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新書専門書ブックレビュー5

『海賊の日本史』(山内譲、講談社現代新書

 

海賊の日本史 (講談社現代新書)

海賊の日本史 (講談社現代新書)

 

 

 昔、「日本では海洋小説は好まれない」という趣旨の文章を読んだ記憶があります。日本は島国で、海に囲まれているにも関わらず、海を扱った文学作品は少ないというのです。
 確かにそう言われて思い出すのは、白石一郎の『海狼伝』、『海王伝』くらいで、敢えてあげれば、大仏次郎の『ゆうれい船』や『山田長政』を扱った小説くらいでしょうか。
 海洋国としての日本は、戦後しばらくして衰えてしまいました。移動手段が、空路にとって代わられたからだと思われます。そのことがさらに海洋への興味を失わせてしまったのでしょうか。

 日本は、太平洋、日本海東シナ海オホーツク海という4つの海に囲まれている世界でも希な国です。かつて網野善彦は、ヨーロッパの地中海文化に比較して、「環日本海文化」「環シナ海文化」を提唱したことがあります。
 中世の東シナ海を例にあげれば、東シナ海を囲んで、日本、琉球、台湾(高砂)、宋・元・明(中国)、高麗・朝鮮という国がありました。この国々は相互に往来し、影響を受けたり、与えたりして歴史を刻んできたのです。そうした大きな視点に立って日本の歴史を考えてみようという提案だったと記憶しています。

 確かに現代の観点からみれば、東シナ海にとどまらず、南シナ海も含む大きな範囲で往来があります。でもそれは、中世も同じだったのではないでしょうか。
 それゆえに環シナ海を舞台にした海洋小説は、もっと書かれてよいように思います。もしかしたら、現代的な観点を盛り込んだスケールの大きな作品が、求められているのではないかとも思うのですが、いかがなものでしょう。
 
 さて、閑話休題――。
 本書は「海賊」に特化した通史です。平安後期の藤原純友から近世初期までを取り扱っています。戦国の終焉とともに海賊は滅んだといってもよいのですが、終章において近現代へ海賊の残したものについても述べています。
 海賊というと「海の盗賊」と思っていましたが、歴史書を読んでいると、必ずしも否定的な意味合いでは使われていません。私は長い間、海賊というものがよく分かりませんでした。例えば海賊大将で有名な村上武吉や北条水軍等水軍と呼ばれる者たちは、海の盗賊というイメージにそぐわないからです。

 本書はそうした海賊像を4つに整理します。(190~203ページ)
① 土着的海賊=さまざまな目的で船旅をする人、年貢や商品の海上輸送に携わる人を襲って金品を奪う者としての海賊
② 政治的海賊=荘園領主や国家権力などとの関係によって海賊と呼ばれた政治的意味合いの強い海賊
③ 航海の安全を保障する者としての海賊
④ 時の権力とかかわりを持つ水軍としての海賊

そして、①及び②が古代から存在するのに対して③と④は、「中世後期になってから登場する新しいタイプの海賊」ということだそうです。このうち①が、私が海賊に抱いていたイメージだったのです。

 本書で取り上げられている海賊は、大きく4つです。始めに平安後期の藤原純友。本書はその実像に迫っています。次に鎌倉時代松浦党倭寇、ここでいう倭寇は前期です。そして南北朝(室町)時代の熊野海賊と南朝海上ネットワーク。最後に戦国大名と海賊との関係を西国と東国とで比較しています。

