日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』一年三百六十五本を終えて

『映画に溺れて』一年三百六十五本を終えて

 

 平成三十一年の四月、日本歴史時代作家協会が発足。それにともなって、公式ホームページを開設するにあたり、なにか映画のこと書いてみませんかとのお話があった。
 歴史時代小説の作家が中心の会なので、時代劇映画について書いてみようかと最初に考えた。好きな時代劇はたくさんある。名作時代劇とその原作小説の対比などを詳しく解説したらどうだろうか。いや、しかし、私には長い解説を書く根気がない。
 そこで思いついたのが、時代劇に限らず好きな映画のことをなんでもかんでも書く。映画は子供のころから観続けており、題材は無数にある。ジャンルにこだわらず、新作、旧作、名作、珍作、片っ端から筋書き、感想、出演者、原作、背景、観た映画館の思い出など、作品に関連して浮かんだことを書けばいい。八百字以内に設定すれば、毎日でも書ける。実際に続けてみると、それほど簡単にはいかず、けっこう苦心もしたが。
 もうひとつ縛りをつけたのが、すべて映画館で観た作品。今は映画館に足を運ばずとも、家でもどこでも手軽に映画が観られる世の中である。TV放送、レンタルDVD、インターネット、スマートホン、なんでもありである。DVDやインターネットで巻き戻したりストップしながら観た映画の感想を、SNSで丹念に書き綴る映画ファンも多い。だが便利な反面、安直に観た映画は、私の場合さほど心に残らない。
 時間をかけて映画館まで行き、大画面で見知らぬ観客と感動を共有する。情報誌片手に遠くの町まで電車で出かけ、映画館のある商店街で入った喫茶店や古本屋が鮮明に記憶に残っていたり。あるいは友人といっしょに観て、終了後にビールを飲みながら喧嘩ごしで意見を戦わせた思い出。結婚し子供が生まれ、家族で観たアニメーション。映画は単なる情報ではない。いつ、どの場所で、だれと観たかまでが含まれるのだ。私は映画ファンであると同時に映画館ファンでもある。

 一年三百六十五日、なんとか続きました。毎日更新の手続きをしていただいた日本歴史時代作家協会ホームページ担当の響由布子さんには心より感謝いたします。
 好きな映画はまだまだたくさんあり、今後は毎日更新ではなく、思いついたときに週に一本でも二本でも、少しずつ書き足していければと。響さん、そのときはまた、よろしくお願いいたします。


                    日本歴史時代作家協会会員 飯島一次

 

作品リスト 第1回~第365回
 全部好きな作品である。
 この一年、この場をお借りして、いろんな映画を紹介してきた。子供の頃に祖母と観た映画から、つい最近試写室で観た映画まで。
 映画史上に残る名作、世紀の駄作、話題作やヒット作、まったく世間に知られていない無名の作品まで、好きな作品、気になる作品、個人的に忘れられない作品ばかり。
 年代も国籍も様々、戦前のものから先月公開の新作まで。コメディ、アクション、SF、時代劇、西部劇、ミュージカル、アニメーション、ドキュメンタリー、シネマ歌舞伎、短編特集、自主映画。
 そして、ひとつ自慢できるのは、これらをすべて映画館(公共ホールや地域の公民館、映画会社の試写室も含む)で観ていること。それゆえ何年の何月にどこで観たかも記しておいた。映画館は大切な思い出の場所でもあるから。ああ、今はもうなくなってしまった映画館のなんと多いことか。
 還暦過ぎて、私の映画鑑賞人生にいい思い出ができたと、素晴らしい機会を与えてくださった日本歴史時代作家協会に感謝する次第である。
 以下にこの一年間に紹介した作品のタイトルを列記する。どれをとっても、全部好きな一本である。

