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書評『梅と水仙』

書 名   『梅と水仙
著 者   植松三十里
発行所   PHP研究所
発行年月日 2020年1月14日
定 価    ¥1800E

 

梅と水仙

梅と水仙

 

 

 維新直後の明治4年(1871)11月12日、横浜から出発した岩倉遣外使節団一行の中に、のちに女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立することになる最年少(満年齢で6歳と11カ月)の津田梅子(つだうめこ)をはじめとする10歳前後の5人の少女たち――永井繁子(しげこ)、上田悌子(ていこ)、吉益(よします)亮子(りょうこ)、山川捨松(すてまつ)――がいた。廃藩置県が断行され、幕藩体制が完全に消滅したのはこの年の夏ことである。未だ国家のあるべき姿も描けない時期に、この蛮勇ともいうべき官費による10年間のアメリカ留学計画がいかなる背景と意図のもとになされたのか謎が多い。彼女たちは北海道開拓使が募集し、派遣した官費留学生で、アメリカ人の家庭に引き取られて勉学し、それぞれの道を歩んだ。

 彼女たちにはもう一つの共通点があった。全員が戊辰戦争で賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女であったということである。
 梅子の父津田仙(つだせん)は、もともとは下総佐倉藩の出身で、生まれながらの幕臣ではない。元幕臣にとって生きにくい時代に、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となる。北海道開拓使次官の黒田清隆が企画した女子留学生の募集を知った仙は梅子を応募させた。黒田によるこの女子留学生募集の呼びかけには応募する者は皆無で、再度の募集によってようやく5人の少女が集まった。

 この件を読む我々は、植松三十里の別の歴史小説『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(文藝春秋 2015年8月刊)を想起するであろう。明治5年(1872)10月、富岡製糸場は工女募集の当てが外れて開業が危ぶまれていた。応じる者が少ないので、富岡製糸場の初代場長(所長)尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)はやむなく我が子14歳の長女勇(ゆう)を入場(入所)させた。健気な娘勇は「父のため国のため」、婚約を棚上げにして富岡に赴き、日本の工女第一号となった。

 “富岡”にせよ“札幌”にせよ、応募は彼女たちの意志ではなく、その親たちの思いのこもった決断であった。ここに、「脱亜入欧」を掲げ、欧米列強に追いつくべく、富国強兵への道を懸命に模索し、近代化を進めていた当時の日本の焦りと熱気を読み取ることができよう。
 開拓使留学生では、「幼い子供までアメリカに送り出した」、と親を詰るものも現れたが、仙は日本初の女子留学生という栄誉を何としても梅子に与えたいとの一心で幼き我が子を推し、それに応じて梅子は「大好きな父のためにアメリカに行く」と心に決めた。

 仙は明治維新の前年の慶応3年(1867)1月、軍艦ストーンウォール号(和名「甲鉄」)の購入のため幕府が送った使節団の随員として渡米、通詞仲間には福沢諭吉がいた。また、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会には大隈重信に採用されて渡欧して和風の建築と庭園をもうけることに寄与し、明治9年(1876)には札幌農学校より半年早く開校された農学社農学校を設立した近代農学の先駆者である。こうした父親の進取に富んだ生きざまが梅子の職業の選択に止まらず梅子の生き方に大きな影響を与えたことは固くない。

 物語のスタートは、梅子が元治元年(1864)師走3日、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれるシーンである。また女の子かと失望した仙は、赤子の顔も見ず家を飛び出し、幕府派遣の公式通詞として通っていたアメリカ公使館のある麻生善福寺に泊まり込み、十日も帰宅しない。仙はどうしても男子がほしかった。懸命に手を入れた通詞の役目は女では引き継げないからである……。
 捨松と梅子の二人が再び日本の地を踏んだのは出発から11年目、明治15年(1882)11月21日のことで、梅子は満17歳11カ月になっている。
 横浜港で日本語を忘れてしまった梅子が「父上!」と叫ぶシーンは感動的である。が、人格形成の青春期をアメリカで過ごし、異国の地にあってなお日本人のアイデンティティを持ち続けて、言葉のわからない母国に帰ってきた彼女たちの行く手には厳しい現実が立ちはだかっていた。