 まず、藤原純友ですが、純友は、瀬戸内海の海賊を率いて、東の平将門とともに朝廷に反した承平・天慶の乱の中心人物として知られています。しかしながら、最近はその「イメージが変わりつつある」ようです。
 純友の前半期は、海賊を取り締まる側だったというのです。純友の父は、「従五位下の官位を持ち、筑前守、太宰少弐などを歴任したれっきとした律令官人」の藤原良範です。「良範のおじには藤原家で最初に関白になった基経」がいます。
 純友が海賊と関わりを持つようになった「きっかけは、伊予掾に就任したこと」です。承平2年頃のことです。従来は、『日本紀略』の「南海賊徒首藤原純友、党を結びて伊予国日振島に屯聚し」等により承平6年頃には、海賊の首領になっていたといわれていましたが、この「部分は、後世の潤色であることが明らかにされ」ました。つまり承平6年時点ではまだ乱を起こしていないのです。純友が反乱にくみするのは天慶2年末頃のようです。
 では、なぜ純友は反乱を起こしたのか、そこのところは、実はよくわかりません。「理由は状況から判断するしか」なく「いずれにしても、純友側に当時の政府に何らかの不満があったことは間違いない」ようです。
 逆にいえば、創作の意欲を掻き立てる人物ということになるでしょうか。

 1976年のNHK大河ドラマ「海と風と虹と」(原作:海音寺潮五郎、脚本:福田善之)で緒形拳が演じていました。平将門役は加藤剛でした。思い出すだに懐かしいです。その純友は、ドラマでは、将門と京で会ったとき、すでに謀叛の志を抱いていたように思います。

 松浦党は壇ノ浦での合戦の際、平家方水軍の重要部分を担っていたようです。とはいえ、この時代の常で一貫して平家方ではなかったようです。
 松浦党というのは、党という「中小武士団の総称」で平安時代には成立していました。そして松浦党といえば、倭寇との関係ですが、「松浦党がこれにかかわったことを示す史料は、松浦党が残したものの中にはほとんど見当たらない」のです。結局、朝鮮や中国側から見たもののみということになります。
 山内氏は倭寇に係る先行研究の「前期倭寇にも高麗国内の海上勢力が関与していた」というものと「倭寇は日本人か朝鮮人かといった類の問いはほとんど無意味であり」「実態に近い姿で呼ぶとすれば」「マージナルマン(境界人)」がふさわしいという2つの論を紹介し、「松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて『境界人』としての特性を発揮したとみるべきだろうと」と結論付けています。

 薩摩国東福寺城(鹿児島市内)が、貞和3年(1347)6月に熊野海賊以下数千人に襲われます。城主は薩摩国守護島津貞久北朝方でした。熊野海賊は、当時南朝の勢力拡大を目指した懐良親王の九州渡海に協力していたのです。
熊野海賊といえば、源平時代の熊野別当湛増が有名ですが、その名の通り熊野三山と密接な関係がありました。
 しかしながら、紀伊半島に沿った海辺に勢力を持つ海上勢力は他にも多く存在します。山内氏は、そうした勢力を紹介し、東福寺城に攻め寄せた熊野海賊の実態を「熊野灘周辺の海の領主と西瀬戸内各地の南朝方の海の領主の集合体であった」と結論付けます。

 戦国時代になると「瀬戸内海を中心に海賊の軍事面での活動が活発」になります。「戦国大名から最も熱い視線を受けたのが、芸予諸島の村上一族」でした。村上氏は能島・来島・因島の3つの家から成りますが、山内氏はそんな三島村上氏の変遷を紹介し、次いで北条氏・武田氏の東国の海賊について述べます。
北条・武田両氏の海賊は、いわゆる〈賊〉というよりも、両氏に従う水軍的な性格の強いものでした。
 そして、西国と東国の海賊を比較して、その特徴は「西国には海賊という言葉に賊的ニュアンスが色濃く残っているが、東国にはそれがほとんどない」と述べます。
これはおそらく瀬戸内海という大きな内海の有無によるものでしょう。山内氏も瀬戸内の海賊は、「海の民の生業である」「通行料の徴収」が「海賊にとっては正当な経済行為だったが、航行する船舶の側からすれば、何の標識もない海域を通過していて銭貨を要求されるのだから略奪とみなされることも多かった」といい、「海賊の活動のあり方が変わり、水軍的活動が中心になってからもなかなか抜けなかった」といいます。
海賊たちは、豊臣秀吉の海賊禁止令以降、秀吉、そして徳川家康に取り込まれて幕藩体制の中で生き残ることとなるのです。

