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頼迅庵の新書専門書レビュー12

『江戸の小判ゲーム』(山室恭子講談社現代新書

江戸の小判ゲーム (講談社現代新書)

江戸の小判ゲーム (講談社現代新書)

  • 作者:山室 恭子
  • 発売日: 2013/02/15
  • メディア: 新書
 

 

 本書の奥付を見ると、2013年2月20日第1刷発行となっています。
 発行後しばらくして買ったのですが、積ん読ままになっていました。それをなぜこの時期に読んだのかというと、江戸の北町奉行から勘定奉行に役替え(現代でいう人事異動)となった柳生主膳正久通のことを調べていたからです。
 本書は以下の4章構成となっています。
第1章  お江戸の富の再配分
第2章  改革者たち
第3章  お江戸の小判ゲーム
終章  日本を救った米相場

 このうち、「第2章 改革者たち」にその柳生久通が登場します。そこでの久通は、北町奉行から左遷されてふて腐れた姿はありません。章題にある通り、まさに改革者として「未来の江戸を築くため、プロフェッショナルなチーム」の一員として、「プロジェクトX」(注1)しているのです。(4ページ)
 今回は特に久通の関わる第2章の「プロフェッショナルなチーム」について述べることによって、本書の紹介に代えたいと思います。
 本書は4つの章の斬新なタイトルのように、「支配-被支配という上下関係の構図に狎れ過ぎてしまった嫌いのある」歴史学の「タテの支配関係でなくヨコの均衡という構図を持ち込んだ」という著者の意欲作であり、そのために著者が持ち込んだ理論は「ゲーム理論」(注2)です。(3ページ)

 松平定信の行った寛政の改革の目玉政策はいくつかありますが、第2章で述べられているのは、棄捐令と江戸市中での七分金積立の2つです。
 棄捐令とは、簡単に言えば旗本・御家人の「借金を棒引きにする」政策です。著者はこれを「棄捐令プロジェクト」と命名しています。(46ページ)
 江戸市中での七分金積立とは、地主が負担している町入用費を節減し、その節減額のうち七分(割)を積み立てて、町民救済に充てようというものです。積立の事務を行う会所を浅草向柳原に設置したことから、著者はこれを「会所プロジェクト」と命名しています。(47ページ)
 そしてこの二つのプロジェクトをずばり「チーム定信」と名付けています。

 棄捐令プロジェクトのリーダーは、もちろん松平定信です。「30歳にしていきなり老中首座に任じられるという破格の昇進を遂げ、颯爽と政治改革に邁進中」と紹介されています。(46ページ)
 メンバーは、まず久世広民(勘定奉行)、「武家と商人の双方の得失に目配りできる視野の広いプランナー」で「プロジェクト成功の立役者」です。(46ページ)
 ついで、久保田政邦(勘定奉行)、「経済畑ひとすじ。米価政策の失を問われて失脚するなどの経歴を重ねた苦労人」のようです。(同上)
 そして、初鹿野信興(江戸町奉行)は、「札差全員を招集して、極秘に準備した驚天動地の棄捐令を申し渡す大役を果たす」こととなります。(同上)
 最後に、山村良旺(江戸町奉行)、「町方行政を歴任」し、「豊富な経験を活かして法案作成に参画」しますが、「棄捐令発布の直前に転勤を命ぜられ戦列を離れる」悲運な人です。(同上)
 その無念、いかばかりだったことでしょう。その気持ち察するに余りあります。仕事でプロジェクト経験のある方なら共感できるのではないでしょうか。
以上4人が正式なメンバーですが、もう一人、業務委託した人物として樽屋与左衛門(町年寄)が紹介されています。
 樽屋は、「市井の裏事情に通暁した実務家」で、「奉行衆の机上プランを実行可能なかたちに落とし込むとともに、定信が原則論に傾いて計画が頓挫しかかった際には裏ルール設定で回避するなど」「しばしばプロジェクトの窮地を救った」人物のようです。(47ページ)

