日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第187回 鳥

第187回 鳥

平成二十四年一月(2012)
府中 TOHOシネマズ府中

 サンフランシスコの町並みを急いで歩く美女。彼女はどこへ行くのかというと、鳥専門のペットショップである。ここで九官鳥を注文するのだが、店員が席をはずしている間に男の客が来て、彼女を店員と間違えてラブバードのつがいを注文し、彼女もいたずら半分に店員のふりをする。
 女は新聞社の社長令嬢。男は弁護士。この男女、これがきかっけとなって、最初は喧嘩腰、でも心の底ではお互い惹かれているというまるで古風なラブコメディのパターン。彼女は週末、ラブバードを携えて、海辺の町の彼を訪ね、彼は驚くが、うれしさを隠せず、自宅での夕食に招待する。
 美人の社長令嬢を見て、母親は敵意むき出し。彼が独身なのは、この母親のせいかな。というような恋愛喜劇風の展開に、だんだんと鳥たちの暗い影が。
 あまりに有名な恐怖映画。スズメやカモメやカラスの群れが人を襲う。令嬢役のティッピ・ヘドレン、まるでバービー人形のようで、映画の中でも海辺の町を彼女が歩くと、周囲の男たちはその美しさにみんな振り返る。
 彼女の役名はメラニーだが、このとき、ヘドレンは結婚して娘がいた。後の女優メラニー・グリフィス。役名が娘の名前と同じというのはただの偶然だろうか。
 弁護士の母親がジェシカ・タンディ。『ドライビング・ミス・デイジー』に主演したお婆ちゃん。
 それにしても、ヒッチコック監督は怖がらせるのがうまい。後半はもう、はらはらどきどきがずっと続く。実際には、鳥が人間を襲うようなこと、ほとんどないそうだが、何かのきっかけでそうならないとも限らない。
 一九七〇年代の初期、私が高校生の頃、早川書房SFマガジン手塚治虫の『鳥人大系』が連載されていて、毎月楽しみに、書店でそこだけ立ち読みしたことを思い出す。

 

鳥/The Birds
1963 アメリカ/公開1963
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ロッド・テイラー、ティッピ・ヘドレン、ジェシカ・タンディスザンヌ・プレシェット、ヴェロニカ・カートライト

 

『映画に溺れて』第186回 アラクノフォビア

第186回 アラクノフォビア

平成三年六月(1991)
池袋 文芸坐

 ファーストシーン、昆虫学者が南米の奥地で虫を採集しており、未知の蜘蛛を発見する。同行のカメラマンが蜘蛛に襲われるが、死因が判明しないまま、死体は棺に納められ彼の故郷であるアメリカの田舎町へと送られる。
 その直後から、町で住民の急死事件が相次ぐ。
 都会から移住した新任の医者が不審を抱き、犠牲者のひとりが蜘蛛に噛まれたことから、遺体を解剖に回すと、毒性の反応が認められる。
 医者は蜘蛛の権威である昆虫学者に調査を依頼する。これが冒頭の学者で、南米で採取した毒蜘蛛の同類が原因と判断。生命力が強く猛毒を持った蜘蛛がカメラマンの棺に紛れて、この田舎町で繁殖していたのだ。
 ただちに害虫駆除の専門家が呼ばれ、医者、昆虫学者とともに親蜘蛛を追い詰め、ついに燃え上がる地下室の炎の中で親蜘蛛は仕留められる。
 この映画を観たとき、同じようなストーリーがあったことを思い出した。
 そうだ。吸血鬼ドラキュラだ。
 南米のジャングルはトランシルヴァニアであり、毒蜘蛛は吸血鬼である。だからこの映画の蜘蛛は死体の血をひからびるまで吸いつくす。ドラキュラが棺に眠ったまま船に紛れてロンドンにやってきたように、毒蜘蛛はカメラマンの棺に紛れ込んでアメリカの田舎町へと現れる。
 次々と襲われる住人。毒蜘蛛を追い詰める昆虫学者と駆除業者は吸血鬼を追い詰めるヴァン・ヘルシング教授なのだ。
『アラクノフォビア』は『吸血鬼ドラキュラ』とほぼ同じストーリーだった。
 いまや吸血鬼にはらはらする人は少なかろうが、この新手の蜘蛛映画は手に汗握るに充分なほど見せてくれる。下手なオカルト映画よりもよほど怖い。世の中に蜘蛛や蛇の嫌いな人は多いが、アラクノフォビアとは蜘蛛恐怖症のこと。