 帰国の翌年の明治16年(1883)11月には鹿鳴館が完成。極端な欧化政策の鹿鳴館時代の到来である。11月3日、外務卿官邸で開かれた天皇誕生日を祝賀する夜会に招待された梅子は、伊藤博文と11年ぶりに再会。かつて伊藤は岩倉遣外使節団の四人の副使の一人として、5人の少女たちと共に太平洋郵船「アメリカ号」の洋上にあった。
 お国のために学問をおさめて帰国したにもかかわらず、政府・国家は無策で何の用意もない。しかるべき仕事が見つからないことで失望と挫折の日々を送っていた梅子にとって、明治政府の中枢の地位にあった伊藤との再会は「ひとつの扉」が開いたようなものであり、意外な展開のはじまりであった。伊藤の紹介で、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子の知遇を受けることになるのもまた「ひとつの扉」であった。
 伊藤博文は明治の日本を具現する人物の一人である。廃藩置県華族制度の新設、大日本帝国憲法の制定、日清日露の戦争の遂行など日本の社会そのものを根底から変える重要な局面を指導し、ハルビン駅頭で劇的な最期を遂げる伊藤の生涯は、まさに近代日本の歩みを示すものである。功名心や自慢心に富む人間、女色を漁った人物とする評価がある伊藤について、伊藤家に家庭教師として住み込むことになる梅子に、仙が、「女癖の悪ささえなければ、立派な人物だ」と諭すシーンは面白い。後日、梅子は朝帰りする伊藤の生々しい醜態を見てしまい、事実だったのかと愕然とする。
 伊藤博文と共に勝海舟の造形も本書の読みどころである。赤坂氷川町四番地に住み、明治政府とはある距離を持ちながら国家の在り方を思いめぐらす海舟は、俗事を達観する思いで、津田仙ら旧幕臣たちの生活面の面倒を見、梅子の女子英学塾開校の前年の明治32年(1899)1月、77歳で没している。

 明治15年11月8日 姉のように慕っていた山川捨松が、帰国してその一年後に陸軍卿大山巌(おおやまいわお)と結婚する。捨松の結婚は二つの違う文化と習慣の間(はざま)で自身の生き方に迷っていた梅子に大きな衝撃と影響を与える。明治の日本は逃げ場のない「国民皆婚」の社会で、特に女性には結婚しか生活の手段がなかった。

 会津藩家老の家に生まれた捨松はアメリカにいる頃より、いつか自分たちの学校を創ろうと梅子と誓い合っていた。日本で学校を創ることが二人の留学時代の夢だった。「鹿鳴館の花」と謳われ、積極的に鹿鳴館外交に協力した捨松は、国家への奉仕としての仕事と結婚の間で揺れ動き悩み、ついには、戊辰戦争で「西軍」の将の一人であった大山巌を伴侶とすることを選択する。それは自らの生涯の運命への決断であったと言わざるを得ない。が、それでも捨松の女子教育にかける熱意は冷めることなく、明治33年(1900)に梅子が女子英学塾を設立することになると、伯爵夫人という社会的地位を十二分に活用し、塾をささえ、終生、塾の発展に尽くした。
 病のために一年で帰国した上田悌子、吉益亮子の二人について伝えるものが少ないといわれるが、本書には、明治19年(1886)秋、銀座の煉瓦街に「女子英学教授所」という私塾を立ち上げた留学生仲間の吉益亮子を、梅子らが駆け付け励ますシーンがある。このシーンは圧巻で涙を禁じ得ない。
「冬枯れの中で真っ先に咲く梅の花の健気(けなげ)さ」で、日本の「女子教育」の先駆者となった津田梅子の生涯を、内外の津田梅子研究の成果を踏まえ、その軌跡を「寒い時にほかの花よりも先に咲く水仙」のような父仙との愛憎・確執、大山捨松ら友人との交遊の中に描いたものである。背景となった時代の息吹と共に、梅子の素顔を思い浮かべることができる歴史小説の佳品である。
            (令和2年1月22日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第293回 芳華

