日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第46回 将軍になった女

 義時(よしとき)(小栗旬)の妹でもある実衣(みい)(宮澤エマ)は、息子の阿野時元(ときもと)(森優作)を、次の鎌倉殿にしようと画策します。戯言(ざれごと)と称(しょう)し、まずは三善康信(小林隆)に相談します。三善は、朝廷が任じたという証(あかし)である「宣旨(せんじ)」が必要だと述べます。次に美衣が相談したのは、三浦義村(山本耕史)でした。三浦は、宣旨をもらうには、こちらから願い出るしかないと話します。普通は無理だが、鎌倉殿がいないこの時期に、もう時元に決まってしまったと申し出れば、朝廷は宣旨を出さないわけにはいかない。

 しかし美衣の企(くわだ)てを、義時は感づいていたのです。

「食いついてきた」と、三浦は義時に告げます。「あとは時元を挙兵に追い込むだけだ」

「それでよい」顔も上げずに義時はいいます。「災いの火種は放っておけば、いずれ必ず、燃え上がる。公暁(こうぎょう)のようにな。鎌倉は、誰にも渡さん」

 京では、後鳥羽上皇(尾上松也)が、鎌倉からの文(ふみ)を放り投げていました。

「始末を詫びて、辞退してくるかと思ったら、ぬけぬけと催促してきよった」

 慈円(じえん)(山寺宏一)がいいます。

「あくまでも我らの側から断らせようとしているようで」

慈円僧正(そうじょう)。決して向こうの思い通りにさせるな」

「何か手を考えましょう」

「こうなったら化(ばか)し合いよ」

 実朝暗殺から、ひと月も経たない二月二十二日。阿野時元は挙兵を目前に、義時の差し向けた兵に囲まれ自害します。

 美衣は北条政子(小池栄子)に会いに行きます。

「みんないなくなって」

 と、政子を責めるのでした。政子はいいます。まもなく詮議(せんぎ)が始まる。何をいわれても、決して認めてはいけない。

 詮議が開始されます。大江広元(栗原英雄)が問います。

「ではあくまでも関わっていない、と申されるのですな」

「はい」

 と、美衣は力なく返答します。大江は三善康信に尋(たず)ねます。

「以前、美衣殿から、朝廷の宣旨について聞かれたと申されておりましたな」

 三善は覚えていないと、とぼけます。そこへ時元がこもっていた寺から、文書が見つかったとの知らせが入るのです。そこには、宣旨をもらえれば、あなたが鎌倉殿になる。挙兵すれば、御家人はみな従うはずだ、と書かれていました。しらを切る実衣でしたが、ついにいいます。

「もう結構。認めます。私が書きました」 

 政子は捕えられている美衣を訪ねます。美衣はいいます。

「首はどこにさらされるのかしら。きちんとお化粧してもらえるんでしょうね。だいたいみんな、顔色悪いから。かわいく、頬紅(ほおべに)つけてあげて」こらえきれなくなった美衣は政子に抱き着きます。「死にたくない」

 政子も強く美衣を抱きしめるのでした。

 京より返事が来ます。約束通り、親王を下向(げこう)させたい。が、それは今ではない。鎌倉側から断るのを、待つつもりのようでした。三善康信がいいます。

「都人(みやこびと)のやりそうなことにございます。自分から断ると、相手に借りを作ってしまうので、あえて相手に断らせる。姑息(こそく)なやり口にございます」

 政子が大江広元に相談します。

「御所の外に出てみたいの。外の者たちと話がしたい。どのような暮らしをしているのか、この目で確かめたい。つらい思いをしている人がいたら、励ましてあげたい。わたくしは、わたくしの政(まつりごと)がしてみたいのです。駄目かしら」

「では、施餓鬼(せがき)を行うのはいかがですか。民と触れ合うには、よい機会かと」

 施餓鬼とは、法要の後、供え物を貧しい人にふるまうことです。政子は訪れた人々に声を掛けます。励まそうと考えていた政子でしたが、逆に人々に励まされることになります。民は三人の子を亡くした政子に、深い同情を寄せていたのです。

 夜、食事をする義時に、妻の、のえ(菊地凛子)が話します。泰時がまた歯向かったそうではしないか。跡継ぎのことを考えてもいいのではないか。義時がいいます。

「嫡男(ちゃくなん)は太郎(泰時)だ。確かにあいつは出過ぎたことをいうが、父親に平気でたてつくぐらいがちょうどよい」

「でもね、昔のことをほじくり出すのは気が引けるけど、あの子の母親は訳ありだったんでしょう」

「八重は、私も周りも大事にしていた」

「太郎では、世間が納得しません。そもそも、八重さんの比奈さんも、北条にとっては仇(かたき)の血筋ではありませんか」

 義時は膳(ぜん)に箸を投げ出します。

「何がいいたい」

「政村(まさむら)も、十五歳になりました。あなたと、私の子が、跡を継ぐべきです」

「私はまだ死なん。今する話ではない」

「こういうことは、元気なうちにしておいたほうが良いのです」

 義時は立ち去ってしまうのでした。

 京から、実朝弔問(ちょうもん)の使者が訪れます。上皇は、二つの荘園について、地頭の任を解くようにいってきました。その地頭は義時です。上皇は嫌がらせをして、事を有利に運ぼうとしているようでした。義時は要求を突っぱねることにします。しかし上皇は、また次の手を打ってくることが考えられます。

 義時は、政子とところへ話をしに行きます。

上皇様は試しておられるのです。実朝様亡き後(あと)、この鎌倉がいう事を聞くかどうか。下手に出れば、この先、我らは、西に頭が上がらなくなります」

「ではどうするのですか」

「強気でいきます。親王の下向のため、あくまで向こうが断ってくるのを待つ」

「大事なのは、一日も早く新しい鎌倉殿を決めることではないのですか」

「五郎(時房)が軍勢を率いて京へ参ります。その数一千。今すぐ返事をするように、脅しをかける。上皇様は、非を詫(わ)び、泣きついてくる。我らはそれを飲む。代わりに、新たな方をお選びいただく。こちらの意のままになるお方を」

「ほかの宿老たちも、同じ考えなのですね」

「私の考えが、鎌倉の考えです」

 三月十五日。北条時房(瀬戸康史)が上洛します。京の院御所に入り、後鳥羽上皇と対面します。上皇は、時房に蹴鞠(しゅうぎく)の勝負を迫ります。百近くまで蹴りあう二人でしたが、結果は引き分けとなります。疲労困憊の上皇は時房にいうのです。

「本音をいう。親王を鎌倉にやる気はない。代わりのものを出す。これで手を打て」

 慈円が、極秘に鎌倉へやってきます。寅の年、寅の月、寅の刻の生まれのため、三寅(みとら)と呼ばれる人物を下向させるようとしていることを伝えます。摂関家の流れをくみ、なおかつ源氏の血を引く人物。その歳は二歳でした。

 京で、後鳥羽上皇が酒を飲みほしています。

「結局は鎌倉の思いのまま。腹の虫がおさまらないのう」上皇は階下に降ります。「どう思う。秀康(ひでやす)」

 藤原秀康(星智也)は答えます。

「私が気になるのは、慈円僧正。此度(こたび)の件、お一人で話を進められ、いささか図に乗っておられるようにお見受けいたします」

 藤原兼子(かねこ)(シルビア・グラブ)がいいます。

「確かに、新しく将軍になられる三寅様は、僧正のお身内」

 藤原秀康がいいます。

「これ以上、僧正の好きにさせてよいものか」上皇の前に膝をつきます。「この藤原秀康にお任せいただければ、ひと月で鎌倉を攻め落としてごらんに入れます」

 上皇が頷(うなず)きます。

「頼もしいな。秀康」

 七月十九日。三寅が鎌倉に到着します。義時の館に入りました。実朝が殺されてから、半年が過ぎていました。

 義時は政子と話します。

「三寅様はまだ幼く、元服されるのを待ってから征夷大将軍となっていただきます」

「それまではどうするのですか」

「私が執権として政(まつりごと)を執(と)り行いますので、不都合はないかと」

「なりません。あなたは自分を過信しています。三寅様はまだ赤ん坊ですよ。御家人たちがおとなしく従うはずがない。また鎌倉が乱れます。わたくしが鎌倉殿の代わりとなりましょう」