 もう一つの町会所プロジェクトのリーダーは、当然のことながら松平定信です。
メンバーは、こちらも4人。まずは久世広民(勘定奉行)で、前回からの留任です。今度は「担当奉行のひとりとして合議の一角を占めるにとどま」ったようです。「後進を育てようという意図」があったのではないかと著者は推測しています。(48ページ)
次ぎに、柳生久通が登場します。当然勘定奉行で新任です。「職務遂行のためには残業も地方出張もものともしない情熱家」として紹介されています。(同上)
 勘定奉行に異動になって、夜遅くまで居残って部下の不興を買っていた久通ですが、残業をものともしない「情熱家」とは、私にとっては嬉しい評価です。
 さらに、初鹿野信興(江戸町奉行)で、こちらは留任です。「前回のプロジェクトの経験者として町方の調査とファンド設立に尽瘁し」ますが、「プロジェクト成功を目前にして無念の病没」。(同上)さぞや悔しかったことでしょう。
 最後に、山村の後任池田長恵(江戸町奉行)。当然新任です。「プロジェクト終盤に『芥銭』=ゴミ回収費の調査にまで踏み込んだ仕事の鬼ぶりは、まさに元祖・どぶ板行政」と紹介されています。(同上)
 そして今回も樽屋が登場しますが、今回は具体的に関与した形跡は見いだせないようです。(同上)

 棄捐令プロジェクトが、寛政元年(1789)3月立案、同年9月実施。そして、町会所プロジェクトが、寛政2年(1790)3月立案、寛政3年12月実施。山あり、谷あり、無念のリタイアあり。まさに、「プロジェクトX」ではないでしょうか。
 具体的にどのように進展し、実施にこぎつけたのか、現代のプロジェクトとどう違って何が同じなのか、中島みゆきの『地上の星』(注3)を聞きながらお読みいただければ、さらに興味深いのではないでしょうか。(ちなみに、本作は小説ではなく、あくまでも新書専門書の類ですので、ドラマは読者の想像力をフルに使ってください。))

 なお、「第1章 お江戸の富の再配分」では、武家と商人が「win-winの間柄だったこと」、「第3章 お江戸の小判ゲーム」では、貨幣の改鋳(小判の劣化改鋳)がないと江戸の経済が回らなかったことの「なぜ」について述べられています。こちらも斬新な視点が興味深いです。

(注1) 正式名称は、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』、NHK総合テレビで2000年3月28日~2005年12月28日まで放映されたドキュメンタリー番組。
(注2) 社会や自然界における複数主体が関わる意思決定の問題や行動の相互依存的状況を数学的なモデルを用いて研究する学問。といってもちんぷんかんぷんなので、著者の「はじめに」から引用すると、「それぞれのプレイヤーなりの行動の選択肢=戦略があって、個々のプレイヤーが自分の利得を最大化するように行動したら、どんな均衡が導かれるのだろうかという問題の立て方」をする理論だと述べています。
(注3) 中島みゆきの37作目のシングル。2000年7月19日発売。

 

『映画に溺れて』第371回 一度死んでみた

第371回 一度死んでみた

令和二年二月(2020)
築地 松竹試写室

 