 

ラクノフォビア/Arachnophobia
1990 アメリカ/公開1991
監督:フランク・マーシャル
出演:ジェフ・ダニエルズ、ハーレイ・ジェーン・コザック、ジョン・グッドマンジュリアン・サンズ、ヘンリー・ジョーンズ

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第38回 長いお別れ

 昭和13年(1938)。日本スポーツ界は嘉納治五郎役所広司)という大黒柱を失いました。
 田畑政事(阿部サダヲ)は、生前の嘉納から、ストップウォッチを託されていました。そのストップウォッチは動いていたのです。
 嘉納の棺に、元人力車夫の清さん(峯田和伸)が駆け寄ります。
「おい、なんだよ。俺たちにオリンピック見せてくれるんじゃねえのかよ」
 皆は車に積まれた嘉納の遺体が出発するのを見守ります。田畑はポケットから、ストップウォッチ出して見入るのです。
 時は昭和36年(1961)に移ります。五りん(神木隆之介)が病室で、昔、父親が満州から送った絵はがきを眺めています。
志ん生の『富久(とみきゅう)』は絶品」
 と、書かれています。その志ん生は、五りんのそばで寝ています。読売巨人の祝勝会に呼ばれ、その余興の席で倒れてしまっていたのでした。
 舞台は再び昭和13年に戻ります。田畑は嘉納をしのぶ酒の席で吐き捨てます。
「ずるいよ、まったく。さっさと死にやがって」田畑は立ち上がって叫びます。「やりゃあいいんでしょう。嘉納治五郎が、いかに偉大で、めんどくさかったか、証明してやりますよ」
 と、田畑は皆にストップウォッチを見せつけて、席を立つのです。
 田畑は、オリンピック東京大会組織委員会で張りきります。聖火リレーのコースを説明します。しかし陸軍次官は「聖火」ではなく、「神火」を提案します。出雲大社伊勢神宮などを巡り、明治神宮を目指そうというのです。東京市長は駒沢競技場の建設を提案します。しかしそれには鉄骨が足りません。兵器製造には、鉄が何より貴重なのです。陸軍次官はいいます。
「いっそ、木でつくったらいかがですかな」
 委員会が終了し、田畑や福島正道(塚本晋也)が話していました。福島は、IOC総長のラトゥール氏から手紙が来たことを知らせます。それによると、イギリスとフランスが、東京オリンピックの正式ボイコットを申し出たということでした。
「返上しよう」
 と福島はいいます。福島は総理大臣に電話をしようとします。直談判して、政府による中止決定に持っていこうとします。田畑はあわててその電話を押さえます。福島はいいます。すべては私の独断。黙認してくれるだけでいい。田畑はいいます。
「やらないってことはゼロじゃんねー。何も学ばない。何も残らない。招致の苦労も水の泡。あんたが熱出してぶっ倒れて、ムッソリーニに会ってまた倒れて、それも無駄。いいのかなあ。加納さんはやって欲しいんじゃないのかなあ。俺はいいけど嘉納はどうかなあ」
「加納さんはもういません」
 という福島に対して、田畑はストップウォッチを出して見せます。
「いるんだよ、ここに。動いてるんだよ、ストップウォッチが。気持ち悪くないかね。腰の曲がったじじいがよ。手ぶらでエジプト行って、年下の西洋人にぼろくそ言われてつるし上げられて、それでも守り通したオリンピック」田畑は福島にストップウォッチを突きつけます。「いいのかな、止めちゃって」
 福島は穏やかに田畑にいいます。
「それは君が持っていたまえ。機が熟せば、いつかやれるさ。東京オリンピック
 福島は受話器を取ります。田畑はそれを止めることが出来ませんでした。
 こうして7月14日。政府はオリンピックの中止を決定するのでした。福島はラトゥールに手紙を書いています。
「親愛なるラトゥール伯。日本中で、最も評判の悪い男になる危険を冒して、東京オリンピックの中止を政府に働きかけました。総会の席上、私の両隣には、誰も座ろうとしなかった。売国奴、非国民と罵られても、私は自分の取った行動を後悔してはいない。返上が半年遅れたら、どの国でも開催できない」
