会賞(新人賞)を受賞されています。

(注2)
『珊瑚の枕 風雲少林寺』(陳舜臣、中公文庫)

※    上下巻に分かれているため、リンクは上巻のみとしました。

書評『熱河に駆ける蹄痕 小説小日向白朗』

書 名   『熱河に駆ける蹄痕 小説小日向白朗』      
著 者   織江耕太郎
発行所   春陽堂書店
発行年月日 2022年8月31日
定 価    ¥1800E

 


 大陸浪人馬賊の大頭目となり、赤い夕陽の満州を流転した人物としては、檀一雄の小説『夕日と拳銃』のモデルとなった伊達順之助が著名だが、張作霖・学良父子や蒋介石と深く交流し、満洲国の建国から崩壊までを目の当たりにした人物・小日向白朗を知る人は少なかろう。 
 本歴史小説は第一章「熱河 1917~1931」、第二章「華北 1931~1940」、第三書「上海 1940~1950」の三部構成。

 第一章「熱河 1917~1931」――。

 小日向白朗は明治33年(1900)新潟県南蒲原郡三条町(現・三条市)に生まれた。冒険譚を読むうちに満州への憧れが強くなり、大正5年(1916)12月 日本を脱出し満洲を目指した。時に16歳。新潟県人会に出入りし、坂西(ばんざい)利八郎(りはちろう)陸軍中将を紹介され、土土肥原賢二板垣征四郎といった青年将校たちの知遇を受ける。坂西から「軍事探偵」という役を与えられ、北京を出発した白朗は馬賊集団に襲われる馬賊に捕らえられ。熱河の千山を根城に馬賊として生きていくことを決意し、のちにはその総攬把(大頭目)となる。

 転機が訪れたのは関東大震災の翌年の大正13年(1924)の夏。白朗は配下を率いて、張作霖軍に入る。当時の中国はまさに軍閥割拠の状況にあり、白朗の母国・日本は満蒙権益の擁護と拡大を日露戦争以来の国策として中国を侵略している。
 張作霖日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。日本は張作霖らの軍閥を利用して、ひたすら満洲での権益の拡充を図ってきた。が、馬賊と土匪・匪賊との区別ができない関東軍は「張作霖馬賊上がりだ」と侮辱し容易に傀儡化できると踏んでいた。それが日本の満蒙政策であった。
 白朗は「乱れた世の中を平定し、民衆を守れ」との“神の啓示”を実現するには、すでに奉天支配下に収めている張作霖軍に入るのが近道だと思い、張作霖の大陸平定の夢に己の夢を重ねて奉天軍に従軍し、第二次奉直戦争を戦う。
 大正元年(1926)7月1日 蒋介石は北伐開始を宣言するが、このころ「関東軍はすでに張作霖を見捨てたのではないか」と白朗は見ている。
 歯車が狂ってきたのは何か? 張作霖政権のキーマンである王永江の辞表を契機に、「大元帥張作霖の歯車が狂いだし、没落への道を一途に辿ったと白朗は見る。
 第二次奉直戦争から張作霖爆殺事件までの4年間、張作霖が何を考え、何を夢見ていたのかは一切不明である。彼は沈黙を守り続けたからである。
 張作霖爆殺事件――。昭和3年(1928)6月4日早暁、北京から奉天(現在の瀋陽)へ向かう特別列車に乗車した張作霖関東軍の謀略により列車ごと爆破され謀殺された。
「国民党は敵であるが、仇ではない。父の仇は日本帝国主義だ」。父の敵であった国民党の青天白日旗を掲げる張学良28歳の言葉を聞いて白朗は心底驚く。やがて学良は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして東三省の国民政府への合流を通電する(易幟革命)。政治情況の激変の中で、在満日本人は抗日姿勢を鮮明に出すようになる中国のナショナリズムの高揚に直面するのだが、日本及び日本人の大多数は日本の国益を尺度とする目線のみでしか日中関係を見ない。

第二章「華北 1931~1940」――

 張作霖爆殺事件は満洲事変(1931)、満洲国の建国(1939)、大東亜戦争へと続く昭和動乱の出発点である。つねに軍部の独断で事を起こし、政府が後から追認する。「事変」「事件」の名の下に、国家政略が何もないまま国を挙げての戦争がはじまり、戦争の拡大を誰も止めようとしないのだ。
 昭和6年(1931)9月18日 満州事変――。勢いに乗った関東軍は張学良ら抵抗する者たちを全て「匪賊」とみなすと共に、捕虜にした匪賊を編成して帰順軍をつくり、大陸浪人馬賊の伊達順之助に指揮をとらせた。「伊達が大将を自称(詐称)して権威を笠に非道の限りを尽くした」ことに白朗は怒る。
 昭和7年(1932) 満洲国の建国――。阿片という軍事物資をメインとした満洲の利権が絡んでいる満洲国は能吏型軍人、行政テクノクラート特殊会社経営者のいわゆる「鉄の三角錐」によって運営された。「満洲国」の時代はわずかに13年5ヶ月の命であったが、満鉄は日本の野望を実現するための重要な会社として満州国を支えた。