第1回 七人の侍
第2回 荒野の七人/The Magnificent Seven
第3回 椿三十郎
第4回 座頭市と用心棒
第5回 不知火検校
第6回 続・夕陽のガンマン/Il buono, il brutto, il cattivo
第7回 犬ヶ島/Isle of Dogs
第8回 さらば荒野/The Hunting Party
第9回 荒野の渡世人
第10回 シャンハイヌーン/Shanghai Noon
第11回 大魔人
第12回 キングコング対ゴジラ
第13回 ゴジラ
第14回 ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃
第15回 マタンゴ
第16回 キングコング/King Kong
第17回 シンクロナイズドモンスター/Colossal
第18回 花のお江戸の無責任
第19回 クレージーだよ奇想天外
第20回 森の石松鬼より恐い
第21回 グリーンブック/Green Book
第22回 夜の大捜査線/In the Heat of the Night
第23回 ブラックライダー/Buck and the Preacher
第24回 ジャンゴ 繋がれざる者Django Unchained
第25回 ヤコペッティの残酷大陸/Uncle Tom
第26回 男はつらいよ
第27回 男はつらいよ 寅次郎春の夢
第28回 運が良けりゃ
第29回 幕末太陽伝
第30回 羽織の大将

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『映画に溺れて』第365回 ラスト・ショー/The Last Picture Show

第365回 ラスト・ショー/The Last Picture Show

昭和四十七年九月(1972)
大阪 難波 南街シネマ

 

 一年三百六十五日、毎日一本好きな映画を書き続ける『映画に溺れて』もいよいよ今回が三百六十五日めとなった。だから『ラスト・ショー』である。
 時代背景は一九五〇年代、場所はテキサスの田舎町。ふたりの高校生、おとなしいソニーがティモシー・ボトムズ、やんちゃなデュエーンがジェフ・ブリッジス、これが不思議と馬が合い仲がいい。デュエーンのガールフレンド、ジェイシーがシビル・シェパード。プールのヌードパーティ場面ではどきどきした。ソニーとデュエーンは気まぐれなジェイシーに振り回されて殴り合う。
 ジェイシーの母親の金持ち夫人がエレン・バースティンで、まだまだ美しい中年女性であり、その昔の恋人が西部劇から抜け出たような老カウボーイ、サム。これがベン・ジョンソン
 時代の流れは田舎町をどんどんさびれさせ、映画館も閉館となる。そこで最後に上映されるのが『赤い河』だった。
 この映画でピーター・ボグダノヴィッチという監督の名前が鮮烈に焼きついた。
 実は私がこの映画を観たのが十八歳のときで、ちょうどふたりの主人公と同世代だったのだ。
 後年、『ラスト・ショー2』が公開されたとき、期待に胸をふくらませて日比谷シャンテシネに観に行った。あれから三十年後の一九八〇年代が舞台。若者たちは中年となり、ソニーは市長、デュエーンは実業家、ジェイシーは都会で女優になっている。期待が大きすぎたのか、あまり印象に残らなかった。ティモシー・ボトムズソニーが痛々しく、思えば私自身も中年になっていたのである。

 

ラスト・ショー/The Last Picture Show
1971 アメリカ/公開1972
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
出演:ティモシー・ボトムズジェフ・ブリッジスシビル・シェパードベン・ジョンソン、クロリス・リーチマン、エレン・バースティン、アイリーン・ブレナン、クルー・ギャラガー、サム・ボトムス、ランディ・クエイド

 

『映画に溺れて』第364回 私のように美しい娘

第364回 私のように美しい娘

昭和五十年二月(1975)
大阪 梅田 北野シネマ

 

