『映画に溺れて』第347回 20世紀少年
第347回 20世紀少年
三軒茶屋には以前、映画館がいくつもあった。『20世紀少年』と『20世紀少年第2章』を二本立て通しで観たのも、この町だった。
小学生の子供たちが遊びで描いたディストピアが将来、現実化するという恐怖。
二十世紀末、謎の新興宗教が細菌兵器を使って都市を混乱に陥れ、それに乗じて政界進出を企てる。
町のコンビニ店長ケンジは小学校の同窓会でかつての仲間、原っぱで秘密基地を作って遊んだ友人達と再会。世間を騒がせ社会問題になっているカルト教団の話題が出るが、その教団のシンボルマークに見覚えがあり、ケンジは思い出す。小学生時代にみんなで考えた遊び、未来の予想図。スケッチブックに書かれた「よげんの書」では、二十世紀末に「悪のそしき」が世界征服のために動き出し、細菌兵器で都市を混乱させるという予言。そこには一九六〇年代当時の少年漫画雑誌「サンデー」や「マガジン」の内容とともに、アポロ月世界着陸や大阪万国博が反映され、その未来図を書いたのは幼いケンジだったのだ。
「よげんの書」は大阪の壊滅、羽田空港の破壊と続くが、三十年後の今、それが現実世界で実際に起きている。実行している「悪のそしき」は謎のカルト教団らしい。
教団の力が強大となり「よげんの書」が実現すると、この世界は破滅する。世界征服を企む新興宗教の教祖は、あの原っぱの秘密基地の仲間のひとりに違いない。
ケンジのもとに、今は中年となったかつての有志が集まり教団の犯罪に立ち向かう。
現実のカルト教団による犯罪事件を巧みに織り込んだストーリーの面白さに加え、配役が豪華で見応えあった。
20世紀少年
2008
監督:堤幸彦
出演:唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、香川照之、石塚英彦、宇梶剛士、宮迫博之、生瀬勝久、小日向文世、佐々木蔵之介、石橋蓮司、仲村嘉葎雄、黒木瞳、ARATA、遠藤憲一、及川光博、竹中直人、森山未来、徳井優、竜雷太、光石研、津田寛治、片瀬那奈、石井トミ子、吉行和子、研ナオコ
大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第九回 信長の失敗
天文十八年(1549)。尾張との和議のあかしとして、帰蝶(川口春奈)は織田信秀(高橋克典)の嫡男、織田信長(染谷翔太)のもとに嫁ぎました。
駿河では今川義元(片岡愛之助)が、尾張に攻め込む決意をしていました。竹千代(のちの徳川家康)の父である松平広忠(浅利陽介)は、義元から、すぐに岡崎に帰っていくさの支度をするように命じられました。
しかし松平広忠は、帰路、何者かに襲われて命を落としてしまうのです。
襲撃の後、通りかかった菊丸(岡村隆史)は、松平広忠の遺体を発見します。その脇差を持ち去るのです。
三河の刈谷城。そこで水野信元(竹千代の伯父)が脇差を確認します。於大の方(竹千代の母、弘忠の妻)も脇差を受け取ります。
「広忠殿を殺(あや)めたのは何者じゃ」
水野信元は庭に控える菊丸にたずねます。
「恐れながら、織田の手のものではないかと存じ上げまする」菊丸は言います。「広忠様がお亡くなりになれば、そのあとをお継ぎになるのは竹千代様。いずれ三河一の大名となるべきお方を、織田方がおさえたことになりまする」
竹千代の身を案じる信元。菊丸は言います。
「われらは竹千代様の影となり、命に代えてもお守りいたします」
於大の方も菊丸に声を掛けます。
「そなたがたよりなのじゃ。竹千代を頼んだぞ」
菊丸が去った後、信元は言います。
「織田の意図が分からぬ」
尾張の那古野城では、帰蝶が待たされていました。祝言を前にして、夫となるべき信長が行方知れずとなっていたのです。部屋に、ナタを腰に差し、泥に汚れた衣服をまとった、山にこもってでもいたような男が入り込んできます。男は帰蝶を見ていいます。