第293回 芳華

令和二年一月(2020)
西東京 保谷こもれびホール


 一九七〇年代、文化大革命末期から中越戦争までを人民解放軍に属する芸術部門「文工団」を中心に描いた中国の現代史。美しくも切ない青春映画である。
 最初、いきなり毛沢東中国共産党を礼賛する舞踊で始まるので、どうなるのかと思ったが、この若い美女たちによる舞踊の練習風景が実に見事なのだ。
 地方から新人として入隊した少女シャオピン(小萍)。父親が文化大革命で投獄され、再婚した母や継父や妹弟から差別されいじめられた過去があり、人民解放軍の軍服を着ることが夢だった。文化大革命は多くの知識階級に不幸をもたらしたが、解放軍文工団の隊員はダンサーでありミュージシャンであると同時に、軍人でもあるのだ。稽古場で舞踊や演奏の猛練習をしながら、同時に軍事訓練も受け、若い彼らは友情を育む。差別やいじめ、恋愛なども交えながら。
 模範兵と呼ばれ、仲間の雑用をひとり引き受け、自分のことよりみんなのために働く善意の塊のような隊員リウ・フォン(劉峰)。善良で誠実な彼は恋愛問題で誤解を受け、勃発した対ベトナム戦である中越戦争の最前線に送られる。それに抗議したシャオピンもまた、従軍看護婦として最前線へ。
 戦争は終わり、やがて文工団も解散し、隊員たちもばらばらとなる。そして彼らの青春も終わる。
 なによりも、文工団の舞台の再現が見事ですばらしい。兵士を慰問し鼓舞する文工団には中国全土から舞踊や演奏の才能ある若き美男美女が集められたとのこと。この映画もまた、女優が全員、長身で顔立ちの整った美女ぞろい。劇中劇の踊りも完璧なのだ。
 一九七〇年代、今思えば、ちょうど私の青春時代と重なる。


芳華/芳華
2017 中国/公開2019
監督:フォン・シャオガン(馮小剛)
出演:ホアン・シュエン(黄軒)、ミャオ・ミャオ(苗苗)、チョン・チューシー(鐘楚曦)、ヤン・ツァイユー(楊采鈺)

『映画に溺れて』第292回 ミッドナイト・イン・パリ

第292回 ミッドナイト・イン・パリ

平成二十四年四月(2012)
京橋 テアトル試写室


 かつて、冷凍冬眠された現代の小市民が未来世界で目覚める『スリーパー』を自演したウディ・アレンだが、『ミッドナイト・イン・パリ』は『夜ごとの美女』を連想させるタイムスリップものである。
 フィアンセと憧れのパリ旅行にやって来たハリウッドのシナリオライター、真夜中の街角でひとり道に迷い、通りかかった古風な自動車に呼び止められて、パーティに誘われる。車の乗客はスコット・フィッツジェラルドと名乗り、パーティ会場には古風な服装の男女。アーネスト・ヘミングウェイパブロ・ピカソやT・S・エリオット、サルバドール・ダリルイス・ブニュエル。そこは一九二〇年代のパリだった。
 昼間は現代のパリ市内でフィアンセとオランジュリー美術館やヴェルサイユを見物し、夜になるとひとり古きよき時代のサロンを訪れ、文人たちと語り合う。若き日のルイス・ブニュエルに、パーティの客がだれも外へ出られなくなるという『皆殺しの天使』のアイディアをささやいたり。やがてピカソの愛人のアドリアナと愛し合う。
 夜ごとに出かける彼を不審に思ったフィアンセの父親が雇った探偵の運命はいかに。
 例によって、ウディ・アレン作品の登場人物たちは実にぺらぺらとよくしゃべる。文学や芸術、歴史や文化についての話題をまるで井戸端会議のおばさんたちのように。
 現代人が郷愁を掻き立てられる一九二〇年代のパリ。だが、当時のパリの知識人の憧れは十九世紀末のベルエポックだという皮肉。
 やたら知識をひけらかすマイケル・シーンスノッブを笑いものにしながらも、ウディ流タイムスリップコメディは、ちょっと知的な大衆路線。ウディ・アレンの映画、シリアスよりも、こういう娯楽色の強いものが、私は好きだ。