 学生時代、私のトリュフォー初体験がこれ。タイトルで内容が想像できない。中身もかなり変だったが、ベルナデット・ラフォン演じるあばずれの毒婦にぞくぞくした。
 最初、書店の場面、ある女性客が『女性と犯罪』という新刊を探している。店主に尋ねると、その本は予告が出たのに結局出版されていないとのこと。店主は首をかしげる。どうして出版されなかったのか。
 犯罪心理学者の若い教授スタニスラスが女性犯罪者の心理を研究し論文にまとめるため、刑務所を訪れる。そこで看守から紹介された女囚がカミーユ。彼女は害虫駆除業者を塔から突き落として殺害した罪で服役中だが、無罪を主張している。スタニスラスは論文の材料としてカミーユを取材することに。
 少女時代、彼女は父親を事故死させて感化院に入所。父親が屋根の修理をしているとき、わざと梯子を外して墜落させたらしいのだ。彼女は偶然の事故だったと殺意を否定し、自分の不幸な生い立ちを語る。
 カミーユに魅了されたスタニスラスは刑務所に通い、彼女から聞かされる波乱万丈の人生をテープに録音し記録する。
 感化院を脱走して農夫と結婚、酒場の歌手と不倫、夫が事故で入院中に悪徳弁護士と不倫、害虫駆除業者も誘惑して利用する。夫の母親の家のオーブンに仕掛けをし母親が死ねば遺産が入るように仕組む。
 これらの話を聞いて、スタニスラスはますます彼女のとりことなり、無実を証明するため、害虫駆除業者の死が自殺であることを骨折って証明する。
 晴れて出獄し、歌手としてデビューするカミーユ。彼女に誘われ、罠に落ちるスタニスラス。毒婦の魅力に翻弄される男たち。おしゃれな犯罪コメディである。
 カミーユ役のベルナデット・ラフォン、輝くように美しい。

 

私のように美しい娘/Une Belle Fille Comme Moi
1972 フランス/公開1974
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ベルナデット・ラフォンアンドレ・デュソリエクロード・ブラッスール、シャルル・デネ、ギー・マルシャン

 

『映画に溺れて』第363回 ショーシャンクの空に

第363回 ショーシャンクの空に

平成七年十一月(1995)
池袋 文芸坐

 これは大好きな作品で、映画館で四回観ている。原作はスティーブン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース
 泥酔したエリート銀行員アンディ・デュフレーンが銃を携え、妻の浮気現場であるプロゴルファーの家の前で自動車を停めている。
 妻とゴルファーは射殺され、アンディは無実を主張し、物的証拠がないまま有罪で終身刑となる。時代はリタ・ヘイワースがスターだった一九四〇年代。刑務所で新入りのアンディをじっと観察しているのが黒人の殺人犯で便利屋のレッド。これはレッドの視点から見たアンディについての物語である。
 所長は偽善者。冷酷な看守長は平気で囚人を殴り殺す。凶暴なゲイの囚人に襲われながらもアンディは耐えている。
 アンディの独房に貼られたセクシー女優のポスター、最初はリタ・ヘイワース。これがマリリン・モンローになり、最後には『恐竜百万年』のラクエル・ウェルチになる。それだけ長い期間、ずっと刑務所に入っているわけだ。終身刑だから。
 重労働に従事し、やがて銀行家としての才能を発揮し、看守や所長に優遇される。気取ったエリートのアンディを最初はバカにしていた他の囚人たちも、いつしか彼に一目置くようになる。この男は本当に有罪なのか、それとも無実なのか。
 アンディのティム・ロビンス、レッドのモーガン・フリーマンのふたりはもちろん、他の配役も凝っていて、偽善者の悪徳刑務所長がボブ・ガントン、鬼看守長がクランシー・ブラウン、図書係の老囚人がジェームズ・ホイットモア、陽気な囚人がウィリアム・サドラー、後に入ってくる若い囚人がギル・ベロウズ。
 囚人たちが娯楽として所内で映画を観る場面、上映される『ギルダ』がリタ・ヘイワースの主演作である。私は後に池袋の新文芸坐で観る機会を得た。

 

ショーシャンクの空に/The Shawshank Redemption
1994 アメリカ/公開1995
監督:フランク・ダラボン
出演:ティム・ロビンスモーガン・フリーマンウィリアム・サドラー、ボブ・ガントン、ジェームズ・ホイットモア、クランシー・ブラウン、ギル・ベロウズ