 田畑は神宮の競技場に来ていました。金栗四三中村勘九郎)が走るのを見つけて声をかけます。金栗は手をあげて、応え、走り去ります。田畑は走って金栗の前に立ちふさがります。
「もう走らんでいい。金栗さん。頼む。走らんでくれ」
 金栗は田畑のいおうとすることを察します。しかし弟子の小松 勝(仲野太賀)にはどう言ったらいいのかと田畑に問う金栗。田畑は走っている小松に向けて叫びます。
東京オリンピックは中止だ。おしまい」
 あきれて田畑を見る金栗。田畑と金栗は、小松のところに走ります。しかし小松にそれほど失望した様子は見られません。東京でオリンピックが行われなくても、次に行われることが濃厚な、ヘルシンキの大会に出場すればいい。
 田畑は仕事先の朝日新聞社で、オリンピック中止の記事を書き記します。そして嘉納の遺品であるストップウォッチを叩き壊そうとするのです。しかし田畑は手を止めます。そっと動いたままのストップウォッチを引き出しにしまうのです。
 舞台は再び昭和36年の病室に移ります。志ん生は意識を取り戻していました。オリンピックを題材に落語を披露している五りんは、ハリマヤスポーツと名を変えた、ハリマヤ製作所をたずねて取材を行っていました。そこで五りんの父親がオリンピックを目指していたこと、しかし兵隊にとられ、満州に行くことになったことなどを聞いてきました。五りんの父親は、満州で亡くなっていたのです。志ん生はその頃、慰問で満州に行っていました。当時の様子を聞こうとする五りん。志ん生はとぼけます。
 1939年(昭和14年)、ナチス・ドイツ軍はポーランドに侵攻。これに対し、イギリス、フランスが宣戦布告し「第二次世界大戦」が勃発します。もはや世界中が戦争当事者となったのです。
 金栗は小松に話しかけます。これからどうする。ヘルシンキ大会もおそらく中止だ。熊本に帰ったらどうか。小松は帰ろうとはしません。金栗の妻スヤ(綾瀬はるか)が、小松が帰らない理由は、オリンピックだけではないと言い出します。
「ねえ、リクちゃん」
 と、スヤはスホーツを愛したシマの娘、リク(杉咲 花)に呼びかけます。リクはミシンを踏みながら動揺します。いたたまれなくなった小松は、走りに外へ飛び出すのです。
「リクちゃん。行かんでよかと」
 と、スヤはリクの肩に手をかけます。リクも外に飛び出し、自転車で小松を追うのです。リクは小松に追いつきます。小松は叫びます。
「リクちゃん。俺と一緒になってくれんね」
 リクは無言で自転車をこぎます。坂を走り下っていくのでした。
 こうして小松とリクの祝言が行われることになりました。
「で、次の年、僕が産まれました」というのは昭和36年の五りんです。「東京にオリンピックが来るはずだった、昭和15年、秋」
 五りんの本名は「金治」でした。「金」は金メダルからとったのか、金栗からとったのか。「治」は嘉納治五郎の文字をもらったものだと思われました。
 昭和16年12月8日。日本軍の真珠湾攻撃により「太平洋戦争」が始まります。
 昭和18年になると兵力不足が深刻化し、大学生までもが徴兵対象となります。学徒出陣です。小松も戦争に行くことになります。
 出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開かれます。オリンピックを呼ぶために、嘉納治五郎が建設したスタジアムから、学生が戦地へと送り出されたのでした。
 田畑もそのスタジアムにいました。オリンピック反対論を唱えた、元同僚の政治家、河野一郎桐谷健太)を見かけます。田畑は河野を追い、肩をつかんで振り向かせます。
「これで満足かね。河野先生」言葉の出ない河野に向かって田畑はいいます。「俺はあきらめん。オリンピックはやる。必ず。ここで」