ミッドナイト・イン・パリ/Midnight in Paris
2011 スペイン・アメリカ/公開2012
監督:ウディ・アレン
出演:オーウェン・ウィルソンレイチェル・マクアダムスマイケル・シーンマリオン・コティヤール

『映画に溺れて』第291回 夜ごとの美女

第291回 夜ごとの美女

平成八年九月(1996)
下高井戸 下高井戸シネマ


 谷啓主演の『空想天国』のことを書いていて、ふと思い出したのがジェラール・フィリップの『夜ごとの美女』である。
 ジェラール・フィリップといえば、アラン・ドロン以前の美男の代名詞のような二枚目であり、相手役も絵に描いたような美女ばかり。この時代の銀幕のスターはみな美しかったのだ。
 ジェラールふんするクロードは小学校の音楽教師だが、作曲家を志して徹夜で曲を書いている。だが、現実は厳しく、夜、ベッドの中で成功した夢を見る。
 アルバイトでピアノの家庭教師をしている家の夫人が夢では恋人となり、彼の作曲したオペラが上演されることに。夢の中の世界はベル・エポック、一九〇〇年当時のオペラ座
 さらに次の夢では一八三〇年代のアラビアでラッパ手となり、アラブの姫君と恋をする。その姫君は現実の世界ではカフェのウェイトレス。
 さらに次の夢ではフランス革命直前のパリで貴族の娘と恋をする。これが現実の世界ではアパートの隣に住む自動車修理屋の娘。
 さらに次の夢では三銃士の時代、ダルタニャンの恋人に手を出して決闘を挑まれる。このダルタニャンの恋人が現実の郵便局の受付。
 甘美なはずの夢がいつしか悪夢となり、加速度的に過去へ遡ってとうとう石器時代にまで。
 ところどころで歌が入り、ミュージカル的な要素もある楽しいコメディである。

                  
夜ごとの美女/Les belles de nuit
1952 フランス/公開1953
監督:ルネ・クレール
出演:ジェラール・フィリップ、マルティーヌ・キャロル、ジーナ・ロロブリジーダ、マガリ・ヴァンドイユ、レイモン・コルディ