 

『映画に溺れて』第362回 スティング

第362回 スティング

昭和四十九年七月(1974)
大阪 曽根崎 梅田グランド

 

 詐欺師の映画というのは、主人公の詐欺師がカモを引っ掛けるトリックの面白さもあるが、実はもうひとつ、映画を観ている観客そのものも騙してしまう手口。わあ騙された、という快感を与えてくれる二重の楽しさがあるのだ。
 私が一番最初に騙されたのは『テキサスの五人の仲間』で、開拓時代の西部を舞台にしたもの。実はこの映画はTVの日曜洋画劇場で観て、大人になってからDVDで観ただけなので、このブログでは詳しい紹介はしない。ただし、未見の人は決してインターネットなどのあらすじを読まないように。
 詐欺師の映画もいろいろあるが、私はなんといっても『スティング』が一番好きだ。ロバート・レッドフォードの若造ジョニーが、相棒のルーサーと路上でカモを引っ掛けて大金をせしめる。それがギャングの賭博のあがりだったため、ロバート・ショーふんする大親分ロネガンの怒りにふれ、ルーサーは無残に殺さる。
 ジョニーはルーサーの親友ヘンリーを頼ってシカゴに逃亡。この詐欺の名人ヘンリーがポール・ニューマン。かつての詐欺師仲間を集め、ギャング相手にルーサーの敵討ち。
 その方法というのが競馬を利用した大掛かりな詐欺なのだ。時代背景は禁酒法時代のアメリカで、アンタッチャブルの世界。詐欺師とギャングの対決にジョニーを追う刑事や殺し屋やFBIが絡む。
 禁酒法時代のギャング映画というのは、歴史の浅いアメリカでは西部劇同様の一種の時代劇なのだろう。
 ポール・ニューマンロバート・レッドフォード、それに監督のジョージ・ロイ・ヒルは、この映画の前に『明日に向かって撃て』を作っており、そっちを先に観た人は『スティング』にはさらに騙されやすい仕掛けになっている。

 

スティング/The Sting
1973 アメリカ/公開1974
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
出演:ポール・ニューマンロバート・レッドフォードロバート・ショウチャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン、アイリーン・ブレナン、ロバート・アール・ジョーンズ

明治一五一年 第11回

明治一五一年 第11回

森川雅美


途切れる記憶の内側を
過ぎていくのは誰の瞳かと
いくつもの軽くなる足音たち
多くの人がまた亡くなりました
が踏み締めるままに
哀しみの破片なのだと
越えていく掌の浅い窪みへ
あれは境界に触れる足でした
散在する傷口の内側
からの死者たちが静かに集う
喉元までの裂け目が
多くの人がまた亡くなりました
埋もれる側からの開く眺めは
もっと眩しい光が
射していた忘れかけた安らぎと
ひとつずつ消えていきました
途切れる囁きは静かな脊髄
に弱る震えと共に届き
失われた心音の痛みを見出す
多くの人がまた亡くなりました
記録の淀みの狭間へ
割れる暗さに曝される
時代の傾きは足裏に留める
帰れず沈みました
水もまた重さを持つ
のだから体の中心に傾くのは
幾重もの吐息に似た言葉の
多くの人がまた亡くなりました
ぶれに訪れる古い声と
途切れるもう会えない人人
の眼に光るために綴り
何度も亡くなっていきました
違う切り傷になる
片割れに会う踏みだせない端へ
傾き見られているなら
多くの人がまた亡くなりました
かたちになるより早く満つ
散らばる名残を結びながらも
追われていく背中は
いつまでも張り付いていました
ごく小さな波紋になるまで
繰り返し拡がりいくと
途切れる命の連鎖を
多くの人がまた亡くなりました
紡ぐためささやかな空を放ち
はるか遠い彼方に連なりいく
ながい列の始まりへ
まだ戻っていいですか
目を凝らしゆっくり歩調を
整えながら種子を包む
額とは大きな影だから歪に
多くの人がまた亡くなりました
伸びる言の葉の裏側は
ざらつく荒れ野の
ままに燃えない熱い火を放てと
いつか振り返りました
途切れる記憶のさらに奥に人
の現在の予感は兆し
また違う眼の内側に芽生える
多くの人がまた亡くなりました
澄んだ残響の結晶へ
つぶやく傷ついたいくつもの
古い声たちを結わく
留まり続けました
新しい営みの始まりに
繁茂する葉影が揺れ一瞬は
まだ止まらずに眩い
多くの人がまた亡くなりました
骨片が延々と降る野を行くと

