日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第390回 悪魔のはらわた

第390回 悪魔のはらわた

平成七年七月(1995)
六本木 俳優座劇場

 

 3Dの映画は昔からあった。私が子供の頃、片目が青、片目が赤のセルロイドの眼鏡で見た記憶がある。
 新宿高島屋のオープンに合わせてタイムズスクエア内に登場した東京アイマックスシアターは壁一面の巨大スクリーンで、偏光眼鏡による本格的な3D映画館だったが、一九九六年という時期、まだ3D作品は製作数が少なくて短編しか上映できず、結局は閉館となる。
 私が3D『悪魔のはらわた』を観たのはアイマックスができる前年の一九九五年、劇場は六本木の俳優座だった。一応は偏光眼鏡での鑑賞であったが、設備も不充分だったのか、二時間近くあの眼鏡をかけ続け、相当に目が疲れたことばかり記憶している。
 監修がアンディ・ウォーホル。古典的ホラーのフランケンシュタインを題材にして、近親相姦、ゲイ、死体愛好などインモラルな味付け。それが3Dというのだから、いかにもウォーホルらしい趣向である。
 生命創造に取り付かれ、女モンスターを完成させたフランケンシュタイン男爵は、次は男モンスターを創り、この理想のカップルを交配させることで、新人類を生み出そうと計画する。
 精力絶倫の農夫ニコラスを殺し、これを材料に男モンスターが完成かと思われたが、この農夫が人違いでゲイだったため、女モンスターに興味を示さない。
 男爵の実の姉であり妻でもある淫乱な男爵夫人はニコラスを召使いにして情事にふけるが、男モンスターにもちょっかいを出して、殺されてしまう。
 変態の助手は女モンスターの腹を引き裂き、怒り狂った男爵に殺される。このあたりが邦題になっているのだろう。悪魔のはらわた。
 最後は男爵がモンスターに槍で突き刺され、この槍がにゅうっと画面から飛び出すのだ。血みどろの立体効果で。
 男爵を演じたウド・キア、この翌年の『処女の生血』ではドラキュラ伯爵となる。

 

悪魔のはらわた/Flesh for Frankenstein
1973 イタリア・フランス/公開1974
監督:ポール・モリセイ
出演:ジョー・ダレッサンドロウド・キア、モニーク・ヴァン・ボーレン、アルノ・ジュエキング

 

書評『家康(二) 三方ヶ原の戦い』

書名『家康(二) 三方ヶ原の戦い
著者名 安部龍太郎
発売 幻冬舎
発行年月日  2020年8月10日
定価    本体690円(税別)

 

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

 

 

 本書は2016年12月に刊行された安部龍太郎の『家康(一)自立篇』の後半部を、副題を変えて文庫化したものである。以後、『家康(二)不惑篇』も二分冊されて文庫化され、『家康(三) 長篠の戦い』『家康(四) 甲州征伐』として刊行予定とのことである。

 本書『家康(二) 三方ヶ原の戦い』は「第一章決断、第二章 今川滅亡、第三章 上洛、第四章 姉川の戦い、第五章 信長と信玄、第六章 三方ヶ原」の6章構成である。
 史上の家康は桶狭間の戦い後、三河一国を掌中にし、信長と同盟するが、物語は桶狭間の戦いの8年後の永禄10年(1657)5月、家康の嫡男信康の婚礼が終わった直後の描写からはじまり、三方ヶ原の戦いで敗れるまでを描いている。
 家康は狸親父のイメージの如く稀代の策謀家として知られるが、読者の期待の一つは作家安部龍太郎がいかなる家康像を造形するかにあるが、この時期の家康を作家は次のように想い描いている。

(信長どのには、かなわない)……信長の天才的な力量に較べたなら、三河一国を手に入れて得意になっていた自分など、地を這う虫のようなものだ。が、……弱が強に勝つ、無能が有能をしのぐ道はないのか。
 思えば家康の生涯は、この探求に費やされたようなものだった。

 永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を擁して上洛し、将軍の権威を大義名分にして天下布武への道を突き進み統一への実権を固める。この時期、甲斐の武田信玄は西上の途に着くべく、信長の同盟者・家康と結ぶことで、今川家の領地である駿河遠江の切り取りを容易にしようと画策するのである。
 外交戦において巧妙な武田信玄に勝った家康は永禄12年(1569)1月、今川氏真掛川城に攻め、遠江一国を大略平定する。
 元亀元年(1570)は信長にとって忙しい年となったが、家康も同様であった。
 家康にとって、信長の命令による、2月の越前朝倉攻め、6月の姉川の戦いへの参陣は三河を空けることになり、留守中、信玄に背後を脅かされる危険が常に伴う。なまやさしいものではなかった。