「姉上が」

「もちろんです。鎌倉殿と同じ力を認めていただきます。呼び方はそうですね、尼将軍(あましょうぐん)にいたしましょう」

 その日の夕刻に行われた、政所(まんどころ)始め。それは、三寅のお披露目と同時に、尼将軍政子のお披露目でもありました。

 義時と政子は、廊下を歩きながら話します。

「姉上にしては珍しい」

「あら、そうですか」

 義時は政子の前に立ちふさがります。

「随分と前に出るではないですか。私への戒(いまし)めですか」

 政子は微笑みます。

「すべてが自分を軸に回っていると思うのはおよしなさい。どうしてもやっておきたいことがあります。よろしいですね。尼将軍のいう事に、逆らってはなりませんよ」

 政子は美衣の捕えられている部屋を訪ねます。

「放免(ほうめん)になりましたよ。もう大丈夫。誰もあなたをとがめはしません。わたくしは、尼将軍になりました。誰もわたくしには歯向かえない。小四郎(義時)もね」政子は美衣を抱きしめます。「みんないなくなっちゃった。とうとう二人きり」

 政子は大姫の唱えていた呪文を唱えてみせます。やがて美衣も和し、笑顔を見せ、そして涙を流すのでした。

 

書評『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』

書名『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』
著者 羽鳥好之
発売 早川書房
発行年月日  2022年10月25日
定価  ¥2000E

 

 

 関ヶ原の合戦の後日談として、徳川家康が「立花宗茂関ヶ原に参加していれば、負けていた」と語ったというものが伝わっている。文禄の役碧蹄館の戦いで明の大軍を破るなど、当時「西国無双」と讃えられた勇猛な武人であった立花宗茂(たちばなむねしげ)(1567~1642)は関ヶ原で西軍に与した。が、敗戦で柳川13万石を没収され廃絶の憂き目にあったが、2代将軍秀忠の寵遇を得て、大名に復帰した。宗茂は改易されながらも、後に旧領に復活を果たした唯一無比の武将である。

 本書は第一章「関ケ原の闇」、第二章「鎌倉の雪」、第三章「江戸の火花」の3章構成である。「第一章」では、寛永8年(1631)、江戸城内において、3代将軍家光に伺候した御伽衆(おとぎしゅう)の宗茂が家光から関ヶ原の戦いにおける神君家康の深謀遠慮を問われるという形で物語は進行する。なぜ家光は今この時期に「関ヶ原」を持ち出してきたのか? 家光は家康に対して異常と思えるほどの崇敬の念を抱いていたと史家は評する。家光はそうした家康に敵対し大坂方に与して敗れた将たちの、生の声による関ヶ原を知りたがっていた、との設営である。
 が、家光の真の願いがそこにあるとしても、諸大名、特に外様大名は家光の諮問には大名取り潰しの意図が潜んでいるのではないかと、神経をとがらせ戦々恐々とならざるを得ない。将軍の代替わりごとに、難癖をつけて目障りの大名を改易に処することは幕府の常套手段であった。秀忠の死は翌寛永9年正月のことであり、加藤(かとう)肥後守(ひごのかみ)忠広(ただひろ)が改易され、同腹の舎弟駿河(するが)大納言(だいなごん)忠長(ただなが)が幽閉やがて自刃に追い込まれるのは、同年のことである。ゆえに、関ヶ原で西軍に与した宗茂は家光の剣呑な下命に強い不安を募らせる。代替わりを予知した不穏な世情の許に身を晒していた宗茂は時期が時期だけに、ある覚悟を決めて、自ら知る「天下分け目」を語り出していく。

 ついで、家光の御前に召し出されるのは同じく御伽衆の毛利(もうり)甲斐守(かいのかみ)秀元(ひでもと)(安芸宰相)である。関ヶ原で歯向い勝敗の鍵を握ったとみなされる戦国大名の雄・毛利氏こそが“代替わり改易”の格好の餌食にふさわしい。物語のスタートから、読者はその後の息詰まる展開に名状しがたい緊張と興奮を味わうことであろう。「関ヶ原」について、徳川家に都合の悪いこと、神君家康を軽んじるような失言などをすれば、答え如何によっては、「生まれながらの将軍」を自任する家光の勘気に触れる恐れもあった。下手をすれば宗茂もただではすまない。宗茂と秀元はかつて豊臣恩顧の一将として在り、今は共に将軍家の御伽衆として格別の扱いを受ける者として、この剣呑な動きに巻き込まれていく。
 秀元は思いのところを率直に開陳すべきか逡巡するが、真実を話さねばなるまいと、肚を括る。    
関ヶ原」の解釈は多種多様だが、毛利家一統の一連の動きこそが雌雄を決する鍵となったとすることは異論がないであろう。
 関ヶ原の戦いでは、西軍の諸侯の中には参戦はしたものの、傍観的な態度をとる者も少なくなかった。
 毛利(もうり)輝元(てるもと)の甥で毛利本家を継いだが、輝元に男児が生れるや本家を廃嫡され別家を強いられた毛利秀元の思惑。それに吉川(きっかわ)広家(ひろいえ)(民部少輔)の思惑、本家輝元の思惑もあった。毛利は東西どちらに与すべきか合意に至らぬまま西軍に合流したのである。

 よく言われるように、西軍は関ヶ原に於いて、先に布陣を終え、絶対優位な陣形で戦いに臨んだ。では、なぜ西軍は敗れたのか?
 あの日、関ヶ原の両軍対峙の戦場を目の当たりにはしていない宗茂は、南宮山(なんぐうざん)(東軍の本営岡山の西方に位する西軍の陣地)に布陣した毛利家一統の陣中で何が起こったか、かねてより疑問視していた。時に、宗茂自身は東軍方の京極(きょうごく)高次(たかつぐ)が籠る近江大津城を攻め落とす軍勢の中にあった。大津城が落ちたのは慶長5年(1600)9月15日。関ヶ原での勝負はわずか半日、宗茂の手のとどかぬところで終わっていた。宗茂関ヶ原の決戦には間に合わなかったのだが、30年前の「あの日」の毛利の布陣は宗茂にとって「(寛永8年の)いまも理解に苦しむ布陣」であり、積年の疑念であった。
 極めて重要な局面で、一進一退の攻防が繰り広げられた。石田三(いしだ)成(みつなり)は狼煙を上げ、松尾山の小早川隊、南宮山の毛利隊に参戦を促すも、彼らは動かない。南宮山の毛利隊が一転、山を降りて家康の背後に迫っていたら、勝敗は全く測りがたいものとなっていたことだろう。「刻一刻と変わる情勢の中、一時でも天が三成に味方したならば、関ヶ原は別の結果になっていたろう」(106頁)。
 宗茂は「宰相(さいしょう)の空弁当(からべんとう)」という後日談に深い疑問を抱いていた。毛利の表裏比興の動きがすべてを決した――との解釈には与しない。なぜ、あのような無様な結末でおわったのか――それが知りたい宗茂は家光御前で端座する秀元が真実を語ることを固唾をのんで見守っている。
 小早川(こばやかわ)秀秋(ひであき)の裏切りほど決定的ではなかったとはいえ、南宮山の毛利隊の動向は東軍の勝利に大きく貢献したことになる。ならば、吉川広家が内府家康に通じたことを、秀元はいつ知ったのか? それを知った時の秀元の驚きと怒りはいかばかりか。広家は早くから黒田(くろだ)長政(ながまさ)を通じて家康に内通し、表面上は西軍側を偽装した。広家は毛利隊の先鋒として南宮山の麓に陣することにより、秀元を山頂に押し上げた。よって、山頂の秀元は麓の広家が動かない限り動けなかった。
 加えるに、輝元は西軍の総大将でありながら、最後まで戦おうとせず、戦場どころか大坂城を一歩も出ることはなかった。欺瞞に満ちた戦いであった。
 秀元は関ヶ原の戦場で戦うことができずに、敗軍の将となる。不運の部将となったのは宗茂とおなじだが、秀元には「戦況を日和見して実戦に参加しなかった怯懦者」のレッテルが加味され嘲笑された。これに過ぎる屈辱はあるまい。
 南宮山では「攻め際を誤った」とする秀元の限りない悔恨は「吉川家は毛利であって毛利でない」の一言に集約されている。「毛利一統の進退は私の判断にあったが、広家を甘く見て、その独断を許し、最後の局面で優柔不断に終始した」との秀元の率直な述懐に宗茂は心打たれる。秀元はどうしても語れないこと「あの日の絶望と決意を」(63頁)をあえて語ったのだ。「最大の謎は方針の変更、ここだったのか!やはり秀元は決戦を望んでいた!」と宗茂は思い知る。