 この世に生まれた以上、人は必ず一度は死ぬ運命である。生まれてすぐに亡くなる赤子もいれば、九十、百まで長生きし天寿を全うする老人もいる。死に方も病気、事故、犯罪、戦争など様々。今は新型コロナウィルスが世界で蔓延しており、毎日多くの人々が亡くなっている。感染者や死亡者が日に日に増える状況はまるでSF映画の悪夢のよう。
 人口の過密する東京も外出の自粛で映画館も試写室も上映はない。今年の三月以降はほとんど映画を観ていないが、二月にはまだ普通に試写があったのだ。その一本がコメディの『一度死んでみた』である。
 いきなり「死ね、死ね、死ね、死ね」を連発するデスメタルバンド。ボーカルの七瀬は大学の薬学部に通う女子学生で、製薬会社の社長の娘。父親と二人暮らし。父が死ぬほど大嫌いで、ステージで歌う「死ね、死ね、死ね」は、病気の母の臨終にも立ち会わず会社で仕事をしていた憎い父親に向けたものなのだ。
 父の野畑は会社で若返り薬を開発中だが、その副産物として二日間だけ完全な仮死状態となる薬ができてしまう。それをジュリエットと名づけ、自分で試す。すると実際にあの世からお迎えが来て三途の川を渡りそうになる。父の急死を知らされ驚く七瀬。
 野畑製薬に潜入しているライバル会社のスパイがこの事実を知り、野畑が蘇る前に急遽葬儀を行い火葬してしまおうと企む。さらにそれを知った若手社員が七瀬と協力して火葬を阻もうとする。それを半分幽霊となった父が横から見てあたふたする。ドタバタである。
 娘が広瀬すず、父親の社長が堤真一、若手社員が吉沢亮、あの世からの案内人(死神?)がリリー・フランキー、死んだ母親が木村多江、産業スパイが小澤征悦、ライバル会社の社長が嶋田久作、仮死薬を開発した研究員が松田翔太、その他、小さな役も豪華で妻夫木聡佐藤健、でんでん、池田エライザ古田新太竹中直人らがちらっと出てくる。
 今のような時期はこういう映画で大いに笑うことが大事なのだが、三月二十日の公開後、すぐに自粛が始まって、はなはだ残念。一日も早いコロナ禍の収束を願うばかりである。

 

一度死んでみた
2020
監督:浜崎慎治
出演:広瀬すず吉沢亮堤真一リリー・フランキー小澤征悦嶋田久作木村多江松田翔太

書評『明治零年』

書名『明治零年』
著者 加納則章
発売 H&I
発行年月日  2020年4月24日
定価  各 本体1800円(税別)

 

明治零年 サムライたちの天命

明治零年 サムライたちの天命

  • 作者:加納則章
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 単行本
 

 

 激動の幕末の諸藩。北陸の大藩である加賀藩も例外ではなく、尊王と佐幕で揺れた。元治元年の禁門の変に際しての退京事件で、攘夷派を粛清してしまった加賀藩は維新の波に乗れなかった。鳥羽伏見の戦いでは、幕軍として戦う予定で出兵するが、上京途中で幕軍の敗北を知り撤兵。慌てて新政府への恭順を表明すべく混迷した。
 幕末維新ものの歴史小説といえば薩長土肥などの藩を舞台とするのが常だが、百万石の雄藩であった加賀藩が主役になっているところがまず珍しい。
「昨年末に突然、王政復古が宣せられて、鳥羽伏見での幕軍敗北、つい先ごろの江戸城明け渡しと、この4カ月で徳川政権は完全に消滅した」ところが物語の時代背景である。
 西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(1828~1877)は江戸無血開城後の芝増上寺で、「加賀、越中能登の三州にて前田家が朝廷方、旧幕方に与せず、独立国の宣言をする」との噂を耳にする。
 加賀藩年寄で佐幕派の首領の長連(ちょう)恭(つらやす)は、前年の慶応3年10月14日に発せられた倒幕の密勅は偽勅であるとの証拠をつかみ、「薩長こそ天下の逆賊である」として割拠論を唱えていた。その長も口止めのため暗殺されたとの疑いがあるとの情報をも、西郷は掴んでいた。「三州割拠」の噂の真相をただすべく、西郷が行動を開始する物語のスタートはなにやらサスペンス推理小説の趣がある。