 浅井・朝倉軍を姉川に破った後、家康は岡崎城を嫡男信康に譲り、遠州浜松城を居城とする。ここで、家康が「自分がなぜ信長に従って戦い続ける決意をしたのか」を、嫡子信康に語るシーンがある。その語りが興味深い。
「この国には人には分というものがあり、分相応に生きることが国の秩序を保つために必要だとする旧来の古い道徳観があるが、信長という人はこの国が新しく生まれ変わるためには、そうした古い道徳観を根底から覆そうとしている。信長の考えに共鳴している自分は、よって、信長殿の天下布武に生涯を賭ける。それがこの国のため、天下万民のために必要だと信じるからだ」と。

 信長包囲網という言葉がある。二年前に姉川の戦いに勝利したが、この時期信長は四方を敵に囲まれ、滅亡の危機にあった。浅井・朝倉は姉川の戦いで信長に敗れはしたものの、その後も畿内各地で織田軍を相手に転戦し、信長を苦しめ続けていた。石山本願寺顕如は長島・近江など各地の一向衆徒に決起を訴え続け、信長との間に10年戦争といわれる石山合戦を起こしている。信長は浅井・朝倉、顕如に代表される一向衆徒、信長に京都を追われた三好三人衆などの反対勢力を叩くために、東奔西走。元亀2年9月には、浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼打ちしている。かくして、信長を追い込んで殲滅すべく、信玄をも巻き込んだ包囲網が築かれつつあった。この時期、畿内の信長の勢力と、反織田勢力は、信玄の上洛の動きを見ながら、戦っていたのである。

 はたして、信長と信玄の戦略はいかに。本巻最大の読みどころはここにある。
 武田信玄西上の話は家康にとって最大の事件といえる。時に家康30歳。信玄はすでに晩年で、その半生の総仕上げとしてかねてよりの念願である京都制圧の遠征を起こすのである。姉川の戦いで、家康麾下の三河武士団の精強さは天下に鳴り響いたが、信玄の甲府出陣の報に接した家康の心中を「胃が絞りとられるような痛み、吐き気がする。緊張と重圧、恐怖に体が悲鳴を挙げている」と作家は描く。信玄はそれほどまでに圧倒的な存在だったのである。

 信長が西の敵に備えるために、東の信玄と手を組むこともありえた。家康がこれを防ぐには、信玄との対決姿勢を明確にし、信長に、信玄を採るか家康を採るか、捨て身になって決断を迫る必要があった。計略を一歩誤れば、信長を敵に回すことになりかねず、計略が信長の気付くことになれば、即座に首を刎ねられることも。危うい賭けであった。ここにおいて、家康は自身が本当に恐れているのは信玄ではなく信長だと知る。 
 元亀3年(1572)12月、遠江の三方ヶ原で、家康は信長の支援を得て、上洛を目指す武田信玄の大軍と対決するも、惨敗。浜松城に逃げ帰る。
安部龍太郎独自の視点も新鮮である。元亀元年正月、信長による「上洛命令」に対して朝倉義景が拒否したことの真相について、信長は新将軍の知行安堵という形で諸大名から港や市の支配権を取り上げようとした。朝倉義景が頑強に上洛を拒んだのは、信長の命令に従ったなら、朝倉家の命綱というべき敦賀と小浜の二つの港を取り上げられることが分かっていたからだとする。この解釈は斬新かつ明瞭で従来の説とは一線を画す。
俗に言う信長包囲網を仕掛けたのは将軍義昭であるかも然り。元亀元年の浅井長政離反の真相も、然り。秀吉の代表的な武功とされる「金崎の退き口」の真相も、然り。読みどころ満載である。読者諸氏は自らひもといて安部流戦国史観を味わっていただきたい。
 安部版戦国絵巻の集大成ともいうべき安部龍太郎の『家康』は徳川家康の生涯を描き切った大河歴史小説になろう。

 ここで、半世紀前に、空前の家康ブームを引き起こした山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)に触れないわけにはいかない。
徳川家康』は「北海道新聞」など新聞三社連合系の地方紙数紙に、昭和25年(1950)3月から昭和42年(1967)4月まで足掛け18年に渡り連載された超大作で、それまでの狸親父家康のイメージを一変させ、卓絶した国家経営者としての家康像を造形した作品である。
 半世紀を隔てて佇立する山岡家康と安部家康に共通するのは、奇しくも、平和国家建設のために邁進する家康像である。
 信長ほどの見識も苛烈な実行力もない家康だが、三方ヶ原の戦いの直前に、遠江三河といった立場の違いでいがみ合うようになった徳川勢を見て、「厭離(おんり)穢土(えど) 欣求(ごんぐ)浄土」と大書した本陣旗を造り、家臣団を一つ心に纏めている。
信長の同盟者として「天下布武」実現の先兵となって戦う家康だが、征服主義とも言うべき信長の方針、手法とは違う地道なやり方で、国造りを目指す青年期の家康を活写しているのが、『家康(二) 三方ヶ原の戦い』である。
                                                      (令和2年9月14日  雨宮由希夫 記)