「嫁いでくるのは蝮(まむし)の娘と聞いていた。いかな蛇(へび)女かと思うたが、いらぬ心配だったようじゃ」男は足を投げ出します。「わしは織田三郎信長(染谷翔太)。この城のあるじじゃ」
帰蝶は動揺しますが、毅然とした態度で信長にいいます。
「この帰蝶との祝言を放り出すとは、よほどの大事があったのでございましょうな」
昨晩は化け物を探していた、と奇妙なことを信長はいいだします。怪訝な表情を隠そうともしない帰蝶。化け物のことで大騒ぎになっていた、と信長は話します。信長はその化け物の話を信じていたのではありませんでした。しかし村のものは心の底から化け物を恐れています。信長はそれを嘘だと言って放っておいてはならないと思いました。池の水をかい出させ、そこに信長は入って見せたのです。
「村のものと同じ心を持つことじゃ」信長はいいます。「わしが池に入って見せれば、皆が安心するであろう。村の者たちとはまた商売に出かけられる。田を作ることができる。それが大事じゃ。そう思わぬか」
帰蝶の表情が和らぎます。
「されどそちには悪いことをした。すまぬことをした」
信長は帰蝶に頭を下げるのでした。
信長は帰蝶を連れ、末盛城にいる父の信秀に会いに行きます。信秀は上機嫌です。
「美濃とはいろいろあった。されどこれを機に、よろず水に流し、これからは仲よう手をたずさえていこうではないか」
信長は父に、めでたい引き出物があるといいだします。一つの櫃(ひつ)も持ってこさせます。
「この尾張の繁栄には欠かせぬものにございます」
信長の表情はにこやかです。信秀は櫃の中を見て表情を変えます。大きくため息をつき、女たちを下がらせます。信秀と信長は二人きりになります。
「何のつもりじゃ」信秀は問います。「これを見せればわしが喜ぶとでも思うたか。松平広忠の首など」
信秀は立ち上がります。そして
「この、うつけが」
と、信長の頭を扇子で叩くのです。信長は納得ができません。広忠は今川にすり寄り、尾張に攻め込もうとしていた。その広忠を亡きものとし、我らは先手をとった。今、竹千代を擁するわれらは、三河の主をおさえたも同然。
「物事には時機というものがある」信秀はいいます。「これで今川は明日にでも竹千代を穫りに来るぞ。今、戦こうて、勝てると思うか」
信長は目に涙を浮かべます。
「わしは父上にほめてもらえると思って」
「愚か者」
とだけ信秀はつぶやくのです。
帰蝶は信長の母であり、信秀の妻である土田御前(壇れい)と話します。途中、部屋をのぞき、土田御前は信長の弟である信勝を帰蝶に紹介します。その信勝と将棋を行っていたのが竹千代でした。信勝に将棋で負けた様子の竹千代。
「人質の身で、愛想のない子じゃ」
と、竹千代を評する土田御前。
帰蝶は一人、金魚をながめる竹千代に話しかけます。竹千代は金魚について説明します。
「唐(から)より渡ってきたというが、こんなところでは金魚がかわいそうじゃ。国を遠く離れ、狭いところに閉じ込められ、わしとおなじじゃのう」
竹千代は、将棋にわざと負けているのだと帰蝶に打ち明けます。
「せめて信長様がおられればのう」竹千代はいいます。「信長様は将棋が強い。信長様と指す将棋はおもしろい」
そこへちょうど信長がやってきます。すがりつこうとする竹千代。どけ、と竹千代は怒鳴りつけられます。信長は帰蝶を連れて那古野城に帰るのです。
那古野城に帰った信長は、鉄砲の試し撃ちをはじめます。信長は帰蝶にいいます。
「鉄砲は音(ね)が良い。この音を聞くと、気持ちがスッとなる」そして信長は帰蝶を誘うのです。「そなたも試してみるか」
「やりまする」
と、目を輝かせる帰蝶。信長の指南にて、帰蝶は発砲します。
「かようなものとは」
と、鉄砲に驚く帰蝶。
「こりたか」
と、信長にたずねられ、