 慶応4年4月15日付、王政復古で誕生した新政府より加賀藩に「官軍へ加賀藩から兵を出すように」との命が下っているが、薩長側では、加賀藩はもしや奥羽越列藩と同盟を組むつもりかと疑っている。普通であれば、幕府が瓦解消滅した現在、加賀藩に官軍に敵対する力などないと見るのが常識であろう。
 幕末の西洋式軍隊としては河井継之(かわいつぐの)助(すけ)(1827~1868)の長岡藩が有名だが、加賀藩も、大規模な西洋式軍隊を有していたことはあまり知られていない。加賀藩主・前田慶(よし)寧(やす)(1830~1874)は慶応2年に襲封するや、自立割拠の方針の下、内治に励み、藩兵の西洋化に取り組み、将兵総数は1万人を超え、海軍も備えていたのである。
慶応4年4月29日、品川沖を出発する薩摩藩蒸気船豊瑞丸に、西郷隆盛長州藩士の山県(やまがた)有(あり)朋(とも)(1838~1922)を乗せている。東征大総督府参謀(参謀総長)の西郷は、4月23日に北陸道鎮撫総督兼会津征討総督参謀に就任したばかりの山県に向かって、「もし奥羽越列藩と官軍が本気の戦をしてしまえば、いたずらに侍が同士討ちになるだけ。そうなれば、この国が危うい」と語りかける。ここで語られる西郷の「侍(さむらい)」が本作のキーワードになっていることに先ず読者は留意することになろう。
 豊瑞丸にはもう一人の客が乗っている。「侍」斎藤弥九郎(さいとうやくろう)(1798~1871)である。
「不抜(ぬかず)の剣」を極意とする神道無念流幕末江戸三大道場と呼ばれた「練兵館」の斎藤弥九郎は単なる剣一筋の剣客「侍」ではない。徳川斉昭にみとめられ、高島秋帆に砲術を学び、品川沖お台場を建設した江川太郎左衛門英龍や藤田東湖渡辺崋山、桂(かつら)小五郎(こごろう)らといった幕末のキーマンと深く関わった人物である。
能登半島の付け根の越中国射水(いみず)郡仏生(ぶっしょう)寺(じ)村(現・富山県氷見市仏生寺)の郷士の家の長男として生まれた弥九郎は何十年も故郷に戻らなかったが、帰省するに際し、練兵館の塾頭であった愛弟子の桂小五郎(木戸孝允1833~1877)の口利きで豊瑞丸に乗船することができた。かくして、急に官軍の山県参謀と一緒に金沢に赴くことになるところは面白くかなりの脚色を施しているところである。まさに「三州割拠」の真相を探るに、加賀藩ゆかりの斎藤弥九郎ほどにうってつけの人物はいない。

 閏4月6日、弥九郎は官軍参謀補佐の肩書で山県とともに加賀に向かう。同行者は田邊伊兵衛なる弥九郎の従者と小川誠之助(京詰家老前田内蔵太の側近)である。 閏4月15日、前田慶寧金沢城二の丸御殿に官軍参謀山県を迎える。
「加州の正規軍を早く官軍に出していただきたい。奥州の戦が終わってしまう」との山県の要求を慶寧は拒否する。徳川慶喜大政奉還と同日に発せられた倒幕の密勅は偽勅であると知る慶寧は、北陸道の諸藩がすべて恭順しているとはいえ、自藩内の意見が恭順で統一できているわけではない現実を踏まえ、閏4月の現段階で、「恭順」とは本当に帝の意に従うということになるのかと疑っていた。「私欲のために朝廷を乗っ取ったような輩、そんな奴らの作る時代に本当の侍が生きていけるものか」と。ここに慶寧の「侍」の矜持がある。「三州割拠」を唱えるのはもはや新しい時代を築くという目的からではなくなっているのである。
 閏4月16日、談判決裂をやむなしとする山県は金沢を離れる。
 西郷の言葉を一応は胆に銘じた山県は「東北諸藩との戦争をできるだけ小さくしよう」とは考えていたが、避けられない戦争だと決めている。
 慶寧には、官軍参謀の要請を拒否したことへの後悔はなかった。

