日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第4回 座頭市と用心棒

第四回 座頭市と用心棒

平成二年一月(1990)
池袋 文芸坐

 

 六十年代に大ヒットしたシリーズに勝新太郎座頭市がある。流れ者の按摩で盲目だが、実は凄腕の剣術使い。仕込み杖をさっと抜いて、あっという間に何人もの敵を斬り倒す。第一作の『座頭市物語』は、利根川をはさんでの天保水滸伝の世界が背景で、飯岡助五郎側についた座頭市が、笹川繁蔵方の平手造酒と心を通わせる。平手役は天知茂だった。
 座頭市の人気は大変なもので、TVの寄席番組では桜井長一郎がいつも物まねを演じていたものだ。

 シリーズは何作も作られて、とうとう座頭市が黒澤の『用心棒』から抜けでてきた三船敏郎の素浪人と斬り合うというのだから、もう夢のような話である。
 二大キャラクターの対決は宮本武蔵佐々木小次郎、ルパン対シャーロック・ホームズキングコング対ゴジラバットマン対スーパーマン、ドラキュラ対フランケンシュタインの怪物、ネタはつきない。

 悪辣な博徒一家に牛耳られ荒んだ宿場町。ぶらりと現れた座頭市が、博徒の用心棒に命を狙われ、どういうわけか意気投合して酒を酌み交わす。その酒場の女が若尾文子であった。


 この宿場に隠された御用金をめぐって、悪人たちがしのぎを削り、最後に座頭市と用心棒の決闘となる。いったいどっちが勝つのだろう。
 岡本喜八黒澤明のような完全主義ではないが、遊び心がある。『イースト・ミーツ・ウェスト』などは、徹底して作れば『レッドサン』を越えただろうに、その手前で妥協してしまうから惜しい。

 

 

座頭市と用心棒
1970
監督:岡本喜八
出演:勝新太郎三船敏郎若尾文子滝沢修岸田森細川俊之米倉斉加年

 

『映画に溺れて』第3回 椿三十郎

第3回 椿三十郎

昭和五十三年十一月(1978)
大阪 阿倍野 アポログリーン

 

 黒澤明監督の『七人の侍』は西部劇『荒野の七人』となったが、『用心棒』もまた西部劇になっている。セルジオ・レオーネの非公式リメイク、マカロニウエスタン『荒野の用心棒』で、クリント・イーストウッドがスターになるきっかけでもあった。
 三船敏郎ふんする流れ者の浪人が、宿場町にふらっと現れ、対立するふたつの博徒一家を操り、潰そうとする。『用心棒』はダシール・ハメットの『血の収穫』から着想を得ている。


 黒澤は『用心棒』の次に同じ三船の素浪人を主役に『椿三十郎』を作った。ある藩にぶらりと立ち寄った浪人が、重役の不正を糾そうとする若侍たちに味方し、悪人に幽閉されている家老を助け出し、黒幕一味を追い詰める物語である。
 前作で博徒から名を聞かれた浪人が桑畑が広がるのを見て、桑畑三十郎と答えるが、今回は満開の椿を見て、椿三十郎と名乗る。
 早まった若侍たちを救い出すため、単身で敵陣に乗り込み、あっという間に三十人を斬り捨てる場面はぞっとするほどの迫力。そして、ラストの仲代達矢との対決。すごいの一言であった。


 原作が山本周五郎のユーモア短編『日日平安』なので、前作『用心棒』とは打って変わってコメディ調になっているのもうれしい。
 若侍の加山雄三田中邦衛若大将シリーズだし、小林桂樹や団令子は東宝のサラリーマン喜劇によく出ているし、家老夫人の入江たか子といい、家老の伊藤雄之助といい、全体に明るく楽しい。黒澤明というと、重苦しい巨匠のように思われがちだが、こういう喜劇調の娯楽作をもっとたくさん撮ってほしかった。
『用心棒』もまた、いくつかのリメイクや類似作を生んでいる。『椿三十郎』は森田芳光監督でリメイクされたが、オリジナルと比べると、見劣りするのは仕方ないか。

