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頼迅庵の歴史エッセイ12

柳生久通のキャリア(6)

○ 柳生久通の勤務状況等(後編
 
 柳生久通の仕事ぶりが『よしの冊子』という本に出てきます。68頁では、綿密丁寧だと噂していますが、決して褒めているわけではなさそうです。裁許(白州での判決言い渡しだと思いますが)の際に狼狽したことを影で笑っているというのですから、久通に同情してしまいます。
小姓時代は放蕩して吉原に通ったようです。先に「通人」と呼ばれていましたが、夜八ツ半(午前3時)には帰っていたこと。目付就任と同時に吉原通いを止めたこと、を合わせて考えると、久通は基本的に真面目な性格だったと思われます。吉原通いも確かに放蕩とも言えますが、どちらかというと息抜きだったのではないでしょうか。

 久通は病気に罹ったようです。病名はわかりませんが、ここまでから町奉行という重圧による気鬱の病に罹ったものでしょうか。水野若狭守が後任との噂があり、親しい人も才略無き人という評価のようです。ここまで酷いと久通が気の毒なくらいです。(88頁参照)

ついに前職の小普請奉行時代の悪口まで囁かれるようになりました。久通は念は入るが、にわかに智恵も才覚も出ず、小普請奉行時代も下々の者は難儀したといい、その理由があまりに細かすぎることだったというのです。(108頁参照)
しかしながら、年が明けて3月頃のことですが、久通の精勤を知る者は悪く言わなくなったようです。仕事ぶりが評価されつつあることがわかります。(119頁参照)与論は誹っているのだ、という認識のようです。

 この頃のことですが、加役すなわち火付盗賊改の長谷川平蔵の評判が良いようです。長谷川平蔵との比較については、改めて述べます。

御府内であばれ者が居れば、当事者同士で済ませず、すぐに奉行所へ申し立てるように命じたことが出てきます(116頁)。そのため、あばれ者を余り見なくなって、久通の評判が良くなっています。
 この噂の記載が、天明8年7月頃のことですので、10ヶ月が経過し、ようやく認めれれてきたというところでしょうか。真面目にコツコツと仕事をしてきた結果と思われます。ようやく、といった感じでしょうか。
 人がポストを作り、ポストが人を作るといわれることがあります。町奉行として久通は、大岡忠相や石河政朝のような実績はありませんが、このまま続けていれば、もしかしたら何らかの実績を残せたかもしれません。
こうした評判の向上は、久通が左遷される理由にはならないはずです。では、なぜ久通は、1年で勘定奉行に異動となるのでしょうか。

9月に入ると久通の評価は明らかにそれまでと代わります。久通は小普請奉行でしたが、特に普請の事で大きな評価を得ていたようです。そのため、久通が勘定奉行になって、京都の掛かりを命じられるだろうと噂しています(194頁)。確かに『家譜』を見ると、普請の御用で何度か褒賞を得ています。(これについても改めて述べます。)

 久通が老中松平定信に呼ばれたことが話題になっています(197頁)。異動(役替)の命令だったようですが、本人は何のことか分からなかったようです。周りは鑓奉行か小普請支配か新番頭かと噂していたようです。ですが、結局のところ、前評判通り勘定奉行でした。
 ちなみに異動になる場合、前日に登城を命じる文書(老中奉書)が来る慣例になっていました。(『旗本たちの昇進競争』山本博文、角川文庫)

久通は勘定奉行を命じられますが、勘定奉行は大役です。しかしながら、相談相手もあり、大役とは申しながら、一朝一夕の取り計らいですむ事もない。その上綿密の人だから、勘定奉行は良いといっています。勘定奉行に柳生を見立てたのは、定信も目利き上手と評価しています。禁裏御普請御用は、過去に普請での実績もあり綿密な性格の久通には合っているだろうというのです。

京都の作事御用の掛かりも松平織部正ではなく、安藤和泉に命じたことは定信の妙計だというのですが、これは安藤が器量人ではなおことから、久通と付き合っても喧嘩にならず、万事安穏にいくのではないかといい、そこに目をつけた定信はすごいぞと噂しています。久通を勘定奉行に任じた松平定信も評判が良いようです。(198頁)

天明8年5月10日に久保田十左衛門は、勘定奉行を命ぜられます。同じく飯塚伊兵衛は佐渡奉行を命ぜられます。その他の人事異動も良く、今回の9月10日の久通の勘定奉行任命始め歴々への異動もみんな図に当たって、人が嬉しがる。5月といい9月といい、みんな10日に仰せつけられた人たちは実に良い。このようにあたった人事はないと噂されています。(198頁)
人事がここまで褒められたら文句なしでしょう。久通は決して左遷ではなかったことが分かります。この後久通が28年近く勘定奉行の職にあったことを思えば適材適所の人事というべきでしょうか。
4での「左遷」という私の評価は、訂正されるべきかもしれません。

 

注1 頁番号のある部分の引用文は著作権の関係で省略し、私の意訳の文章のみを掲載しました。ただし、私の読み方ですので、気になる方は『よしの冊子』に直接ご確認下さい。『よしの冊子』とは何かについては、(https://ja.wikipedia.org/wiki/よしの冊子)参照。
注2 石河土佐守政武:石河土佐守政朝の養子。享保9年(1724)~天明7年(1787)9月16日、64歳。家禄2,700石。天明7年6月10日町奉行就任。