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書評『白村江の戦い』

書   名 『白村江の戦い』             
著   者  三田誠広
発   売  河出書房新社
発行年月日  2017年7月30日
定   価  本体2100円(税別)

 

白村江の戦い

白村江の戦い

 

 

 白村江(はくすきのえ)の戦いとは韓国忠清南道の錦江の河口の白村江で、日本・百済(くだら)VS唐・新羅(しらぎ)が朝鮮半島の覇権をかけて、天智2年(663)8月27日・28日の両日に戦われた決戦である。日本は唐・新羅連合軍の前に大敗を喫した。
 本書は白村江の戦いは何のための戦争で、その結果、日本に何をもたらしたかをテーマにしつつ、副題に「天智天皇の野望」とあるように、天智天皇(中大兄(なかのおおえ)皇子)の人間像に迫った歴史小説である。
 当時の日本・倭国冊封を迫る唐に対して、唐に隷属するのか、戦って独立を守るのかの選択の末、百済を救援すべく、本格的な軍事介入に邁進している。
 何のための戦争かの問いに、本書では、皇太子の立場にある中大兄に、「負けるために戦うのだ」と言わしめている。国の統一を目指す中大兄はこの度の戦は国を統一する千載一遇の好機ととらえ、あえて戦乱を求めたとする。阿倍比羅夫(あべのひらふ)は同時代の蝦夷征伐に武功のあった武人だが、「後将軍」として出陣する際に、「この戦、勝つ必要ない。最後尾で、最前線に出ず戦況を見守ればよい」と中大兄と訓示され、「負けることを承知で戦い、最初から逃げるために後陣に控える戦いなど聞いたことがない」と気色ばむシーンが象徴的である。

 物語のスタートは中大兄と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)の出会いからはじまる。古代国家を画期的に変貌させた二人の邂逅シーンを先ず作家は配置している。
 登場人物のキャラクターには幅を持たせたと作家が自負するように、人物は異彩を放ち、時に嘆息、時に唖然とするほどに独創的なアイデアに満ちている。
 大化の改新白村江の戦い壬申の乱という“日本誕生”三大事件に関わった人物である中大兄皇子皇位継承の局面に何度も立ちながら、なぜ即位しなかったかのは、日本古代史上最大の謎であるが、これにも作家は一つの回答を与えている。

 中大兄は敵対者の存在を許さず、異母兄古人(ふるひと)大兄(おおえ)皇子、従弟有馬(ありま)皇子、自分の妃の父である蘇我倉山田石川麻呂などを、政治のためなら、平気で粛清することにより、皇極、孝徳、斉明朝の三代にわたり政務を独裁した猜疑深く冷徹な策謀家、非情の人として描かれるのが通例であるが、作家が描く中大兄は倭国の統一を果たして思い残すことはないと己の生き方を回顧する為政者である。 
 中臣鎌子(藤原鎌足)はいうまでもなく、日本の古代から近世に至るまで日本政治史上に勢力を保持した名族・藤原氏の祖となった人物である。「日本書紀」には「体も大きくたくましかった」とあるが、本書では、「背丈は少年と見紛う侏儒(ひきひと)」で、中大兄に「侏儒(ひきひと)の夢は自分の夢でもあった」と言わしめる。

 皇極4年(645)の6月12日のクーデターで、「日本書紀」はこのとき、鎌足の命を受けた俳優(わざおぎ)が蘇我入鹿(そがのいるか)の剣を奪ったと伝えるが、本書では鎌足その人が俳優で、その出自は中臣氏といった古来の地主的な豪族の出ではなく、帰化人系であるとする。鎌足が俳優であり帰化人系であるとの造形は刺激的である。
 大海人(おおあま)皇子と兄の中大兄皇子はともに舒明帝の皇子で、皇極(斉明)を母とする同母の兄弟である、とするのが通説であるが、本書では、「大海人皇子は世間では弟とされているが、6歳年長の異父兄で、大海人本人は自分が兄と思っている。独裁者であるはずの中大兄が唯一苦手としていた」とする。
 大海人の妃で後の持統天皇である鵜野讃(うののさら)良(ら)皇女の人物造形も見逃せない。中大兄を父に、蘇我倉山田石川麻呂の娘越智媛(おちのいらつめ)を母としてうまれた彼女は母方の祖父の一族を父中大兄により滅ぼされたために、父を怨む。この娘が自分を滅ぼすことになるのかと中大兄がおぞけるシーン、「あの男(=天智)を殺しなさい」と夫の大海人皇子に告げるシーンは読みどころである。古代史最大の戦闘たる壬申の乱への予兆が天智存命中にすでに醸成されているのだから。 