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十三回 義輝、夏の終わりに

 永禄七年(1564年)九月。京を中心に、機内に絶大な権力を誇った三好長慶がその生涯を閉じました。将軍足利義輝(向井理)は、復権をはかり、京は再び動乱の時代に入りました。

 明智光秀十兵衛(長谷川博己)は義輝にいいました。

「信長が上洛し、上様をお支え申すなら、大いに力になりましよう」

 その案に義輝は顔を輝かせたのでした。

「そなたに託す。織田信長を連れてきてくれ」

 そのころ、織田信長(染谷将太)は、美濃攻めの最中(さなか)にありました。戦いは三年にもわたっています。

 光秀は尾張小牧山城に信長を訪ねます。将軍義輝からの使いで光秀が来てことを、信長は聞いていました。作法にのっとり、光秀は信長に将軍からの内書を渡そうとします。

「すまぬ、後ほどいただこう」

 と、信長はいい出します。光秀が来た目的を信長は家老から聞いていました。内書の内容は上洛の件だと察するが、今はその話をしている余裕がない。いくさにてこずっているためだ。光秀はいいます。

「ご事情は上様も承知しておられます」光秀は駆け引きを試みます。「それは越後の上杉様も、甲斐の武田様もみな同様にございます。上洛して将軍家をお支えしようとする大名が皆無に等しく、かかる折こそ、信長様が先陣を切って上洛を果たされれば、必ずや……」

 しかし信長は駆け引きに乗ってきません。軍議を優先し、話の続きはあの者としてくれと言います。現れたのは奇妙な声を上げる男でした。

「まだ百人組の頭(かしら)じゃが、面白い奴じゃ」光秀を見ていいます。「使えるぞ」

 男は名乗ります。

木下藤吉郎(佐々木蔵之介)にござります」

 後の豊臣秀吉でした。

 藤吉郎は光秀と二人きりになると、京に奇妙な噂があるといい出します。

「恐れ多くも、将軍義輝様が、近々闇討ちされるという噂ですが」

闇討ちするのは亡くなられた三好長慶様の子とその取り巻きの衆だと、藤吉郎はいいます。気色ばむ光秀。

「なにゆえその者たちが闇討ちを」

 藤吉郎は答えます。

将軍様が幕府を勝手気ままに動かし、誰の諫言(かんげん)も聞き入れぬゆえまつりごとがとどこおり、皆、困っているというのです」

 光秀は藤吉郎の言葉をさえぎります。

「いや、それは違う。上様はそういうお方ではない。断じて違う」

「しかし将軍様を討つ手はずは、すでについていると」

 藤吉郎の情報源は、近江の大名、六角の家臣であるとのことでした。これも噂だが、と、断ってから藤吉郎はいいます。

「止めることが出来るのは三好長慶様のご家老であった、大和の松永久秀様ぐらいであろうとのことでございます」藤吉郎は笑い声をたてながら言います。「闇討ちを裏で糸を引いているのが、松永様ご自身だからというのです」

 大和(居間の奈良県)では、謎の僧侶(滝藤賢一)が人々に施しをしていました。その僧侶がどうしても気になる駒(門脇麦)は、僧侶のあとをつけます。そして駒は僧侶から思わぬ言葉を聞くのです。