 第3章「上海 1940~1950」――。 

 日中戦争は拡大の一途を辿り、いまや戦火は中国全土に広がり、泥沼に陥っている。蒋介石の国民軍、毛沢東八路軍と新四軍、そして日本軍の三つ巴の乱戦から、汪兆銘南京政府軍を含め四すくみの複雑な様相を呈するに及び、その状況を打開すべく、政治家、軍人、民間有力者が水面下で、和平工作の摸索を始める。
「おぬし、蒋介石に会えないか」と土肥原賢二から電話があり、白朗が四すくみの諜報戦、謀略戦の決戦場と化した上海に向かうのはこの時である。
 土肥原賢二は白朗が生涯にわたって付き合った人物である。陸軍きっての「支那通」で「満洲のローレンス」と言われた土肥原は、華北5省を南京政権から分離して第二の満州国化する謀略工作を推進したとされ、極東裁判でA級戦犯、絞首刑に処せられる。
白朗と関東軍とは付かず離れずの関係にあり、関東軍の無理解と無謀な判断を一方で切り抜けつつ、一方で真っ向から受け止めるのが矜持と誇りを持った白朗の身の処し方であるとする、一方、「自分は何者なのか」と自分のアイデンティティを絶えず白朗は悩み続けていたと作家は記している。
「上海で日本軍の侵略を阻止し、平和を求める活動をしていきたい」白朗は阿片ルートを絶つべくある意味、熱河とは真逆の上海の地を踏む。いまもなお白朗の心の支えは馬賊魂にあり、若き血潮をたぎらせて生き抜いた熱河の地は白朗の原点であった……。
 日本という国は近代の目覚め以降、何を追い求め、何に追われて疾駆してきたのか。日本はロシアの南下に対する防衛目的のために朝鮮半島を日本の防波堤にしたが、どこでどう道を踏み違え、遂には「満洲は日本の生命線」との論理で自滅していかねばならなかったか。
 逃げ出したくなるほどに重い歴史の課題を、小日向白朗の生きざまに照準を当て、平易に、かつ興趣をこめ緩急自在にときほぐす作家の筆力、作者の見識の高さにはあらためて脱帽せざるを得ない。
 世の中の仕組み一切が重苦しい戦雲に覆いつくされ、個人の生涯が袋小路におしこまれようとする時代の下、それぞれの生が交錯するように、白朗が接触した人々との「会話」が何より生きている。実在、架空を問わず、キャラクターの造形が鮮やかであるが、とりわけ歴史上の人物の評価は教科書的な評価とは一線を画す独特なもので、動乱の昭和史を鳥瞰するかのような人物素描に、読者は共感することであろう。
 敗戦時に北京で国民政府軍に漢奸(かんかん)(=売国奴)として逮捕され処刑された “東洋のマタハリ川島芳子は白朗を「お兄ちゃん」と呼び、「日中の両方を知っているのは僕とお兄ちゃんだけだ。お兄ちゃんは、中国を体で知っている」と。処刑場に引き出され死を目前とした芳子との会話の一コマである。二人に共通するのは、国に、戦争に翻弄され、踏みにじられてきたことであり、この数奇な運命を作家は熱量高く描いている。
 蒋介石張作霖・張学良父子、東條英機牟田口廉也、「阿片王」里見甫らの人物造形にもひきつけられた。
 架空の人物としては、白朗が抗日軍の指揮を執る熱河時代より、実の妹のように愛した女馬賊・徐春甫の存在が痛ましいほどに眩しい。エピローグで、八路軍の兵士となって現れる徐春甫は上海から脱出しようとする白朗を黙殺、見て見ぬふりをする。かつて生死を共にした同志がいまや生死を制するものとして相まみえるのである。   
 主人公小日向白朗を総括して、「白朗は、所詮は戦乱の申し子なのだ」としているが、この小説の生命は、「馬賊」を中心に据えて、中国近現代史を見直し、中国共産党公認の”正史”とは違ったもう一つの中国史を浮かび上がらせたことである。