 物語の最終盤で、弥九郎の従者・田邊伊兵衛の素性が明らかになる。本名を皆井十蔵という彼は、「藩の命令でも朝廷の命令でもなく、今の時勢を作り上げてきた薩摩藩の大物」大久保(おおくぼ)利通(としみち)(1830~78)の企ててきた陰謀のためのみに動く大久保の密偵であった。皆井の自白により、慶寧は重大な事実を知る。大久保は「日本のため」ではなく、「自分(大久保)の頭の中にある新しい日本のため」のみを考えており、西郷の「侍」を全く否定している、と。同じ官軍でありながら、西郷と大久保の違いを知った慶寧は大久保の「侍」に異を唱えるべく、とりあえず「三州割拠」の旗を引き下ろす決断をする。そうさせたのは斎藤弥九郎の「不抜の剣」であった。西郷の「侍」に共鳴する弥九郎は、「藩主(慶寧)の無謀な決意」を翻意させたのである。ここに、一介の剣客として一人の人間として異色の人生を歩んだ斎藤弥九郎の〈真実〉があるといえよう。いうまでもなく、本作のクライマックスシーンである。
「西郷と大久保」の造形も秀逸である。明治維新を成し遂げた盟友だが、討幕後の明治新国家建設を巡って対立、大久保が西郷を死地に追いやるのは周知の如くであるが、戊辰戦争の前段で、すでに、大久保は西郷を見限っていたとする。
 山県が官軍の越後征伐の根拠地となっていた高田(榊原氏15万石)に到着した閏4月20日は、仙台藩士が世良修蔵を斬った日でもあった。これにより、戊辰戦争は引き返すことのできない悲惨な戦争へと突き進むことになる。
 5月3日には、東北諸藩による列藩同盟が成立。加賀藩は官軍の主力として北越戦争に出兵、多くの血を流した。
 慶応から明治への改元は、慶応4年の9月。よってこの時期は「明治零年」に当たるというのが、書名の由来である。
 あの時点で、前田家が薩長の主導する官軍に反旗を翻せば、天下の趨勢が逆転する可能性があったことは〈真実〉であろう。
 加賀百万石=日和見とのラベリングがなされてきたが、〈勝者の歴史〉に対する無条件降伏でもなく、〈勝者の歴史〉に対して〈敗者の美学〉でもって異を唱えるのでもない前田慶寧の〈真実〉があったことを知った。
 西郷、大久保、木戸、山県など明治の元勲たちの戊辰戦争時の群像劇としても刺激的で、以後の西南戦争までの明治の風景すら浮かび上がってくる。
 明治2年版籍奉還明治4年廃藩置県で、藩は消滅。明治9年廃刀令秩禄処分。新政府による士族すなわち「侍」締め付け政策が次々に施行され、「侍」の旧来の特権が奪われた。「侍」の多くは「侍」を置き去りにした西欧化を強行する新政府に強い不信感と裏切られた思いを抱くのであった。
 精密に練られた構図の中に見事に描き切った「明治零年」である。

            (令和2年4月25日  雨宮由希夫 記)