『映画に溺れて』第361回 壁女

第361回 壁女

平成二十三年九月(2011)
西東京 保谷こもれびホール

 西東京市で毎年開催されている西東京市民映画祭自主制作映画コンペティションの審査員を、第一回より何年か続けてやらせていただいた。全国から寄せられた短編作品の中から各賞を選ぶのだが、プロと見紛う達者な作品、アイディア勝負の個性派、手間暇かけて作った労作。印象的なたくさんの作品に出会うことができた。
 中でも忘れられない作品のひとつが『壁女』である。タイトルだけで、どんな内容だろうと想像をふくらませた。壁女という妖怪の出てくる怪談だろうか。
 予想は見事に外れた。
 休日に河川敷などに出かけ、壁にべったりと張り付き、自動タイマーで撮った写真をブログに掲載するのが趣味というOLの話。
 一人暮らしのアパートは散らかり放題の汚さ、食事は毎度カップ麺、職場ではいつも遅刻して叱られている。そんな彼女が恋をする。そのいじらしい恋の顛末を描いた異色コメディで、十七分の短編ながら伏線を張り巡らした密度の濃い内容、大変味わい深かった。
 監督は原田裕司、主演は仁後亜由美。
 翌平成二十四年、下北沢トリウッドで原田裕司監督特集があり、再び『壁女』を観た。同時上映が『コーヒー』『苦顔』『冬のアルパカ』、四本全部合わせて八十七分。トリウッドは短編を中心に上映するミニシアターで、下北沢の南口商店街を抜けた小さな雑居ビルの二階にある。初めてここへ来たときは、見つからなくて探し回り、さんざん迷ったあげく郵便局で尋ねてようやくたどり着いたのだった。
『コーヒー』と『苦顔』はどちらも個性の強い主人公の生き方を描いたラジカルできわどい作品。『冬のアルパカ』は『壁女』の仁後亜由美主演で、アルパカを飼う女と、彼女に金を貸しているローン会社の取立て屋との奇妙な交流。アルパカと雪国と変な人たち。
 自主映画の中には、商業映画よりも面白い作品が実はたくさんある。自主製作映画コンペティションの審査に毎年予選から参加して、夏の間に数えきれないほどの短編を見続けたこと、いい経験だったと今でも思っている。

 

壁女
2011
監督:原田祐司
出演:仁後亜由美、朝倉亮子、阪東正隆、伊藤公一、香取剛、後藤慧、鈴木敬子、竹田尚弘

 

