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書評『利休の闇』

書名『利休の闇』
著者 加藤 廣
発売 文藝春秋
発行年月日  2015年3月15日
定価  ¥1500E

 

 千利休天正19年(1591)2月28日、関白秀吉の命により死を賜って、一言の弁解もせず、自刃してしまう。利休を悲劇的な死に追いやったものは何か。なぜ利休は秀吉に殺されねばならなかったのか。謎に満ちた利休賜死とその原因については、古来、さまざまな説があるが、不思議なことに、現存する千家ゆかりの茶書の中に、利休自刃の事実を記録するものは全く存在しないという。
 古典的名作といわれる野上弥生子の『秀吉と利休』から若くして逝去した山本謙一の秀作『利休にたずねよ』に至るまで、多くの作家がその謎に迫ってきたが、デビュー作『信長の棺』をはじめとする本能寺三部作で知られる加藤廣の待望久しい最新作は、信長・秀吉時代の秀吉と利休二人の位置関係から説き起こし、強烈な個性と信念の持主である利休と秀吉の葛藤と激突を歴史の闇の中に浮かび上がらせ、利休賜死の謎に迫っている。

 「出会い」「蜜月」「亀裂」「対立」「終幕」の5章構成。
 物語は秀吉と利休の「出会い」から始まる。時は永禄7年(1564)、千宗易(利休)は津田宗及、今井宗久に次ぐ三番手の信長の茶頭であり、28歳の木下藤吉郎(秀吉)は織田家中の足軽大将にすぎなかった。足利義輝の招きで上洛した信長が「茶事」に本気になったと知るや、信長の歓心を買うべく下級武士の分際で柄にもなく「茶事」を学ぼうと、秀吉は宗及や宗久への弟子入りを策すが素っ気なく断られる。そこに助け舟を出したのが利休で、以来二人は師弟の絆で結ばれることになると物語られる。
 秀吉時代が始まるのは、本能寺の変で信長を斃した明智光秀を山崎の合戦で屠った、その時からである。山崎の合戦は秀吉の生涯の分岐点となったが、利休にとっても重要な意味を持つ。信長の晩年、織田家筆頭の茶頭の地位にのぼりつめていた利休は信長の死をどのように受け止めていたのであろうか。
 本書での利休は秀吉ににじり寄るべく山崎・妙喜庵の秀吉の陣を目指し、そこで秀吉の指図で茶室「待庵」をつくっている。最初の「出会い」から、十数年が経っていた。60を過ぎたばかりの利休が信長の後継者の道を邁進する40代後半で脂のたぎった秀吉に徴用されるきっかけとなった待庵の建立は茶道をめぐる「蜜月」の象徴といえるのだが、作家が「待庵は茶道観の決定的対立と破局の因とも象徴ともなる記念碑」であるとしていることを読者はおさえておかねばならない。「待庵」の命名者は秀吉自身で、「天下が自然に我が手に帰するのをここで待つ」の意味が込められているとし、実質的な「出会い」である「蜜月」の時期に、すでに「終幕」の予兆が顕れているというのである。
 力関係が逆転していくさまが淡々と綴られる。
 当初、茶事の師匠と弟子として付き合いが始まった利休と秀吉だが、その後秀吉が異例の出世を果たし、ついに関白豊臣秀吉となるに至って、二人の位置関係は逆転する。さらに、かつては利休の茶道に心服していたはずの秀吉だったが、いまや茶道界の第一人者「天下一御茶道の棟梁」として頂点に上り詰めた利休が、秀吉の茶頭という以上に秀吉の側近というべき立場にあり、政治的・軍事的な機密にも関与している一方で、誰しもが天下人となった秀吉に阿る中で利休のみが「にじり口」では武士も町人も対等などと<侘茶>という独自の美学を追及していることに秀吉はいら立ちを隠せなくなる。
 新勢力としての石田三成、旧勢力としての利休。豊臣政権内部の権力構造の力学変化の描写も見逃せない。天正15年(1587)の北野大茶会は京都北野神社の森を会場として催された野外の大茶会であるが、派手好みの「武道茶」茶人としての秀吉が「侘茶」に固執する利休の考え方を少しは改めさせるべく、三成と密かに策した末に実現された茶会であり、利休にとって「寝耳に水」、地獄のような茶会であり、秀吉にとっては待ちに待った野点であったというのである。