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十五回 道三、わが父に非(あら)ず

 天文二十三年(1554年)。斎藤利政(本木雅弘)は仏門に入り、道三と号し、家督を嫡男(ちゃくなん)の高政(伊藤英明)に譲りました。道三は家臣や国衆たちの前で話します。
「今朝、わしは、見ての通り頭を丸め、仏門に入り、世俗の塵(ちり)を払うた。ついては後事を高政にゆだね、国のまつりごとを万事託そうと思う。古きを脱し、新しき世をつくるのは、新しき血じゃ。このことはわしの頭から一時たりとも離れることはなかった」道三は宣言します。「以後は、高政の声を、わしの声と思うてしたごうてもらいたい」
 明智光秀十兵衛(長谷川博己)は夜更けに叔父の光安に呼び出されます。光秀が光安の屋敷に来てみると、そこに道三の次男である斎藤孫四郎が来ていました。孫四郎は高政の家督相続に、不満を持っていたのです。尾張の信長(染谷将太)のもとに嫁いだ帰蝶川口春奈)も、心配して孫次郎に手紙を出していました。孫四郎はいいます。
「このまま兄上に、美濃を任せておくわけには参らぬ。志(こころざし)を同じゅうする国衆とはかり、兄上に退いていただく道を探るべしと。その先陣に、明智殿に立ってもらいたいのじゃ」
 光秀はいいます。
「その義、お断りいたします。道三様は、誰よりも高政様のことをご存じのはず。その道三様が、髪をおろして譲られた家督。ご思慮の末のご決心と推察いたすところ。わずか二月(ふたつき)、三月(みつき)で、さような断は下せませぬ」
 孫次郎は怒って帰って行ってしまいます。
 稲葉山城の政孝のもとに、光秀は呼び出されました。光秀は世間話に切り出します。
「他国といくさなど、している暇はありませぬな」
 高政は応じます。
「その通りだ。わしは父上がやってきたようないくさは好まぬ。日々、平穏がよい」
 高政は本題に入ります。弟の孫四郎のことでした。高政は孫四郎が明智の城に行ったことを知っていました。孫四郎をそそのかしているのは、尾張帰蝶だ、と、高政はいいます。さかんにやりとりをして、高政に敵対する国衆をまとめようとしている。信長との盟約はどうするつもりかと、光秀は聞きます。
「いずれ、見直さざるを得まい」
 と、高政はいいきります。高政は不満を漏らします。
帰蝶も信長も、今日までわしに何のあいさつもない。この城を継いだわしに、文(ふみ)ひとつよこさぬ。そこへもってきて孫四郎」高政は光秀を振り返ります。「尾張へ行き、帰蝶に釘を刺してきてもらいたい。孫四郎日近づくな。さもなければわしにも覚悟がある」
 光秀は斎藤道三の館を訪ねるのでした。
「高政様に、尾張帰蝶様のところに行けと命じられました」と、光秀は打ち明けます。「私が帰蝶様にお会いしても、丸く収めることはできまいと存じます。高政様の使いで行くとなればなおさらです。追い返されるに決まっています」光秀は進み出ます。「恐れながら、かかる混乱は、殿がはっきりと後の道筋をつけずに、家督をお譲りになられたからと存じます。皆、とまどうておるのです。私がお聞きしたいのは、殿が、信長様との盟約をどうなさるおつもりだったのか。高政様のお考えをお認めになり、すべてをゆだねられたのか。そうではなく、高政様のご様子次第で、再びご自分が……」
「それはない」道三は光秀の言葉をさえぎります。「わしはおのれが正しい道の上を歩いてきたとはみじんも思わぬ。いくさも勝ったり、負けたりじゃ。無我夢中で、この世を泳ぎ渡ってきた。高政もそうするほかあるまい。力があれば、うまく生き残れよう。非力であれば、道は閉ざされる。わしの力でどうこうできるものではない」