『映画に溺れて』第185回 デイブレイカー

第185回 デイブレイカー

平成二十三年七月(2011)
新橋 新橋文化

 ゾンビ映画が出て来るまでは、怪物に襲われた被害者が自ら加害者の怪物に転じるのは吸血鬼映画であった。吸血鬼に血を吸われると、吸われた者も吸血鬼になる。吸血鬼は人の血を吸ってさえいれば、歳をとらずに生き続ける。弱点は太陽の光で、これを浴びると焼け死ぬので、昼間は暗い場所で眠り、夜になると活動する。
 もしも、吸血鬼が退治されず、仲間をどんどん増やしていったらどうなるか。それが『デイブレイカー』である。
 近未来、不老不死の吸血鬼になりたがる者が増えて、世界人口の大半が吸血鬼となっている。地下鉄のホームに立つ人々はみんな吸血鬼。夜になると出勤し、夜明け前に帰宅する。夕方、出社前にコーヒーショップで血液入りコーヒーを買う列。政治家も科学者も企業のトップも警察や軍隊も、そして一般の市民たちも、みんな吸血鬼なのだ。
 企業で人工血液の研究をしている血液学者が主人公。もちろん彼も吸血鬼である。世界中から吸血鬼でない人間が激減し、血液が不足しており、血に飢えた吸血鬼は知性をなくし、吸血鬼の血を吸う。同胞を襲った吸血鬼は凶暴な野獣となってしまうのだ。政府は野獣化した吸血鬼を検挙し、太陽にさらして処刑する。
 人工血液は完成せず、血液企業が捕獲し飼育場で眠らせている人間たちの数も減り、深刻な社会問題となっている。
 そんな世界で主人公は隠れ住む非吸血鬼の人間グループと出会い、吸血鬼社会を揺るがす発見をする。
 キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』とリチャード・マシスンの『アイアムレジェンド』を合わせたような画期的な近未来吸血鬼SF映画である。

 

デイブレイカー/Daybreakers
2009 アメリカ・オーストラリア/公開2010
監督:マイケル・スピエリッグピーター・スピエリッグ
出演:イーサン・ホークウィレム・デフォーサム・ニール、クローディア・カーヴァン、マイケル・ドーマン、イザベル・ルーカス

 

 

『映画に溺れて』第184回 処女の生血

第184回 処女の生血

平成七年七月(1995)
六本木 俳優座劇場

 なかなか楽しいドラキュラのパロディ。ルーマニアのドラキュラ伯爵は闇に君臨する魔王ではなく、ただの哀れな吸血病患者。処女の血を吸わないと長生きできない。最初の場面では白髪を染めて化粧している。一族はまさに死に絶えんとしている。
 ルーマニアでは顔を知られているので、犠牲者を調達できず、仕方なしにイタリアへと旅立つ。イタリアはカトリックの国だから、娘は結婚するまでは処女だろう。
 落ちぶれた侯爵の屋敷を訪れ、四人の娘を見初める。長女は年増の行かず後家だから、これは除外して、次女に求婚する。と、これが庭男と関係している。知らずに血を吸ったために、バスルームで胸を抑えて吐く場面では客席が大爆笑。三女の血を吸うと、これもまた庭男が手をつけており、吸血鬼が気の毒になるからおかしい。
 四女はまだ十四才で、これなら処女。若すぎるが、手先にした次女と三女を使ってこれを襲おうとするが、庭男がいち早く察して、吸血鬼の餌食にするよりはと理屈をつけて、その処女を奪ってしまう。
 大年増の長女が実は処女で、その血を吸い、少しは元気を取り戻したドラキュラは、結局、庭男の農具でばらばらに切り刻まれて、杭を打ち込まれ、哀れな最期をとげる。
 庭男のジョー・ダレッサンドロはいかにも下品で軽薄なチンピラタイプ、それにひきかえドラキュラのウド・キアは知的で気品がある。だから、せっかく吸血鬼が退治されたというのに、吸血鬼の方に感情移入してしまうのだ。
 アンディ・ウォーホルの製作で、落ちぶれた侯爵がヴィットリオ・デ・シーカ、村人がロマン・ポランスキーと名監督が出演。
 この映画の前作『悪魔のはらわた』ではフランケンシュタイン男爵を演じたウド・キアであるが、この後、いくつかの吸血鬼映画にも出ている。よほど吸血鬼が気に入ったのか。