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第一回 光秀、西へ

 1547年.室町幕府末期。武家の頭領である将軍足利氏は、家臣たちの権力闘争と足利家の内紛により、力を失っていました。幕府は弱体化し、争いは各地に伝播していきました。
 京から40里離れた美濃の国。農地を見回っていた明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、野盗の襲撃に遭遇します。部下と共に野盗と戦い、なんとかこれを撃退する十兵衛でしたが、野盗の頭は十兵衛の見たことのない武器を最後に放ちます。十兵衛は助けた農民(岡村隆史)から、それが「鉄砲」というもので、堺でしか手に入らないということを聞きます。
 十兵衛は明智城に戻ってきます。事実上の明智城の当主である叔父の明智光安(西村雅彦)に、殿、つまり美濃の支配者である斎藤道三に会う許可を求めますが、出過ぎたまねとはねつけられます。十兵衛は許可なく、道三のいる稲葉山城に向かいます。その門前で待ち、鷹狩りから帰ってくる道三に話しかけようと考えていたのでした。その十兵衛に親しげに声をかけてくるものがいます。斎藤道三の息子、斎藤高政(伊藤英明)でした。十兵衛とは机を並べて学んだ仲です。道三は妻の小見の方の病状が思わしくないため、鷹狩りに出ていませんでした。高政の手引きで十兵衛は斎藤道三(本木雅弘)に会うことができます。
 十兵衛は道三に野盗について説明します。鉄砲を持っていたことも。道三は鉄砲に興味を持っていました。十兵衛は語ります。自分は美濃から外に出たことがない。
「この美濃がどうあれば良いのか、まるで見当がつきませぬ。ただ、はっきりしているのは、この先、野盗は何度も来るということです。そして野盗は、他の国々を知っている。鉄砲を知っている。我々はそれを知らない」
 そうして十兵衛は美濃のために旅をさせてもらいたいと申し出るのです。
「そもそも旅の許しを出して、わしに何の得があるというのか」
 と、道三はいいます。十兵衛は困惑します。道三は十兵衛を残して立ち去ろうとします。十兵衛は道三に食い下がります。
「鉄砲を買うて参ります」
 しかし道三は立ち止まりません。十兵衛はさらにいいます。
「京には立派な医者もいて、様々な難病を治すと聞いております」
 道三の妻のためにその医者を連れてくると宣言します。
「それでいかがでございましょう」
 十兵衛は道三の前に膝をつきます。道三は向き直ります。資金としていくら欲しい、といって笑い、道三は十兵衛に旅の許可を出すのです。
 十兵衛は出発します。旅の途中で堺の武器商人「辻屋」のことを知ります。琵琶湖を船で渡り、比叡山を通ります。その道中、十兵衛は治安の悪さを実感します。
 ついに十兵衛は堺に入ります。その活気に驚き、感心する十兵衛。聞いていた辻屋を訪ねます。辻屋には先客がいました。足利将軍の奉公衆である三淵藤英(谷原章介)たちでした。三淵は辻屋に鉄砲を注文していました。その試し撃ちを見物する十兵衛。しかし三淵は鉄砲という武器が気に入りません。弓矢ならすぐに次の矢を射ることができるというのです。十兵衛は辻屋に鉄砲を求めますが、注文が多く、手に入れるには二、三ヶ月待たなければならないと知らされます。
 三淵たちと入れ替わりに辻屋にやってきた派手な着物の男がいます。三好長慶の家臣、松永秀久(吉田鋼太郎)でした。松永は十兵衛に親しみを持ちます。斎藤道三に憧れを持っていたからです。十兵衛の懐にしまった金も気になる様子でした。
 松永は十兵衛を食事に誘います。酒をしこたま飲ませる松永。十兵衛は松永がしきりに斎藤道三をほめるのが気に入りません。美濃の国のものが、すべて殿に従っているわけではないといい出します。十兵衛はかなり酔っています。
「おぬしは山城守(斎藤道三)様のことをどうおもっておるのじゃ」
 と、問う松永。
「正直に申し上げて、ああいうお方を好きにはなれない」
 けちくさい。何事も損得勘定。などと悪口を並べ立てます。しかし、と十兵衛はいいます。
「好き嫌いで主君に仕えるわけではない。それが難しい」
 その言葉に対し、松永が同意すると、十兵衛は上機嫌になります。そしてそのまま寝てしまうのです。
 翌朝、目を覚ました十兵衛は懐にあるはずの金がなくなっていることに気づきます。しかし書き置きと共に一挺の鉄砲が置かれていたのでした。喜びの声を上げる十兵衛。一路、京に向かいます。
 京は戦乱のため、荒廃しきっていました。人々は住む家もなく、食べるものにも事欠く有様でした。十兵衛は炊き出しを行っている僧侶に、京で一番の名医は誰かと訪ねます。名医は将軍のそばにおり、荒廃した京都にはいないだろう、と僧侶はいいます。僧侶は「望月藤庵」という名医がいたことを思い出します。十兵衛はその場所に行ってみることにします。
 教えられた所に来てみると、十兵衛は藤庵の助手である女性の駒(門脇麦)に出会います。藤庵はいないから帰るようにいわれます。あきらめきれず、駒に訴え続ける十兵衛。駒は少し興味を持ち始めます。美濃の殿様は治療にいくらくれるのかと十兵衛に訪ねます。
「それ相応と」
と、答える十兵衛。ついに駒は藤庵のもとに十兵衛を連れていきます。
 しかし美濃には行かないと藤庵(堺正章)はいいます。
「わしは金では動かん」
 と、豪語します。しかし本当の理由は、貧しい人を助けるために京を離れたくなかったのです。
「わかりました」と、十兵衛はいいます。「私の父は、私が幼き頃、病で亡くなりました。生前の父を知る者は皆、口をそろえて、立派なもののふであったといわれます。その父がよく私に申していたことがあります。大事なのは一つ。ただ一つ。誇りを失わぬことだと」
 十兵衛はそういって去って行くのです。
 その時、盗賊の襲来があり、家々に火がつけられます。十兵衛は盗賊を退けることはできましたが、燃え上がる炎をどうすることもできません。火のついた一軒の家に、少女が取り残されているというのです。水をかぶり火の中に飛び込む十兵衛。少女の救出に成功します。
 少女の無事を喜ぶ人々。十兵衛は誰に感謝されるでもなく、材木に腰を下ろしていました。そこに話しかける駒。十兵衛に礼を言います。駒は自分の子供の頃のことを話し始めます。火事で両親を失い、藤庵に育てられた。火事の中で親と死ぬところを助けられた。ちょうど十兵衛がしたように、一人の武士が火の中に入ってきて連れ出してくれた。その武士は泣き止まない駒を慰めていった。
「いつかいくさが終わる。いくさのない世の中になる。そういう世を作れる人がきっと出てくる。その人は、麒麟を連れてくるんだ。麒麟というのは、穏やかな国にやってくる不思議な生き物だ」
 十兵衛はいいます。
「旅をして、よくわかりました。どこにも、麒麟はいない。何かを変えなければ。誰かが。美濃にも京にも、麒麟は来ない」
 そして藤庵は言い訳を並べ立て、美濃に行くことを申し出るのでした。