「毛利氏と関ヶ原」を作家はあざやかに描く。宗茂にとって「本当に初めて聞かされる話」(133頁)は読者にとっても同様であろう。  
 宗茂を主人公とした歴史小説には海音寺潮五郎の『剣と笛』や八尋舜右『立花宗茂』、上田秀人『孤闘 立花宗茂』、葉室麟『無双の花』などがあるが、本作が先行作品と著しく趣を異にするのは戦国の世を武勇で生き抜いてきた男・宗茂の晩年に焦点を当てていることである。
 戦乱の世の残り火など微塵もない家光の時代である寛永年間を舞台に、慶長年間の「関ヶ原」を体験した戦国の世の生き残りである主人公が、将軍の絶対権の確立を目指す3代将軍家光を前にして、将軍家になにがしかを伝えることが戦国生き残りとしての務めであるとする「尚、赫々たれ」との矜持で、「関ヶ原」の真実を述べるという手法には心底感動させられ、歴史小説の醍醐味を味わった。立花宗茂という男の出所進退の清潔な人柄、歩んできた人生の重み、そこから来る人間的な魅力が余すところなく描かれている。なお、本作は作者の歴史小説のデビュー作であるという。これまた驚くべきことである。

           (令和4年12月6日 雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第532回 下妻物語

第532回 下妻物語

平成十六年十二月(2004)
飯田橋  ギンレイホール

 嶽本野ばらの原作小説が面白く、中島哲也監督の映画がさらに面白かったのが『下妻物語』である。
 茨城県下妻に住む十七歳の少女桃子。三時間かけて東京の代官山ベイビーにひらひらのおフランス風お姫様洋服を買いに行くのが趣味。
 この主人公を紹介するのが、例えば寂れた下妻駅の待ち合い室にあるTV画面。そこでは尼崎で父親のちんぴらが偽ブランドのテキヤとして一時羽振りがよくなるが、身辺が危なくなって郷里の下妻に逃げて来るまでが語られる。
 高校生の桃子はフランスのロココ調に憧れているが友達はいない。それがスピードと暴力に生きる同世代の暴走族少女イチゴと親しくなる。
 下妻の八百屋が大手スーパーのジャスコを賛美する最初の場面から、フランスロココの紹介、父と母のなれ初め、全体がほとんどギャグ、ギャグ、ギャグ。だが、そこに自己中心的な少女が友情を育むという大きなテーマが隠されている。
 桃子を演じる深田恭子とイチゴを演じる土屋アンナの馬鹿馬鹿しい出会い。この映画の成功は出演者たちの個性と演技力であろう。
 深田は主人公の雰囲気にぴったり嵌まっている。土屋アンナの暴走族がまた凄まじい。最後の乱闘場面で、主人公が尼崎のチンピラの娘という生い立ちが活かされる。
 そして脇を固める偽ブランド商売の父の宮迫博之、中年で美容学校に通う母の篠原涼子、田舎の老婆である祖母の樹木希林、パチンコ屋で知り合う極端なリーゼントのチンピラ阿部サダヲ、八百屋の荒川良々、コンビニの水野晴郎など申し分のないキャスティング。
 私がこの映画を観たのは飯田橋ギンレイホールだった。あまりに面白かったので、当時ギンレイパスポート会員だったから、会期中、二回通った。そのギンレイホールが老朽化のためこのほど閉館とのことで、とても悲しい。この映画館で私は何百本観たことだろう。

 

下妻物語
2004
監督:中島哲也
出演:深田恭子土屋アンナ宮迫博之篠原涼子樹木希林阿部サダヲ荒川良々矢沢心本田博太郎

 

『映画に溺れて』第531回 アヒルと鴨のコインロッカー

第531回 アヒルと鴨のコインロッカー

平成二十三年一月(2011)
恵比寿 恵比寿ガーデンシネマ

 

 非常によくできた小説をわくわくしながら読み終わり、その後、映画化作品を観て、がっかりすることがある。小説はあんなに面白かったのに、どうしてこんなつまらない最低の映画になってしまうのだろう。そこまでひどくなくても、やはり原作に追いつかない映画というのはたくさんある。
 が、逆に見事に映画として成功している作品もあり、これはうれしい。
 伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』は、読み始めたら、引き込まれ、一気に読み終えた。小説ならではのびっくりするようなトリック、そのトリックについては詳しくは言えない。絶対にネタバレ厳禁のトリックだから。
 映画化されたことは知っていたが、なかなか観る機会がなかった。果たして映画化は可能なのだろうか。映画になったとして、あのトリックはどうなるのだろう。
 二〇一一年に恵比寿ガーデンシネマが休館する際、これまでに封切られた名作話題作の特集があり、ようやく映画『アヒルと鴨のコインロッカー』を観ることができた。
 なるほど、小説もうまかったが、映画もまたうまい。原作のトリックが損なわれずに巧みに映画化されていた。
 東京から仙台の大学に入学した新入生の椎名はアパートに引っ越して早々、隣の部屋の河崎から本屋襲撃を持ちかけられる。恋人をなくして落ち込んでいるブータン人の留学生ドルジのために広辞苑を盗むのが目的だと。椎名はいやおうなく巻き込まれていく。
 そこに語られるのが、ドルジとペットショップに勤める琴美との恋物語。河崎は琴美の元ボーイフレンドで、女好きのプレイボーイ。が、結局ドルジと友達になり、日本語を教える。町で繰り返される残忍で下劣な虫けらのごときちんぴらグループによるペット殺し事件と恋人たちの悲劇。そして、河崎と椎名の奇妙な友情にボブ・ディランの名曲が流れる。
 当時若手だった濱田岳瑛太。実に見事な役作り。

 

アヒルと鴨のコインロッカー
2007
監督:中村義洋
出演:濱田岳瑛太関めぐみ田村圭生、松田龍平、大塚寧々、関暁夫キムラ緑子なぎら健壱岡田将生平田薫

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第45回 八幡宮の階段

 健保(けんぽう)七年一月二十七日。

 夕方から降り続けた雪は、強さを増していました。

 警護の詰め所にいる三浦義村(山本耕史)の肩を、北条義時(小栗旬)が叩きます。三浦は驚きます。

「どうしてここにいる」

「外されてしまった」

 と、義時は答えます。源仲章(なかあきら)(生田斗真)が、義時から太刀持ちの役を取り上げたのです。義時は三浦に問います。

公暁(こうぎょう)殿はどこに潜(ひそ)んでいる」

「なぜ俺に聞く」

「察(さっ)しはついている」

「では聞こう。それが分かっていながら、お前はなぜ動かぬ」

「思いは同じ。鎌倉殿は私に憤(いきどお)っておられる。もし公暁殿が討ち損(そん)じたなら、私は終わりだ」

 そこへ北条泰時(やすとき)(坂口健太郎)がやってきます。

「父上、どうしてここに。父上はここから動かぬよう。公暁殿は、父上の命も狙っております」

 それを聞いて、泰時は顔をこわばらせます。

 儀式が終わり、鎌倉殿である源実朝(さねとも)(柿澤勇人)たちが石段を下りて行きます。公暁は、イチョウの木に隠れてそれを見ています。

 護衛の詰め所では、泰時が公暁を阻止しに行こうとします。泰時の腕をつかみ、義時がそれを止めるのでした。

 公暁イチョウの陰から刀を抜いて飛び出します。

「覚悟、義時」

 しかし公暁が義時だと思って斬ったのは、源仲章でした。仲章にとどめを刺すと、公暁は実朝に向かいます。実朝は短剣で対抗しようとしますが、やがて思い直し、公暁に向かってうなずくのです。実朝は斬られ、倒れこみます。公暁は、階下に駆け付けた御家人たちに対して、自分の正当性を訴える口上を読み上げようとします。しかしそれは、血に染まってしまいます。義時の号令で、御家人たちは公暁を討ち取ろうと、石段を駆け上がっていきます。