『映画に溺れて』第360回 吹けよ春風

第360回 吹けよ春風

平成十一年四月(1999)
京橋 フィムルセンター

 三船敏郎といえば、剣豪や豪傑、凄腕の素浪人といった時代劇が多いが、その三船が主演のコメディタッチの現代劇。終戦からまだそんなに経っていない東京を舞台に、タクシーの運転手が見た人間模様を描いた佳作である。
 岡田茉莉子と小泉博のカップル。痴話喧嘩しながらも最後は仲良く降りて行く。
 大勢の子供たちを乗せて銀座をまわるエピソードは自動車がまだ珍しく、簡単に乗れない時代を思い出させる。
 舞台の大スター越路吹雪を乗せて「黄色いリボン」の替え歌をふたりで歌う。三船が歌うのだ。
 青山京子の家出娘を乗せて東京駅まで送ったが、心配で連れ戻す。が、途中で去って行く。あの娘はどうなるのだろう。
 小林桂樹藤原釜足の酔っぱらい二人。小林は走るタクシーのドアから外へ抜け出して車の上を通って反対側のドアから入って来るのが得意だと繰り返し、とうとういなくなる。あわてて外を探すがどこにも落ちていない。すると、座席の下で鼾をかいて酔い潰れている。
 三国連太郎は若いタクシー強盗。
 復員兵とおぼしき山村聰とその妻山根寿子。どうやら山村は刑務所に入っていたらしい。それを世間体もあり、子供の手前もあるので、復員してきた風に装っている。そういう時代なのだ。
 そんな軽いスケッチのようなエピソードが次々と流れ、最後に家出娘が母親と仲良く銀座で買物している姿を見つけて安心する。観ている観客もほっとする。
 昭和二十八年、実は私の生まれた年である。だからよけいに懐かしい。

 

吹けよ春風
1953
監督:谷口千吉
出演:三船敏郎、小泉博、岡田茉莉子、青山京子、越路吹雪小林桂樹藤原釜足、小川虎之助、三好栄子、島秋子、三國連太郎山村聰、山根寿子

 

