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書評『光秀の忍び』

書名『円也党奔る 光秀の忍び』
著者 早見 俊
発売 中央公論新社
発行年月日  2020年7月15日
定価  ¥700E

 

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

  • 作者:早見俊
  • 発売日: 2020/07/09
  • メディア: 文庫
 

 

 明智光秀といえば「本能寺」だが、本作品は、姉川の合戦の2年後の元亀3年(1572)7月ころから、足利義昭が京都を追放され、「天正」と改元されるまでを歴史背景とした時代小説である。
 「天下布武」の道を驀進する信長だが、元亀から天正に至る数年間、信長は四面楚歌の危機的状況にあった。いわゆる信長包囲網である。信長は四方に敵を抱えた上に、都では将軍家に陰謀を巡らされている。信長の苦境の源は武田信玄にあった。信玄が立つからこそ、浅井、朝倉、一向宗徒、六角の残党らが兵を挙げたのである。

 さて、本書のスタート。元亀3年(1572)7月、朝倉義景浅井長政を援護すべく2万の軍勢を率い、小谷城近くの大嶽山(おおずくやま)に陣を構えている。難攻不落の小谷城を見据える虎御前(とらごぜ)山の信長本陣では、信長は光秀の意見を待っている。当時、光秀は前年9月の比叡山延暦寺焼打ちの功で近江滋賀郡を拝領し坂本に築城していた。信長ならば、民が笑って暮らせる平穏な世を招き寄せることができると信じる光秀は、そのためにはこの世を業火で焼き尽くす荒療治が必要であると、信長の鬼畜の所業を認めている。光秀は語る。「没収した延暦寺の所領の一部を手土産として、朝倉に兵を引かせます」と。撤兵を請け負った責任を問われるのを覚悟で、織田軍団の諸将の前で言い放つ。

 光秀を支えるのが書名に現れる「円也(えんや)党」、光秀の諜報機関である。その首領の遊行僧・百鬼円也(なきりえんや)は光秀が斎藤道三が息子の義龍に討たれた際に牢人し越前に逃れ、越前国坂井郡長崎村にある時宗の寺院、称念寺(しょうねんじ)門前で寺子屋を開き糊口を凌いでいた頃からの昵懇の間柄。美濃国明智荘の生まれの円也はいつしか光秀と親しくなった。円也には、遊行僧の一舎(いちしゃ)、修験者の妙林坊(みょうりんぼう)、比丘尼集団を率いる茜(あかね)、 牢人の来栖(くるす)政次郎(まさじろう)など、優秀な配下がいる。光秀は彼らを円也党と呼び、頼りとしている。光秀は策を弄するに円也党を使うのである。

「大嶽山の朝倉本陣に行き、越前への撤兵を企ててくれ」、「義景の子阿君丸の命を奪え」、「義景から疎んじられているらしい朝倉家中の奉行衆前波(まえば)吉継(よしつぐ)を寝返らせよ」等々。
 彼らは光秀が欲する役目を果たすべく光秀の期待以上に働いてきた。変装の名人の円也は、ときに光秀に成りすます。物語の後半で、武田勝頼(たけだかつより)に成りすました円也が信玄を謀殺するシーンも。
 無人斎道有こと武田信虎(たけだのぶとら)の造形にも引き付けられる。都大路風林火山の旗が翻ることを悲願とする信虎は30年ぶりの信玄との親子対面を策すが、果たせぬと知るや、孫の勝頼に「信長を滅ぼし、天下を取れ」と。
元亀3年(1572)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲斐を出陣。が、円也党の働きで朝倉勢はすでに越前に引き揚げている。信玄は義景の撤兵を裏切りだと詰る一方、12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川(とくがわ)家康(いえやす)を完膚なきまでに撃ち破る。朝倉勢が越前に引き揚げ、信長がほっと安堵したのも束の間だった。信玄恐るべし。信長の危機は信玄の西上によってこれまで以上に深刻なものとなるばかり。光秀の指令を受けた円也は信虎と共に武田勢に接触を試みる。
 年が明けた元亀4年(1573)信玄が鉄砲の流れ弾に当たったという噂が流れ始める。ついに武田軍の西上は中止され、信長は危機を脱した。
「義昭公がおわす限り、信長公の基盤は固まらぬ。義昭公は天下静謐にとって大きな妨げなのだ」と認識している光秀は、「足利将軍家が京の都にある限り、戦乱は終わらず、闇は晴れない」と信長に、義昭追放を献策する。たとえ信玄が没しても、義昭が信玄に代わる大勢力として、義昭が、例えば上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)に信長打倒を要請することは自明のことであった。
 義昭を都より追放するために、光秀は信長に、「公方様には信玄が生きている、必ずや上洛の軍を催すと信じさせるのです」と。