『映画に溺れて』第290回 パリ、嘘つきな恋

第290回 パリ、嘘つきな恋

令和元年十月(2019)
飯田橋 ギンレイホール

 なんて素敵な恋だろうか。私はベタベタの恋愛映画はあまり好きではないが、フランスのラブコメディ『パリ、嘘つきな恋』には、どっぷりはまって、心ときめいた。
 五十歳を間近にひかえた主人公、独身で金持ちで女好き、ふとした誤解から車椅子の身障者と間違われ、行きがかりで身障者のふりをして、車椅子の美女と知り合い、自分が歩けると言い出せないまま彼女とつきあうことに……。
 身障者が題材ではあるが、重い感動ものにはならず、悪ふざけにならず、展開に思わず「うまい」と唸ってしまった。
 主人公のジョスラン。運動靴の大手販売会社パリ支局長。女性にもてるので、自由気儘に恋を楽しんでおり、特定の恋人はなく本気で結婚など考えていない。
 亡くなった母親の遺品整理に行き、車椅子に座っているところを隣に引っ越してきた美人に見られ、身障者と誤解される。なりゆきで同情を引こうと身障者のふりをしてしまうと、彼女の実家に招待される。いそいそと、車椅子のまま訪問すると、現れたのが彼女の姉フロランス、これが車椅子の美女。ヴァイオリニストだが、どうやら下半身不随。彼女のことが気になって、彼女が出ている車椅子テニスの試合を見に行ったり、わざわざチェコプラハまで彼女の演奏を聴きに行ったり。もちろん、自分用の車椅子を用意して。
 美人で明るく、前向きでユーモアのセンスにあふれたフロランスにだんだん強く惹かれていく。お互い親しくなればなるほど、ジョスランは自分が身障者のふりをしていただけとは言い出せない。今まで遊びの恋はいっぱいしてきたが、本気になった彼女に、本当のことを言えないなんて。さて、彼はいったいどうするのか。
 監督、脚本のフランク・デュボスクが主人公のジョスランも演じている。フロランス役のアレクサンドラ・ラミーも美しくて素晴らしい。そして、ジョスランの父親役が懐かしいクロード・ブラッスール。いいおじいちゃんになっている。