「やはり麒麟が来る世にならねば」

 驚く駒。僧侶は駒に麒麟の説明をします。

「存じております」

 という駒。僧侶は打ち解けた様子で駒に話します。

「私の父上がな、よくおおせられていた。麒麟の来る世を作りたいと」

「お父上様が」

「父上はな、将軍であった。だが、ついにいくさを止めることは出来なかった。私の兄上も、今日まで……」

 そういいかけた僧侶は、怪しい侍たちを発見するのです。駒を連れて逃げる僧侶。無事に侍たちをまくことに成功するのです。僧侶は駒にいいます。

「驚かせてすまなかった。いろいろな事情があり、妙な者につけられたりする。もう案ずることはない」

 市を見て回る僧侶と駒。駒は踊りに誘われます。それをながめる僧侶。その僧侶に声をかける侍がいます。先ほどの者とは違います。

「こんなところで一人歩きは危のうございます。一条院までお送りいたします」

 僧侶はいいます。

「私に構うな。寺へは勝手に帰る」

 侍たちは幕府奉公衆でした。

「先ほどから、得体の知れぬ者たちがうろついております。ご一緒させていただきます」

 僧侶はいいます。

「そなたたちは兄上のお側(そば)衆ではないか。京に戻って兄上をお守りすればよかろう」

「上様は三淵たちがお守りしております。ともあれ寺へお戻りいただきとうございます」

 僧侶は侍たちと共に、駒の前から姿を消すのです。

 光秀は多聞山城を訪ねていました。案内されてきてみると、松永久秀吉田鋼太郎)は三つある瓶(かめ)のうち、二つを割っているところでした。光秀に気がつき、喜びの声を上げる松永。松永は今の行為を光秀に説明します。

「これは堺(さかい)の商人(あきんど)が持ち込んできた茶湯の壺だ。どこぞの田舎大名に、名器と称して高く売りつけたいのだが、同じ形の物が三つあってはありがたみに欠ける。そこでわしの目で一つを選び、残りは捨ててくれと頼まれたのじゃ。わしが名器といえば名器になるのじゃ」

 松永は笑い声をたてます。光秀が真剣な顔で切り出します。

「私が今日、参りましたのは」

 松永は光秀をさえぎります。

「物の値うちの話をしておる。物には、もともと値うちがある訳ではない。物の値うちは人が作るものじゃ。将軍の値うちもそうだ。人が決め、人が作っていく。人が将軍にふさわしいと思えば値うちは上がり、ふさわしくないと思えば値うちは下がる。下がれば」松永は壺の破片を持ちます。「壊したくなる」

 光秀がいいます。

「それゆえ将軍義輝様を討とうとたくらまれましたか」

「討ちはせん。都から追い払う。それだけじゃ」

 光秀は松永に詰め寄ります。

「なにゆえ」

「周りをよく見よ。義輝様を支えるために、いったいどの大名が上洛した。上杉も武田も朝倉も毛利も、誰一人として動かんではないか。幕府の身内の者でさえ、義輝様のご勝手ぶりにあきれ果てておる。三好長慶様がご存命の間は長慶様がまつりごとの要所を押さえてこられた。だがもはやそれもない。このままでは世は治まらんのだ」

 光秀はいいます。

「では松永様が長慶様に代わって、上様をお支えすればよろしいではありませんか」

「そうしてきた。だが、もはや疲れた。わしの息子も長慶様のご子息も、三好の一族も、皆、義輝様を除こうと動き出しておる。それを止める力は、わしにはない」

 松永は意外な人物を呼び出すのでした。それは光秀の盟友である細川藤孝眞島秀和)でした。細川は光秀にいいます。

「都の人心は、義輝様から離れてしまいました。この数年、幕府も見限る者が多く、私も都を離れ、次の将軍をお助けせねばと」

「次の将軍」

 光秀は聞き返します。

「やむなく」

 と、細川は答えるのです。

 京の二条御所に光秀は来ていました。将軍義輝と対面します。光秀は顔を上げられません。

尾張の織田も、上洛は無理か。やむを得ぬ。皆、いくさに忙しいのじゃ。もはや和議を命じても誰も応えぬ」義輝はつぶやくようにいいます。「夏は終わった。わしの夏は」

「上様」

 しかし光秀には、掛ける言葉が見つかりません。

「越前へ帰れ」と義輝はいいます。「短くはあったが、ようわしに仕えてくれた。礼をいうぞ。欲を言えば、もそっと早うに会いたかった。遅かった」義輝は光秀の手を取るのでした。「十兵衛。また会おう」

 駒は望月東庵の家の前で立ちすくんでいました。喧嘩をして東庵の家を飛び出してしまった駒は、戻りにくかったのです。しかし駒は茶を売る男から聞くのです。東庵の家に盗賊が入り、何もかも奪われ、東庵は腕さえ折られた。

 駒は慌てて家に入ります。そこへ伊呂波太夫がやってくるのです。駒と東庵の喧嘩の原因になった丸薬を、寺や神社が欲しがっているとの話をします。金が必要な東庵は、駒に丸薬作りを許します。

 光秀は越前の自分の家に戻ってきました。家族に歓迎される光秀。光秀は朝倉義景に会ってきていました。義景は光秀にいったのでした。国の外に振り回されるな。野心を持たず、この国にじっとしておれ。妻や子と。

「先ほど家の庭に立ったとき、そうかもしれん、と思うた」

 と、光秀は妻の熙子(木村文乃)にいうのでした。

 

 

 

 

書評『光秀の忍び』

書名『円也党奔る 光秀の忍び』
著者 早見 俊
発売 中央公論新社
発行年月日  2020年7月15日
定価  ¥700E

 