 一方で、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)に「上様を裏切り信長公へ寝返ること」の決心がついたかと迫る。織田家の譜代でもない光秀が越前の朝倉家で藤孝と出会っていなかったら、信長に仕えることもなく、秀吉と並び立つほどの地位を占めることも望めなかったはずである。義昭を擁立した信長を天下人へと担ぎ上げたのは、光秀と藤孝の二人三脚があったればこそである。躊躇する藤孝を前にして光秀は語る。
「戦国の世、いかにして生き残るか模索する日々でござる。己の判断一つで家名が保たれ、滅びもする」。藤孝へのこの光秀の語りからは、かつて朝倉義景の撤兵を請け負った際に円也に語った、「牢人の身からの成り上がりだ。城と領地を取り上げられたとて、元に戻るだけだ。それよりも、私は己の誇りを失いたくはない」の言葉とともに、光秀の誇り、矜持がたしかめられ、ひいては光秀がなぜ本能寺の変をおこしたかの心情を連想せずにはいられない。運命そのものというべきか、後に光秀は藤孝の判断一つで滅びゆくのであることを後世の我々は知っている。
 義昭を裏切ることを決心した藤孝に、光秀は「上様(=義昭のこと)、そして近臣方には信玄重傷のことを伏せ、武田勢の勢い留まるところを知らず、春には都に達する勢いであると、お伝えいただきたい」と。
 かくして藤孝は、死んだも同然の信玄の軍勢が実は死んではいないと虚言する。果たして義昭は4月と7月、二度にわたって信長打倒の兵を挙げた。二度目は許さない信長によって、義昭は京都より追放され、天正改元される。
 信玄の死は秘されたが、義昭が信玄の生存どころか上洛を信じて疑わなかったのは戦国史の謎である。義昭が二度も兵を挙げたのは、武田信玄上洛を信じていたからであり、義昭に信玄上洛を信じ込ませたものは何か、――と作家は振り返りつつ、物語を綴っている。
元亀から天正改元された年の円也党の働きが、信長を滅亡から救ったのである。円也とその一党の働きは歴史の表面には決して現れない。
ラストシーンは、光秀が「円也党の働きで信長公は天下人だ」と語り、円也が「信長を天下人に押し上げたのは、あくまでも明智十兵衛光秀」と返す。笑顔と沈黙の後、二人が腹を抱えて笑うシーンである。
やがて光秀が魔王織田信長の先達となって骨身を惜しまず忠節に励んできたことを後悔する日が巡って来ることを知るや知らざるや。
早くも、続巻がたのしみである。  

 実は、早見(はやみ)俊(しゅん)には本能寺の変を中心として信長を操り、見限った男・明智光秀を描いた作品『魔王の黒幕 信長と光秀』 (中央公論新社 2020年7月25日刊行)がある。丹波亀山城から本能寺に進軍する数時間に光秀の生涯を凝縮させた歴史小説である。同時期に書かれた、歴史小説と時代小説の、これら2作品を併読すれば、「光秀とは何者か」を希求する作家の端倪すべからざる広大な意図の一端を知ることができるだろう。

 早見俊は1961年岐阜県岐阜市生まれ。法政大学経営学部卒業。「居眠り同心影御用」「佃島用心棒日誌」で第6回歴史時代作家クラブシリーズ賞を受賞。

                (令和2年9月13日 雨宮由希夫 記)