 

処女の生血/Blood for Dracula
1974 アメリカ/公開1975
監督:ポール・モリセイ
出演:ジョー・ダレッサンドロウド・キアヴィットリオ・デ・シーカロマン・ポランスキー

 

第183回 血を吸う人形 幽霊屋敷の恐怖

第183回 血を吸う人形 幽霊屋敷の恐怖

平成二年五月(1990)
大井 大井武蔵野館

 タイトルに「血を吸う」とあるが、吸血鬼は出てこない。
 行方不明になった兄の消息を求めて、妹が兄の婚約者の屋敷を訪ねる。婚約者は交通事故ですでに死亡しており、兄の行方は依然としてわからない。
 ところが、死んだはずの婚約者が実は生きていて、どうやら人を襲っている様子。その真相はいかに。
 実は事故で瀕死の状態のとき、医者が彼女に催眠術をかけ、死なずに生き続けると暗示を与えた。すると肉体が死んでも、本人は死んだと思わず、生きて動いて、人を殺し続けているのだ。
 わあ、なんて気持ち悪い。
 配役がとてもいい。兄が中村敦夫、妹が松尾嘉代、妹の恋人が中尾彬、そして死んでいながら人を殺す婚約者が小林夕岐子。
 一九六〇年代末、ミニスカートが大流行して若い女性はほとんどみんなミニスカートだった。だから、当然ながら映画の中の松尾嘉代のスカートも短い。つい、映画と関係ないそんなところに見惚れてしまう私であった。
 この映画を観たあと、星新一ショートショートの怖い一編を思い出した。
 ある精神科医に患者が「自分は生きている気がしない。どうも死んだように思う」と訴える。医者はそれが患者の妄想に過ぎないことを説明する。
 患者が納得して帰って行ったとき、医者はふと、自分が旅先の旅館で寝ていたことに気づく。
 ああ、今のは夢だったのか。そういえば、このあたり、自殺の名所だったな。
 そのとき、部屋の外で何か大きなものをひきずるような音が。

 

血を吸う人形 幽霊屋敷の恐怖
1970
監督:山本迪夫
出演:中村敦夫、小林夕岐子、松尾嘉代中尾彬南風洋子

 

『映画に溺れて』第182回 血を吸う薔薇

第182回 血を吸う薔薇

平成二年五月(1990)
大井 大井武蔵野館

 山本迪夫監督の血を吸うシリーズを三本続けて観たのが大井武蔵野館だった。『血を吸う人形 幽霊屋敷の恐怖』『血を吸う眼 呪いの館』『血を吸う薔薇』である。
 このうち『血を吸う眼』と『血を吸う薔薇』が岸田森主演の吸血鬼映画で、ドラキュラの日本版といってもいい。ふたつの作品にはつながりはないが、どちらも過去のドラキュラ映画のような黒づくめ、黒いマントで岸田森が女を襲って生き血をすするのだ。
 特に『血を吸う薔薇』が古風な怪談で、私は好きである。
 田舎町の女子大に若い教師が赴任してくる。その夜、彼は死んだはずの学長夫人を夢に見て襲われそうになる。町の医者が民話の収集家で、この地に伝わる食人鬼伝説を話して聞かせる。
 春休みになり、寮に残った女子学生が何者かに襲われるが、この正体が学長であり、吸血鬼というわけだ。
 鎖国時代、港に流れ着き村人たちから虐殺された白人宣教師が鬼となり、村人の生き血を吸い、若い肉体に取りついて生き続けている。この女子大の初代学長も、今の岸田森も吸血鬼の成れの果てで、次の新しい肉体に選ばれたのが黒沢年男の新任教師だった。
 吸血鬼役の岸田森はもう、ほんとの吸血鬼かと思うほどの鬼気迫る熱演。品があって知的で、しかも病的なイメージ。特異な個性の持ち主だったが、四十代で亡くなったのは、なんとも惜しい。
 当時、大井武蔵野館はこの手の変な映画を次々に上映しており、もう一本、ここで和製ドラキュラ映画を私は観ている。天知茂が主演の『女吸血鬼』で、島原の乱の時代、天草四郎の下で戦った切支丹武将が神を呪って吸血鬼となり、現代まで生き続けて人を襲うというもの。こちらの監督は中川信夫だった。