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

  • 作者:早見俊
  • 発売日: 2020/07/09
  • メディア: 文庫
 

 

 明智光秀といえば「本能寺」だが、本作品は、姉川の合戦の2年後の元亀3年(1572)7月ころから、足利義昭が京都を追放され、「天正」と改元されるまでを歴史背景とした時代小説である。
 「天下布武」の道を驀進する信長だが、元亀から天正に至る数年間、信長は四面楚歌の危機的状況にあった。いわゆる信長包囲網である。信長は四方に敵を抱えた上に、都では将軍家に陰謀を巡らされている。信長の苦境の源は武田信玄にあった。信玄が立つからこそ、浅井、朝倉、一向宗徒、六角の残党らが兵を挙げたのである。

 さて、本書のスタート。元亀3年(1572)7月、朝倉義景浅井長政を援護すべく2万の軍勢を率い、小谷城近くの大嶽山(おおずくやま)に陣を構えている。難攻不落の小谷城を見据える虎御前(とらごぜ)山の信長本陣では、信長は光秀の意見を待っている。当時、光秀は前年9月の比叡山延暦寺焼打ちの功で近江滋賀郡を拝領し坂本に築城していた。信長ならば、民が笑って暮らせる平穏な世を招き寄せることができると信じる光秀は、そのためにはこの世を業火で焼き尽くす荒療治が必要であると、信長の鬼畜の所業を認めている。光秀は語る。「没収した延暦寺の所領の一部を手土産として、朝倉に兵を引かせます」と。撤兵を請け負った責任を問われるのを覚悟で、織田軍団の諸将の前で言い放つ。

 光秀を支えるのが書名に現れる「円也(えんや)党」、光秀の諜報機関である。その首領の遊行僧・百鬼円也(なきりえんや)は光秀が斎藤道三が息子の義龍に討たれた際に牢人し越前に逃れ、越前国坂井郡長崎村にある時宗の寺院、称念寺(しょうねんじ)門前で寺子屋を開き糊口を凌いでいた頃からの昵懇の間柄。美濃国明智荘の生まれの円也はいつしか光秀と親しくなった。円也には、遊行僧の一舎(いちしゃ)、修験者の妙林坊(みょうりんぼう)、比丘尼集団を率いる茜(あかね)、 牢人の来栖(くるす)政次郎(まさじろう)など、優秀な配下がいる。光秀は彼らを円也党と呼び、頼りとしている。光秀は策を弄するに円也党を使うのである。

「大嶽山の朝倉本陣に行き、越前への撤兵を企ててくれ」、「義景の子阿君丸の命を奪え」、「義景から疎んじられているらしい朝倉家中の奉行衆前波(まえば)吉継(よしつぐ)を寝返らせよ」等々。
 彼らは光秀が欲する役目を果たすべく光秀の期待以上に働いてきた。変装の名人の円也は、ときに光秀に成りすます。物語の後半で、武田勝頼(たけだかつより)に成りすました円也が信玄を謀殺するシーンも。
 無人斎道有こと武田信虎(たけだのぶとら)の造形にも引き付けられる。都大路風林火山の旗が翻ることを悲願とする信虎は30年ぶりの信玄との親子対面を策すが、果たせぬと知るや、孫の勝頼に「信長を滅ぼし、天下を取れ」と。
元亀3年(1572)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲斐を出陣。が、円也党の働きで朝倉勢はすでに越前に引き揚げている。信玄は義景の撤兵を裏切りだと詰る一方、12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川(とくがわ)家康(いえやす)を完膚なきまでに撃ち破る。朝倉勢が越前に引き揚げ、信長がほっと安堵したのも束の間だった。信玄恐るべし。信長の危機は信玄の西上によってこれまで以上に深刻なものとなるばかり。光秀の指令を受けた円也は信虎と共に武田勢に接触を試みる。
 年が明けた元亀4年(1573)信玄が鉄砲の流れ弾に当たったという噂が流れ始める。ついに武田軍の西上は中止され、信長は危機を脱した。
「義昭公がおわす限り、信長公の基盤は固まらぬ。義昭公は天下静謐にとって大きな妨げなのだ」と認識している光秀は、「足利将軍家が京の都にある限り、戦乱は終わらず、闇は晴れない」と信長に、義昭追放を献策する。たとえ信玄が没しても、義昭が信玄に代わる大勢力として、義昭が、例えば上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)に信長打倒を要請することは自明のことであった。
 義昭を都より追放するために、光秀は信長に、「公方様には信玄が生きている、必ずや上洛の軍を催すと信じさせるのです」と。