パリ、嘘つきな恋/Tout le monde debout
2018 フランス/公開2019
監督:フランク・デュボスク
出演:フランク・デュボスク、アレクサンドラ・ラミー、キャロライン・アングラード、エルザ・ジルベルスタイン、ジェラール・ダルモン、クロード・ブラッスール

 

新人の新刊!

当会会員の平野周氏(幻冬舎グループ主催「時代小説大賞」受賞者)の新刊です。

読者の皆様、よろしくお願い致します。

悍馬、室町を駆ける

悍馬、室町を駆ける

  • 作者:平野 周
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 文庫
 

 

『映画に溺れて』第289回 エクストリーム・ジョブ

第289回 エクストリーム・ジョブ

令和元年十月(2019)
渋谷 ショウゲート試写室

 麻薬捜査課精鋭チームの五人組。精鋭というよりは、ついやりすぎて、署内でも浮いてしまう五人。
 麻薬組織のアジト情報が入る。たまたまアジトの向かいにチキン唐揚げ店があったので、連日入り浸って張り込みを続けるが、店主から言われる。贔屓にしてくれてうれしいけど、赤字続きなので店を閉めると。思えば、毎日お客は五人の捜査官だけ、他にはだれも来ない店なのだ。
 うーん、張り込みに好都合の場所はここしかない。そこで、班長が身銭を切って店を買い取り偽装営業。だが、アジトの組員が店に来ることもある。全然商売していないのでは怪しまれる。五人で唐揚げ屋を再開。捜査官のひとりが揚げたカルビ味チキン。これがなかなかの味。店に出すと、あまりのおいしさにお客が大満足。口コミやネットで評判が広がり、あっという間に行列のできる店になってしまう。
 そうなるともう、本末転倒。張り込みそっちのけで、朝から晩まで一日中、チキンを揚げ続ける捜査官たち。
 大繁盛なので、けっこう売り上げはよく、警察の給料よりも大金が入ってくる。が、こんなことで、麻薬組織を一網打尽にできるのだろうか。
 犯人に刺されても撃たれても必ず回復するゾンビの異名の班長をはじめ、チームのひとりひとりに特技あり。
 この映画を観て思い出したのがウディ・アレンの『おいしい生活
 銀行強盗を企てた一味が、銀行と道路を隔てた店を買い取り、その地下から道路を掘り進み銀行の地下へたどろうとする。まるでシャーロック・ホームズの有名な一話のような設定だが、偽装で開いたクッキー店が大繁盛で、全国チェーンの大企業になってしまうという展開だった。

エクストリーム・ジョブ/극한직업
2019 韓国/公開2020
監督:イ・ビョンホン
出演:リュ・スンリョン、イ・ハニ、チン・ソンギュ、イ・ドンフィ、コンミョン

 

 