 こうして、海賊というものを時間軸で見てみると、その華々しい活躍が、平安末期から戦国時代に掛けてであり、優れて中世的な存在だということに改めて気づかされます。

 

『映画に溺れて』第131回 ちょんまげぷりん

第131回 ちょんまげぷりん

平成二十三年一月(2011)
目黒 目黒シネマ

 

 時間SFの中でも私はタイムスリップものが大好きである。『ちょんまげぷりん』は江戸時代の武士が現代にタイムスリップする物語。
 巣鴨に住むシングルマザー。会社勤めと子育てとで必死に生きている。ある朝、彼女の前にひとりの武士が出現する。なにかの宣伝、時代劇を撮影中の俳優だろうか。すると、彼は名乗り出る。
「木島安兵衛、直参でござる」
 文政年間、ひとりの幕臣巣鴨村の田園を訪れた。旗本なのだが、無役の小普請組。どうかお役につかせてくださいと農道にあるお地蔵様に手をあわせると、いつの間にか不思議な世界に迷い込んだというのだ。
 彼が迷い込んだ世界は二十一世紀、平成の東京。出会った母子の親切に甘え、彼はマンションに厄介になり、家事を引き受けることに。
 男社会であった江戸から、男女が共に働く東京を見て、驚くやら憤慨するやら。でも、実は現代もまた、江戸と変わりない男社会なのだとの皮肉がさらり。
 やがて、木島安兵衛はお菓子作りに才能を発揮し、様々なケーキを作りあげ、一流洋菓子店に就職。そうなると、家事と仕事の両立が難しくなり、子供の相手もできなくなってジレンマ。
 こういう荒唐無稽な物語、細部がリアルでないと嘘臭くて、見ていられないが、細かいところまで目が行き届いている。安兵衛役の錦戸亮も立派な武士に見える。歩き方もちゃんと江戸時代人になっている。江戸時代の武士は運動会の行進みたいに手を振って歩かなかったのだ。

 