 

 

椿三十郎
1962
監督:黒澤明
出演:三船敏郎仲代達矢加山雄三小林桂樹田中邦衛、団令子、入江たか子

 

 

『映画に溺れて』第2回 荒野の七人

第2回 荒野の七人

昭和四十六年五月(1971)

大阪 上本町 上六映劇

 

 映画館では『七人の侍』よりも『荒野の七人』を先に観た。リバイバル上映されたのが、高校三年生のときで、痛快娯楽西部劇に酔いしれた。

 

 メキシコの村が山賊に毎年襲われる。作物は奪われ、抵抗すれば殺される。村人たちは意を決して、山賊に立ち向かおうと、町まで行って腕利きのガンマンを雇うことになる。

 食い詰めてメキシコに流れ着いたいわくありげなアメリカ人ガンマンが七人、わずかな報酬で村人に協力する。

 ユル・ブリンナーの黒づくめのリーダー、補佐するのがスティーブ・マックィーン、農民出身の若いホルスト・ブッフホルツ、武骨だが子供好きのチャールズ・ブロンソン、お洒落で神経質な賞金稼ぎロバート・ヴォーン、ニヒルなナイフ投げの達人ジェームズ・コバーン、報酬目当ての胡散臭いブラッド・デクスター。

 ガンマンたちはイーライ・ウォラックを首領とする山賊一味との死闘の末、敵を全滅させるが、七人のうち四人が倒れる。

 オリジナルをかなり端折り、通俗ハリウッド活劇に仕立て直している。日本の時代劇が原作ながら、完全な西部劇である。西部劇と時代劇には大いに共通する要素があるのだ。そう思わせる一本であった。

 

 その後、『続荒野の七人』『新荒野の七人』『荒野の七人真昼の決斗』『マグニフィセントセブン』と続編やリメイクが作られる。

 マイケル・クライトンの『ウエストワールド』を観たとき、悪役のロボットガンマンが黒づくめのユル・ブリンナーだったので、思わずニヤリ。

 

 

荒野の七人/The Magnificent Seven

1960 アメリカ/公開1961

監督:ジョン・スタージェス

出演:ユル・ブリンナースティーブ・マックィーンチャールズ・ブロンソン

 

『映画に溺れて』第1回 七人の侍

1第1回  七人の侍

昭和四十七年八月(1972)
大阪 堂島 毎日ホール

 

 大好きな映画はたくさんあるが、おそらく、私はこれが一番だ。
 映画館や公共ホールの上映会、名画座やフィルムセンターでの黒澤特集、三船特集などで何度も何度も繰り返し観ている。
 そして、いつ観ても新たな発見があり、感動してしまう。
 三時間半近い上映時間ながら、どこをとっても無駄がなく、これほど完成された映画は類をみない。しかも、大変に面白い。世の中には立派な芸術作品でありながら退屈なものや、面白いのに薄っぺらでなんにも残らない作品がけっこう多い。が、『七人の侍』は黒澤明の職人芸の極致、これほどの作品がよくもまあ、可能であったことか。


 戦国時代、治安は乱れ、敗残兵が野盗となって村を襲う。収穫期になると略奪される農村では、野武士と戦うことを決意し、食い詰めた浪人を雇うことにする。
 四人の農夫が町で武士を探すが、簡単にはいかない。が、ようやく志村喬ふんする冷静沈着な勘兵衛を中心に侍が集まる。勘兵衛の小者であった七郎次、温厚な五郎兵衛、明るく陽気な平八、剣の達人で無口な久蔵、勘兵衛に憧れる前髪の勝四郎。そこへ七人目の男、三船敏郎ふんする菊千代が現れる。形は浪人だが、武士の素養はなく、一目で百姓出とわかるが、これが六人のあとを勝手についてくる。
 雇った侍を農夫たちは心底信用しておらず、村では恐れて娘を男装させる者もあるが、菊千代の機転でだんだんと打ち解ける。
 野武士の数は四十名。これとどう戦うか。勘兵衛は策を弄し、農夫たちを訓練し、やがて最後の雨の中の大決戦となる。