 

血を吸う薔薇
1974
監督:山本迪夫
出演:岸田森黒沢年男、望月真理子、太田美緒、田中邦衛

 

『映画に溺れて』第181回 ドラキュラ‘72

第181回 ドラキュラ‘72

昭和四十七年八月(1972)
大阪 難波 なんばロキシー

 以前、東中野のミニシアターで有名なベラ・ルゴシの『魔人ドラキュラ』を観たのだが、これが期待したほど面白くなかった。映画そのものはよくできている。ただ、私にとって、ドラキュラはやっぱりクリストファー・リーなのだ。
 私が子供の頃からTVでドラキュラ映画は放送されていて、棺桶からすっと立ち上がるクリストファー・リーのドラキュラ、かっこよかった。化け物でありながら、気品がある。なにしろ、トランシルバニアの貴族、伯爵なのである。
 私が最初に映画館で観たドラキュラは英国ハマープロのシリーズ中でも異色作の『ドラキュラ‘72』だった。
 最初の導入部、十九世紀末、ドラキュラとヴァン・ヘルシング教授の死闘。ドラキュラはついに倒され燃え尽きる。ドラキュラの従僕がその灰をそっと拾いあげ、空を見上げると、飛行機が飛んでいる。
 場面は百年後の一九七二年に移る。オカルトマニアのヒッピーたちが、廃屋で黒魔術に興じている。そこにかつてのドラキュラの従僕だった男が現れ、血の儀式に手を貸すふりをして、ご主人様を甦らせる。
 若い女性を襲う猟奇殺人が起こり、スコットランドヤードが捜査に乗り出す。
 百年ぶりに甦ったドラキュラと対決するのがヴァン・ヘルシング教授の孫で吸血鬼研究家の老教授、これがやはりピーター・カッシング。ドラキュラは老教授の孫娘を襲い吸血鬼にすることで復讐を果たそうとする。
 クリストファー・リーはドラキュラが当たり役だが、他にフランケンシュタインの怪物もミイラ男も演じている。さらにシャーロックの兄のマイクロフト・ホームズも。
 現代に甦るドラキュラはその後、ジェラルド・バトラー主演の『ドラキュリア』(原題ドラキュラ2000)が、ほぼ同様の内容。こちらのヴァン・ヘルシング教授はクリストファー・プラマーだった。

 

ドラキュラ‘72/Dracula A.D. 1972
1972 イギリス/公開1972
監督:アラン・ギブソン
出演:クリストファー・リーピーター・カッシング、ステファニー・ビーチャム

 

新書専門書ブックレビュー7

新書専門書ブックレビュー7

『「ひとり」の哲学』(山折哲雄、新潮選書)

 

「ひとり」の哲学 (新潮選書)

「ひとり」の哲学 (新潮選書)

 

 

 本年9月15日に総務省が発表した「統計トピックスNo.121」(統計からみた我が国の高齢者)によると、65歳以上の高齢者は3,588万人で、前年より32万人増加し、過去最多となりました。総人口に占める高齢者の割合は28.8%と、前年(28.1%)に比べ0.3ポイント上昇し、過去最高となりました。
 男女別にみると、男性は1560万人(男性人口の25.4%)、女性は2028万人(女性人口の31.3%)と、女性が男性より468万人多くなっています。
 高齢者の総人口に占める割合を比較すると、日本(28.4%)は世界で最も高く、次いでイタリア(23.0%)、ポルトガル(22.4%)、フィンランド(22.1%)などとなっています。
 人口に占める高齢者の割合が21%を超えると「超高齢社会」(WHO(世界保健機関)の定義)ということですので、日本は確実に「超高齢社会」ということができます。
 ちなみに、こちらは内閣府ですが、「平成29年版高齢社会白書」によれば、65歳以上の一人暮らし高齢者の増加は男女ともに顕著だそうです。昭和55(1980)年には男性約19万人、女性約69万人、高齢者人口に占める割合は男性4.3%、女性11.2%でしたが、平成27(2015)年には男性約192万人、女性約400万人、高齢者人口に占める割合は男性13.3%、女性21.1%だそうです。