           (令和5年3月12日 雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第560回 東京おにぎり娘

第560回 東京おにぎり娘

平成二十二年年八月(2010)
神保町 神保町シアター

 若尾文子の出演する映画は一九五〇年代から一九六〇年代がほとんどで、私が映画をたくさん観始めた一九七〇年代以降には主演作はほとんどない。ただ一九七五年にフジTVで放送された倉本聰脚本のドラマ『あなただけ今晩は』に私は夢中になり、それで若尾文子が大好きになった。
 名画座などで古い日本映画を観る機会が増えたのは一九八〇年以降、最初に観た若尾の出演作は『初春狸御殿』のお姫様だった。次が『座頭市と用心棒』の宿場町の酒場のおかみ。その後は増村保造特集で主演作をたくさん観たが、男に踏みつけにされる悲劇のヒロインはどうも苦手である。
 一九六一年の『東京おにぎり娘』は私好みの明るいコメディで、新橋で小さな洋服の仕立屋を営む頑固親父の鶴吉が中村鴈治郎。その娘のまり子が若尾文子である。上方歌舞伎の名優中村鴈治郎はこの当時、映画にもたくさん出ていた。新橋で長年洋服屋をやっているのに大阪弁丸出しで、「大阪生まれの江戸っ子や」という設定が大いに笑えた。
 娘のまり子はいかにも江戸っ子の典型、竹を割ったように気風がいい。昔の東京には、こんな素敵な女性がいっぱいいたんだろうと思わせる。
 鶴吉の商売が思わしくないので、まり子が店をおにぎり屋に改装して、繁盛する。これにいろいろと恋模様が絡んで、なかなかうれしい一本なのだ。まり子に絡むのが若手の舞台演出家で演劇青年の川口浩、鶴吉の元弟子で既製服会社の社長が川崎敬三、まり子に岡惚れの町の遊び人がジェリー藤尾。演劇青年に失恋したまり子がべろべろに酔っ払う場面、これがなんとも素晴らしい。
 当時の新橋界隈の風景が次々と映し出されていくのも見ものである。
 私は若尾文子の他にも香川京子司葉子岸恵子岡田茉莉子南田洋子池内淳子雪村いづみなど、一九六〇年代に活躍した日本の美人映画スターが大好きだが、みなさん、一九三〇年代生まれである。

東京おにぎり娘
1961
監督:田中重雄
出演:若尾文子中村鴈治郎川口浩ジェリー藤尾川崎敬三、叶順子、藤間紫伊藤雄之助沢村貞子八波むと志

 

『映画に溺れて』第559回 結婚のすべて

第559回 結婚のすべて

平成十一年九月(1999)
京橋 フィルムセンター大ホール

 

 岡本喜八の才能は光り輝いていた。というか、これこそ私好みの上質のコメディなのだ。なかなか日本映画には珍しい。
 まず太陽族映画の撮影場面から始まり、性風俗の乱れを嘆く場面をいろいろ描いて、結婚式へと入り、結婚をテーマに様々な問題が繰り広げられる。
 平凡な主婦啓子が新珠三千代、その夫で大学の哲学講師三郎が上原謙。上原は田舎訛り丸だしの冴えない学者馬鹿を好演。妻が新婚当時の思い出を懐かしく語っていると、いつの間にか鼾をかいている。
 啓子の妹で新劇の俳優養成所に通う康子が雪村いづみ。啓子と康子の父親は大企業の重役。康子は姉の結婚生活が本当に幸福なのかどうか疑問である。自分は姉のような見合いではなく、恋愛結婚を希望している。が、彼女が好意を持った学生は、酒場でアルバイトしながら学費を稼ぐ苦学生かと思えば、実は女を食いものにして貢がせる不良だった。
 姉の啓子に好意を持って近づく雑誌編集長の古賀が三橋達也。啓子は何を言っても張り合いのない夫が物足りなくて、古賀に誘われて酒を飲みダンスを踊るが、口説かれると怖くなって逃げ帰る。家では夫が子供を寝かせている。啓子は遅くなったのは妹と会っていたと言い訳するが、二階では康子がずっと姉を待っていた。啓子は嘘を夫に謝り、男性と酒を飲んだことを告白する。三郎は優しく、君が悪い時は僕が悪い時なんだと慰め、抱き合う。
 それを見ていた康子は、姉の結婚もそこそこに幸福なんだと悟り、父の紹介する見合い相手に会いに出かける。これが仲代達矢
 クレジットに名前はなかったが、新劇の稽古場の場面にちらっと登場する演出家の役が三船敏郎だったので、フィルムセンターの客席は大笑い。そういえば、三船敏郎岡本喜八監督と仲がよかったそうだ。

結婚のすべて
1958
監督:岡本喜八 
出演:雪村いづみ新珠三千代上原謙、小川虎之助、堺左千夫、小杉義男、三橋達也、塩沢登代路、白石奈緒美、仲代達矢、団令子、森啓子、藤木悠若水ヤエ子