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『映画に溺れて』第389回 ゴシック

第389回 ゴシック

昭和六十三年五月(1988)
新宿歌舞伎町 シネマスクエアとうきゅう

 

 怪物を創ったのはヴィクター・フランケンシュタインだが、そのフランケンシュタインを創造したのはうら若き乙女であった。という秘話を描いたのがケン・ラッセル監督の『ゴシック』である。
 十九世紀初頭、スイスのレマン湖畔。英国貴族で詩人のバイロンが、詩人仲間のパーシー・ビッシュ・シェリーをともない、山荘で遊ぶ。シェリーの愛人でまだ十代のメアリ・ゴドウィン、その義妹でバイロンの愛人でもあるクレアが同伴し、バイロンの主治医のポリドリもつき従う。
 バイロンが提案する。みんなで怪談を創ろうじゃないか。
 そこで生まれたのがメアリの人造人間の物語で、メアリはその後、シェリー夫人となり、『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を出版する。
 芸術と退廃と貴族趣味、そしてエロスと恐怖。当時のヨーロッパは『会議は踊る』の時代であり、ちなみにわが国の江戸は文化文政の享楽時代であった。
 配役は豪華で、バイロンガブリエル・バーンシェリーがジュリアン・サンズ、メアリがナターシャ・リチャードスン、クレアがミリアム・シル、そしてポリドリにティモシー・スポール
 上映されたのは新宿歌舞伎町のシネマスクエアとうきゅう。この映画館はアート系単館ミニシアターのはしりで、館独自でシネマスクエアマガジンという雑誌タイプのパンフレットを発行していて、これを集めるのも楽しみだった。
 もう一本、スペイン映画『幻の城』も同じ題材で、ヒュー・グラントバイロンで主演だったが、あまり印象に残らず、『ゴシック』ほどは話題にならなかったと思う。
 なお、ブライアン・W・オールディスのSF小説『解放されたフランケンシュタイン』はロジャー・コーマンによって映画化されたが劇場未公開のためVHSで観た。タイトルはシェリーの詩劇『鎖を解かれたプロメテウス』をもじったもの。

 

ゴシック/Gothic
1987 イギリス/公開1988
監督:ケン・ラッセル
出演:ガブリエル・バーンジュリアン・サンズ、ナターシャ・リチャードスン、ミリアム・シル、ティモシー・スポール

 

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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十二回 京よりの使者

 桶狭間の戦いから四年後の永禄七年(1564年)、冬。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、いまだ越前国で浪人生活を送っていました。

 この頃、京は三好長慶山路和弘)が完全に実権を掌握していました。松永久秀吉田鋼太郎)は大和の国(現在の奈良県)を任されています。将軍足利義輝向井理)は、長慶の完全な傀儡(かいらい)となっていました。

 関白の近衛前久本郷奏多)は、義輝と話していました。帝(みかど)に改元のお伺いを立てるのが、代々将軍家の勤めです。しかし義輝はそれをしようとしないのです。義輝は前久にたずねます。

「それがしを将軍と思われますか」

「なんと」

 と驚く前久。つぶやくように義輝はいいます。

「京を治めているのは誰であろう。私ではない。三好長慶です。私には何の力もない」しまいに義輝は言い放つのです。「帝が何ほどのものですか。武家の後ろ盾がなければなにもできぬではありませぬか」

 越前の光秀を訪ねてくる武士がいました。光秀の良き理解者で、将軍奉公衆の細川藤孝眞島秀和)です。再開を喜び合う二人。光秀は藤孝に二人の娘を紹介します。

 食事をすませ、光秀と藤孝は改めて酒を酌み交わします。

「京で何かありましたか」

 率直に光秀はたずねます。藤孝は杯を置きます。

「実は近く二条御所で能が催されるのですが、十兵衛殿もぜひ京へと。共に見たいと、上様がおおせでございます」

 驚く光秀。

「公方様が。私を」

「上様は十兵衛殿を以前から買っておられますので」打ち明けるように藤高は話します。「上様は変わってしまわれた。都は今、以前にも増して三好の力は強くなり、上様はないがしろにされているのです」藤孝は光秀を見すえます。「将軍としての務めを果たそうとせず、怠惰な日々を送っておられます。それではいけませぬと、われら奉公衆がお諫(いさ)めしても耳を貸さず、かたくなに心を閉ざしておられるのです」藤孝は訴えます。「十兵衛殿。京へおいでいただきたい。そしてできることなら、上様のご真意を探っていただきたい」