「楽しゅうございます」
と、帰蝶は返事をするのです。帰蝶は今日、信長が父と何かあったのかとたずねます。
「毎度のことじゃ。気にするほどのことではない」
と、答える信長。
「信長様は、お父上がお嫌いですか」
と、聞く帰蝶。
「いや」と信長は首を振ります。「帰蝶は親父殿が好きか」
「はい」帰蝶は答えます。「時々大嫌いになるとき以外は」
信長は笑います。
「わしも同じじゃ」
この頃、美濃の地では、明智光秀(長谷川博己)が家来の藤田伝吾(徳重聡)と共に米俵を運んでいました。妻木の館に米を持っていくよう、叔父の明智光安(西村まさ彦)に命じられたのです。光秀はそこで不思議な女性に出会います。
「戸を閉めて下さいませ。鬼に見つかってしまいます」
彼女は子供たちとかくれんぼをしていたのです。彼女は花びらを入れたかごを持っていました。子供に見つかった時に、花吹雪を浴びせようというのでした。光秀は思い出します。自分も幼い頃、ここでかくれんぼをしていた。見つけた女の子に花吹雪を浴びた。光秀は女性がその時遊んだ、熙子(木村文乃)だということを思い出すのです。光秀は熙子に「大きくなったら、十兵衛のお嫁におなり」と、いっていたのでした。
明智荘では、光安と光秀の母の牧(石川さゆり)が囲碁を打っていました。牧に問われ、光安は妻木氏に何と伝えたのかを打ち明けます。
「十兵衛もそろそろ、独り身ではさしつかえが出る頃である。聞けば、妻木殿の娘御、熙子殿もそういう年頃である由、よろしくお取りはからいいただければ幸いなり、と」囲碁を打ちながら光安はいいます。「わしもはよう十兵衛に身をかためてもらいたい。兄上が亡くなるとき、約束したのじゃ。十兵衛が身をかため、一家のあるじとなったとき、この明智荘をお返しする、と。わしはそれまで何としても、この城を守ってみせる。そして兄上がそうであったように、十兵衛にも立派な城主となってもらう。それまでもう一息じゃ。ようやく今日まで」光安は牧に向かいます。「約束したのじゃ。兄上と」
そこへ光秀が帰ってくるのです。牧は訪ねます。妻木殿とはどのような話をしたのか。
「庭の話や、山の話を」
一方、京では。望月東庵(堺正章)の助手として働く駒(門脇麦)でしたが、ぼんやりとして、心ここにあらずの様子をしていました。
『映画に溺れて』第346回 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツオトナ帝国の逆襲
第346回 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツオトナ帝国の逆襲
クレヨンしんちゃんを初めて観たのはこの映画からである。二十一世紀の最初の年に作られた『嵐を呼ぶモーレツオトナ帝国の逆襲』はシリーズ中でも出色だと思う。
私は基本的にTVは観ないが、うちの子供が小さかった頃は『ポケモン』『名探偵コナン』『ハム太郎』などいっしょに観ることもあり、これらの劇場版に子供を連れて行った。が、どういうわけか、うちの子はTVでクレヨンしんちゃんを観ていなかったので、私が映画館で観たしんちゃんは『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が最初、それも子供を連れずにひとりで観に行った。
春日部に二十世紀博というテーマパークが作られる。一九七〇年代を中心にあの当時の風景が再現され、大人たちは子供そっちのけで大喜び。魔法使いサリーやウルトラマンやフォークソングの神田川。それだけで、われわれの世代は懐かしい。
しんちゃんの父母たちはこの春日部の二十世紀博を喜ぶ。大人たちは懐かしい匂いの虜になってしまう。子供そっちのけで何度も二十世紀博に通い、とうとう大人の責任を放棄し、子供に返って遊んで暮らすようになる。
