『歴史こぼれ話』 第1回「踏絵とキリシタン(その1)」
歴史小説作家、時代小説作家の皆さん、いつも面白い物語をありがとうございます。
さて、最近の皆さんの上梓された作品を読んでみますと、ほとんどの単行本の最後に「参考文献一覧」を載せていることに気がつきます。基本的な史料を調査し、研究書を読み込んでから筆を執られていることがよくわかり、そのご苦労に頭の下がる思いです。史実に即した確固とした設定を構築することは、たとえフィクションであってもそこに「物語のリアル」を与えるための重要な要素になっていることは間違いないでしょう。
ただ私などは、皆さんがお書きになるのはフィクション=作り話であって、人権に対する配慮がなされたうえで、歴史解釈の明らかな誤りさえなければ、自由な想像力の赴くまま何を書いてもいいと思うのですがいかがなものでしょうか。
そして何より歴史研究の世界は日進月歩。従来の学説が否定され、昨日まで常識として考えられていたものが、今日からは新しい歴史認識に取って代わられることも珍しいことではありません。
そこでこのコーナーでは、気になる最新の歴史研究の成果・蘊蓄をご披露してみたいと思います。もちろん私は一介の時代小説ファンで歴史研究者ではありません。したがって、これから記すことは、あくまでも研究者が発表した書籍・論文を自分なりに解釈したものであって、文責はすべて私にあることをあらかじめお断りしておきます。
第1回目の今回は、2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」にちなんで、潜伏キリシタンとその世界に目を向けてみましょう。
さて、かつては隠れキリシタンと呼ばれることが多かった潜伏キリシタンは、遠藤周作の『沈黙』をはじめとする作品に取り上げられ、その苦難の歴史が描かれています(ちなみに私にとっての原体験は、白土三平の『サスケ』で白い着物を着て首に十字架をかけたキリシタン母娘が生きながら火あぶりに合うシーンです)。禁教令下の幕府の弾圧にも耐え、信仰を貫き通した殉教者というイメージが強い彼らですが、最近の研究で悲劇史とは異なるその実相が浮かび上がってきました。
キリシタンへの弾圧、取り締まりと聞いて第一に思い浮かべるものに「踏絵」がありますが、現在の高校教科書では、信仰の対象として崇める神や聖人の画像を踏ませる行為を「絵踏」、踏まされる聖画像類を「踏絵」と区分けして使用しています。なお、「絵踏」に当たる「影踏(えいふみ・かげふみ)」(島原藩・熊本藩)、「像踏」(小倉藩)や、「踏絵」に当たる「影板(えいいた・かげいた)」(熊本藩)という地域ごとの呼称も記録に残っています。
また、私たちは全国いたるところで絵踏が行われていたと思いがちですが、実際に江戸時代を通じて行われていたのは、九州北部の一部(長崎と肥前・肥後・豊前・豊後・筑後の各国にあったいくつかの藩と地域)と会津藩のみに限られていました。キリシタンが多くいた九州というのは何となく理解できますが、本州で唯一行われていた地域が東北の会津藩だったというのも興味深い事実です。
さて、踏絵を使った絵踏は、当時、どのように行われていたのでしょうか。私たちのイメージする絵踏は、町や村の住人が奉行所に集められ、お白洲で役人監視のもと踏絵を順番に踏まされて、どうしても踏めないキリシタンが神の名を呼びながら泣き崩れる……みたいなドラマチックなものではないでしょうか。その後、女性は裸にひん剥かれ、逆さ吊りや蛇責めなど、「ええい、信仰を捨てんかっ」と役人の残酷な拷問が待っている……と、これは石井輝男監督の『徳川女刑罰史』の世界でしたね。
