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書評『治部の礎』

書名『治部の礎』                   
著者 吉川永青
発売 講談社
発行年月日  2016年7月19日
定価  ¥1850E

治部の礎

治部の礎

 

 

『治部の礎』は浅井長政の家臣を父として生まれ、18歳で秀吉に仕え、秀吉の天下統一事業を支える側近中の側近に昇り詰め、関ヶ原の戦いで敗れ42歳で刑死するまでの石田三成の生涯を辿った歴史小説である。
 神君家康に弓引いたとして江戸期を通じて「佞臣」と貶められた三成の虚像はいびつなままに近代に引き継がれ、これまでの歴史小説においても三成の評価は必ずしも高くはない。千利休切腹、秀次の誅殺など秀吉の晩年に起こった暗い事件のほとんどは権力者に取り入った「茶坊主」三成の奸謀であるとした歴史小説もある。『誉れの赤』、『裏関ヶ原』など優れた<戦国もの>歴史小説をものしている気鋭の歴史小説作家の吉川(よしかわ)永(なが)青(はる)がいかなる三成像を描くのか、興味を持って本書を紐解いた。


 ただ一度の武功すら挙げることのなかった「三成の戰下手」の代名詞となった忍(おし)城(じょう)(埼玉市)の水攻めが語られる。天正18年(1590)春の秀吉の小田原征伐に当たっての忍城水攻めは、和田竜の『のぼうの城』(小学館、2007年刊)では、攻撃の大将の三成自身32歳が主君秀吉の備中高松城を水攻めした前代未聞の故智に倣って計画したものとされている。が、本書の作家は、忍城の水攻めは秀吉の下命によってやむなく行われたことで三成の意思ではなく、命じた秀吉に瑕を付けないことが何より大事と考えた三成があえて戰下手の汚名に甘んじたのだと物語っている。
 本書で重要な役回りを演じるのは島(しま)左近(さこん)と大谷吉(おおたによし)継(つぐ)のふたりである。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれたほどの武将である島左近と三成は山崎の合戦を前にして、「洞ヶ峠」の大和郡山城主筒井順慶の陣で出会ったとしているところが興味深い。時に左近は順慶の家臣であり、三成は秀吉の命で順慶を訪ねるのであった。さらにのち、浪人して隠棲していた左近を三成が千利休の遺言に従って召し抱え肝胆相照らす主従となるというくだりも興趣溢れる。従前の歴史小説では「天下一の茶頭」千利休と小賢しい若手文治官僚の三成とは同じく秀吉のブレーンながら厳しく対峙するものとして描かれることが多かったが、本書では、まったく趣を異にしている。千利休石田三成の人間関係を探るだけでも、本書には一見の価値がある。


 大谷吉継関ヶ原の戰の帰趨を知りながらも、死生をともにすべく誓い合った盟友である。「人に対して横柄すぎる」と三成の欠点をついた忠告をする吉継と吉継にたしなめられても受け流す三成の阿吽の呼吸。吉継は長束正家佐竹義宣真田昌幸らと共に忍城攻めに参加した武将の一人であり、彼らが皆、関ヶ原では 西軍に与しているのも奇しき因縁というべきか。人望を集める華やぎがなかった三成の性格も関ヶ原敗戦の一因だとされるが、三成を真に理解する友はいたのである。


 歴史上の人物はその最期によって評価されてしまうきらいがあり、三成の場合は「関ヶ原の戦い」と共に語られるのもいたしかたない。
 三成が秀頼を擁して家康打倒の兵を挙げた関ヶ原の戦いは慶長5年(1600)9月15日のわずか一日で決着してしまったが、豊臣家の家臣であり、盟友であったものが敵味方となって戦った点に特色がある。関ヶ原には彼らの見果てぬ夢、欲得、恨み、嫉妬、不満、鬱積などが複雑に絡み合い激しく渦を巻いており、戦いを左右したのは表裏ままならぬ人間の業であった。
 関ヶ原における三成の敗戦の因を、太閤秀吉の義理の甥で元養子の小早川秀秋の「裏切り」に求める見方がある。1万5千の大軍を擁し松尾山に陣する小早川秀秋に謀叛の懸念があることは三成にとっては織り込み済みのことであったが、本書では、本来、秀頼や毛利輝元のために準備した松尾山が唐突に秀秋に占拠されたと知り、狼狽する三成が描かれている。陣地としての松尾山の戦略性を指摘した歴史小説は稀有である。
 三成の誤算は三成の意に反し、東軍の動きが敏速であったことにつきようが、そもそも、関ヶ原の戦の原因は秀吉家臣団には二つのグループがあり、グループ間でのヘゲモニー争いにあった。