 ところで、「日本の男性を蝕む『孤独という病』の深刻度」(注1)という記事によれば、我が国は「非婚化が進み、生涯未婚率は2020年には男性が26.0%、女性は17.4%、2030年には男性が29.5%、女性は22.5%まで上昇するとみられ、男性の約3人に1人、女性の4人に1人は生涯独身という時代を迎えようとして」おり、「過度な一人ぼっち信仰が、結果的に、日本人を「孤独」へと駆り立てているところがあるような気がしてならない」と述べて、世界で最も恐れられている「伝染病」は、「孤独」であり、「社会的孤立が私たちを死に追いやる」「慢性的な孤独は現代の伝染病」等々、欧米のメディアにはこうした見出しが連日のように踊っているといいます。(注2)
 定年退職年齢は、60歳から65歳になりつつありますが、それでも定年退職後の有り余る時間を私たちは「孤独」とどう向き合えば良いのでしょうか。
 その解の一つになりそうなのが、本作『「ひとり」の哲学』なのです。

 

本作は、まず、「孤独」と「ひとり」の違いを明確にすることから始めます。
戦後の高度経済成長によって日本は豊かになりました。しかしながら、そのことにより「ひとりで生きるという意識が、われわれのあいだからしだいに消え失せていった」(8ページ)のではないかというのです。
 世間では、孤立死孤独死など、あたかも「孤独」が悪いことのように言われることが多いのですが、「超高齢社会」になれば、ひとりで生きるほかない領域が、空間的にも時間的にも広がってきているはずなのです。(12ページ)

 ところで、「ひとり」という大和ことばは、すでに『万葉集』や『源氏物語』以来、千年の歴史をもっています。(13ページ)
 ということは、「ひとり」についての考え方も千年の歴史があるということになります。その歴史の中で画期となったのが13世紀であり、親鸞道元日蓮法然、一遍という鎌倉新仏教の創始者のそれぞれの「ひとり」の考え方を紹介し、当時のこうした思想が、「ひとり」の「存在を核とする人間観の誕生を準備し、その世界観の転換を促した」(201ページ)というのです。

 しかしながら、明治維新後の近代個人主義の受容、あるいは近代的な自我確立の試み、さらには、戦後の「個」の自立と「個性の尊重」という掛け声のもとに広まっていくイデオロギーによってヨコの人間関係だけを意識しつづけることとなり、タテの関係を忘失した結果、横並び平等主義とともに身近な第三者と自分を比較する癖がついてしまいました。その結果、自己愛の個が蔓延し、孤独な個の暴走する姿が巷にあふれるようになり、「いつのまにか、個の自立、個性の尊重という観念を空洞化させて」「人間関係の網の目をズタズタに引き裂いてしまった」のです((206~214ページ)。

 それはなぜかというと、個とか個性という言葉が、「西欧近代社会がつくりだした新しい理念」(214ページ)であり、その理念を「日本の伝統的な『ひとり』の価値観と照らしあわせ、それこそ真剣に比較してみる作業をほとんど完全に怠ってしまったから」(同)だといいます。
 わが国では「ひとり」という「大和ことばが、まさに『個』にあたる固有の場所に鎮座して」(215ページ)いました。「『個』として自立することと、『ひとり』で生きていく覚悟はけっして矛盾するものではなかった」(231ページ)のです。