 義時と三浦は、現場に立ちます。仲章の骸(むくろ)を前に、三浦がいいます。

「笑えるな。お前の代(か)わりに死んでくれた」

 北条時房(ときふさ)がいいます。

「兄上は天に守られているのです」

 公暁は逃げ延びます。

 義時は大江広元らと話します。急ぎ跡継(あとつ)ぎを決めなければならない。京に対しては、鎌倉殿は失ったが、動揺はない、と知らせることにします。

 三浦義村は、弟の三浦胤義(たねよし)(岸田タツヤ)に命じます。

「早く若君(公暁)を見つけ出せ。ほかの奴らに先を越されるな」

 胤義が聞きます。

「見つけたら、ここにお連れしてよろしいか」

「見つけ次第(しだい)、殺すんだ。分からんのか。我らが謀反に加担していたことをしゃべられたら、三浦は終わりなんだ」

 北条政子(小池栄子)は外で物音を聞きます。見てみると、公暁がいました。政子は公暁を部屋に招き入れます。

「こんなことをして、鎌倉殿に、本気でなれると思っていたのですか。謀反(むほん)を起こした者に、ついてくる御家人はいません」

「たぶんそうでしょう」

「分かっていたならどうして」

「知らしめたかったのかもしれません。源頼朝(よりとも)を祖父に持ち、源頼家を父に持った、私の名を。公暁。結局、わたしには武士の名はありませんでした」

 公暁は政子に髑髏(どくろ)を見せます。実朝の部屋から持ってきたものです。公暁はいいます。

「これぞ、鎌倉殿の証(あかし)。四代目は私です。それだけは、忘れないでください」

 公暁は立ち上がり、去っていきます。

 義時は三浦義村を問い詰めます。

「どこまで知っていた」

公暁から相談は受けた。しかし断った。信じてもらえそうにないな」

「無理だな」

「では、正直にいう事にする。確かに一時は考えた。公暁を焚きつけて実朝を殺し、てっぺんに上り詰めようと思った。だがやめた。なぜだか教えてやろうか」

「聞かせてもらおうか」

「お前のことを考えたら嫌になったんだよ。今のお前は、力にしがみついて恨みを集め、おびえ切ってる。そんな姿を見ていて、誰が取って代わろうと思うんだ」

「私にはもう、敵はいない。天も味方してくれた。これからは、好きにようにやらせてもらう」

「頼朝(よりとも)気取りか。いっとくが、これで鎌倉はガタガタだ。せいぜい、馬から落ちないように気を付けるんだな」

「私が狙われていたことは、公暁が私を殺そうとしていたことは、知っていたのか。私に、死んでほしかったのではないのか」

公暁がお前も殺そうとしていると知ったら、俺はその場であいつを殺していたよ」

 公暁は、三浦の館に逃げ込んできます。奥の間で飯を食います。京に戻って再起を図ることを語る公暁を、三浦義村は刃(やいば)で貫(つらぬ)くのでした。

 三浦義村は、宿老たちの居並ぶ部屋に、首桶を置きます。奥の屏風の前には、義時が座っています。三浦は、義時に見分を頼みます。義時は確かめ、三浦が公暁を討ち取ったことを宣言するのです。三浦は姿勢を正します。

「この先も三浦一門、鎌倉のために身命(しんめい)を賭(と)して、働く所存にございます」

 義時は立って三浦を見下ろします。

「北条と三浦が手を携(たずさ)えてこその鎌倉。これからもよろしく頼む」

 三浦は義時に深く頭を下げるのでした。

 渡り廊下を歩く義時を、泰時が呼び止めます。

「父上、先ほどは、人目があったのでお話しできませんでした。あの時、なにゆえ私の腕をつかまれたのですか。父上は、鎌倉殿の死を望んでおられた。すべて父上の思い通りになりました。これからは、好きに鎌倉を動かせる。父上はそう、お思いだ。しかし、そうはいきませぬ」

「どういう意味だ」

「私がそれを止めて見せる。あなたの思い通りにはさせない」

「面白い」義時は泰時の着物を直します。「受けて立とう」

 義時は泰時に背を向けて去っていくのでした。

 京では、後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)(尾上松也)が、実朝の殺されたことを聞いて驚きます。

「つくづく鎌倉とは、忌(い)まわしいところだ」

 と、吐き捨てます。そんなところに親王を行かせる訳にはいかない。今回の話はなかったことにする。慈円僧正(じえんそうじょう)(山寺宏一)が、それでは鎌倉はますます、北条のやりたい放題になる、と語ります。

 そのころ鎌倉では、宿老たちに義時が話しています。

「これを機会に断ってしまえ。そして、別の方を推挙していただく。もっと我らに扱いやすいお方を」

 泰時たちが考え直すように述べます。朝廷の信用を失ってしまう。義時はいいます。

「確かに、こちらから断ればそうなるな。ならば、向こうから断ってくるように仕向けたい」

 義時は、一日も早く親王に来てもらいたいと強く催促することを思いつきます。

 実衣(みい)(宮澤エマ)は息子の阿野時元(森優作)を焚きつけます。

「ここが正念場ですよ。鎌倉で、源氏嫡流(ちゃくりゅう)の血を引くのは、全成(ぜんじょう)様の子である、あなただけなのですよ。必ず、鎌倉殿にして見せます。この母に任せておきなさい」

 義時は政子の前に髑髏(どくろ)を置きます。

公暁が持っておりました」

 政子はいいます。

「もうよい。どこかに丁寧に埋めてしまいなさい」

「かしこまりました」

「小四郎(義時)、わたくしは鎌倉を去ります」

「なりません」

「伊豆へ帰ります」

「できませぬ」

「もうたくさんなんです。なぜ止めるのですか」

「姉上が頼朝様の妻だからです。頼朝様のご威光(いこう)を示すことができるのは、あなただけだ。むしろ立場は、今まで以上に重くなります。今こそ、北条の鎌倉をつくるのです。邪魔する者はもう誰もいない」

「勝手にやりなさい」

「姉上にはとことん付き合ってもらう」

「放っておいて」

「鎌倉の闇を忌(い)み嫌うのは結構。しかし、姉上は今まで何をなされた。お答えになってください。闇を断つために、あなたは何をなされた。頼朝様から学んだのは、私だけではない。我らは一心同体。これまで、そしてこの先も」

 義時は運慶(うんけい)(相島一之)に、仏像を作るよう依頼します。自分に似せた仏像です。

「天下の運慶に、神仏と一体となった己の像をつくらせる。頼朝様が成しえなかったことがしたい」

 

『映画に溺れて』第530回 未来惑星ザルドス

第530回 未来惑星ザルドス

昭和四十九年十月(1974)
大阪 梅田 OS劇場

 

未来惑星ザルドス』を観たのは学生時代、大阪の梅田にあったOS劇場で、ここはシネラマを売り物にした巨大スクリーンの大劇場だった。
 いきなり空を飛ぶ荒々しい石の顔。未来を描いたSFでありながら、宗教的なファンタジーの色合いが濃かった。
 科学技術の進歩は人間の不老不死を可能にしたが、それはごく少数の特権階級に独占される。不死者たちは巨大なバリアに覆われた理想郷ボルテックスに住み着き、変化のない生活を三百年以上も続けている。不死の世界には生殖は不要で、子供は存在せず、永遠に時が止まっている。無気力に取りつかれた者はただ一日中、棒のように突っ立っているだけ。ボルテックスの秩序を乱す者は罰として加齢され、老人として生き続ける。
 理想郷の外は文明の退化した獣人たちの世界。獣人たちはボルテックスから飛来する石像の頭部ザルドスを崇める。ザルドスは口から銃器を吐き出し、貢物の穀物を飲み込んでボルテックスへ飛び去る。獣人の中の選ばれた殺戮者たちがザルドスから得た銃で、外界の人口を調節している。
 殺戮者のひとりゼッドが貢物の穀物に紛れてボルテックスに侵入する。不死者たちは獣人ゼッドを珍しがる。ゼッドの正体はボルテックスの不変に退屈した不死者の科学者アーサーによって遺伝学的に作られた突然変異種だった。ザルドスとオズの魔法使いの関連を示唆されたゼッドは欺瞞に満ちたボルテックスを終わらせる。
 老化はするが死なない世界はガリバーが旅行した不死の国へのオマージュか。
 ジョン・ブアマンの映画は、現実離れした比喩的なものが多い。私が封切りで観たのは『脱出』と『未来惑星ザルドス』だけで、それ以後の作品は二本立て二番館の世話になった。『エクソシスト2』は池袋文芸坐、『エクスカリバー』は大塚名画座、『エメラルドフォレスト』は新宿ローヤル、『戦場の小さな天使たち』は三鷹オスカー。町の名画座の充実している幸福な時代だったが、それは永遠には続かなかった。