 子供たちが寝入り、光秀は妻の熙子(ひろこ)と話します。光秀は熙子に、京に呼ばれたことを打ち明けます。お行きになりたいのですね、という熙子に、光秀はうなずきます。

「この越前に来て、もう八年になる。しかし相も変わらぬ、この暮らし向きだ。子供たちに読み書きを教えるのは、それはそれで楽しいが、これで良いとは思うてはおらぬ。もっと何かできることがあるはずだ。その何かを見つけるためにも、京へ行ってみたい。己の力を試してみたいのだ」

 熙子はいいます。

「よく分かりました。どうぞ行ってらっしゃいませ。あとのことは案ずることはありません」

「すまぬ」

 と、光秀は妻に頭を下げるのでした。

 京にいる医者の望月東庵(堺正章)は助手の駒(門脇麦)と、些細なことから喧嘩をしてしまいます。駒は東庵の宅を飛び出していまいます。駒の向かった先は、旅芸人の一座で以前、世話になった伊呂波太夫尾野真千子)のところでした。

 伊呂波太夫は客と双六をしていました。その客は関白の近衛前久だったのです。伊呂波太夫は子供の頃、近衛家に拾われ、そこで育てられました。前久は太夫の弟のような存在だったのです。太夫をたずねた駒は、大和の国に共に行かないかと誘われます。大和を治める松永久秀の妻が死に、松永が鳴り物禁止のお触れを出していたのでした。興業ができなくて困っている大夫は、そのお触れを取り下げてもらうために、前久と一緒に大和に行こうとしていたのでした。

 松永久秀は三年前に築いた多聞山城にいました。前久は松永久秀と対面します。前久は改元を見送ることを松永に告げたあとにいいます。

「ときに松永、先日、妙な噂を耳にした。将軍を亡きものにせんと企んでいる輩(やから)がいるというのじゃ」

 松永はそれに笑ってみせるのです。

 駒はその頃、大和の街を歩いていました。人々がある僧侶に群がっていました。僧侶は集まってくる者たちに物を与えています。ある老婆は、駒に、僧侶が「生き仏のようなお方じゃ」と話します。駒は歩き去る僧侶に話しかけます。僧侶の名は覚慶。後の将軍、足利義昭になる人物でした。

 その夜、伊呂波太夫は、鳴り物禁止の件について、松永久秀と話していました。松永は拒絶しますが、そのそばから大夫を口説く始末です。

 京の二条御所に、光秀が到着していました。光秀の来たことを喜ぶ将軍奉公衆の三淵藤英(谷原章介)。三淵は光秀に驚くべきことを告げます。

「能を見たあと、上様からそなたに話があるはず。恐らく、三好長慶を討てという話だろう」

 光秀は困惑します。

「どういうことでございましょう」

「実は、我らもいわれたのじゃ。三好を斬れと。将軍家に力を取り戻すためには、三好を成敗するほかないと」

「ひょっとして、そのために上様は私を」

「そうかもしれぬ。どう受け止めるかは、そなたしだいじゃ」

 能が行われます。その後、光秀は将軍義輝と話をします。

「お告げの通りじゃ」と義輝は切り出します。「夢に観音菩薩が現れてな。菩薩がわしに告げられたのじゃ。越前から助けが来る。それを頼みにせよとな。そなたのことじゃ」

 義輝はあることを頼もうと思って光秀を呼んだと言います。しかし逡巡(しゅんじゅん)の態度を示すのです。

「だが、よう分からなくなってきた。正直に言おう。三好長慶を討てと、そなたに頼もうと思うていたのじゃ。今、京がどうなっているか、そなたも知っておろう。三好の力はますます強くなり、将軍の権威は地に落ちてしもうた。それを取り戻すには、三好を成敗するほかない。されど頭を冷やしてよう考えた。武家の鑑(かがみ)でなければならぬ将軍が、己の意にそわぬからと、その者の闇討ちを企ててはますます将軍の権威は落ちる一方じゃ」