 尾張清洲で異変が起きました。尾張守護である斯波義統が織田彦五郎の家老、坂井大膳によって暗殺されたのです。斯波義統の嫡男である斯波義銀は、織田信長に保護を求めてきました。
 数日後、信長の叔父である織田信光(木下ほうか)と、帰蝶は話をしていました。清洲の彦五郎から囲碁の誘いを受けている信光に対し、帰蝶は決意を促します。
 清洲城にて孫次郎と囲碁を打っていた信光は、突然、脇差しを抜いて孫次郎を刺し殺します。城のあるじを失った清洲方は、たちまち崩壊してゆきます。そして信長は戦うことなく、清洲城に入城するのです。反信長の牙城は、あっけなく信長の手に落ちたのでした。この事実は、周辺の国々に衝撃を与えました。
 美濃では、高政が国衆の稲葉良通(村田雄浩)から報告を受けていました。稲葉は高政ににじり寄ります。
「用心なされた方がよい。尾張の後押しで、孫次郎様が、この城のあるじに取って代ろうとされるやも知れません」稲葉はさらにいいます。「ほかの国衆の中には、道三様の正室のお子は孫次郎様で、高政様は側室のお子だとはっきり申す者もおりますぞ」
 駿府では太原雪斎(息吹吾郎)が望月東庵(堺正章)から治療を受けようとしていました。雪斎は東庵にいいます。
織田信秀のせがれは、大うつけといわれておったが、そのうつけが尾張をほぼ手中に収めんとしておる」
 駒は東庵の使いで、薬草を買いに外に出ます。するとわらじ売りの藤吉郎(佐々木蔵之介)が駒を待っていたのです。相手にせずに歩き出す駒を追う藤吉郎。薬屋にいた菊丸(岡村隆史)に藤吉郎はいわれます。
「物売りなら、さっさと市へ行って、あきないをしていれば良いのだ」
 自分はあきないはやめたといいだす藤吉郎。
「侍になるのだ」
 と、いいだします。今川の家来がいいと思っていたが、近頃は、尾張織田信長様の評判がいい。
「わしのような者でもどんどん召し抱えてくださり、なかなかの上り調子と聞く」藤吉郎は尾張に旅立つつもりです。「一緒に行かぬか」
 と、藤吉郎は駒を誘います。慌てて止める菊丸。一緒に行こうといったのは冗談だ、という藤吉郎。しかしあと三日で旅立たなければならない。その間に駒に字を教わりたいというのでした。
 美濃では孫次郎と三男の喜平次が高政を訪ねようとしていました。高政が体がしびれて寝込んでいると聞いたので、見舞いにやってきたのでした。しかし寝ている高政の部屋に入ろうとしたとき、孫四郎と喜平次の目前で戸が閉じられるのです。高政の家臣が刀を抜いて二人に斬りかかります。目を開けてその様子を聞く高政でした。
 道三は骸(むくろ)となった孫次郎と喜平次を前にします。
「美濃を手に入れた褒美がこれか」と道三は叫ぶのです。「わしがすべてを譲ったわが子。すべてを突き返してきたのじゃ。かように血まみれにして」道三は歩き出します。「高政。わしの手を汚しよったな。出てきてこの血のにおいを嗅ぐがよい。高政。許さんぞ」
 道三は稲葉山から脱出し、美濃の北、大賀城を目指しました。国を二分するいくさの前触れです。
 高政は国衆たちの前で発言します。
「皆に申しておく。わしは弟を斬ったのではない。斎藤道三の子を斬ったのだ。道三はわが父にあらず。わが父は、土岐源氏の頭領であり、美濃の守護におわした、土岐頼芸様である。道三の子、孫次郎と喜平次は城を乗っ取り、美濃を混乱に落とし入れるくわだてを巡らせていた。悪しき芽はつんだ。これを機に、美濃は皆の力を結集し、揺るぎのない国を目指す」