 

未来惑星ザルドス/Zardoz
1974 アイルランドアメリカ/公開1974
監督:ジョン・ブアマン
出演:ショーン・コネリーシャーロット・ランプリング、セーラ・ケステルマン、ジョン・アルダートン、サリー・アン・ニュート、ナイオール・バギー

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第44回 審判の日

 髪の伸びた公暁(こうぎょう)(寛一郎)がいいます。

「明日(みょうにち)、実朝(さねとも)を討つ。右大臣の拝賀式(はいがしき)。実朝が八幡宮で拝礼(はいれい)を終えた帰りを襲う」

 三浦義村(山本耕史)がいいます。

「鎌倉殿の首を討てば謀反人。御家人たちの心が離れないようにすることが肝心かと」

「事を成したあと、集まった御家人たちの前で、これを読み上げる。北条が我が父を闇討ちしたこと、実朝がひどい謀略(ぼうりゃく)によって、鎌倉殿になったことを知らしめ、本来、鎌倉殿になるべきは誰なのかを示す」

「そこで、わが三浦の兵がすかさず、打倒北条を叫ぶことにいたしましょう。ほかの御家人たちは必ず付いて来ます」

「すべては、明日(あす)じゃ」

 建保七年(1219)一月二十七日になります。

 源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)は、北条義時(よしとき)の妻の、のえ(菊地凛子)と、貝合(かいあ)わせを楽しんでいました。仲章は、のえ、から、頼家(よりいえ)の死んだいきさつを聞き出そうとします。いえないという、のえ、に仲章は迫ります。のえ、の耳元に口を近づけ、

「聞きたいなあ」

 と、ささやくのです。

 北条義時(よしとき)(小栗旬)は、妻の、のえ、が、源仲章の部屋から出てくるのを目撃してします。そのことを問いただします。

「申し訳ありませんでした」

 と、謝る、のえ。

「あの男は私を追い落とそうと躍起(やっき)なのだ。なぜ御所まで来た」

「あのお方が、貝合わせをしたいとおっしゃるので」

「お前に近づいたのも、魂胆(こんたん)があってのこと。なぜそれが分からぬ」

「それ以上のことは何もありませんでした。手も握ってません」

「そんなことはどうでもいい。何を聞かれた。正直に答えろ。余計なことをしゃべってはいないだろうな」

「あたしを、見くびらないで」

 義時の息子である、北条泰時(やすとき)(坂口健太郎)は、公暁の動きを怪しんでいました。公暁が、雪に備えて蓑(みの)を用意していることを知ります。三浦の館でも、武装した兵たちが集まっています。泰時は義時に訴えます。

「父上、京の拝賀式は取りやめた方がいいかもしれません」

 義時は確認します。

公暁殿が、鎌倉殿を襲うと」

 それを確かめるために、義時は三浦義村と話をします。

「若君が」と、三浦は驚きます。「冗談じゃない」

「信じていいんだな」

「今は千日の参篭(さんろう)の真っ最中だ。若君には、鎌倉殿に取って代わろうなんてお気持ちは、これっぼっちもない。俺が誓ってやるよ」

 三浦は昔から、言葉と思いが別の時、襟(えり)を直す癖があります。今も襟を直していたのでした。

 義時は、鎌倉殿である源実朝(さねとも)(柿澤勇人)に会いに行きます。そばにいた源仲章がいいます。

「今更(いまさら)中止になど、できるわけがなかろう」

 義時がいいます。

「何かあってからでは遅いのだ」

「京から、上皇様が遣(つか)わされた方々が、すでに鎌倉にお入りになっておられる。馬鹿も休み休み申されよ」

「ならばせめて、警護の数を増やしていただきたい」

「式に関しては、この源仲章がすべてを任(まか)されておる。余計な口出しは無用。警護のことは考えておく」

 実朝がいいます。

「しかし分からぬ。なにゆえ公暁が私を」

 義時が答えます。

「鎌倉殿の座を狙ってのことかと」

「それより小四郎(義時)。よい機会だ。お前に伝えたいことがある」実朝は立ち上がって庭を見ます。「いずれ私は、京へ行こうと思う。ゆくゆくは御所を、西に移すつもりだ」

 義時は声がうわずります。

「お待ちください。頼朝様がおつくりになったこの鎌倉を、捨てると申されるのですか」

「そういう事にはなるが」実朝は義時の前にしゃがみます。「まだ先の話だ。今日は太刀持ちの役目、よろしく頼む」

 一人たたずむ義時に、源仲章が呼びかけてきます。

「北条殿。奥方から面白い話を聞きましたぞ。頼家様が身まかった真相。おぬしが、一幡(いちまん)様に対して何をしたか」

 義時は振り返ることなくいいます。

「鎌(かま)をかけても無駄だ。妻は何も知らん」

「ほう、まるで知られてはならぬことがあるような物いいだ。あとはとことん調べるのみ。主(あるじ)殺しは、最も重い罪。鎌倉殿にも、お知らせせねばなるまい」

「そなたの目当ては何だ。何のために鎌倉にやって来た」

「京でくすぶっているよりは、こちらで思う存分、自分の腕を試したい。望みは、ただの一点。人の上に立ちたい。それだけのことよ。やがて目障(めざわ)りな執権(しっけん)は消え、鎌倉殿は大御所となられる。新たに親王様を将軍にお迎えし、私がそれを支える」

「お前には無理だ」

「血で汚(けが)れた誰かより、よほどふさわしい」

 仲章は去っていきます。

 義時は大江広元(栗原英雄)に話します。

「今にして思えば、私の望んだ鎌倉は、頼朝(よりとも)様が亡くなられたときに終わったのだ」

 大江がいいます。

「あなたは、頼朝様より鎌倉を託された。放り出すことはできませぬ。あなたの前に立ちはだかるものは皆、同じ道をたどる。臆(おく)することはございません。それがこの鎌倉の流儀。仲章には死んでもらいましょう」

 義時は殺し屋のトウに命じるのでした。

 三浦の館を泰時が訪れます。式に来ないようにと告げます。三浦は息子の胤義(たねよし)にいいます。

「感づかれた。今日は取りやめだ。若君にお伝えしろ」

 公暁は少数の手下とのみ、事を実行しようとします。

 義時は異母弟の時房(ときふさ)(瀬戸康史)に話します。

「五郎(時房)、お前だけには伝えておく。ここからは修羅(しゅら)の道だ。付き合ってくれるな」

 時房は落ち着いています。

「もちろんです」

源仲章には死んでもらう」

「鎌倉殿にはどうご説明を」

公暁が、その鎌倉殿を狙っておる。恐らく今夜、拝賀式の最中(さいちゅう)」

「すぐに公暁殿を取り押さえましょう」

「余計なことをするな」義時はため息をつきます。「もはや、愛想(あいそ)が尽(つ)きた。あのお方は、鎌倉を捨て、武家の都を別のところに移そうと考えておられる。そんなお人に鎌倉殿を続けさせるわけにはいかん。断じて」

 その頃、実朝は三善康信(小林隆)を問い詰めていました。

「確かに私は、兄上の跡を継いで鎌倉殿になった。公暁が、恨みに思うのもわからないではない。しかし、どうにもおかしいのだ。幼くして仏門に入った公暁が、なぜそこまで鎌倉殿にこだわるのか。あの頃のことを知っている者は、数少ない。本当は、何があった。私が問うておるのだ」