 ひとりで立つのは、「けっして孤立したまま群衆の中にまぎれこむことではない、無量の同胞の中で、その体熱に包まれて生きる」ことであり、「太古から伝わるこの国の風土、その山河の中で、深く呼吸して生きる」のであり、「垂直に広がる天地の軸を背景に、その中心におのれの魂を刻み込んで生きる」のであり、「混沌の深みから秩序の世界を見渡し、ひるがえって秩序の高みから混沌の闇に突入する気概をもって生きる」ことであり、「その終わりのない『こころ』のたたかいの中から、『ひとり』の哲学はおのずから蘇ってくるはず」であり、「そのときはじめて、われわれ人間同士の本質的な関係が回復されるにちがいない」と結びます。(233ページ)
 本作を読むと、わが国では、古来より、孤独に生きるのではなく、「ひとり」で生きるのが当たり前のことのように思えてきます。ここに「孤独病」を克服する哲学がありそうな気がするのですが、「哲学」だけあってその内容はかなり難しいです。
とはいいながらも、親鸞道元日蓮法然、一遍という鎌倉新仏教の創始者の作者流の紹介を読むだけだけでもけっこう面白いです。

(注1) 東洋経済ONLINE(9月26日版)https://toyokeizai.net/articles/-/203862
(注2) 上記は、岡本純子さんの記事で、最後に「定年後の長い時間に必要なのは『終わるための活動』ではなく『元気にはつらつと生きていくための活動』であるはず」で、そのためには、「『一人』を楽しみながらも、『孤独』を過剰にロマン視したり、畏怖するのではなく、適度に怖れる必要があるのではないか。また、40代、50代の内から、将来的な『孤独』について考え、その対策をしておくことも大切だろう」とし、『世界一孤独な日本のオジサン』(角川新書、岡本純子)を紹介しています。
(注3) 本作は、親鸞道元日蓮法然、一遍という鎌倉新仏教の創始者の紹介でもあります。そのため、本ブログで取り上げました。
(注4) 括弧の数字は、本作のページ数を表します。

 

『映画に溺れて』第180回 ライオン・キング

第180回 ライオン・キング

令和元年八月(2019)
新所沢 レッツシネパーク

 

 一九九四年のディズニーアニメーション『ライオン・キング』が公開されたとき、手塚治虫の『ジャングル大帝』との類似が話題になった。たしかに似ている。
 それはさておき、昨今のCGの進歩は著しい。
 ディズニーはかつての自社アニメーションの名作を有名俳優を使って次々と実写リメイクしており、『ライオン・キング』もかと思った。が、人間の俳優は登場しない。すべてが動物である。生の動物をいくら調教しても、あれだけのドラマは演技できないし、大量の野生動物、ライオン、ハイエナ、象、キリン、ヌーの暴走、空飛ぶ鳥を集めるのも不可能である。つまり『ライオン・キング』の実写リメイクは、実写と見紛うCGで動物たちを描いて、本物のように見せているのだ。
 ドラマそのものは前回のアニメと同じである。ライオン王の息子が叔父の悪だくみで父を殺され、放浪し、やがて国に戻って叔父と対決する。『ハムレット』の動物版である。
 すごいのは、すべてアフリカにいる野生のライオンやその他の動物たちの自然な動きを再現していること。本物以上に本物なのだ。まるでドキュメンタリーの『野生の王国』や『ネイチャー』を見るようなリアルさ。これには心底参った。
 かつて『ジュラシックパーク』の恐竜の群れに驚いたものだが、CG技術がこれだけ進歩すれば、SFやファンタジーだけでなく、ごく普通の日常ドラマの場面さえ、本物そっくりに作れるだろう。風景のロケもいらず、室内のセットもいらず、衣裳や小道具もいらず、やがては高いギャラの俳優もいらないということになりかねない。
 ジョン・ファブロー監督は『アイアンマン』では監督しながらハッピーの役で出演。その流れで『アベンジャーズ』や『スパイダーマン』などにも同じハッピー役で出ている。そういえば、『アベンジャーズ エンドゲーム』はマーベルキャラクターを演じるスター俳優が総出演、人間以外の場面はほとんどCGだった。ひょっとして人間の俳優も何人かはCGかも、と思わせるような時代になってしまった。

 

ライオン・キング/The Lion King
2019 アメリカ/公開2019
監督:ジョン・ファブロー
CG(声)ドナルド・グローヴァーセス・ローゲンキウェテル・イジョフォー、ビリー・アイクナー、ビヨンセ・ノウルズ=カーター、ジェームズ・アール・ジョーンズ