「仰せの通りにございます」

 光秀は深く頭を下げるのです。将軍は言います。

「十兵衛、覚えておるか。昔そなたに、麒麟の話をしたのを」

 光秀はわずかに微笑みます。

「はい、しかと覚えております」

「わしは麒麟を呼べる男になりたいのじゃ。それは将軍になってからずっと願い続けてきた事じゃ。しかし、思うようにならぬ。やればやるほど皆の心はわしから離れていく。何もかも、うまくいかぬ」

 光秀は意を決したように口を開きます。

「上様。恐れながら、わたくしに考えがございます。将軍家に力を取り戻すには、強い大名の支えがいります」

 義輝はいらついたように言います。

「分かっておる。しかし誰も呼びかけには応じぬ」

尾張織田信長がおります。今川義元を討ち果たし、強く、大きくなりました。あれはただ者ではありません。勢いがあります。信長が上洛し、上様をお支え申すなら、大いに力になりましょう」

「上洛してくれるのか」

「わたくしがお連れいたします」

「ならば十兵衛。そなたに託す。織田信長を連れてきてくれ」

 翌日、光秀は京の街を歩いていました。思いついて望月東庵の宅をたずねます。光秀は昨夜の興奮が収まらず、東庵に対してまくし立てるのです。

「あるお方に会(お)うて参りました。私が大事に思うておるお方です。そのお方は、迷うておられました。雲がかかった月のように。その雲を払うて差し上げたい。私はそのための手立てを申し上げた。しかし、この先のことを思うと、大きな山を前にしたような心地がいたします。果たしてこの足で、その山に登れるのかどうか。しかし、登るほかはありませぬ」

明治一五一年 第16回

明治一五一年 第16回

誰かの背中を
眺めている誰かの
背中を見詰める目の
内側に広がる荒野
はいまだに傷付いて
いく声の端の
踏み外す一瞬である
なら東征する
数えきれぬ足裏の
すでに忘却される一五一年
の記憶される土の香りの
畔から途切れなく
つづく面影の後に
発光する手足の
崩れていく背中を
崩れていく背中
が掬う柔らかさの
焼失する内臓と
街が見失われるすぐ
前に語る河川の
細分される一五一年
からなおも
取り残す一日の時の
重なる血肉が爛れ
ながくくすぶり続ける
歪な歩行の
絡まる色彩は海流
へと注ぎこみ点と点を
結ぶ無数の
駆け抜く背中の静けさに
駆け抜く背中が
映る交点の
孤独に刻み込まれる一五一
年の朽ちかけた掌の裏の
運ばれる陽陰まで
跋扈する閾域
へと南下する指先の
細細とした糸を
結い絡める
青空に刺さる途上の穴の
奥底から引き出される
切れ切れの影が
騒めく海溝の
踏みつける一五一
年の背中を踏みつける
別の背中の
足首は平坦になり
遥かな道筋を辿り
つづける嗚咽の
さらに抜け落ちる
散らばる魂
の破片が渦巻く動きの
裸形の中空に弾ける
失われた記憶の
淡淡と輝く先の
静かになる一五一年
の水が見渡す限り
広がる晴天の

『ひねもすのたり新刊書評』2020年8月号

ひねもすのたり新刊書評 2020年八月号

 新型コロナウイルスの脅威の中で、もともと羅針盤を持てない政治は、右往左往し、経済は深刻な打撃を受けつつある。人間が営々と築き上げてきたものの脆弱さが際立つばかりの今日この頃である。それでもすごいと思うのは、時代小説の新刊はコロナを忘れさせてくれる面白さに溢れていたと言う事である。

 先陣を切って紹介しておきたいのは、2020年「小説 野生時代 新人賞」を受賞した蝉谷めぐみ『化け物心中』(野生時代八月号掲載)。恐るべき才能を秘めた新人が登場してきた。三人の選考委員がこぞって評価したのは<個性> であった。つまり、作者にしか書けない世界が描かれていると言う事である。