 一方で、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)に「上様を裏切り信長公へ寝返ること」の決心がついたかと迫る。織田家の譜代でもない光秀が越前の朝倉家で藤孝と出会っていなかったら、信長に仕えることもなく、秀吉と並び立つほどの地位を占めることも望めなかったはずである。義昭を擁立した信長を天下人へと担ぎ上げたのは、光秀と藤孝の二人三脚があったればこそである。躊躇する藤孝を前にして光秀は語る。
「戦国の世、いかにして生き残るか模索する日々でござる。己の判断一つで家名が保たれ、滅びもする」。藤孝へのこの光秀の語りからは、かつて朝倉義景の撤兵を請け負った際に円也に語った、「牢人の身からの成り上がりだ。城と領地を取り上げられたとて、元に戻るだけだ。それよりも、私は己の誇りを失いたくはない」の言葉とともに、光秀の誇り、矜持がたしかめられ、ひいては光秀がなぜ本能寺の変をおこしたかの心情を連想せずにはいられない。運命そのものというべきか、後に光秀は藤孝の判断一つで滅びゆくのであることを後世の我々は知っている。
 義昭を裏切ることを決心した藤孝に、光秀は「上様(=義昭のこと)、そして近臣方には信玄重傷のことを伏せ、武田勢の勢い留まるところを知らず、春には都に達する勢いであると、お伝えいただきたい」と。
 かくして藤孝は、死んだも同然の信玄の軍勢が実は死んではいないと虚言する。果たして義昭は4月と7月、二度にわたって信長打倒の兵を挙げた。二度目は許さない信長によって、義昭は京都より追放され、天正改元される。
 信玄の死は秘されたが、義昭が信玄の生存どころか上洛を信じて疑わなかったのは戦国史の謎である。義昭が二度も兵を挙げたのは、武田信玄上洛を信じていたからであり、義昭に信玄上洛を信じ込ませたものは何か、――と作家は振り返りつつ、物語を綴っている。
元亀から天正改元された年の円也党の働きが、信長を滅亡から救ったのである。円也とその一党の働きは歴史の表面には決して現れない。
ラストシーンは、光秀が「円也党の働きで信長公は天下人だ」と語り、円也が「信長を天下人に押し上げたのは、あくまでも明智十兵衛光秀」と返す。笑顔と沈黙の後、二人が腹を抱えて笑うシーンである。
やがて光秀が魔王織田信長の先達となって骨身を惜しまず忠節に励んできたことを後悔する日が巡って来ることを知るや知らざるや。
早くも、続巻がたのしみである。  

 実は、早見(はやみ)俊(しゅん)には本能寺の変を中心として信長を操り、見限った男・明智光秀を描いた作品『魔王の黒幕 信長と光秀』 (中央公論新社 2020年7月25日刊行)がある。丹波亀山城から本能寺に進軍する数時間に光秀の生涯を凝縮させた歴史小説である。同時期に書かれた、歴史小説と時代小説の、これら2作品を併読すれば、「光秀とは何者か」を希求する作家の端倪すべからざる広大な意図の一端を知ることができるだろう。

 早見俊は1961年岐阜県岐阜市生まれ。法政大学経営学部卒業。「居眠り同心影御用」「佃島用心棒日誌」で第6回歴史時代作家クラブシリーズ賞を受賞。

                (令和2年9月13日 雨宮由希夫 記)

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・頑張りすぎず、地道に続ける――「精進(しょうじん)」
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『映画に溺れて』第389回 ゴシック

第389回 ゴシック

昭和六十三年五月(1988)
新宿歌舞伎町 シネマスクエアとうきゅう

 

 怪物を創ったのはヴィクター・フランケンシュタインだが、そのフランケンシュタインを創造したのはうら若き乙女であった。という秘話を描いたのがケン・ラッセル監督の『ゴシック』である。
 十九世紀初頭、スイスのレマン湖畔。英国貴族で詩人のバイロンが、詩人仲間のパーシー・ビッシュ・シェリーをともない、山荘で遊ぶ。シェリーの愛人でまだ十代のメアリ・ゴドウィン、その義妹でバイロンの愛人でもあるクレアが同伴し、バイロンの主治医のポリドリもつき従う。
 バイロンが提案する。みんなで怪談を創ろうじゃないか。
 そこで生まれたのがメアリの人造人間の物語で、メアリはその後、シェリー夫人となり、『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を出版する。
 芸術と退廃と貴族趣味、そしてエロスと恐怖。当時のヨーロッパは『会議は踊る』の時代であり、ちなみにわが国の江戸は文化文政の享楽時代であった。
 配役は豪華で、バイロンガブリエル・バーンシェリーがジュリアン・サンズ、メアリがナターシャ・リチャードスン、クレアがミリアム・シル、そしてポリドリにティモシー・スポール
 上映されたのは新宿歌舞伎町のシネマスクエアとうきゅう。この映画館はアート系単館ミニシアターのはしりで、館独自でシネマスクエアマガジンという雑誌タイプのパンフレットを発行していて、これを集めるのも楽しみだった。
 もう一本、スペイン映画『幻の城』も同じ題材で、ヒュー・グラントバイロンで主演だったが、あまり印象に残らず、『ゴシック』ほどは話題にならなかったと思う。
 なお、ブライアン・W・オールディスのSF小説『解放されたフランケンシュタイン』はロジャー・コーマンによって映画化されたが劇場未公開のためVHSで観た。タイトルはシェリーの詩劇『鎖を解かれたプロメテウス』をもじったもの。