 あたりが暗くなってきます。自室に一人座る源仲章のもとへ、刃を抜いたトウが近づこうとしていました。

 実朝は北条政子(小池栄子)と話します。

「兄上は突然の病で亡くなった。私はそう聞いていました。生き返ったらしいではないですか。生き返っても、居場所のなくなった兄上は、伊豆へ追いやられ、挙句(あげく)。なぜ黙っていたのですか」

 政子はやがていいます。

「あなたが知らなくてもよいことだから」

公暁が、私を恨むのは、当たり前です。私は、鎌倉殿の座を、返上しなければなりません」

公暁は出家しました」

「それも母上が無理やりさせた」

「あの子を守るため」

「いいえ、兄上が比企と近かったからです」

「北条が生き延びるには、そうするしかなかった」

「すべては、北条のため」

「そんなふうにいわないで」

「私は、鎌倉殿になるべきではなかった」

「何を考えているのですか」

「もちろん、親王様はお迎えします。今やめれば、上皇様に顔向けできません。だからこそ、公暁が哀れでならないのです。教えてください。公暁をないがしろにして、なぜ平気なのですか。兄上がそんなに憎いのですか。私と同じ、自分の腹を痛めて生んだ子ではないの…」

「実朝、やめて」

「私は、母上が分からない。あなたという人が」

 実朝は政子の前から去っていきます。

 実朝は公暁のところにやってきます。床にひれ伏すのです。

「すまぬ、公暁。今となっては、親王様の一件、どうしても断るわけにはいかないのだ。どうか、許してくれ」

「お顔をお上げください」

「さぞ、私が憎いだろう。許せぬだろう。お前の気持ちは、痛いほど分かる」

「あなたに、私の気持ちなど分かるはずがない。幼いころから回りから持ち上げられ、何一つ不自由せず暮らしてきたあなたに、志(こころざし)半(なか)ばで殺された父や、日陰でひっそりと生きてきた母の悔しさが分かるはずがない。私はただ、父の無念を晴らしたい、それだけです。あなたが憎いのではない。父を殺し、あなたを担ぎ上げた、北条が許せないのです」

「ならば、我らで力を合わせようではないか。父上がおつくりになった、この鎌倉を、我ら源氏の手に取り戻す。我らが手を結べば、必ず、勝てる」

 公暁は黙ってうなずくのでした。式が始まろうとするので、実朝は去っていきます。残された公暁はつぶやくのです。

「だまされるものか」

 義時は時房にいっていました。

「今夜、私は太刀持ちとして従う。公暁が鎌倉殿を斬ったら、その場で私が公暁を討ち取る。それで終わりだ」

 式に向かおうとする一行に、源仲章が加わります。トウは仲章を殺すことに失敗したのでした。

 式の警護に当たる泰時は、公暁がいなくなっていることを知ります。公暁のいた場所に、図面が残されていたのです。それは、式の終えて帰る行列の並びでした。大銀杏(いちょう)陰は、公暁が潜むところだと思われました。黒丸は鎌倉殿と思われ、朱で印がつけられています。そしてもう一つ、朱をつけられていたのは、義時の場所でした。

 粉雪は、戌の刻を過ぎたあたりから、ボタン雪となっていきます。

『映画に溺れて』第529回 脱出

第529回 脱出

昭和四十七年十月(1972)
大阪 難波 なんば大劇場

 

 ジョン・ブアマンの初体験は十代の終わりに観た『脱出』で、最初から最後まで緊張感の絶えない映画だった。
 ダム建設が始まり、水没予定の山奥の渓流に都会から四人の男がやってくる。こんなところに何しに来たんだと、彼らを胡散臭そうに見る村人の目は冷たい。
 四人の目的はほとんど人の手の入っていない自然の中の川下り。乗ってきた車を麓まで運んでほしいと村人と交渉する場面からして、ひやひやする。厳しい山村の暮らしを横目で見ながら、車に積んだ二艘のカヌーを川まで運び、いよいよ川を下る。
 温厚なエドと気性の荒いルイスは親友同士。これに横柄なボビーとインテリのドリューが加わり、二人一組でカヌーを漕ぐ。持参のアーチェリーで川の魚を獲って焼いて食べたり、テントで野宿。四人は大自然の危険な冒険を謳歌する。
 二日目、川岸に降りたエドとボビーが銃を持ったふたりの山男に襲われる。エドを拘束し、ボビーを弄ぶ山男。そこにルイスが到着し、山男のひとりをアーチェリーで射殺する。警察への通報を主張するドリューに反対し、結局、死体を埋めて隠蔽することに。どうせこのあたりはダムで沈んで証拠は残らないからと。
 川下りを続ける途中、ドリューがいきなり激流に飲みこまれ、ルイスは重症を負う。仕返しに来たらしい山男をエドが射殺する。が、ただの猟師かもしれない。
 ようやくたどり着いた下流の町で、警察が待っており、事情聴取される。都会人が遊び半分で自然をなめるな。とでも言いたいような警官の応対。
 エドが『真夜中のカウボーイ』のジョン・ヴォイト、ルイスがタフガイのバート・レイノルズ、どちらも当時三十過ぎの若手スターだった。知的で良識派のドリューがロニー・コックス。コックスはその後、『ロボコップ』でロボット企業の悪重役を憎々しく演じていた。
 山男に凌辱される太ったボビーがネッド・ビーティ。男が男に犯される場面、十代の私にはそれがなによりショックで、忘れられない。

 

脱出/Deliverance
1972 アメリカ/公開1972
監督:ジョン・ブアマン
出演:ジョン・ヴォイトバート・レイノルズネッド・ビーティ、ロニー・コックス

 

書評『家康が最も恐れた男たち』

書名『家康が最も恐れた男たち』
著者名 吉川永青
発売 集英社
発行年月日  2022年10月25日
定価    本体840円(税別)

 

 家康には二つの像がある。狸親父のイメージの如く忍従の長い年月で培った老獪さを持つ稀代の策謀家としての像と、平和国家建設のために邁進する卓絶した国家経営者としての家康像である。いずれにせよ、戦乱の世に終止符を打った武将であることには相違ないが、本書を手にした読者の期待の一つは2022年度の日本歴史時代作家協会の作品賞を受賞した斯界のホープ・吉川永青(よしかわながはる)がいかなる家康像を造形するかにある。
 家康は『東照宮御遺訓』の中で、「人の一生とは、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず」と述べている。この「遺訓」は後世の創作という説もあるが、75歳の家康が自分の死を前にして、過去を回想しつつ「遺訓」を書き、側近の儒者林羅山(はやしらざん)を召して「遺訓」の真意を語る形式で物語は進行する。
 家康には「最も恐れた男たち」がいた。武田信玄に始まり、真田信繁に終わる八人の男たちで、彼らは家康の生涯の時系列に即して登場し、短編8編が構成されている。家康は彼らの何に恐れ、彼らから何を学んだのか。

 巻頭を飾る一篇は「武田信玄」――。元亀3年(1572)、時に家康30歳。信玄はすでに晩年で、その52歳の生涯の総仕上げとして上洛を目指す。家康は敢然として浜松城から打って出て、信玄の大軍と対決するも、信玄の思うがままに踊らされ、遠江の三方ヶ原で完膚なきまでの大敗を喫する。
 家康は信玄の「周到、慎重、大胆不敵、さらにその上を行く深慮遠謀」に息が詰まるほどの恐れを抱き、「大業を成すには、ことを急ぐべからず。周到に慎重に、幾重にも罠を張るべし」と悟る。作家は家康の「勝つべくして勝つ男」未来の天下人の基礎がここに形作られたとする。
織田信長」――。信長像は、中世的権威の破壊者としてみるもの、狂人じみた魔王であるとみるものと振幅が激しいが、作家は「家康は信長を永劫に満たされぬ望みを持て余し、胸中に毒を生んで怪物と化した男」と観る。
 家康は桶狭間の戦い後、今川氏を見限り、永禄5年(1562)信長と同盟する。時に家康(当時は元康)21歳、信長29歳。信長の同盟者として「天下布武」実現の先兵となって家康は戦うが、作家は、「家康は信長の力と鬼気に恐れをなし、何を求められても諾々と従う他になかった」と観る。信長との同盟は信長が死ぬまで続くが、武田氏滅亡後、「徳川は織田と対等の盟友ではなくなった」とも。かくして、信長の生涯を「他人から《認められること》で大業を成し、そして行き過ぎて身を滅ぼした」と締めくくる。信長の軛から解き放たれた家康が信長から学んだことは「常に上を見て、どれほどを得ても満ち足りず、なお多くを求めては、周りを引いては世を不幸にする」ことであり、かくて、家康は信長の手法とは違う地道なやり方で、国造りを目指すこととなる。