『映画に溺れて』第288回 もしも昨日が選べたら

第288回 もしも昨日が選べたら

平成十八年十二月(2006)
飯田橋 ギンレイホール

 家庭にあるさまざまな電化製品。TVやエアコンなど、それぞれにリモコンがあって、どれがどれか混乱してしまうこともある。
 アダム・サンドラーふんする建築家。家庭には美しく優しい妻、ふたりの子供に恵まれて、幸せな日々。ある日、こんがらがったリモコンをひとつにできないかと、大型電器店へ行く。売り場の裏の倉庫の奥で、リモコン修理しているおじさんがクリストファー・ウォーケン
 このおじさんに勧められるまま、彼は万能リモコンを手に入れる。
 さっそく試すと、電化製品ばかりでなく、自分の周囲のあらゆることに使えるのがわかる。うるさい犬に消音スイッチを向けると、吠え声がしなくなる。妻にわずらわしい用を頼まれると、さっさと早送りしてしまう。文句を言われたら一時停止。
 そうこうするうちに自動早送り機能で、同じような状況は全部飛ばして、便利だ便利だと思っているうちに、いつの間にか、早送りが止まらなくなり、捨てようとしても、このリモコン、返品不能の契約。
 自分でも気がつかないうちに、自動早送りでまたたくうちに老人に。取り返しのつかない過去の場面を再生しても、それはすでに終わった場面で、もとには戻らない。ああ、なんてつまらない人生だったんだと嘆いて。さて、どうするか。
 人生はドラマではない。つまらないわずらわしい部分も含めて大切なんだよ。というファンタジーの佳作。
 この映画の日本語タイトル「もしも昨日が選べたら」というのは、ひょっとして「もしも機能が選べたら」の洒落だろうか。

もしも昨日が選べたら/Click
2006 アメリカ/公開2006
監督:フランク・コラチ
出演:アダム・サンドラーケイト・ベッキンセールクリストファー・ウォーケン

 

『映画に溺れて』第287回 ジュマンジ

第287回 ジュマンジ

平成八年四月(1996)
大阪 道頓堀 SY角座

 十二才のアランはいじめられっ子だった。父は大きな靴工場の経営者。アランは工場拡張の工事現場で偶然古めかしいゲーム盤を発見し、家に持ち帰る。両親の留守に近所の女の子サラとゲームを始めると、驚いたことに、さいころの目に合わせて駒がひとりでに進み、盤上の升目に書かれた言葉が現実となる。魔法のゲーム盤だったのだ。最初にサラが進んだ升目が「蝙蝠の大群」。次にアランが進んだ升目が「五か八が出るまでジャングルに閉じ込められる」というもので、サラの目の前でアランは消えてしまう。そこへ蝙蝠の大群が押し寄せ、サラはゲームを投げ出し逃げ帰る。
 時が流れ、二十六年後、無人となった家に二人の幼い姉弟がやって来る。両親が事故で亡くなったため叔母に引き取られたのだ。二人は家の中にあった件のゲーム盤を見つけてさいころを振ると、出た升目が「動物の暴走」。現実にアフリカの動物たちが現れる。あわやライオンに襲われそうになった時、飛び出してきた男が二人を救う。まるでターザンのようなこの男こそ、二十六年間ゲームの中のジャングルに閉じ込められ、サバイバルでたくましくなったアランだった。靴工場は廃墟となり、家は荒れ果て、両親はすでに死んでいる。呆然とするアラン。
 町中で動物たちが暴れ、ゲームを終了させなければパニックは終わらない。幼い二人とアランはゲームを続けるが、駒が進まなくなった。プレイヤーがひとり足りない。それがあの当時の女の子、今は街はずれに引きこもり、人間嫌いの霊媒となっているサラ。果たしてゲームはどんな結果をもたらすのか。
ジュラシックパーク』の恐竜同様に、この当時、CGの技術が目覚ましく、アフリカの動物の群れが町を駆け回るシーンは話題となり、CMなどにも流用された。
 その後、ジャングルゲームを宇宙冒険ゲームに置き換えた『ザスーラ』や『ジュマンジ』の二十年後の続編『ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル』『ジュマンジ ネクスト・レベル』も作られた。

 

ジュマンジ/Jumanji
1995 アメリカ/公開1996
監督:ジョー・ジョンストン
出演:ロビン・ウィリアムズジョナサン・ハイドキルスティン・ダンストブラッドリー・ピアースボニー・ハントビビ・ニューワース