 

ゴシック/Gothic
1987 イギリス/公開1988
監督:ケン・ラッセル
出演:ガブリエル・バーンジュリアン・サンズ、ナターシャ・リチャードスン、ミリアム・シル、ティモシー・スポール

 

井伊和継さん新刊

■会員から連絡をいただきましたのでご案内を致します。

  読者の皆様、よろしくお願い致します。

目利き芳斎 事件帖1 二階の先生 (二見時代小説文庫)
 

 ※会員の皆様、新刊情報をお寄せ下さい。連絡をお待ちしております。

会報を発送しました

 昨日、有志が集い、都内某所にて『会報』の発送作業を行いました。今回も会員、元会員会友、出版社、関係者に広く送付しております。お手に取ってごらんください。

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十二回 京よりの使者

 桶狭間の戦いから四年後の永禄七年(1564年)、冬。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、いまだ越前国で浪人生活を送っていました。

 この頃、京は三好長慶山路和弘)が完全に実権を掌握していました。松永久秀吉田鋼太郎)は大和の国(現在の奈良県)を任されています。将軍足利義輝向井理)は、長慶の完全な傀儡(かいらい)となっていました。

 関白の近衛前久本郷奏多)は、義輝と話していました。帝(みかど)に改元のお伺いを立てるのが、代々将軍家の勤めです。しかし義輝はそれをしようとしないのです。義輝は前久にたずねます。

「それがしを将軍と思われますか」

「なんと」

 と驚く前久。つぶやくように義輝はいいます。

「京を治めているのは誰であろう。私ではない。三好長慶です。私には何の力もない」しまいに義輝は言い放つのです。「帝が何ほどのものですか。武家の後ろ盾がなければなにもできぬではありませぬか」

 越前の光秀を訪ねてくる武士がいました。光秀の良き理解者で、将軍奉公衆の細川藤孝眞島秀和)です。再開を喜び合う二人。光秀は藤孝に二人の娘を紹介します。

 食事をすませ、光秀と藤孝は改めて酒を酌み交わします。

「京で何かありましたか」

 率直に光秀はたずねます。藤孝は杯を置きます。

「実は近く二条御所で能が催されるのですが、十兵衛殿もぜひ京へと。共に見たいと、上様がおおせでございます」

 驚く光秀。

「公方様が。私を」

「上様は十兵衛殿を以前から買っておられますので」打ち明けるように藤高は話します。「上様は変わってしまわれた。都は今、以前にも増して三好の力は強くなり、上様はないがしろにされているのです」藤孝は光秀を見すえます。「将軍としての務めを果たそうとせず、怠惰な日々を送っておられます。それではいけませぬと、われら奉公衆がお諫(いさ)めしても耳を貸さず、かたくなに心を閉ざしておられるのです」藤孝は訴えます。「十兵衛殿。京へおいでいただきたい。そしてできることなら、上様のご真意を探っていただきたい」

 子供たちが寝入り、光秀は妻の熙子(ひろこ)と話します。光秀は熙子に、京に呼ばれたことを打ち明けます。お行きになりたいのですね、という熙子に、光秀はうなずきます。

「この越前に来て、もう八年になる。しかし相も変わらぬ、この暮らし向きだ。子供たちに読み書きを教えるのは、それはそれで楽しいが、これで良いとは思うてはおらぬ。もっと何かできることがあるはずだ。その何かを見つけるためにも、京へ行ってみたい。己の力を試してみたいのだ」

 熙子はいいます。

「よく分かりました。どうぞ行ってらっしゃいませ。あとのことは案ずることはありません」

「すまぬ」

 と、光秀は妻に頭を下げるのでした。

 京にいる医者の望月東庵(堺正章)は助手の駒(門脇麦)と、些細なことから喧嘩をしてしまいます。駒は東庵の宅を飛び出していまいます。駒の向かった先は、旅芸人の一座で以前、世話になった伊呂波太夫尾野真千子)のところでした。