しんちゃんたち子供は、そんな大人を冷めた目で見ているが、大人たちがハーメルンの鼠のごとく、二十世紀博のトラックに乗り込み、帰って来なくなると、たちまち食べるのに困る。大人がいなくて電力会社が動かず、夜は暗闇となる。是枝監督の『誰も知らない』に通じる状況。
しんちゃんのグループはコンビニへ食料の調達に行くが、そこには大きな小学生たちがたむろし、幼稚園児のしんちゃんたちは入れない。
このテーマパークは過去に固執する犯罪組織の陰謀であり、目的は二十一世紀の阻止。大人たちを子供時代に逆行させ、一九七〇年代を永遠に続けること。
残された幼稚園児のしんちゃんたちが、力を合わせて、子供返りした両親を救出に向かうという内容で、幼稚園バスを幼児だけで運転する場面、思い切り笑えた。笑いながらも、二十一世紀ははたしていい時代になるのだろうかと、しんみり。
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツオトナ帝国の逆襲
2001
監督:原恵一
アニメーション 声:矢島晶子、藤原啓治、ならはしみき、こおろぎさとみ
『映画に溺れて』第345回 ニューヨーク1997
第345回 ニューヨーク1997
昭和五十六年六月(1981)
大阪 難波 南街文化
一九七〇年代のニューヨークは治安が最悪、犯罪率がうなぎ上りとなる。この事実を踏まえた一九八一年製作の近未来SFが『ニューヨーク1997』である。
一九九〇年代、犯罪者は増加の一途をたどり、もはや従来の刑務所では収容できなくなる。政府はニューヨークのマンハッタン島を巨大な塀で取り囲み、そこを重罪犯専用の刑務所とした。島内には看守などは存在せず、国中から集められた終身犯たちが文字通りの弱肉強食で生息している。
米ソ中の三か国会議に向かう大統領を乗せた専用機がテロリストにハイジャックされて、このマンハッタン島に墜落。大統領はからくも脱出用ポッドで機外に逃れるが、島内の囚人たちに拉致される。
大統領を人質に取った囚人たちからの要求はマンハッタン島の解放。
三か国会議に大統領が出席しなければ、アメリカは国際的に不利な立場になる。が、囚人の要求は飲めない。
そこで、大統領を救出するために、ひとりの男が密かに送り込まれる。
元特殊部隊の有能な戦士でありながら、凶悪犯としてマンハッタンに収容が決まっていた片目のスネーク。大統領を無事に救い出せれば、罪は帳消し。制限時間は二十四時間。それまでに救えなければ、首に仕掛けられた爆弾が作動する。
スネークを演じるのはカート・ラッセル。若い頃はディズニーのSFコメディで気のいい青年だったが、この『ニューヨーク1997』あたりから、強面のタフガイ役が増えた。
警察署長のリー・ヴァン・クリーフ、大統領のドナルド・プレザンス、島内のタクシー運転手アーネスト・ボーグナイン、囚人のハリー・ディーン・スタントンなど、当時の名脇役がいっぱい。
ニューヨーク1997/Escape from New York
1981 アメリカ/公開1981
監督:ジョン・カーペンター
出演:カート・ラッセル、リー・ヴァン・クリーフ、アーネスト・ボーグナイン、ドナルド・プレザンス、アイザック・ヘイズ、ハリー・ディーン・スタントン
『映画に溺れて』第344回 ソイレントグリーン
第344回 ソイレントグリーン
昭和四十八年十一月(1973)
大阪 堂島 大毎地下
悲惨な二十一世紀である。時代設定は二〇二二年。国家は機能しなくなり、利益優先の企業が世界を支配している。
水も食料も不足し、本物の肉や野菜は高価すぎて庶民の口には入らない。トップ企業ソイレントグリーン社が配給する合成食品ソイレントグリーンで人々は飢えをしのいでいるのだ。
このソイレントグリーン社で殺人事件が起きて、チャールトン・ヘストンふんする刑事が調査を始める。