 脚本、俳優の演技、衣装や小道具や鬘のひとつひとつが細かく吟味され、主役クラスはもとより、村の農民たち、町を歩く通行人、エキストラのひとりひとりがすべてリアルで嘘がない。映画を面白くするのがリアリズムであるという見本である。

 

七人の侍
1954
監督:黒澤明
出演:三船敏郎志村喬木村功加東大介宮口精二千秋実、稲葉義男

 

再掲・加藤廣先生を送る(弔辞)

加藤廣(ひろし)先生を送る
                   2018.7.23         雨宮由希夫


信長公記』の著者・太田牛一を主人公とした本格歴史ミステリー『信長の棺』で加藤廣先生が作家デビューを果たしたのは、13年前、2005年(平成17年)の初夏のころで、2005年の歴史時代小説、最大の話題作は加藤先生の『信長の棺』でした。何よりも『信長の棺』という書名からしてすでに謎めいています。この衝撃的なタイトルでわかるように消えた信長の遺骸の行方を探りあげることによって信長から秀吉への国盗り物語の謎を解き明かした『信長の棺』は「信長もの」歴史小説の金字塔であります。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変において、光秀の娘婿の明智左馬助が数日の間、現場に留まり死去したはずの信長の遺体を徹底して探し続けたが、発見されなかった。その年の10月、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を挙行しているが、式場には信長の遺骨不明のまま、遺体亡き棺が安置されていたのでした。

 先生は『信長の棺』の「あとがき」で、「本能寺の変の後、織田信長の遺骸は忽然と、この世から消えた.この一件は《不思議なことに………》で済まされるような問題でも、人物でもあるまいというのが、本作品執筆の動機である」と書かれています。日本史上最大のミステリーといえる事件の真実を突き止めようとする作家の裂帛の気迫に多くの読者が拍手喝采したものです。

 加藤先生には代表作というべき「本能寺」三部作があります。『信長の棺』、『秀吉の足枷』、『明智左馬助の恋』の三作です。


 書評家としての私と先生の出会いは『明智左馬助の恋』でした。

 なんと驚くべきというか、光栄なことに『明智左馬助の恋』の「あとがき」に、『信長の棺』について書いた拙稿の一部が引かれていたのです!!
 私は当時神田神保町三省堂書店に勤務しておりまして、三省堂書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」らしきものを書いておりました。『信長の棺』は日本経済新聞に連載され、当時の小泉純一郎総理が愛読書として挙げたことからベストセラーとなりました。不肖私も『信長の棺』のすばらしさに打ち震えたひとりで、その書評というか読後感というか拙い感想を「ブック・クーリエ」に載せましたが、先生はそれをご覧になっていたのでした。

「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな「信長もの」の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と私は書きましたが、先生はその一文を引き、「雨宮某の暖かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったのです。
「あやうく涙腺まで切れそうになった」のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせったものです。
今にして思えば、どのようにして私の拙い書評が先生のお目にとまったのかわかりません。先生にお訪ねしそこないました。とまあれ、これを機に先生から「文庫解説」の御指名をいただくようになりました。先生、誠にありがとうございます。

 75歳になんなんとする年齢で作家デビューされた先生は厳しい現実に直面されたと思います。新たに参入する作家には新しい視点と解釈で作品をモノすることが求められるからです。しかし、先生は持ち前の好奇心を発揮され、歴史的な大事件の真実探求に焦点を当てるという手法で、史料的な裏づけの下、歴史の闇と風塵に埋もれた真相に迫り、矢継ぎ早にインパクトのある作品を世に問うて行きます。

 加藤作品を貫くのは、それまでの常識あるいは通説とされている歴史事象を疑い、真実を追究するという独特の歴史観であります。その絶妙な歴史推理の手法で、読者の意表を衝く謎解きの面白さを通じて真相に迫ることで、加藤節というべき独特の歴史小説の世界を造形したのです。