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十一回 将軍の涙

 天文十八年(1549)十一月。尾張の笠寺にて松平竹千代(後の徳川家康)と、今川に捕えられていた織田信広織田信長の腹違いの兄)の人質交換が行われました。
 尾張の末盛城では、織田家の家臣である平手政秀(上杉祥三)が、織田信秀(信長の父)(高橋克典)に人質交換の報告を行っていました。尾張一の弓の使い手といわれた信秀は、以前受けた傷の悪化から、弓を引ききることもできなくなっていました。信秀はいいます。
「信広があのざまで、信長も何を考えておるのかさっぱりわからん。信勝はまだ若い。子たちが頼りにならず、わしがこのようなありさまでは。今川に今、いくさを仕掛けられては勝ち目がない」
 一方、駿河今川義元の館には、竹千代が到着していました。義元(片岡愛之助)は竹千代に優しく声をかけ、食事を供します。竹千代はいいます。
「私は三河へ、いつ帰していただけるのでしょうか」
 義元の軍師である太原雪斎伊吹吾郎)が答えます。
「ご案じなさいますな。いずれお帰りいただきましょう。ただ三河は今、織田信秀に味方される方々、われらと共に豊かな国をつくりたいと申される方々に割れ、相争うておりまする。このままではいずれ三河は滅びる。われらは隣国として、それは見るに忍びない。間もなくわれらは、三河を毒す、悪(あ)しき織田勢を完膚なきまでに叩く所存。それまでのご辛抱じゃ」
 竹千代は顔を落とします。義元は雪斎に語気を強めていいます。
「年が明けたらいくさ支度じゃ。三河を救うためのいくさぞ」
 翌年、今川義元尾張の南部に攻め寄せ、次々と制圧していきます。これにより、織田信秀の非力ぶりが明らかとなります。信長と帰蝶の婚姻による、織田、斎藤の盟約は、迫り来る今川義元の脅威に、今にも崩れようとしていました。
 美濃の稲葉山城では、古来より美濃を支えてきた国衆を含めた評定が行われていました。国衆の一人である稲葉良通(村田雄浩)が斎藤道三(このときは利政)(本木雅弘)にいいます。
「盟約を結んだ以上、織田から頼まれれば、共に今川と戦わねばならんのです。そのおつもりは、あるのかどうかをうかがいたいのじゃ」
「わしはそのつもりであるが、いくさは一人ではできん」と、道三は答え、皆の顔を見回します。「むしろ皆に聞きたい。おのおの方は、今川と戦う覚悟はあるか」
 稲葉は稲刈りなどの理由をつけて、兵を出すことを拒みます。他の者も無言で稲葉に賛同する態度を示します。道三はいいます。
「織田が今川の手に落ちれば、次は美濃が餌食になる番じゃ。その時が来ても、皆は戦わぬのか」
「その時はわれらも刀を取りまする」
 という稲葉。織田のためには戦わない、美濃のためには戦う、ということなのでした。笑い出す道三。
「もうよい。皆さっさと村へ戻って稲刈りでもせい」
 と、道三は告げます。引き上げる道三に、光秀の叔父である明智光安(西村まさ彦)が付き従います。道三は光安に打ち明けます。
「織田の家老、平手政秀が、援軍をよこせと申してきた。急ぎ返答せねばならん」
 その使いとして、道三はすぐに光秀を思いつくのです。
 明智光秀長谷川博己)はしぶしぶと尾張那古野城に向かいます。
 光秀が到着した時、信長は家来たちと、角力を楽しんでいました。平手政秀が取り次ぎをしようとしても、あとで参る、という始末。平手政秀が光秀の相手をします。平手は愚痴るようにいいます。
「若殿は今のところ鉄砲以外は眼中にないご様子。先日も近江の国友村の鉄砲職人に数百もの鉄砲を注文なされ、職人を困惑させたそうです」
 平手は光秀に探りを入れるように話します。ついに光秀は正直にいわざるを得なくなります。
「わがあるじ斎藤利政は、織田信秀様に、援軍は送らぬとお決めになりました」
 平手は驚きます。光秀は頭を下げて謝るのです。平手は無言で部屋を後にします。残された光秀は帰蝶と話します。帰蝶はいいます。自分は人質であり、道三が裏切れば、はりつけになる。そこに角力を終えた信長が入ってきます。先ほどの話は平手から聞いていました。今川を押し返すのは難しいだろう、と信長はいい、くつろいだ様子で、帰蝶の膝枕に頭を乗せます。
「和議じゃな」と、信長はいいます。「刈谷城を渡すゆえ、いくさはここまでにしてくれと、今川に手を止めさせるほかあるまい」
 光秀は驚きます。
「それができましょうか」
 帰蝶も聞きます。
「誰が仲立ちを」
「それがわからん」
 と、信長は小声になります。光秀は思い出します。以前、美濃の守護家の内紛があり、京の将軍家のとりなしで収まったことがあった。帰蝶がいいます。光秀が京に行った折、将軍のそばに仕える者と、よしみを結んだのではなかったか。それを頼ってみてはどうだ。
 美濃に帰ってきた光秀は、将軍にとりなしをしてもらう案を道三に話します。道三は賛成しません。
「そなたの役目はここまでじゃ。ご苦労であった」
 光秀は食い下がります。
「それではあまりに。せめて頼芸様にお頼みし、将軍家におとりなしの議を願い出るのが、美濃の取るべき道かと」
 道三は目を見開いていいます。
「やりたければ勝手にやれ」
 光秀は道三の長男である斎藤高政(伊藤英明)と話をします。光秀は土岐頼芸(尾美としのり)のところへ、自分を連れて行ってくれるよう頼むのです。高政は嫌がります。
「頼む。会わせてくれたら、今後そなたの申すことは何でも聞く」
 と、光秀はいってしまうのです。
 高政の引き合わせで光秀は頼芸に会うことができます。尾張のいくさの件で、将軍家へ和議のとりなしを願えるかと、たずねる光秀。
「それはわしに文(ふみ)を書けということか」
 と、頼芸。
「使者を立てていただいてもよろしいかと。お許しがあらば、私が使者のお供をいたします」
 光秀が言うと、話が思わぬ方向に進みます。道三が頼芸を美濃から追い払い、自分が守護につこうとしている、と頼芸がいい出すのです。高政が頼芸にいいます。
「それがまことなら、私にも覚悟が」高政が頼芸にいいます。「私がお館様(頼芸)をお守りし、父、利政(道三)を」
「殺せるか」
 と、問う頼芸。うなずく高政。
「文を書こう。紙と筆を持ってまいれ」
 と、頼芸はいうのです。
 そのころ京では、細川春元と三好長慶による戦いが起こっていました。十三代将軍である足利義輝(向井理)は、近江に落ち延びることを余儀なくされます。京、近江一帯は、長慶による取り締まりが厳しく行われていました。
 光秀は将軍に会いにやってきていました。宿を断られた光秀に、声をかけてくるものがいます。その男こそが京でよしみを結んだ細川藤考(眞島秀和)でした。藤考はいいます。将軍は今、朽木に落ち延びている。自分は何とか将軍が京に戻れるよう、京と朽木を行き来している。
 光秀は藤考の案内のもと、朽木にたどり着きます。将軍義輝に拝謁(はいえつ)し、頼芸の文を渡すことに成功するのです。将軍義輝は、光秀が藤考にいった言葉を覚えていました。将軍は武家の統領であり、武士を一つにまとめ、世を平らかに治めるお方である。今、世は平らかではない。将軍が命じなければならない。争うなと。それを聞いて義輝は励まされたというのです。義輝は立ち上がり、雪のちらつく庭を眺めながらいいます。
「そなたの申す通りじゃ。いまだに世は平らかにならぬ。わしに力が足りぬゆえ、このわしもかかる地で、このありさまじゃ」
 将軍奉公衆が嘆きの言葉を出します。将軍義輝は続けます。義輝の父がいっていた、立派な征夷代将軍となれ。世を平らかにできるような。
「さすれば麒麟が来る。この世に麒麟が舞い降りると。わしは父上のその話が好きであった。この世に、誰も見たことのない麒麟という生き物がいる。穏やかな世をつくれるものだけが連れてこられる、不思議な生き物だという」将軍義輝は光秀を振り返ります。「わしは、その麒麟をまだ連れてくることができぬ。無念じゃ」
 そういって将軍義輝は嗚咽(おえつ)するのです。義輝は座に戻り、今川と織田について、両者に和議を命じることを約束するのです。