小説 野性時代 第201号 2020年8月号 (KADOKAWA文芸MOOK 203)

小説 野性時代 第201号 2020年8月号 (KADOKAWA文芸MOOK 203)

  • 発売日: 2020/07/13
  • メディア: ムック
 

  時は文政、所は江戸、鳥屋を営んでいる藤九郎が元立女形の魚之助に呼び出され、中村屋をまとめている座元の所に向かう。二人は「鬼探し」という奇妙な依頼を受ける。これが物語の発端である。新作台本の前読みをしていた役者六人が車座で前読みをしていた時に、輪の真ん中に誰かの頭が転げ落ちてきた。ところが役者は六人のままである。この謎を解いて犯人を探し出せというのが依頼の内容だ。オドロオドロシイ出だしで掴みはばっちりである。

 作者の非凡さは探偵役の二人の人物造形にも見ることができる。藤九郎の人物造形に彫り込まれる鳥屋を始め、ものの観方は感覚的で突出している。この藤之助の視線が色調となっている。魚之助は芝居中に熱狂的な贔屓に足を切られその傷がもとで膝から下を失った。心に鬱積を抱え、悪態をつく。この二人のやり取りも凄味を帯びた会話のやり取りも見せ場の一つになっている。魚の助を何とか役者に戻したいというのが藤之助の思いだ。これが二人の絆となっている。この二人の空気感が物語を支配し、独特の世界を創り上げていく。二人は「鬼探し」の道行と洒落込むが、それは傾奇者たちが芸の道を究めるために鎬を削る地獄めぐりであった。
 余談だが、魚の助の造形を見て、舟橋聖一の『田之助紅』を想起した。江戸末期から明治初年にかけて一世を風靡した澤村田之助で、脱疽の為両足を失い、それでも舞台に立ったという伝説の女形である。山本昌代『江戸役者異聞』や皆川博子『花闇』でも取り上げられている。魚之助の造形のヒントかもしれないと感じた。
 まとめるとまず、語り口の巧さである。流暢で、饒舌、極彩色を帯びた筆勢は、読者を引き込む力を持っている。まかり間違えれば一本調子に陥りかねないリスクを抱えているのだが、それを跳ね返す力強い筆力と精神力を伺うことができる。第二は主役二人の考え抜かれた人物造形である。これが絡み合って、迫力に満ちたラストシーンを演出する。ラストシーンは泣けること請け合いの名場面となっている。
 第三は脇役陣も曲者ぞろいで楽しめる。そして何よりも心を動かされたのは、扉に掲載された『世事見聞録』の言葉である。「芝居が本となりて世の中が芝居の真似をするようになれり。」とある。つまり、これが作者のモチーフであり、物語が現実を超え、現実が物語の真似をするような物語を書きたいという作者の想いが本書を支えているのである。これを現代の戯作者魂という。作者にはこの魂を持ち続けて飛躍して欲しい。
 粗削りであるし、伏線の張り方や仕掛けの施し方には弱いところもある。というのは読者が途中で本を閉じてしまう危険性をはらんでいる作風であることをわかっててほしいと思うからだ。
 今年度ナンバーワンのベスト本である。
 単行本は10月28日刊行予定。

 泉ゆたか『江戸のおんな大工』 角川書店

江戸のおんな大工

江戸のおんな大工

  • 作者:泉 ゆたか
  • 発売日: 2020/07/29
  • メディア: 単行本
 

  著しい成長ぶりを見せた二作目『髪結百花』(日本歴史時代作家協会新人賞受賞)以降、『お江戸けもの医 毛玉堂』、『おっぱい先生』と、いずれの作品も平凡な中に非凡さが伺える着想と作風となっている。着実に力をつけてきた証拠だがそ んな作者の新作は、大工を目指す女性の話である。時代小説は題材の選定に成否の分かれ目があると言っても過言ではない。そのオリジナリティに作家としての着想の質が問われる。その点で作者は大見得を切るような題材を選んでくるわけではない。しかし、光っている。題材マーケティングの隙間を狙ってくるセンスの良さは抜群である。作風も決して華やかではない。それでいてホッとするような穏やかさに満ちている。これが作者のツボである。