真田昌幸」――。信長の死。武田氏の故地甲州、信州には北条氏、上杉氏の強大な戦国武将が乱入した。武田の臣であった小領主の昌幸は武田氏の滅亡後、北条、織田、徳川、上杉と目まぐるしく主君を変えざるをえなかった。昌幸は家康が天下を睨んでいることを承知しながら、北条との諍いを起こして家康の足元を危うくした」。昌幸は上杉氏と結ぶことで家康を袖にする。 

 家康は、信玄に「才気絶倫」と称賛され、秀吉より「表裏比興の者」と評された男・真田昌幸の「寒気を覚えさせる眼光」と「人としての素直な情け」、この二つがどうしてもかみ合わないことに身震いするとともに激怒する。
惨敗を喫した第一次上田合戦で、家康が学んだことは、「怒りは万事に於いて人の敵。堪忍ならぬ話も曲げて堪忍する。そうやって心を平静に保てば、自ずと道は拓けよう」(150頁)ことであった。

豊臣秀吉」――。家康が甲信の経営を進めているうちに、秀吉は驚くべき速さで天下人への道を駆けあがっていた。天正12年(1584)の小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いは秀吉と家康43歳が激突した最初にして最後の戦いであるが、秀吉は翌年には人臣最高の位である関白の座に就き、翌々年には朝廷より豊臣姓を下賜されている。信長亡き後のわずか3年余のことである。「家康は秀吉の力を見くびっていたと反省。あやつは既に信長殿の残した力を握っておる」。
 天下統一を果たした秀吉は、やがて、破天荒なまでに栄耀栄華に耽り、晩年には、前後7年にも及ぶ朝鮮半島での戦争に国民を駆りたてるが、家康は羅山に打ち明けている、「秀吉は、実は天下を取る前のほうがよほど恐ろしかった。まごうかたなき恫喝に寒気を覚えた」と。秀吉の強かな政略で追い込まれ、その配下となる。「秀吉に従う以外の道を知らぬうちに塞がれていた」のである。
 家康の秀吉観は「常に上ばかり見てきたという、その一点において、信長と秀吉の二人はよく似ている」。「ゆえに、秀吉が世の中を良く導くとは思えん。故に諦めぬぞとな」。

前田利家」――。秀吉の死、享年63。時に家康57、利家61歳。天下取りを目指す家康にとって、秀吉と共に信長麾下の宿将であり、今や秀頼の後見人として家康の専横を譴責し、豊臣家中で“人望”を集める利家は「家康の最も煙たい存在」であった。「家康以上の凡物・前田利家にさえ、人望という形に於いて全くかなわなかった」ことを家康は認めていたとする。

石田三成」――。秀吉の死の翌年、利家の死。慶長5年(1600)の「関ヶ原」が一気に動き出す。豊臣政権の苛烈な政策で人心が離れるなかで、豊臣恩顧の武将が豊臣氏に見切りをつけ、家康になびく者が増えていくが、三成はただ一人、秀吉の遺言を守り、秀頼のため豊臣のために、家康の前に立ちはだかった。はたして、三成は凡将であったのか。家康は三成が挙兵しても人は集まらないとみていたのか。「恐れるに足らず――その油断を誘うべく、三成はずっと死んだふりをしていた。三成はつくづく恐ろしい奴だった。三成が12万も束ねるとは。もし三成が秀頼の出馬を勝ち取って東下していたら……」。齢59の今まで、みずからの非才を痛感し続けてきた家康は三成に「恐れを抱かされたこと」そのものを噛み締めている。

黒田如水」――。秀吉を天下人にした天才軍師の官兵衛孝高(如水)は秀吉の智嚢だった男。秀吉は如水の智謀を恐れていたが。家康も「如水がいかなる時も平らかな眼差し、面差しをしているが肚の底が見えない。得体の知れぬ恐ろしさに、身震いしている」。
 如水は関ヶ原の戦いが終わったと知りつつ、九州を平らげて回った。「三成に与して大敗した西国衆の多くを併呑して力に変えるのは如水には容易な話。そうなっていたら関ヶ原を超える苦難の一戦が強いられたはず」。「奇異な恐怖。あるいは秀吉も同じ思いを抱き、如水を遠ざけていたのか」と。しかし、家康が如水の才能に嫉妬することはなかったとする。

 掉尾を飾るのは幸村の名で遍く知られる名将「真田信繁」――。大坂夏の陣。幸村は家康本陣に突入し、旗本を蹴散らす。家康の金扇の馬印が砂塵にまみれ、家康が自害を口走ったと言われるほどの壮絶果敢な追撃であった。が、家康は懸命に力を尽くして生きのびる。
「やはりわしは凡夫よな。非才ゆえにひとを恐れ、恐れたからこそ生き延びた。生き続けた末に、世の頂にという座に就いた。すべては自分の生を慈しんできたがゆえなのだ」……。
「齢75を数える今まで、多くの者を恐れてきた。そして恐れた相手からおしなべて何かを学んできた。天下をこの手に握ったのは、いうなれば自分の怖がりだったからこそ」……。

 家康の生涯のその時々の生きざまに注目し、短編という限られた紙幅の中に、従来の諸作とはまったく異なった視点で、人間家康の素顔を活写している。短編小説技巧の冴えわたる作品で、読みどころ満載である。読者諸氏は自らひもといて吉川流戦国史観を堪能していただきたい。

          (令和4年11月17日  雨宮由希夫 記)

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第43回 資格と死角

 京から、頼家(よりいえ)の残した子、公暁(こうぎょう)(寛一郎)が鎌倉に戻ってきています。三浦義村(山本耕史)が公暁にいいます。

「明日は御所(ごしょ)におもむいて、鎌倉殿(かまくらどの)と尼御台(あまみだい)にご挨拶を」

「例の件はどうなっておる」

 と、公暁はたずねます。

「若君は、鎌倉殿が、お子にも等(ひと)しいとした唯一(ゆいいつ)の男子。鎌倉殿の跡を継ぐのは、若君のほかはございません」

「必ず、鎌倉殿になってみせる。私は、そのために戻ってきた」

「必ずその願い、叶(かな)えてごらんに入れます」

 と、三浦義村は頭を下げるのでした。

 三浦義村は、渡り廊下で北条義時(よしとき)(小栗旬)と話します。

「小四郎(義時)、鎌倉殿の跡継ぎのことなんだが、いまだにお子ができず、鎌倉殿は側室(そくしつ)を持とうとされない。だったら、若君で決まりではないのか」

「来てくれ」

 と、義時は人目をはばかり、三浦をいざないます。

 公暁北条政子(小池栄子)と会っていました。政子がいいます。

公暁、今のわたくしは、息子と孫の成長を見守る、それだけが生きる縁(よすが)なのですよ」

 公暁がいいます。

「尼御台のお計(はか)らいで、私は出家し、おかげさまでこの通り、心身を鍛えました。いずれは亡き祖父、亡き父の願いに添(そ)う、立派な鎌倉殿になる所存です」

 政子は驚きのあまり口がきけません。

 一方、義時と話す三浦義村も動揺しています。

「ちょっと待ってくれ。どういうことだ」

 義時が話します。

「だから、次の鎌倉殿は、京よりお招きする」

 三浦は大声になります。

「若君は」

「頼家様は、鎌倉の安寧(あんねい)を脅(おびやか)かされた。公暁殿は、その子。跡を継がせるべきではない、という鎌倉殿のお考えだ」

「おかしいだろう」

「私だって、それでいいとは思っていない」

「いずれ鎌倉は、西の奴らに乗っ取られるぞ」

 そこへ政子がやってきます。

公暁には話していないのですか」

 義時は聞きます。

「何か申されてましたか」

「あの子は鎌倉殿になるつもりです。なぜきちんと説明しておかないのです」

「そもそも、話すいわれはありません」

公暁は還俗(げんぞく)する気になっています」

 義時は三浦に向き直っていいます。

「許されるはずがないだろう」

 三浦はいいます。

「そこまで覚悟を決めておられるのだ」

 公暁は、鎌倉殿である源実朝(さねとも)(柿澤勇人)に会っていました。実朝がいいます。

「この度(たび)、京より養子をとることにした。いずれはその子に、跡を継いでもらうつもりだ。私は大御所となり、そなたは、鶴岡(つるがおか)別当として、新しい鎌倉殿の良き相談相手になってもらう」