長崎の実例から見ていきましょう。当時の長崎は、長崎奉行所管轄下の天領(町方)と、長崎代官管轄下の郷方に分かれていて、絵踏は町方から始まり、郷方へと移行しました。毎年正月2日に長崎奉行所から町年寄に踏絵が貸与され、翌日には自宅でまずは町年寄の絵踏が行われ、4日から8日まで各町・各戸を巡回し、武士・地役人・寺社方・遊女に至るまで漏れなく実施されました。実施にあたっては正装で役人を迎え入れ、煙草盆や菓子、酒や吸い物を出してもてなすなど華美な接待が行われていたようで、その様子をオランダ商館医のシーボルトが描いた絵が残っています。この絵は教科書などでよく目にすることと思いますが、正月のしつらえが残るなかで行われている絵踏には緊迫感や悲壮感などまったく見当たらず、正月の年中行事となっていた絵踏の様子が描かれています。特に遊女が絵踏をする日には、着飾った遊女たちを一目見ようと貴賎を問わず多くの見物人が押し寄せ、厳粛性を求める町役人とのあいだでしばしば口論に発展したそうです。
町方での絵踏が終わると、次は郷方へ移行します。郷方の絵踏は各家を巡回するのではなく、住民を庄屋宅など特定の場所に出頭させて行っていました。周辺には市が出たりして絵踏が一種の興行化していた実態が見られます。
続いて各藩の実態を見ていきます。
驚かれるかも知れませんが、九州で絵踏を実施していた14藩のうちで自前の踏絵を持っていたのは熊本藩(肥後国)と小倉藩(豊前国)の2藩だけで、残りの藩はすべて長崎奉行所から借用して実施していたのです。長崎奉行所から踏絵を借用することは、取りも直さずその藩が幕府の禁教政策を遵守することを示し、恭順する姿勢を明確にする行為でもありました(自前の踏絵を持っていた平戸藩などは、これを廃棄したうえで貸与を希望しています)。
借用した踏絵をなくす失態をおかした藩もありました。先に書いたように、長崎奉行所は、借用を希望する藩に踏絵を貸し出していました。貸与にあたっては厳重な管理を求め、借用した藩も慎重に取り扱っていましたが、何と文化2年、福江藩支藩の富江藩(肥前国)では絵踏巡回中、天草灘を航行している際に何らかの理由で踏絵1枚を紛失してしまったのです。
大村藩(肥前国)ももともとは自前の踏絵を持っていましたが、長い間使っているうちに毀損したため、満足な絵踏が行われない状況が続いていました。そうしたなか、明暦3年に多数のキリシタンが検挙される大事件(郡崩れ)が起こりました。事の重大さに慌てた大村藩は、即座に長崎奉行所へ踏絵の貸出を申し出ます。絵踏の中断が郡崩れの原因として幕府から糾弾されることを恐れた迅速な対応だったようです。
島原天草一揆で有名な天草地方は、一揆後、支配替えが繰り返されたのち、天領として幕末を迎えます。天草では島しょ部をより効率的に巡回するための3系統の巡回ルートを確立していました。東廻りルートが基本だったようですが、東廻りと西廻りを同時に行い、双方向から行うことでより効率化を目指した年もあったようです。
同じく天領の五箇荘は山間部の僻地であったため、絵踏の実施も大変だったことが記録に残っています。役人はまず天草内で絵踏を行ったのち、海路と陸路で五箇荘に向かい、到着すると庄屋宅の庭で絵踏を行いました。村内の男女は正装して絵踏に臨み、地域社会ならではの統制が取れていたようです。一方、役人側には五箇荘の物珍しさもあってか、物見遊山的な雰囲気が見て取れます。
また、どんな世の中にも表と裏があるように、絵踏にも公然とした免除規定がありました。年貢を早く納めた者や歩行困難者(小倉藩)、藩にとっての功労者や一定額の献金を行った者(熊本藩)、流行り病で村ごと免除された事例(天草)など、いつの世にも通じる「魚心あれば水心」の日本人的抜け目なさに驚かされてしまいます。
ここで紙幅が尽きました。次回は、絵踏の実施にあたって無くてはならない踏絵そのものについて蘊蓄を傾けてみたいと思いますので、よろしければまたお付き合い下さい。
【参考文献】
宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館、2014年)
安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館、2018年)