ちょんまげぷりん
公開2011
監督:中村義洋
出演:錦戸亮ともさかりえ今野浩喜、佐藤仁美、鈴木福忽那汐里堀部圭亮中村有志、井上順

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第30回 黄金狂時代

 四百メートル自由形水泳選手の、大横田努(林遣都)はトイレに駆け込んでいます。だいぶ苦しい様子でしたが、素知らぬ顔で皆のところに戻っていきます。
 ロサンゼルスの地にて昭和7年(1932)7月30日、第十回オリンピックが開幕します。参加国は37。日本からは過去最高の131人が出場します。アメリカに着く二番目の大所帯でした。競技は二週間にわたって行われます。田畑率いる水泳チームの登場は、大会八日目でした。
 選手村は活気にあふれ、英語からヒンズー語飛び交う、まさしくスポーツの楽園でした。
「あーあ、終わっちゃうな」
 水泳総監督、田畑政治阿部サダヲ)がうめきます。昨日始まったばかりですよ、と助監督に言われます。
「始まったら終わるだろう。終わったら帰らなくちゃいけないだろう。ずーっといたいよ」
 選手村が何やらざわついています。大砲のような音が響き渡っていました。田畑たちが近づいてみると、嘉納治五郎役所広司)が柔道の模範演技をしていました。田畑は嘉納の海外での人気に驚きます。田畑は嘉納に聞きます。
「なぜオリンピックで柔道をやらんのです」
 まだ機が熟していないからだ、と、嘉納はこたえます。
「今は、陸上水泳で様子を見つつ、水面下で普及活動をし、世界中に弟子を増やし、満を持して正式種目にする。その頃私は、百歳をとうに越え……」
 嘉納が放している途中に、本物の大砲の音が響き渡ります。アメリカ軍の演習でした。
 田畑はラジオのアナウンサーたちが、とぼとぼと引き上げるのに行き会います。田畑がたずねると、実況放送が中止になったというのです。スタジアムの放送席から、アメリカのスタジオを経由して、日本まで音声を無線で飛ばす計画でしたが、アメリカの組織委員会から待ったがかかったのです。ラジオで実況などすれば、客足が遠のくと。日本は関係ないだろう、と言う田畑。しかし日本だけ認めるわけにはいかない、というのがアメリカの言い分でした。仕方がないから競技が終わってから、その日の結果だけ放送しようとします。
「それだと新聞に勝てませんな」
 と、田畑は言います。ラジオは音声だけだが、新聞は写真を使って目に訴える。新聞は、撮ったフィルムをまず飛行機で運びます。それを洋上に落下させ、船で拾い上げます。飛行機からすぐにオートバイで受け取り、新聞社に運んだりします。ラジオアナウンサーの河西三省トータス松本)がアイデアを出します。
「ただ結果を伝えるのではなく、我々がスタジアムなりプールなりで競技を見て、その見たまま、感じたままを記憶し、それをこのスタジオで、実況のように再現するんですよ」
 それは「実感放送」と名付けられます。アナウンサーがまずノートを片手に試合を見、夜になってから車で放送局に、選手同伴で移動します。そして実感を込めてしゃべるのです。実感がこもりすぎて約十秒の競技を、一分かけて放送したりします。
 8月7日、いよいよ水泳競技が開幕します。若手の宮崎康二西山潤)の百メートル自由形の決勝で、田畑は気合いを入れます。
「全種目制覇だ」
 そして宮崎は金メダル。結果を出すのです。一緒に泳いでいた日本人選手も二位つけ、日本が金、銀のメダルを得ます。
 そして実感放送では、すぐに選手のインタビューが放送されるのです。チームメイトに感謝の言葉を伝える宮崎。田畑も大喜びです。
 喜びのあまり田畑は、リトルトーキョーにあるレストランで水泳選手たちにごちそうします。肉を食らう選手たち。監督の松澤一鶴皆川猿時)には内緒です。四百メートルの大横田に
「次はお前だ。宮崎に続け」
 と、気合いを入れる田畑。そこへ嘉納治五郎と、大日本体育協会会長の岸清一(岩松了)もやってきます。
「これで招致にもはずみがついたでしょう」
 と、うそぶく田畑。しかしIOC総会に出席した嘉納に待ち受けていたのは、想像よりも厳しい現実でした。1940年の候補地には、すでに世界の九都市が名乗りを上げていました。ローマ、ヘルシンキバルセロナブダペスト、ダブリン、アレキサンドリアブエノスアイレスリオデジャネイロトロント、そして東京は十番目。完全に出遅れた形でした。特にイタリアはムッソリーニが熱心に動いています。独裁体制のもと、オリンピック誘致を進めていました。距離の問題に加え、満州の一件以来、日本の評判は落ちています。
「わずかに可能性があるとすればドイツ次第」
 と言ったのは岸会長でした。ドイツのヒトラーはかねてよりオリンピック無用論を説いていました。ヒトラーが首相になれば、1936年にドイツで行われるはずのオリンピックを返上する可能性が高く、その場合、最も準備が進んでいるローマが繰り上がり、1940年はほかの候補地になるかもしれない。ナチスが政権を取れば、1940年のオリンピックが、東京に転がり込んでくる可能性があるのです。嘉納は言います。
ユダヤ人を公然と差別するような男だぞ。そんな奴のお下がりなど、絶対に嫌だ。スポーツが政治に屈するなど絶対にいかん」
 嘉納が驚いた大砲の音も、アメリカが日本を敵国と想定した訓練でした。
 オリンピック村の宿舎では、十六歳の小池礼三(前田旺志郎)が鶴田義行大東駿介)に相談していました。女子選手が気になって仕方ありません。
「僕には刺激が強すぎる。全員悩ましい。練習中どこを見ていいかわかりません。眠れないし毎日夢にまで出てくるんです。ああ、女子のせいで全然調子が出ない。悩ましい」
 と、もだえまくるのです。
「落ち着け小池。それは健康な証拠じゃ。スポーツで発散するんだ」
 と、言い聞かせる鶴田。しかし小池には効果がありません。
「スポーツで発散できないモヤモヤだったあるんです」
 といって小池はトイレにこもるのです。
 監督たちはその頃八百メートルリレーの選考を行っていました。アンカーを決めようとします。
「大横田でいいよ」
 と、監督の松澤は言います。リレーと四百決勝は同日だが、大横田ならやってくれる。そこに大横田が訪ねてくるのです。
「腹が痛くて、薬いただけますか」
 田畑が駆けつけ、大横田を心配します。
「何か悪いものでも食べたんですかね」
 と、助監督が言います。田畑は心当たりがありました。松澤に内緒で牛鍋を食わせていたのです。医者に診てもらうと、大横田は胃腸カタルだと判明します。大横田は四百に集中させるとして、リレーには誰を出すか皆で考えます。高石勝男(斎藤工)との声も出ましたが、松澤は反対します。田畑も高石の出場を支持していましたが、松澤にたしなめられます。
「一種目も失わないんでしょ。全種目制覇して日本を明るくするんじゃないんですか」
 結局ほかの選手が選ばれます。
 八百メートルリレー決勝が行われ、日本が大差をつけて優勝します。世界新記録を出しました。
 四百メートル自由形決勝が始まります。スタート台に立つ大横田。リレーを辞退しての体力を温存しての出場です。ピストルが撃ち鳴らされます。選手が一斉に飛び込みます。会場は総立ち。しかし大横田にいつもの伸びが見られません。大横田は三位にまで追い上げます。ついに大横田は二位に並びます。追い上げていきます。最後の粘り。しかし大横田は体が崩れてしまうのです。
 大横田は銅メダルでした。日本の全制覇の野望はここについえたのです。インタビューで大横田は言います。
「試合に出られない者もある中で、自分は恵まれていました。それなのに。肝心なときに。期待にこたえられず」
 泣いてしゃべる大横田を高石が止めるのです。