 先生は小説の構想を得たら徹底的に史料を調べる作家でした。
『水軍遙かなり』が執筆される1年ほど前のことでした。ある日、先生から電話があり、「北条水軍と金山を調べに伊豆に行くが、一緒に行かないか」ということでした。なぜかその時、躊躇し結局取材旅行に同行しておりません。なぜお断りしたのかその理由が思い出せません。今なら二つ返事で「はい」と即答したでしょうが。今更ですが、先生、申し訳ありませんでした。

 先生はデビュー以来、およそ12年間に毎年話題作を書かれました。先生はまた恋愛小説や2・26事件など昭和史を背景とした現代小説をお描きになりたいともおっしゃっておられました。先ごろ、直木賞の発表がありましたが、1作ないしは2作は話題とはなるが、すぐに忘れさられてしまう作家より、毎年1作、心に残る作品を上梓された先生こそ「直木賞作家」の名を冠するに相応しいのではないでしょうか。

 毎年、いただいていた年賀状が今年は届きませんでした。何があったのかと気に病んでおりましたが、4月7日に旅立たれるとは思いもかけませんでした。先生、申し訳ありません。もう少し先生と連絡を密にすべきでした。
 もはや先生の、あの加藤節を聞けないと思うと寂しく、残念でなりません。先生、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

飯島一次の『映画に溺れて』

飯島一次の『映画に溺れて』

 

 好きな映画のことだけを書こう。それも、映画館で観たものを中心に。

 幼い頃、家にはまだTVがなく、映画好きの祖母がしょっちゅう映画館に連れて行ってくれたのだ。駅前の古い劇場で東映の時代劇を観るか、電車に乗って都会まで行き、ディズニーアニメを観るか。父は東宝が好きで、怪獣映画やクレージーキャッツをいっしょに観た。祖母と最後に観たのは中学一年のときの『大魔神』、父と最後に行ったのが中学二年のときの『続・夕陽のガンマン』、初めて友人とだけで映画館に入ったのが中学三年のときの『猿の惑星

 高校生になると、ひとりで観に行くようになる。TVが普及しても、ビデオやDVDが出てきても、やっぱり映画は映画館。結婚したばかりの頃には妻と映画館に通った。子供が生まれると家族みんなで観に行った。シネコン以前は映画館にも個性があり、情報誌「ぴあ」を片手に電車を乗り継いだことや、途中で入った店で何を食べたかまで憶えている。いつどこでだれと観たかも映画の記憶のひとつとして大切なのだ。ここでは、観た年月と場所もわかる範囲で記すことにする。

 近頃では、先月観た映画がほとんど記憶になかったり、二、三年前の映画はメモを見ても思い出せないものもある。だけど、まあ、いい歳をして、相変わらず娯楽作品が大好きだ。ことに奇想天外、荒唐無稽、コメディ、SF、ファンタジー、アクション、ミュージカル、そして時代劇。

 この先、何本観ることができるか。いつまでも映画館の客席に座り続けたいものである。

 