 

『映画に溺れて』第359回 鬼火

第359回 鬼火

平成十九年一月(2007)
阿佐ヶ谷 ラピュタ阿佐ヶ谷

 怪談でもホラーでもないのに、これが妙に怖いのだ。
 終戦後の東京。
 加東大介ふんする主人公はガスの集金人である。昔は銀行の自動引き落としなどないから、受け持ち地区を一軒一軒、集金人が料金を集めて回る。
 勝手口から覗き込んで、無人の台所にガスがつけっぱなし、湯が煮立っていたりすると、親切に火を止めて、そこの家の主人に叱られたり。悪い人間ではない。
 新しい担当地区に支払いが滞っている家がある。戦前は金持ちだったらしいが、戦後は没落して苦しい生活をしている様子。
 この家の奥さんが津島恵子。病気で寝たきりの夫が宮口精二。落ちぶれたとはいえ、奥さんはなかなかの美人。
 ガス代が払えなければ、ガスを止めるしかない。
 が、そうなるとこの家は病人の薬を煎じることができないので困るのだ。
 そこでガスの集金人はよからぬ欲望を抱く。ガス代はなんとか立て替えてやるから、夜、俺の下宿へ来い。そんな提案を持ちかける。
 そして、その夜、待っているとほんとうに奥さんがやって来る。
 そこから一気に怖い結末となる。
 怪談ではないが、最後、ぞっとした。
 原作は吉屋信子。脚本は菊島隆三
 そういえば、加東大介津島恵子宮口精二も三人とも『七人の侍』に出ているのだ。

 

鬼火
1956
監督:千葉泰樹
出演:加東大介津島恵子宮口精二中村伸郎、中田康子