 

『映画に溺れて』第130回 竜馬暗殺

第130回 竜馬暗殺

昭和五十年九月(1975)
京都 一乗寺 京一会館

 原田芳雄といえば、七十年代の若者にとって、憧れのヒーローだった。反体制がかっこよかったあの時代、原田が演じるのはアナーキスト、やくざ、はみだし刑事、無頼の浪人や渡世人。映画館の客席で、それらのアウトローたちに、いつしか同化している自分がいた。
 当時、原田芳雄主演のATG作品『竜馬暗殺』が観たくてたまらず、これは大阪の映画館では公開されなかったのか、あるいは短期間で知らないうちに終わってしまったのか。京都の三本立て映画館、宮本武蔵の決闘で有名な一乗寺にあった京一会館まで観に行った。
 竜馬と中岡慎太郎が土佐なまりで語り合う場面の面白さ。
 幕府が倒れたあと、結局、新しい権力者がそれにとって代わるだけなら、倒幕運動は成功といえるのか。竜馬はさらにその先、自分が権力の亡者にならないためにどうするのかと考え、それを中岡に語る。左翼学生が革命を語るように。
 貴様は近目のくせに、いつも遠くを見たようなことを言う。
 呆れる中岡慎太郎。演じるは石橋蓮司
 着物のふところから拳銃をのぞかせる竜馬。竜馬の汚い着物は、当時の若者の汚いジーンズそのものだった。
 朝早くから出かけた京都。この日に観た三本立て、『竜馬暗殺』のあとの二本は『新幹線大爆破』と『東京エマニエル夫人』で、もちろん三本とも観て、映画館を出たら外は夜だった。