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第13回 復活

 日本に金栗四三中村勘九郎)が敗退した知らせが電信で届けられます。棄権したと。
 四三は意識を失い、気がついたときには宿のベッドに寝ていたのです。
 北欧のストックホルムも、マラソン当日は暑く、日陰でも30度。灼熱地獄とも言え、マラソン選手の68人中34人が途中棄権していました。
 四三はガイドのダニエルと共に、自分が走ったはずの道をたどっていました。折り返し地点に着きました。ここで四三は友人でもありライバルでもある、ポルトガル代表のラザロを追い抜いたことを思い出します。ダニエルが言うには、多くの選手が棄権するなか、四三はぐんぐんスピードをあげ、30位、いや、20位にまでには食い込んでいたそうです。
 四三はレース中、雨が降ったように記憶していました。羽田の予選レースと混同していたのです。
 運命の分かれ道にたどり着きます。四三はここで間違ったコースを取ります。ラザロは四三に声をかけ、正しいコースを行きます。ダニエルにそれを指摘され、四三はつぶやきます。
「どおりでラザロは追いかけてこんかったばい」。
 四三は深い森をさまよったことを思い出しました。道もありません。ようやく道にたどり着いたところ、その先に民家が見えてきます。そこでは野外にテーブルと椅子を出して、その家の人たちがおやつを食べていました。
 優雅におやつを食べる家族の前に、四三は現れます。そして四三についてきた五人ほどのマラソン選手。家族はこちらがコースではないことを大声で知らせます。四三についてきた選手たちは引き返していきます。しかし四三はふらつく足取りで、庭の奥へと進んでいきます。
 四三はついに倒れ込みます。介抱する人々。
 四三はダニエルたちに発見され、駅まで連れて行かれます。汽車に乗って宿まで戻りました。
 翌日になり、マラソンレースのことが地元の新聞に書かれていました。そして友人のラザロが日射病により死んだことを四三は知るのです。あの分かれ道で、間違った道を行っていなかったら自分も……と四三は考えます。
 その頃、日本に、四三が書いた手紙が届いていました。手紙がストックホルムから届くのには二週間かかります。二週間前の四三の心境が記されています。
「いずれ優勝メダルを手土産に、ご挨拶にうかがう所存です。四三はやります。必ずやり遂げます。」
 と、無邪気に書かれていました。
 その頃、浅草にいる孝蔵(山本未來)は、初高座の日を迎えようとしていました。酒を飲んでいないか心配する友人の清さん。
「飲みたくても銭がねえよ」
 という孝蔵。清さんは孝蔵に着物をプレゼントします。ありがてえなあ、としみじみ思う孝蔵。
「持つべきものは友だな」
 と考えます。
 清さんたちは寄席に孝蔵を見に行きます。しかし孝蔵は出てきません。実は孝蔵は清さんにもらった着物を質に入れて、その金で酒を飲んでしまっていたのです。
 高座に上がる孝蔵。全くのへべれけでした。懸命につとめようとしますが、結局途中までしかやりきることはできませんでした。
 一方、ストックホルム。四三は体操服に着替え、再び走り始めます。石畳の町を抜け、草原に入ります。そこでは各国のマラソン選手たちが、一所に集まっていました。ラザロの墓でした。四三もそれに手を合わせます。
 IOCの総会が開かれていました。それに出席する嘉納治五郎役所広司)。死者を出したマラソン競技は、廃止されるのではないかという噂が流れていました。ラザロの母国、ポルトガルの代表者が述べます。ラザロは祖国のために、息絶えるまで走り続けました。ここで彼は人生を最大限生きました。スポーツ発展のために、特にマラソンのために。彼の死を無駄にしないで欲しい。誰がなんと言おうと、今後もマラソン競技を続けて欲しい。
 そして総会にて、四年後もオリンピックが開催されることが決定しました。
 四三はストックホルムの街を走りながら考えます。
「死は易く、生は難く。粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」

書評『桜島山が見ている』

書評家・雨宮由希夫さんの掲載された書評をご紹介します。

(本人提供・掲載誌『週刊読書人』2019年3月8日号)

 

桜島山が見ている

桜島山が見ている

 

 

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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第12回 太陽がいっぱい