 伊呂波太夫は客と双六をしていました。その客は関白の近衛前久だったのです。伊呂波太夫は子供の頃、近衛家に拾われ、そこで育てられました。前久は太夫の弟のような存在だったのです。太夫をたずねた駒は、大和の国に共に行かないかと誘われます。大和を治める松永久秀の妻が死に、松永が鳴り物禁止のお触れを出していたのでした。興業ができなくて困っている大夫は、そのお触れを取り下げてもらうために、前久と一緒に大和に行こうとしていたのでした。

 松永久秀は三年前に築いた多聞山城にいました。前久は松永久秀と対面します。前久は改元を見送ることを松永に告げたあとにいいます。

「ときに松永、先日、妙な噂を耳にした。将軍を亡きものにせんと企んでいる輩(やから)がいるというのじゃ」

 松永はそれに笑ってみせるのです。

 駒はその頃、大和の街を歩いていました。人々がある僧侶に群がっていました。僧侶は集まってくる者たちに物を与えています。ある老婆は、駒に、僧侶が「生き仏のようなお方じゃ」と話します。駒は歩き去る僧侶に話しかけます。僧侶の名は覚慶。後の将軍、足利義昭になる人物でした。

 その夜、伊呂波太夫は、鳴り物禁止の件について、松永久秀と話していました。松永は拒絶しますが、そのそばから大夫を口説く始末です。

 京の二条御所に、光秀が到着していました。光秀の来たことを喜ぶ将軍奉公衆の三淵藤英(谷原章介)。三淵は光秀に驚くべきことを告げます。

「能を見たあと、上様からそなたに話があるはず。恐らく、三好長慶を討てという話だろう」

 光秀は困惑します。

「どういうことでございましょう」

「実は、我らもいわれたのじゃ。三好を斬れと。将軍家に力を取り戻すためには、三好を成敗するほかないと」

「ひょっとして、そのために上様は私を」

「そうかもしれぬ。どう受け止めるかは、そなたしだいじゃ」

 能が行われます。その後、光秀は将軍義輝と話をします。

「お告げの通りじゃ」と義輝は切り出します。「夢に観音菩薩が現れてな。菩薩がわしに告げられたのじゃ。越前から助けが来る。それを頼みにせよとな。そなたのことじゃ」

 義輝はあることを頼もうと思って光秀を呼んだと言います。しかし逡巡(しゅんじゅん)の態度を示すのです。

「だが、よう分からなくなってきた。正直に言おう。三好長慶を討てと、そなたに頼もうと思うていたのじゃ。今、京がどうなっているか、そなたも知っておろう。三好の力はますます強くなり、将軍の権威は地に落ちてしもうた。それを取り戻すには、三好を成敗するほかない。されど頭を冷やしてよう考えた。武家の鑑(かがみ)でなければならぬ将軍が、己の意にそわぬからと、その者の闇討ちを企ててはますます将軍の権威は落ちる一方じゃ」

「仰せの通りにございます」

 光秀は深く頭を下げるのです。将軍は言います。

「十兵衛、覚えておるか。昔そなたに、麒麟の話をしたのを」

 光秀はわずかに微笑みます。

「はい、しかと覚えております」

「わしは麒麟を呼べる男になりたいのじゃ。それは将軍になってからずっと願い続けてきた事じゃ。しかし、思うようにならぬ。やればやるほど皆の心はわしから離れていく。何もかも、うまくいかぬ」

 光秀は意を決したように口を開きます。

「上様。恐れながら、わたくしに考えがございます。将軍家に力を取り戻すには、強い大名の支えがいります」

 義輝はいらついたように言います。

「分かっておる。しかし誰も呼びかけには応じぬ」

尾張織田信長がおります。今川義元を討ち果たし、強く、大きくなりました。あれはただ者ではありません。勢いがあります。信長が上洛し、上様をお支え申すなら、大いに力になりましょう」

「上洛してくれるのか」

「わたくしがお連れいたします」

「ならば十兵衛。そなたに託す。織田信長を連れてきてくれ」

 翌日、光秀は京の街を歩いていました。思いついて望月東庵の宅をたずねます。光秀は昨夜の興奮が収まらず、東庵に対してまくし立てるのです。

「あるお方に会(お)うて参りました。私が大事に思うておるお方です。そのお方は、迷うておられました。雲がかかった月のように。その雲を払うて差し上げたい。私はそのための手立てを申し上げた。しかし、この先のことを思うと、大きな山を前にしたような心地がいたします。果たしてこの足で、その山に登れるのかどうか。しかし、登るほかはありませぬ」