 暗い部屋で、公暁は、三浦義村を怒鳴りつけます。

「話が違う」

 三浦はいいます。

「鎌倉殿が、勝手にいわれているだけです」

「京へ帰る」

「とりあえず若君には予定通り、千日の参篭(さんろう)に入っていただきます。その間に、私が」

「鎌倉殿を説き伏せられるのか」

「お任せください」

 千日参篭とは、外界との交流を断ち、堂内にこもって、神仏に祈る行為です。出入りできるのは、世話役の稚児(ちご)のみです。

 京の上皇(じょうこう)の文(ふみ)が、実朝に届けられます。実朝はその内容を、皆に伝えようとします。

「かねてより進めていた、京より養子をとるという話だが」

 義時が話をさえぎります。

「かようなことを、ごく一部の者で決めれば、やがて、御家人たちが騒ぎかねません」

 実朝が声を張ります。

「大事なことだからこそ、自分で決めたいのだ」

「ご先代の頃より、大事なことは評議で決めるのがこの鎌倉の習(なら)わし」

 ここで三善康信(小林隆)が口を挟みます。

「しかしながら、ご先代の時より評議で話がすんなりまとまったことはございませんぞ」

 気を取り直して義時がいいます。

「ここはもう一度、我ら宿老が時(とき)をかけて話し合うべきではないでしょうか」

 実朝が穏やかに話します。

「申し訳ないが、これはもう決めたことなのだ。かねてより、上皇様には、ふさわしいお方をお選びいただきたいとお願いしていたのだが、そのお返事が届いた。上皇様は、親王(しんのう)様の中から、誰かを遣(つか)わしてもよいとおおせだ」

 親王とは、上皇の子のことです。実朝は続けます。

「これ以上ことはあるまい。義時、これならば、反対する御家人はいないと思うが」

 義時はいいます。

「実現すれば、これに勝る喜びはございません」

 実朝は上洛して、話を固めたいと話します。義時は、鎌倉殿の上洛を軽く考えてはならないと語ります。ここで申し出たのが、北条政子でした。京に行って、話をまとめてくるというのです。これで話が決まります。政子は実朝にいいます。

「この母に、お任せあれ」

 三浦義村は、暗い部屋で、弟の三浦胤義(たねよし)(岸田タツヤ)と話します。

「このままでは若君は、一生、鎌倉殿にはなれん」

 胤義が悔しがります。

上皇様のお子となれば。あきらめるしかないですね」

「いや、俺はあきらめん。三浦が這い上がる最後の好機なんだ。何とかしなければ」

 北条政子は、京の院御所に到着していました。後鳥羽上皇の乳母(めのと)である藤原兼子(ふじわらのかねこ)と対面します。

「卿二位(きょうのにい)兼子様。この度(たび)は、息子、実朝の跡継ぎの件で骨を折っていただき、誠にありがとうございます」政子は持ってきた箱を開けます。「つまらないものですが、干し蛸(たこ)にございます。お口汚(よご)しにございますが、お納(おさ)めくださいませ」

 兼子が口を開きます。

「ほう、坂東の習(なら)わしでは、口が汚れるものを差し出されるか」

 政子はひるみません。蛸の入った箱を持って進み出ます。

「たまには、汚れたものを口にするのも、ようございますよ。日々の食事がいかにおいしいか、改めて思いをいたすことができます」

「政子殿、はるばるようこそ、遠い坂東からおこしになった」

「地の果ての鎌倉から参りました」

「さっそく本題に入りましょう」

親王様のどなたかを、鎌倉にお遣(つか)わし下さるとのこと。感謝しております」

「実は悩んでいるのよ。上皇様と鎌倉殿は、和歌を通じて、ご昵懇(じっこん)の仲」

「ありがたいことにございます」

「鎌倉殿の力になりたいと、上皇様は申されるのですが、わたくしとしては、やはり、何かと不穏(ふおん)な鎌倉に、大事な親王様を送り出すというのはねえ」

「このところ鎌倉は、ようやく落ち着きましてございます」

「ようやく、でしょ」

 政子は出家していない二人の親王の名前を挙げます。このうちで兼子が育てた親王を鎌倉に遣わすことを提案します。帝(みかど)の妃(きさき)が子を宿している。兼子の育てた親王に帝の目はない。ならば代わりに鎌倉殿になってくれれば、これほどうれしいことはない。この後、兼子と政子はすっかり打ち解けるのです。

 鎌倉に遣わされる親王が決まります。実朝は「左大将」に任じられます。「右大将」であった、頼朝(よりとも)を、ある意味、超(こ)えたのです。政子は「従三位(じゅさんみ)」に叙(じょ)されることになります。実朝は、泰時(やすとき)(坂口健太郎)も、何かの官職に推挙(すいきょ)してやりたいといい出します。源仲章(なかあきら)(生田斗真)がいいます。菅原道真(すがわらのみちざね)公と同じ、讃岐守(さぬきのかみ)はどうか。

 帰ろうとする義時は、廊下で源仲章に呼び止められます。親王が鎌倉殿になった暁(あかつき)には、自分は関白(かんぱく)として支え、政(まつりごと)を進めていく。義時は伊豆に帰り、そこで余生を過ごすといい。自分が執権(しっけん)になってもいい。

 義時が泰時の館を訪れます。

「単刀直入にいう。讃岐守のこと、断ってもらいたい」

 間を置いた後、泰時がいいます。

「訳をうかがってもよろしいですか」

「お前は私を良く思っておらぬ。しかし私はお前を認めている。いずれお前は執権になる。お前なら、私が目指していて成(な)れなかったものに成れる。その時、必ずあの男が立ちはだかる。源仲章の好きにさせてはならぬ。だから今から気を付けよ。借りを作るな」

「ご安心ください。私も讃岐守は、ご辞退しようと思っていたところです。気が合いましたね」

 義時は立ち去り際にいいます。

親王を将軍に迎える件、受け入れることにした。つまり親王は、こちらにとっては人質だ」

 泰時は義時を追って聞きます。

「父上が、目指していて成れなかったものとは何ですか」

 義時はそれには答えませんでした。

 義時の妻の、のえ(菊地凛子)は、源仲章と良い雰囲気になっていきます。

 千日の参篭を行う堂内に、三浦義村は呼ばれます。公暁が問います。自分が鎌倉殿になる可能性はなくなったのか。

「無念にございます」

 と、三浦はいいます。公暁は嘆きます。

「いったい私は、何のために戻ってきたのだ」

「若君が鎌倉殿になれば、必ず災いが降りかかる。これでよかったのです」

「どういう意味だ」

「お母上から何も聞いていないのですか」

「何のことだ」

「お父上の、死に至るまでのいきさつを」

「父は、志半(こころざしなか)ばで病に倒れたと」

 三浦は公暁の父、頼家(よりいえ)が、北条の手によって殺されたと告げます。北条は頼家とその家族を皆殺しにした。本来ならば跡を継ぐべきあなたの兄も、義時によって殺された。三浦は公暁に向かって立ちます。

「北条を許してはなりませぬ。そして、北条にまつりあげられた源実朝もまた、真(しん)の鎌倉殿にあらず」

 三浦は公暁のもとを去っていきます。

 政子が鎌倉に戻ってきます。事の成功を実朝と喜び合うのでした。

 実朝は義時たちの前でいいます。

「一日も早く、鎌倉殿の座を、親王様にお譲りし、父上も見ることのなかった景色を見てみたい」 

 七月八日、直衣始(のうしはじめ)の儀式が執(と)り行われます。左大将となった実朝が、初めて直衣(のうし)をまとって、参拝する行事です。半年後、この鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、惨劇が繰り広げられるのです。