 本書は、江戸小普請方の家に生まれ、幼き頃より父の背中を見て育った峰が主人公で、父が亡くなったことで人生の岐路に立たされる。頼りない弟の門作を尻目に、おんな大工として生きていくことを決意する、というのが物語の骨子となっている。こう書いてくると江戸のお仕事小説と思われるかもしれない。同書の良さは男社会や因習の厚い壁に押しつぶされまいと頑張ったり、男勝りの造形が施されたり、フェミニズム的な対応とは、全く無縁な世界を構築しているところにある。

 恐らく作者の狙いは、男と戦うという姿勢ではなく、大工という仕事に誇りを持ち、プロの腕を持っていた父のようになりたいという女性を造形するところにあったと思われる。作者の作家としての仕事ぶりもそのスタンスで貫かれているのであろう。この目線の高さはそのまま本書の目線の高さでもある。

 この目線の高さが上手く機能し、大工や施主の目線とマッチし、独特の雰囲気が現場に醸し出されている。一番印象的だったのは、大工というプロのスキルが要求される現場で、女性でなければ気が付かないデティールを、巧妙な仕掛けとして施したことである。それが竃の普請というエピソードで象徴的に扱われている。これが第一章で掴みの巧さも備わってきた。また各章の出だしに奇妙さを撒き餌とし、
 読者の気をそらさせない仕組みは作者の成長を物語っている。


伊多波碧『父のおともで文楽へ』(小学館文庫)

父のおともで文楽へ

父のおともで文楽へ

  • 作者:伊多波 碧
  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: 文庫
 

  目の前のモヤモヤがゆっくりと消えていくような爽やかな読後感が、本書の持ち味となっている。37歳でシングルマザー、おまけに派遣社員と来れば、現代の閉塞感に満ちた暗い世相では、三重苦を抱えた哀れな女性と思われかねない。これが本書の主人公・佐和子の境遇である。この女性の生き様が爽やかな読後感を与えるわけだから、生易しい作品ではない。と言って小難しい理屈が勝っている作品というわけでもない。力を抜いた文体で分かりやすく描いているというのが特徴で、本書の力となっている。
 その力の根源は佐和子の人物造形の巧さである。元夫との一人娘をめぐる葛藤、派遣先でのいざこざなど決して平穏な日常生活を送っているわけではない。時たまイライラしたり、生理的な嫌悪感に捕まって佇んだりする。これは自然現象みたいなものである。作者は力を込めて描かない。それがいい。
 もっといいのは父親の造形だ。無駄がない。それが佐和子に安らぎを送り込む。娘と父親の関係をこれほどすっきりした形を意識して描いたものは少ない。作者の資質から来るのかもしれない。
 物語は父親が観劇に誘ってくれた文楽を観たことから新たな進展を迎える。と言ってもこれにより物語が劇的に動いていくわけではない。文楽はゆっくり佐和子の内面に巣作りをしていく。この過程が実にいいのだ。文楽の台本が持つ倫理観や価値観を古いと思いつつも、時代を超えて語り継がれた力に飲み込まれていく。いつの間にか佐和子の生き様と撚り合わさって、絶妙な和音を奏でる。作者は前作『リスタート』から脱力を身につけ、新境地を開拓したようだ。これからの昨品から目が離せないぞ。


亀泉きょう『へんぶつ侍、江戸を走る』(小学館)

へんぶつ侍、江戸を走る

へんぶつ侍、江戸を走る

 

  時代小説というジャンルに、この作者のような前代未聞の感性と住所不定ともいえる独創性に満ちた着想を持った作家が、突然前触れもなく出現することがあるのでやめられない。
 主人公の人物造形が今風の若者言葉で言うとヤバいの一言に尽きる。なにしろ趣味は大首絵蒐集に下水巡りという変人。仕事と言えば将軍家重の冴えない御駕籠乃者。意表を衝く造形を狙ったととられかねないが、どっこい考え抜かれた仕掛けが施されているから驚かされる。まず、九代将軍家重を持ってきたことに留意する必要がある。家重は吉宗の長男で15年間、将軍職を務めたが、言語に障害があり、その言語を介したのは側用人大岡忠光のみであった。これが物語に幅を持たす役割を担っている。
物語は、主人公・明楽久兵衛が剣の腕は一級品。ところがアイドル好き。深川芸者の愛乃の大首絵の収集に血眼になっている。そんな愛乃が急死し、事態は一変する。その謎を追った久兵衛に幕閣の手が迫ってくるというもの。久兵衛は前代未聞の逃走劇をしながら謎に迫り、事件を解決する。