生きる希望を失って自ら安楽死センターへ行く老人を演じていたのがエドワード・G・ロビンソン。この映画が遺作となったロビンスンは当時七十代後半であった。
枯渇した食料をソイレントグリーン社はどのようにして調達しているのか。安楽死センターを裏で経営しているのが、この企業なのだ。
殺人事件を捜査するうち、刑事はソイレントグリーンの材料が何であるか、最後に知ることになる。
水道の蛇口をひねっても水がちょろちょろとしか出てこない場面が忘れられない。
私はまだ十代だったのだ。二十一世紀、それも二〇二二年なんて、はるか先の未来だと思っていたのに。
人口増加と食糧危機、広がる格差、映画に出てくる未来は悪夢だが、二〇二二年という年号だけはまさに今である。食糧自給率をなんとかしなくては。安楽死センターにだけは行きたくないから。
ソイレントグリーン/Soylent Green
1973 アメリカ/公開1973
監督:リチャード・フライシャー
出演:チャールトン・ヘストン、リー・テイラー・ヤング、エドワード・G・ロビンソン、チャック・コナーズ、ジョセフ・コットン
『映画に溺れて』第343回 TIME/タイム
第343回 TIME/タイム
平成二十三年十二月(2011)
六本木 20世紀フォックス試写室
ユートピアの反対がディストピア。経済破綻と貧富の格差、環境破壊や核戦争による荒廃、人類増加による食料危機、コンピュータによる人間の管理、悲惨な未来を描いたSF作品は数多い。もはや人類に明るい未来はあるのだろうか。
時は金なりということわざ、アメリカ映画『TIME/タイム』はそれをそのまま実現した未来である。
遺伝子工学の進歩により、人は年を取らなくなる。二十五歳になると、成長も老化もストップ。そして腕に数字が浮かぶ。残りの寿命があと何年何月何時間何分何秒とまで。数字がゼロになると、命がなくなり、ばたっと倒れておしまい。
この未来世界には金は存在せず、腕の数字が通貨になっている。庶民は一日働き、報酬として時間をもらう。買い物をしたり、バスに乗ったりすると、その分、腕の数字で支払うのだ。コーヒー一杯が四分とか、バス代が一時間とか。
冒頭、アパートに住む若い男女、男が女に向って言う。お誕生日おめでとう、ママ。二十五回目の二十五歳だね。この若くて美人のお母さん、なんと五十歳という設定。外見が二十五歳以上の人がいない世界なのだ。
主人公ウィルは庶民階級、毎日あくせく工場で働き、時間に追われる生活。母親が時間切れで目の前で死亡。
一方富裕層のところには、世界中から時間が集まってくるので、事実上の不老不死、不慮の事故にでも遭わないかぎり、永遠に遊んで暮らしている。
偶然に長時間を手に入れたウィルは、富裕層地区に乗り込み、この不公平な時間システムの秘密を知ることになる。まるでマイケル・ムーアが『キャピタリズム』で描いた歪んだ資本主義社会である。
時間に追われて生きるのもつらいが、永遠に生きるとなると、それもまた大変だ。
TIME/タイム/In Time
2011 アメリカ/公開2012
監督:アンドリュー・ニコル
出演:ジャスティン・ティンバーレイク、アマンダ・サイフリッド、キリアン・マーフィー、オリヴィア・ワイルド、マット・ボマー、アレックス・ペティファー
『映画に溺れて』第342回 13 ザメッティ
第342回 13 ザメッティ
平成十九年九月(2007)
新橋 新橋文化
予備知識なく映画を観ると、残念なこともあるが、得することもある。『13 ザメッティ』が当たりだった。
フランスのどこか小さな町。移民の貧しい青年が雇われて民家の屋根を修理している。家に帰ると老いた母、足の不自由な兄、幼い妹がいて、この若者が賃仕事で家計を支えている様子。屋根修理を頼んでいる家は金持ちだが主人が麻薬中毒らしい。夫婦喧嘩していて、夫は妻に言う。もうすぐ大金の入る仕事の手紙が来るんだ。