竜馬暗殺
1974
監督:黒木和雄
出演:原田芳雄石橋蓮司中川梨絵松田優作桃井かおり田村亮、外波山文明、山谷初男田中春男、平泉征、川村真樹

 

『映画に溺れて』第129回 切腹

第129回 切腹

昭和五十年九月(1975)
大阪 道頓堀 朝日座

 江戸時代の初期、彦根藩井伊家の江戸屋敷を初老の浪人が訪ね、応対に出た武士に言う。自分は長らく浪人を続けているが、このまま惨めに朽ち果てるより、いっそ潔く腹を切って死にたい。そこで御当家の門前をお借りしたい。
 浪人は中に招き入れられ、用人から以前にも切腹を願い出た若い浪人がいたことを聞かされる。太平の世となり、幕府は多くの藩を取り潰し、江戸には浪人が溢れている。一応武士であっても仕官できなければ生活は苦しい。困窮した浪人のひとりがある大名屋敷の門前で切腹を乞うたところ、今どき立派な心がけと仕官がかなったという話が広まり、今度はゆすりまがいに切腹させろと迫ってわずかの金をせびる見下げはてた浪人が増える。井伊家にもそんな輩が現れたので、苦々しく思い、ならば本当に切腹させてやろうということになった。ところが、その若い浪人、武士の魂ともいうべき刀が竹光のまがいもの。それでも無理やり、竹光で腹を切らせると、もがき苦しんで浪人は死んだ。
 用人がそう言うと、初老の浪人、自分はそんなゆすりまがいの切腹ではなく、本当に腹を切るつもりだと平然としている。
 腹を切るについて、ひとつお願いがある。御当家は腕の立つ剣客ぞろいと聞いているので、ぜひその何某に介錯を頼みたい。ところがその家臣はどういうわけか出仕していない。もうひとりの家臣も休んでいる。で、この浪人が自分の身の上を語り始める。
 仕えている藩がつぶれて浪人になった。娘がいるが、その夫も浪人で、それでも娘夫婦に子供が産まれ、なんとか家族で助け合ってささやかに暮らしていた。ところが、娘が病気になり、娘婿はよほど金に困ったのか、武士の魂の刀も売りはらって。
 浪人の意地をかけた復讐が壮絶に展開される。
 まだ三十過ぎの仲代達矢が老け役の浪人を演じ、あわれな娘夫婦は岩下志麻石浜朗だった。原作は滝口康彦の短編『異聞浪人記』である。

切腹
1962
監督:小林正樹
出演:仲代達矢岩下志麻石浜朗三國連太郎丹波哲郎中谷一郎

 

『映画に溺れて』第128回 八百万石に挑む男

第128回 八百万石に挑む男

平成十三年六月(2001)
京橋 フィルムセンター

 

『大岡政談』で有名な天一坊事件である。
 賭場で銭をすった遊び人風の若者が、金の代わりにと短刀をぽんと投げる。賭場の用心棒赤川大膳がそれに目を止め、別室へ呼んで話を聞く。葵の紋の短刀とは穏やかではない。若者は御墨付まで所持しており、それにはこの者を自分の子と認めると書かれている。署名は紀州の徳太郎。後に兄の死で紀州藩主となり、とんとん拍子に江戸の将軍にまで昇りつめた八代吉宗公。その若い頃の署名らしい。
 若者は幼い頃に預けられていた寺で火災の際、その短刀と書付を持ち出していた。紀州家に女中に出ていた女が懐妊し、実家に帰って出産したが、産後のひだちが悪く、母子ともに死亡した。女の母親は嘆き悲しみ、どこからか孫にそっくりの子供を連れて来て育てていた。老婆が死亡したので、その子を寺で引き取り育てた。それがおまえだと言われたが、なんだか自分が本当の御落胤のような気がして、短刀と書付を持ち出して来たのだという。
 浪人の赤川大膳は同様の浪人である藤井右京や常楽院の住職天忠と相談し、大芝居を売って、この贋御落胤を売り出し、天下を取ろうと計画する。それに加わるのが元京の公家侍であった山内伊賀亮である。
 仰々しい行列を仕立てて江戸へ打って出、そこで幕府の老中松平伊豆守や町奉行大岡越前守と対決する。
 最後は宿に訪ねて来た小僧仲間の雲水に、あなたは本物だったが、和尚様がその身を気づかってわざと偽物だと作り話をしたのだと知らされ、将軍家の名誉と秩序のために、偽物として処刑される。というところが講談とは別の結末。
 市川右太衛門の伊賀亮、中村賀津雄の天一坊、河原崎長十郎大岡越前。脚本は橋本忍である。

