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書評『倫敦暗殺塔』

書名『倫敦暗殺塔』
著者 高橋克彦
発売 祥伝社
発行年月日  平成18年12月20日
定価  本体657円+税

倫敦暗殺塔 (祥伝社文庫)

倫敦暗殺塔 (祥伝社文庫)

 

 

 東北・蝦夷の物語を蝦夷の側から歴史小説として描くことによって、東北の本当の歴史を語りつぐことをライフワークのひとつとしている高橋克彦には東北の英雄を主人公とする『風の陣』、『火怨』、『水壁』、『炎(ほむら)立つ』、『天を衝く』の「東北のクロニクル」ともいうべき一群の作品がある。
 奈良時代の“宝亀の乱”を描いた『風の陣』の第二次文庫化(講談社文庫、2018年刊)に際し、「文庫解説」を書く栄に浴した私は賢しらに――東北を文化果つる価値のない土地とするあからさまな差別と偏見、傲慢無法なやり方で東北人の誇りを踏みにじったのが東北戊辰戦争の実態だった。誰も書かなかった、書けなかった「明治維新」を期待したい。高橋版「明治維新」によって、古代から近代までの東北の本当の姿が明らかになる――と書いたものだった。「東北のクロニクル」は『天を衝く』(主人公・九戸政実)の戦国末期までで完結したと思っており、〈幕末明治もの〉があることを知らなかったのである。


 高橋克彦は昭和58年(1983) 『写楽殺人事件』で第29回江戸川乱歩賞を受賞して作家デビューした。江戸川乱歩賞を受賞作家は、限られた短い日数のうちに受賞第一作を上梓しなければならない不文律があったが、高橋の場合、受賞作品と受賞後第一作との間には、一年半の時が流れていた。


『倫敦暗殺塔』は昭和60年(1985) 「受賞後第一作」として書かれた(講談社刊)。
『倫敦暗殺塔』。物語は明治18年(1885)にスタートする。
 ロンドン塔で日本人が殺害され、現場には謎の暗号が残された。暗号解読がすすむにつれ、日本での何かが原因になっての復讐劇かと思われるが、意外な人物が最後の最後に浮上してくる、という筋の本格ミステリーである。
 時代背景は「鹿鳴館時代」の呼称のある近代日本の揺籃期である。西郷隆盛大久保利通木戸孝允のいわゆる明治維新三傑はすでになく、国の舵取りは、伊藤博文山県有朋井上馨らに委ねられていた。
鹿鳴館」には何となくロマンの香りが漂い、今でこそ、かの時代は「面白い時代」などといえるが、自国の利益の為なら途上国など平然と食い物にする覇権国家の傲慢さの中で、幕末の開国以来、少しでも早く世界の一流国の仲間入りをしたいという悲願のもとで、あまりにも貧しすぎる当時の日本はあがいていた。
旧幕時代に諸外国と締結した不平等条約を改正すべく、日本が文明国であることを世界に認識させるために、さまざまな方策がとられた。鹿鳴館の建設もその一環であった。明治16年(1883)11月に完成した鹿鳴館は国家の威信をかけて建造された外人接待所である。


 物語の舞台は明治18年の日本・東京であり、1885年のイギリス・ロンドンである。
「あとがき」で高橋は「一冊の形になるまで50冊以上の資料を参考にした」と書いている。あの時代の日本の複雑な政治情況、さまざまな問題を抱えていた時代背景およびロンドンの社会・風俗はもちろん英国をめぐる国際環境をも書き込まねばならないのである。小説と言えども、登場人物は揺らいでも、その時代の史実の根幹を揺すってはならない。デビューしたばかりの作家が「初めての歴史もの」を書くために、いかに心血を注いだか想像するに難くない。
 明治18年(1885)、ロンドンの中心部に開場した「日本人町」で、「日本風俗博覧会」が開かれた。1月10日から5月1日までの112日間に、25万人が押し寄せた。展示物は見世物ごときあやしいものであったが、来場者は大喝采を浴びせたという。「博覧会」とあるが、未開の国・日本のエキゾチックな風俗を紹介する「見世物」が大々的に行われていた。日本風俗博覧会の発起人は日本女性を妻としたオランダ人のタンナケルで、あくまでもタンナケルのイメージしている日本の断片が「博覧」されていた。
 物語では、明治新政府がこの日本人村に潜らせている「あの男」を潜らせ、今後に備えての大博打にとりかかっていて、その成否がすべて日本人村にかかっているとする。読者は、明治新政府が仕掛けた壮大なトリックとは何か、日本人村に絡んだ新政府の陰謀とは何かを手探りながら、頁を括ることになる。

 登場人物の造形・配置が絶妙である。ミステリーの種明かしになるので、これ以上は書けないが、ヒロインのユキ・ブロートンこと中野雪は時代の激変の波をかぶりながら、おぼれ死ぬことなく、己の気性、美貌、才能の力で生きのびた会津藩ゆかりの女性であるのみ記しておこう。

「あの男」とは誰か。もと新撰組探索方にして三番隊組長。会津藩士として土方歳三と共に会津戦争を戦い、警視庁抜刀隊として世に名高い田原坂の戦いを戦った……といえば、歴史時代小説ファンは自ずと知れよう。西南戦争は彼にとって“朝敵”の汚名をそそぎ、会津戦争の借りを返せる千載一遇の好機だった。今や、<明治もの>歴史時代小説ではおなじみのキャラクターになった感のある藤田五郎こと斎藤(さいとう)一(はじめ)は35年前にすでに高橋克彦によって造形されていたのである。
「ミスター・ロクメイカン」外務卿井上馨や、伊藤博文、「死の商人」スネル兄弟の兄平松武平ことヘンリイ・スネル、鹿鳴館を設計したお雇い外国人コンドルらが、虚実まじえた人物とともに登場する明治――会津藩を賊徒の首魁として叩き潰すことによって成立した近代日本――の歴史空間が再現される。

 本作はミステリーの手法による作品で、本格推理としての面白さを堪能できることは勿論だが、歴史の謎を解く歴史ミステリーとしても楽しめる。むしろ、本作のクライマックスというべきは、犯人探しではなく、事件そのものを包み込んだ〈幕末明治史〉の縮図が印画紙のように浮かび上がるところにある。
「正史」の裏面で生きる人々を描くことに力を注いできた作家がつむぎだす人間模様に、趣向あふれる物語構成の巧みさに圧倒される。

 しかしながら、作家によれば、『倫敦暗殺塔』は売れなかったベスト3のひとつであるという。本作は『写楽殺人事件』の後に出したものなのに、浮世絵モノではないということで、人気を得ることができず、写楽以上に心血を注いだ作品だったので、心底失望した、これほど不遇な作品はない、と作家は嘆く。

 祥伝社文庫版の「解説」で、道(みち)又力(またつとむ)(脚本家、作家)は、「早過ぎた小説だった。バブルに向かいつつあった当時の日本では、明治という遠い過去に関心を持つ人間は少なかった。外交や国家間の問題をミステリーに持ち込む手法も、その頃としては異色だった」と指摘する。
 作家はまた「この本を読んだ、あるいは書名を知っている人は本当に少ないだろう。自分は物書きとしてやっていけるという自信をつけてくれたのはこちらの作品かも」と述べている。本作は「若き日の高橋が本物の作家になるべく全身全霊打ち込んだ作品」(道又)であり、棋界の重鎮・高橋克彦の若き日のエンターティンメント大作なのである。
 多くの読者によって読まれることを!

               (平成31年3月20日 雨宮由希夫 記)