若者は屋根を直しながら、そっと聞いている。そして手紙が来た日に、主人は発作を起こして死に、若者は手紙を盗む。盗んだ手紙には鉄道の切符と、待ち合わせ場所のメモと「13」の番号札。青年は死んだ男の代わりに、目的地へと向かう。大金の手に入る仕事を求めて。
そこにはひとりの男が待っており、番号札を見せると、車で森の奥の大きな屋敷へ連れて行かれる。人がいっぱい集まっている。部屋に通され、本人じゃないことがわかる。でも、まあ、人数がそろえばいいということになり、ユニフォームに着替えさせられる。背番号は「13」
なにかのゲームが始まるのだ。不安が高まる。
広間にユニフォームを着た男たちが並んでいる。
ひとりずつ、銃が配られる。
係りの男が叫ぶ。
「弾を一発こめろ」
選手たちがぐるりと輪になって、リボルバーで前の男の頭を狙う。広間の周囲の客席では選手の番号に大金を賭ける金持ちたち。
闇組織が企画する死のロシアンルーレット。生き残れば大金。負ければ死。
私はこの映画を二本立ての一本で観たので、内容も知らず予備知識もなかった。それはまるで、主人公の青年と同じようなはらはらどきどきの体験だったのだ。
13 ザメッティ/13 Tzameti
2005 フランス/公開2007
監督:ゲラ・バブルアニ
出演:ギオルギ・バブルアニ、オーレリアン・ルコワン、パスカル・ボンガール
『映画に溺れて』第341回 カイジ ファイナルゲーム
第341回 カイジ ファイナルゲーム
令和二年一月(2020)
新所沢 レッツシネパーク
暗い未来である。東京オリンピックのお祭り騒ぎが終わると、日本を大不況が襲う。物価は上昇し、町には失業者やホームレスが溢れる。貧富の格差は極度に広がり、ごく一部の政治家と財界人だけが巨万の富を独占する。政治家は税金を引き上げ、福祉を切り捨て、私腹を肥やす。実業家は一般庶民をクズと呼び、搾取してますます膨れ上がる。私利私欲しか頭にない上層の少数者と、生活苦にあえぐ大多数の国民。今の日本の現実を重ねて誇張したような悪夢の世界である。
第一作の『カイジ』では、友人の保証人になったために借金を負わされ、返済のために賭博ゲームをすすめられ、結局地下で強制労働。抜け出すための死のゲーム。高層ビルに渡された鉄骨の細い橋を渡れば大金。落ちれば死。それを高みから見物して喜ぶ金持ちたち。
第二作の『カイジ2』では賭博グループの巨大パチンコに挑戦。
そしていよいよ第三作のファイナルゲーム。政府の陰謀を阻止するため、カイジは死期の迫った大富豪に依頼されて、財界トップの悪徳派遣会社社長との天秤ゲームに挑戦する。制限時間内にそれぞれの受け皿に積み上げられた金額の重いほうが勝ち、負けた側はすべてを失う。悪徳社長は政府と手を結び様々な汚い手を使う。不利な大富豪の金を増やすためにカイジがさらに挑むのが究極の自殺ジャンプ。プレイヤーが選んだ十本のロープのうち一本だけが助かり、あとは落下して惨死。それを政界財界の金持ちたちが競馬を楽しむように金を賭けて眺めるのである。
過去二作同様に今回もカイジが最後に勝つとはわかっていても、やはり手に汗握ってしまうのだ。
私はパチンコも麻雀もポーカーもギャンブルはいっさいやらない人間だが、ギャンブルの映画は面白い。政界財界で大物面しているゲスたちが、一文無しになって自分がクズよばわりしていた底辺に落ちるのは痛快だが、こんな日本の未来は絶対にいやなのである。
カイジ ファイナルゲーム
2020
監督:佐藤東弥
出演:藤原竜也、福士蒼汰、関水渚、新田真剣佑、吉田鋼太郎、松尾スズキ、生瀬勝久、天海祐希、金田明夫、伊武雅刀
『映画に溺れて』第340回 幽霊繁盛記
第340回 幽霊繁盛記
平成二十二年六月(2010)
神保町 神保町シアター