 鎌足や大海人の存在の同等あるいはそれ以上に中大兄の生涯に欠かせない女性がいる。
 額田(ぬかだの)女王(おおきみ)は若い時、中大兄皇子大海人皇子の兄弟に愛された美貌の宮廷歌人としてあまりにも名高いが、実在の彼女は謎の女、生没年不詳、鏡王の女という以外不明。生没年不詳は日本の古代の女性の共通のもので額田に限ったことではないが、額田の宮廷における公的立場さえ明らかでない。本書では、加羅国の王族の生まれで、推古帝から皇極帝に託された神宿る巫女とされる。
 また、額田女王鎌足はともに加羅の出身で、同じ船で渡来した幼馴染みであるとする。鎌足には、不比(ひふ)等(と)のほかに、定恵(じょうえ)という長男があったが、実父は鎌足ではなく、孝徳帝であるという皇胤説がある。本書では、これに加え、中大兄の子を孕んだ額田を譲り受けた鎌足はその子を我が子として育てた。つまり不比等は中大兄の落胤としている。とすれば、名族藤原氏は天智帝系の子孫ということになるではないか。
 間人(はしひと)皇女(のひめみこ)は中大兄の「同母(いろ)妹(も)」(実の妹)だが、間人(はしひと)にとっての「わが背子」は中大兄であったという。古代人特有の近親結婚のありようを理解するとしても、同母兄妹の近親相姦は古代においても人倫(ひとのみち)に外れた行為であった。孝徳帝即位に際して大妃(おおきさき)(皇后)として中大兄は間人(はしひと)を立てるが、本書では、間人(はしひと)は後宮に入らず、同母の兄と公然と夫婦のように同居しており、やがて中大兄の策略で謀殺される孝徳帝の長男・有間皇子が、「天道に叛いて、畜生道に堕ちる」と二人を公然と面罵するシーンがある。

 皇族の女には霊力が宿り、未来が見える、とされていた。軍事に支えられた権力ではなく、巫女が受ける神託によって国を統べる。そうでなければ国は収まらなかった。中大兄が大海人の妃で母の女帝の側近を努めている額田女王を我がものとしたのは額田が神宿る巫女であったからであり、中大兄が終生、間人を手放さなかったのは、彼女が未来を予言する巫女として霊能を発揮していたからだと物語られるのには説得力がある。祭祀を重要視した古代社会において、古代の人々が神を信じ神霊に祟られて生きていた。7世紀とはそのような歴史空間であったことが理解できる。

 同じく白村江の戦を題材にした歴史小説の最近の成果に、荒山徹の『白村江』(PHP研究所 2017年1月刊)がある。その後半部が人質として倭国に派遣され、その生涯の大半を異郷である倭国で過ごし、故国百済が滅亡した後に、百済へ帰国し再興をはかった余豊璋(よほうしょう)があたかも主人公の如く活写されているように、荒山徹の『白村江』が朝鮮半島の国情の動きを丹念かつドラマチックに追い、東アジアが激動の時代だった関係諸国の国内外情勢があたかも眼前の情景のように活写しているのに対し、三田誠広の本作は倭国王家(皇室)の内紛、皇位継承をめぐる骨肉の争いなど複雑な人間関係を内に蔵する中に、白村江を描いている。両書からともに有為転変の人間劇の愛憎悲哀、登場人物の息遣いさえ聞こえてくることに読者は息を呑むことになろう。両書を読み比べ、互いの書かざる史実を補うことは歴史小説のひとつの読み方であろう。
      (平成29年8月11日  雨宮由希夫 記)