 

八百万石に挑む男
1961
監督:中川信夫
出演:市川右太衛門、中村賀津雄、桜町弘子、河原崎長一郎、水島道太郎、仲谷昇柳永二郎山村聰河原崎長十郎

 

『映画に溺れて』 第127回 昨日消えた男

第127回 昨日消えた男

平成四年六月(1992)
池袋 文芸坐

 私は遠山の金さんが好きだ。江戸の町奉行と長屋の遊び人が同じ人間、今ならさしずめ東京都知事と場末のアパートに住む無職の男が同一人物。ありえない設定であるが、だからこそ面白い。
 若い頃、中村梅之助杉良太郎西郷輝彦高橋英樹らの演じる金さんを、再放送なども含めて、しょっちゅうTVで観ていたが、それはTVドラマの金さんである。
 映画館で金さんを観る機会は少なくて、新作などはまず出ない。だから名画座で古い金さんを観るのだが、今、思いつくのは尾上菊太郎主演『江戸の春遠山桜』、長谷川一夫主演『昨日消えた男』、片岡千恵蔵主演『はやぶさ奉行』、『昨日消えた男』のリメイクで『遠山の金さん捕物控 影に居た男』、市川雷蔵の『弁天小僧』では勝新太郎が脇役の遠山左衛門尉だった。
 戦前の昭和十六年に作られた『昨日消えた男』は、ダシール・ハメット原作のハリウッド映画『影なき男』の翻案で、江戸の裏長屋が舞台。
 ミステリだから、詳しく結末は言えないが、蛇蠍のごとく嫌われている大家の勘兵衛が殺される。大家に金を借りていて返すあてのない老いた浪人が怪しい。
 が、その浪人の娘に想いを寄せる若い浪人も怪しい。
 大金を持って帰ってきた易者も怪しい。
 が、一番胡散臭いのは遊び人の文吉である。ところが、意外なことに、この文吉が遠山左衛門尉なのである。
 長谷川一夫の遊び人文吉、いかにも江戸っ子らしい意地があり、それでいて、ところどころ知性がひらめき、女が黙っていても惚れてしまうような男っぽさを撒き散らしながら、決して下品にならない。町奉行の遠山になっていても、とぼけたユーモアが感じられる。
 原作は夫婦探偵ものなので、文吉のパートナーとなっていっしょに謎解きをする芸者が、当時まだ二十代の山田五十鈴であった。

 

昨日消えた男
1941
監督:マキノ正博
出演:長谷川一夫山田五十鈴徳川夢声高峰秀子、鳥羽陽之助、清川虹子

 

『映画に溺れて』 第126回 水戸黄門漫遊記

第126回 水戸黄門漫遊記

平成十五年五月(2003)
池袋 新文芸坐

 