 二つのグループとはいずれも秀吉を父と慕った秀吉子飼いの武将たちで構成されたグループで、「武断派と文治派」、「尾張閥と近江閥」、「北政所(きたのまんどころ)派と淀(よど)殿(どの)派」のように表されるが、本書では「槍働きと裏方」と表現される。「槍働き」は加藤清正福島正則に代表される野戦武将で、「裏方」は三成のような内治に携わる文治官僚である。両派の嫉視反目は秀吉在世時から存在し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)で、不和と憎悪は救いがたいものになっていた。特に本書では、秀吉の懐刀の三成が独裁者秀吉の眼を意識し、命に従って戦うと見せながら、戦争続行の意欲の強すぎる清正らを排除して、和平工作を図る姿が描かれる。「槍働き」の清正らに嫌われたことが三成にとって致命的な打撃となったのである。


 三成の初陣となった「賤ケ岳」から「関ヶ原」に収斂させていく作家の構想力は、人間描写の妙に及んでいて、息もつかせない。関ヶ原の戦いでの勝敗の帰趨を後世の人間たる読者は誰もが知っており、読者の眼は関ヶ原をめぐって展開された人間模様を作家がいかに描くかに向けられるのである。人間模様とは人間いかに生きるべきかの永遠の課題である。


 三成に関わり、数奇な運命の下で生きた二人の若者に作家の筆は及んでいる。
 一人は本能寺の変で討たれた信忠の嫡男・織田秀信。「信長の嫡孫・三法師」として秀吉の天下取りに利用されるも、三成を慕い、織田一族のほとんどが東軍に与した中で、西軍に与し、岐阜城主として戦うも敗れ、高野山に追放され5年後26歳の若さでこの世を去っている。もう一人は結城秀康。家康の次男、秀忠の庶兄である。家康に嫌われ、小牧・長久手の戦の講話後、秀吉の養子となり、関ヶ原の戦いでは、本流の戰場から外され、下野国小山に陣し、上杉景勝の西上を阻止する役目を負った悲運の徳川嫡流である。二人の若武者から「もう一つの関ヶ原」が浮かんでこよう。


 最終章で、逮捕された三成が大津の家康の陣に引き据えられ、家康と対面するシーンがある。家康は西軍の首謀者として三成を罪人として扱うが、三成は臆することなく家康に対峙し、家康の天下取りの野望を糾弾し、今後の豊臣家への存念を、さらにはどんな政権を造るのか問い糾すシーンはラストシーンながら、本書最大の読みどころである。
 ひるがえって、三成挙兵の狙いは何だったのか。ただ秀吉の恩顧を思い、義のためにだけに、ただ一人敢然として家康に立ち向かうべく決起したのではないことは明らかである。


 秀吉は「天下布武」を標榜した信長の後継を自任していたが、秀吉自身には明確なビジョンはなく、豊臣家がすべてを支配する体制をビジョンに描いていたのは三成である。三成としては、家康の天下取りの野望の下、自らが秀吉の下で作り上げた制度や掟が変えられていくのが我慢できなかったに違いない。石田三成は戦なき安定と繁栄の世、泰平の国造りの礎たらんとした信念の男であった、と作家は描く。『治部の礎』、書名の由来はここにある。


 なお、本書に引き続き、「関ヶ原」と人間模様をテーマとして著わされた『裏関ヶ原』(講談社、2016年12月刊)は今年度の中山義秀文学賞の最終候補作にノミネートされている。受賞を願いつつ、本書と共に併せ堪能したい。
                (平成29年10月19日  雨宮由希夫 記)