フランキー堺といえば、川島雄三監督『幕末太陽伝』での居残り佐平次があまりに有名であるが、他に大学出の落語家を演じた『羽織の大将』などもあり、本人も桂文楽に師事していたほどで、落語とは縁が深い。
神保町シアターの落語映画特集で上映された『幽霊繁盛記』は古典落語の『死神』が元ネタである。
フランキーふんするは早桶屋の八五郎。早桶というのは、つまり棺桶で、江戸時代は今のように横に寝たまま納まる棺ではなく、円筒形の酒樽や漬物桶のような形だった。
親方のところを独立して、医者の娘のおせつと所帯を持つが、なかなか商売がうまくいかない。
この八五郎がふとしたきっかけで死神と出会い、親しくなる。これが有島一郎でぴったりの役柄。
死神のあとを追っかけ、死人の出た家にすぐに飛び込んで早桶を売り込み、商売繁盛。そうこうするうち、病人の枕元に死神が座ると、それはもう助からない。足元に座っていたら回復するということを知り、医者に転向。
死神のおかげで病人を死ぬか助かるか診たてるだけで、実力はないのに、名医の評判を得る。先生先生とおだてられ、ふんぞり返って女房に嫌われる。
ところが身重の女房が重態となり、驚いたことに、死神が女房の枕元に。なんとか助けてくれと、死神に掛け合うのだが。
人間には寿命というものがあって、だれにも変えることはでない。死神の住まいには無数のろうそくが灯されていて、それはみんな人の命を表している。長いろうそくはまだまだ長生きできる命。短くて今にも消え入りそうなろうそくは死期が間近に迫った命。八五郎は果たして落語『死神』同様の運命をたどるのか。
幽霊繁盛記
1960
監督:佐伯幸三
出演:フランキー堺、香川京子、柳家金語楼、有島一郎、森川信、若宮忠三郎、東郷晴子、沢村いき雄、左卜伝、武智豊子
『映画に溺れて』第339回 しゃべれどもしゃべれども
第339回 しゃべれどもしゃべれども
平成十九年六月(2007)
池袋 シネリーブル池袋1
この映画は二度観ている。最初、池袋のシネリーブルで観て、そのあと、佐藤多佳子の原作小説を読み、もう一度、今度は飯田橋ギンレイホールで観たのだ。
私は映画と原作は別物だと思っている。原作の小説がとてもよくできた傑作なのに、ずたずたに改悪して、配役もひどくて、映画が最低の駄作になっている場合がたまにある。なにとはいわないけれど。
逆にちょっとした短編小説がふくらまされて傑作映画になる場合もある。山本周五郎の『日日平安』が黒澤明の『椿三十郎』になったように。
この『しゃべれどもしゃべれども』の場合はどうかというと、映画と原作はかなり違っている。が、小説もいいが、原作がこれまた、いい出来栄えなのだ。
国分太一ふんする今昔亭三つ葉は二つ目である。なかなか真打になれずに焦っている。祖母とふたり暮らしで、このお祖母ちゃんが八千草薫。で、三つ葉がひょんなことから落語教室を自宅で開くことになる。
美人なのにいつもぶすっとして人付き合いが苦手な五月。大阪から転校してきて言葉をからかわれる小学生の優。元プロ野球の有名選手で引退後は野球解説をしているが、あまりの下手さに自分で落ち込んでいる湯河原。
この三人を相手に落語を教えながら、自分もいつしか成長していく三つ葉。
小説の重要な登場人物のひとりが映画ではいなくなっており、三つ葉の家は小説では吉祥寺だが、映画では都電の走る下町風景に溶け込んでいる。五月も小説ではOL、映画では線路沿いのクリーニング屋の店員。
映画は映像で見せるので、脚色も演出も相当にうまいと思う。
国分の落語、決して達者ではないが、二つ目の役なのでこんなものか。湯河原を演じた松重豊、いつもヤクザか刑事の役が似合う強面なのに笑いのセンスが抜群。師匠の伊東四朗が本物の落語家そのものの貫禄と味わい。
しゃべれどもしゃべれども
2007
監督:平山秀幸
出演:国分太一、香里奈、森永悠希、松重豊、八千草薫、伊東四朗、山本浩司