 子供の頃から時代劇が好きだったが、学生時代に講談社から出ている文庫本の講談全集に出会い、真田十勇士由井正雪大岡越前天一坊、水戸黄門、河内山、遠山の金さん、鼠小僧などの時代劇が講談と深くつながっていることを知る。史実を虚構でふくらませ、面白おかしく語るのが講談なのだ。
 特に大岡越前水戸黄門、遠山の金さんなどはしょっちゅうTVで放送されていて、馴染み深かった。
 御三家水戸の藩主であった中納言徳川光圀が隠居して諸国を回るというのは、明治に作られた講談で、実際には諸国を回ったりはしなかったが、小説、映画、TVと大活躍で、おそらく水戸黄門の名を知らない人はいないだろう。
 映画では月形龍之助、TVでは東野英治郎の当り役だが、私が好きな黄門は実は森繫久彌なのだ。
 森繁の『水戸黄門漫遊記』は型通りの勧善懲悪世直しの旅ではなく、まだ枯れていない森繁の光圀が、宝田明の助さん、高島忠夫の格さんを供に世情を楽しむ旅に出る。箱根の関所役人の前で身分を明かしたために、せっかく三島女郎と楽しもうという矢先に本陣に案内されてしまう。ここを抜け出し遊郭へと向かうが、今度は代官所から御老公を厚くもてなすようにとの達しがあり、老公と間違えられた江戸の海苔屋の隠居が厚遇され、本物の黄門一行にはろくな女が回ってこない。邪魔が入って浮気ができない社長シリーズと同様の展開。海苔屋の隠居が社長シリーズ常連の三木のり平、のり平だから海苔屋という洒落なのだ。
 大井川の水嵩が引くのを待つ間、賭場で身ぐるみ剥がれて、裸でうろうろしているところを謎の女に助けられるが、どうやらこの女は公儀の隠密らしい。最後は尾張藩でのお家騒動に出くわし、若君暗殺を謀る悪家老一味を退治する。下世話ながら風格もある森繁ならではの味わいある黄門漫遊記となった。

水戸黄門漫遊記
1969
監督:千葉泰樹
出演:森繁久彌宝田明高島忠夫中村勘九郎中村是好、十朱久雄、東郷晴子三木のり平萩本欽一坂上二郎池内淳子草笛光子

 

『映画に溺れて』第125回 修羅

第125回 修羅

昭和五十六年十一月(1981)
池袋 文芸地下

 

 四世鶴屋南北忠臣蔵があまり好きではなかったのだろうか。有名な『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門は塩冶判官(史実の浅野内匠頭)の家臣でありながら、不義士の極悪人である。
 同じ南北の『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』もまた、忠臣蔵の裏話になっている。
 薩摩源五兵衛は塩冶家の浪人不破数右衛門の世をしのぶ姿。彼はかつて不始末で百両の御用金を紛失し主家を追われたが、亡君の仇討ちに馳せ参じるため、なんとか百両の金を工面する。
 芸者の小万とはいい仲だが、討ち入りを控えて別れるつもりだ。ところが小万がいやな男に身請けされそうになっていると知らされる。そこで惚れた女のために大切な百両を渡してしまうのだ。
 実は小万には三五郎という悪い亭主がいて、身請け話は狂言であり、源五兵衛はむざむざ女に百両をだまし取られたのである。三五郎夫婦には赤ん坊までいる。
 それを知った源五兵衛の大殺戮。怒り狂って、小万の目の前で赤ん坊をなぶり殺しにし、小万の首を切り落として、三五郎に見せる。
 どうして三五郎夫婦が源五兵衛の金をだまし取ったのか。三五郎の元主人が塩冶家の家臣で、彼は元主人のために討ち入りの支度金百両が必要であり、女房を使って源五兵衛をたぶらかし、金を奪ったのだ。三五郎の主人の名前が不破数右衛門だと判明する。数右衛門はこの殺戮の罪を従僕の老人に被せ、見事討ち入りに加わり、義士として本懐をとげる。
 江戸の庶民もまた、忠臣蔵喝采を送る反面、それを茶化したパロディをも楽しんでいたのだろう。源五兵衛が中村賀津雄、三五郎に状況劇場唐十郎という異色の組み合わせだった。

 

修羅
1971
監督:松本俊夫
出演:中村賀津雄、唐十郎、三条泰子、今福正雄、観世栄夫