 マラソン競技当日になりました。
 日本の熊本では、スヤ(綾瀬はるか)が金栗家に来ていました。四三の兄の実次(中村獅童)は時計をスエーデンにあわせています。四三への応援の宴をすることをスヤが提案します。
 ストックホルムではネクタイの正装にて四三は宿を出発します。監督の大森(竹野内豊)は病状が悪化していましたが、妻の安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)の制止を振り切り、四三とともにスタジアムに向かいます。
 しかし四三は市電を間違えてしまいます。大森を連れてでは、四三は走って行くことはできません。道ばたに座り込む大森。四三は大森を背負ってスタジアムに向かいます。
 スタジアムに着く四三。マラソン競技に挑む他国の選手たちは、もう準備を整えています。四三はあわてて着替え始めます。競技に出場するため、他国の選手たちは控え室を出て行きます。取り残される四三。あわてて着替え終わり、フィールドに駆け上がります。スタジアムを埋め尽くす観客にしばし圧倒される四三。審判員に誘導され、四三はマラソン競技のスタート地点につくことができます。
 すぐに鳴るスタートの合図。四三は足袋(たび)調整がうまくいかず、一人出遅れます。選手の一団はスタジアムをあとにします。
 熊本ではスヤが、マラソンの始まっている時間だと気づきます。あわてて祈りを捧げる兄の実次。皆、口々に四三の名前を叫びます。スヤは応援のために「自転車節」を歌い始めるのです。
 ストックホルムの気温は三十度以上。舗装路から熱気が跳ね返ってきます。出だしで張り切りすぎ、息のあがった選手たちを四三は次々に抜いていきます。
 四三は調子を上げていきます。給水所の水も取ろうとしません。
「こりゃいけるばい」
 と手ごたえをつかみます。
 四三には故郷の応援する人の姿が見えていました。兄の実治。そして東京の師範学校の同級生たち。車引きの清さんや街の人たち。
 ところが四三は突然ふらつきます。コースに立ち止まってしまいます。気合を入れなおしてレースをつづける四三。強い太陽が照り付けます。
 やっと給水所で水を飲む四三。二つ目の水を頭にかけます。
 次々と選手が倒れ、棄権してゆきます。日差しと暑さにやられてしまったのです。
 四三はコース上に膝をつきます。そして幼い自分の幻を見るのです。幼い四三は今の四三を励まします。
 幼い四三に励まされた四三は、立ち上がります。再び闘志を燃やし始めます。
 折り返し地点を回る四三に野心が沸き起こります。下り坂にペースを上げ、次々と他国の選手を抜いていきます。給水所で差し出される水も目に入りません。ついにライバルで友人でもあるポルトガル代表のラザロを抜き去ります。
 森のコースを抜けた時のことです。太陽にさらされた四三はふらつきます。体に力が入らなくなってきたのです。それでも走る四三。ついにコースに倒れこみます。幼い四三か再び現れて四三を慰めます。幼い四三は走り去り、四三はその後を追います。
しかしそれは間違ったコースでした。見つけたラザロが声を掛けますが、四三は戻りません。
 一位の選手がスタジアムでテープを切ります。二位、三位の選手も到着。スタジアムで観戦していた加納治五郎(役所広司)は、記録を見て呆れます。四三の記録より四分も遅いのです。
 しかし四三は帰ってきません。加納は目の前を通り過ぎた選手が最後だと聞かされます。そして途中棄権した選手の中に、日本人はいませんでした。ゴールもしていない、棄権もしていないとい
うことは
「まだ走っているということだろう」
 と加納は言います。
 加納たち一行は、四三を探し回ります。スタジアム、病院、コースなど。どこにも見つかりません。四三は消えてしまったのです。
 白夜の夜に、加納たちは宿舎に戻ってきます。捜索願を出すことを検討していました。加納は東京にレースのことを電報で伝えようとします。「棄権」と。「失踪」では大事になってしまうからです。
 四三は目を覚まします。そこはベッドの上でした。四三は宿泊していた宿の、自分の部屋のベッドに寝ていたのです。それを見つけて驚く加納たち。四三は
「すいまっせん」
 といいます。自分でもどうして部屋に帰っていたのか、記憶がなかったのです。四三は加納に言います。
「調子も良くて、スピードもどんどん出て、どんどん楽しくなって、いける、いける、思うたばってん」
 しかしそれ以上四三は言葉が続きません。
 ガイドの青年が言います。日射病です。われわれがここに連れて帰ってきました。
「すいっまっせん」
 四三はたたそれを繰り返すばかりでした。