 素直な文章で読みやすいし、題材の選定も目の付け所がいい。それを物語として仕上げる能力も申し分ない。新人とは思えない力量を有している。おまけにこの事件を解決するための仕掛けが造形に施越すという達者さである。作者はかなりの曲者で緻密な計算が働いていることが読後わかってくる。
 ただ難もある。新人なのであえて書かせてもらう。久兵衛のへんぶつぶりをもっと密度濃く描けば興趣が盛り上がったと思う。一挙に解決という手法を採っているが、前半に解決につながる伏線を張っておけばもっと面白く読めたはずだ。特に家重の駕籠を担いでいた久兵衛にしか目に映らなかった家重像をエピソードの一つとすべきだったと思う。
 時代小説に新風を送り込める新人の登場である。

『映画に溺れて』第388回 ヤング・フランケンシュタイン

第388回 ヤング・フランケンシュタイン

昭和五十一年一月(1976)
大阪 千日前 大劇名画座

 

 小学生の頃、TVで毎週欠かさず観ていたのが『ザ・マンスターズ』というアメリカのコメディ。毎回マンスター家にちょっとした問題が持ち上がるというホームドラマ仕立てだが、一家の主人のハーマン・マンスターがボリス・カーロフそっくりのフランケンシュタインの怪物、妻は女吸血鬼、息子は狼男、おじいちゃんは天井にコウモリのようにぶら下がっているベラ・ルゴシ風の魔人ドラキュラといった具合。一家の苗字は小学生にもわかる初歩的なモンスターの洒落。このころから私はパロディが好きだったのだ。
 私が映画館で初めて観たフランケンシュタインのパロディはメル・ブルックス監督の『ヤング・フランケンシュタイン』である。
 現代のアメリカで外科医として暮らすフレッド。彼は自分の先祖が忌まわしい伝説のフランケンシュタイン男爵であることを恥じて隠している。トランシルバニアから使者が来て、結局のところ、先祖の地へ行き人造人間の創造を引き継ぐことに。
 ユニバーサル映画のオリジナルに即したストーリーがドタバタコメディ風に展開する。音楽も凝っていて、物悲しいヴァイオリンから、おどろおどろしいオープニングへと続くテーマ曲。そしてフレッドと怪物がアステア風に歌って踊るリッツ。
 フレッド・フランケンシュタインジーン・ワイルダー、怪物がピーター・ボイル、助手イゴールマーティ・フェルドマン、許婚がマデリン・カーン、森の隠者がジーン・ハックマン、家政婦がクロリス・リーチマン、若い女中がテリー・ガー。配役も最高だった。
 なにしろ、ピーター・ボイルはヒッピー殺しの『ジョー』だし、クロリス・リーチマンは『ラスト・ショー』のコーチの陰気な奥さん、マデリン・カーンは『ペーパー・ムーン』の色っぽい娼婦、ジーン・ハックマンは『フレンチ・コネクション』、当時馴染みの個性派俳優がそれぞれとんでもない役を演じていて、私はひたすらうれしかった。
 ジーン・ワイルダーフランケンシュタインの曾孫役のあとは、シャーロック・ホームズの弟で監督、主演する。こちらの共演はフェルドマンとマデリン・カーンだった。

 

ヤング・フランケンシュタイン/Young Frankenstein
1974 アメリカ/公開1975
監督:メル・ブルックス
出演:ジーン・ワイルダーピーター・ボイルマーティ・フェルドマン、マデリン・カーン、クロリス・リーチマ、テリー・ガー、ケネス・マース、ジーン・ハックマン