 作家は利休のライバルであった宗及、宗久という二人の茶人が残した「茶会記」を丹念に精査し、その茶会に誰が集い、どのような茶道具が使われたかを時系列で観測することで、利休の闇に迫っていくという手法をとり、ついに、一筋の灯火にたどり着いている。
 天正15年、秀吉が大阪城で開いた新年の茶会記に、「(つくも茄子に)似たり」という銘の小さな茶器が記されていることを突き止め、作家はこれを「要注意箇所である」とみなしている。
 信長が38種の茶道具の名物を安土より本能寺に運び込み、本能寺で陳列したことはよく知られた史実である。つくも茄子は陳列された茶道具の一つで、奇妙な形をした小壺ながら、足利義満が愛し、信長がこれを松永久秀から「大和一国安堵」の礼として譲り受けたといういわくつきの天下の名器である。
 小説では、天正15年の新年茶会に今井宗久はこの「似たり」と銘された小さな茶器を「つくも茄子」の模造品として受け止めたが、信長の命令で山上宗二とともに陳列品の選定を行った利休は本物と見破ったはずだと作家は物語り、信長の遺体とともに忽然と消え失せたものがなぜ大阪城の秀吉のもとに現存するのかと当然、利休は疑ったがそれ以上の詮索はやめたとした上で、本能寺の変の直後、本能寺の焼け跡をさまよい、つくも茄子の破片を探しつくした人物、「自称利休の一番弟子」の山上宗二を登場させている。宗二は小田原の北条討伐のみぎり、秀吉の逆鱗に触れ無残にも耳や鼻を削がれて処刑された人物である。
 キィーとなるのは、やはり本能寺の変であった。変の時の利休の足跡、ありようが問題となろう。変前後の利休に関わる一級史料は全く残っていないという。では、さて、本書の作家はいかに描くか。
 利休は変の前年の天正9年2月、豪奢な生活を帝に叱責され、京を追放され、表立って朝廷関係者と会えない立場にあった。変当日の6月2日、利休は本能寺で、人目につかない形で茶の接待に勤めつつ、最後まで居残り、信長が就寝前に囲碁観戦に興じるところまでをそっと見届け、それから本能寺を抜け出し、囲っている市中の女のもとに向かった。以上が作家による<その日の利休>である。
 利休が禁裏から奢侈を理由に戒告されたとは、どのような史料によるものであるか、また、作家の造形によるものであるか。いずれにせよ、利休がそのような不安定な境遇にあったとすれば、「過去の汚点」を払拭すべく身分回復こそが利休にとっての喫緊の問題であったろう。その上に、本能寺の変が起こり、仕えるべき主君が変わったとなれば、ことは尋常ではない。やがて、その事実を知った秀吉は天正13年、「宗易」から「利休」への改名を謀り、しかも帝からの下賜の形で有無を言わさず改名を強要した。かくして、利休は秀吉に対する抵抗と反撃の道を摸索し、両者の戦いはこの時に始まった、と作家は絵解きしている。
 つくも茄子という物言わぬ茶道具ひとつ。<宗易逐電し、自滅す>の一文。歴史の虚実を洗い出し、骨格をできるだけ事実に沿って立てた上で、なお埋め切れない空白部分のみを造形するという、歴史小説を書く上での作家得意の手法は本書においても健在である。『信長の棺』『秀吉の枷』で明かした秀吉の野望を巧みに取り込んで読者の好奇心を刺激させつつ、物語の核心へと誘い、誰も書かなかった、誰も書けなかった利休像、「茶聖」と崇められ神格化された利休とは対極の利休像を作り上げている。
 利休賜死についての最有力説に、世俗の最高権力者と茶の湯という美の世界の最高権力者、政治と芸術、の激突の果ての結末であるとする説があるが、加えるに、秀吉と利休という人物の中に、「政治」と「芸術」の二つの感覚が「本業」と「余技」の意識が蓑をまとってそれぞれに巣食っており、これらの感覚の勃興と沈殿が両者に意地を張らせることとなり、伏流としての悲劇を生んだと本書は語っている。
(平成27年5月4日  雨宮由希夫 記)

利休の闇

利休の闇