『映画に溺れて』第370回 アウトブレイク

第370回 アウトブレイク

平成七年九月(1995)
池袋 文芸坐

 

 未知の伝染病が広がって、人がばたばたと死んでいく。という映画はいくつかある。マイケル・クライトン原作の『アンドロメダ…』は宇宙から帰還したカプセルに付着していた病原体があっという間にアメリカの田舎町を死の世界に変えるというものだった。
 ダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』もリアルで怖い。
 アフリカで恐ろしい伝染病が発生し、ひとつの村が全滅する。未経験の若い医者が現地でのあまりにひどい現状に吐き気を催すが、防疫服を着ているために吐けない。それでも服を脱いで吐いてしまうファーストシーン。
 その地域で捕獲された猿がアメリカに密輸入され、ある町のペットショップで売られるのだが、その直後から、死の病が町を襲う。
 悪性の伝染病が進化し、空気感染の特徴が加わり、あっという間に広がるのだ。映画館で咳をするカップルがいて、たちまち集団感染。軍隊が町を鉄条網で囲み、他の地域への感染を防ぐため、銃を持った兵士が住民をひとりも外へ出さないよう監視する。発症したら家族から引き離されて、軍の車で隔離場所へ。そこからはだれも生きて帰れない。
 ダスティン・ホフマンふんする軍の予防医の大佐と、彼と離婚して民間の防疫施設に勤める元妻。二人が喧嘩したり協力したりしながら、この伝染病に取り組む。
 大佐の同僚で優秀で論理的な軍医が大量の感染者を不眠不休で治療する途中、疲れ切ってうっかりと自分の防疫服に瑕をつけ、空気感染してしまう場面。ああ、こんなこともあるだろう。この軍医を演じたのがケビン・スペイシーだった。今いずこ。
 細菌兵器への利用を考える悪役の将軍がドナルド・サザーランド
 シリアスな設定でかなりリアリティもあるのだが、最後は免疫のある猿を捕まえて血清を作り、病気が治まるなど、御都合主義も目立つ。現実は残念ながら、映画のようにはうまくいかない。

 

アウトブレイク/Outbreak
1995 アメリカ/公開1995
監督:ウォルフガング・ペーターゼン
出演:ダスティン・ホフマンレネ・ルッソモーガン・フリーマンケビン・スペイシーキューバ・グッディング・Jrドナルド・サザーランドパトリック・デンプシー

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十四回 聖徳寺の会見

 天文二十二年(1553年)二月。斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)は織田信長染谷将太)のやってくるのを盗み見ていました。信長の顔を知っている明智光秀十兵衛(長谷川博己)に、彼がやってきたら自分の肩を叩くように命じます。三百の鉄砲を持った兵のあとから、信長はやってきます。奇抜な庶民の服を身につけて、馬に乗っています。信長は道三が盗み見ていることを気づいているようでした。道三の隠れている小屋を見つめて笑顔を見せます。さすがの道三も困惑し、光秀にいいます。
「寺へ行くぞ。あの男の正体が見えぬ。奇妙な婿殿じゃ」
 聖徳寺では家臣を引き連れた道三が信長を待っています。信長はなかなかやってきません。道三は立ち上がって歩き出す始末。信長は正装に衣装を整え、一人で道三のもとにやってきます。礼儀正しく振る舞い、道三の向かいに腰を下ろしてていねいなあいさつをします。信長は話します。
「今日、わたくしが、山城守(やましろのかみ)様に目通りいたすのを最も喜んだのは、帰蝶でござります。また、最も困り果てたのも、帰蝶でござります」
 道三は問います。
帰蝶が何を困り果てたのじゃ」
 信長はおどけたようにいいます。
「わたくしが、山城守様に、討ち取られてしまうのではと」
 座が沈黙します。声を出せる者は誰もいません。道三はいいます。信長は三百の鉄砲を持った兵を連れてきている。それだけの備えをしている信長をどうやって討ち取れるのか。信長はいいます。あれはただの寄せ集めで、帰蝶が道三に侮(あなど)られることがないよう用意した。
「今日のわたくしは、帰蝶の手の上で踊る、尾張一のたわけでございます」
 それを聞いて道三を笑い出します。
「それならばたわけじゃ」
 と、家臣たちを振り返ります。共に笑う家臣たち。道三は問います。この大事な席に、誰も連れてこなかったのはどういうわけなのか。たわけなら重臣たちに守ってもらわなければならないのではないか。信長は二人の若者を招き入れます。
「この両名、尾張の小さき村から出て参った、土豪の三男坊。四男坊。すなわち、家を継げぬ食いはぐれ者にござります」信長の目は鋭くなります。「されど、いくさとなれば無類の働きをいたし、一騎当千の強者(つわもの)でござります。食いはぐれ者は、失うものがござりませぬ。戦こうて家をつくり、国をつくり、新しき世をつくる。その気構えだけで戦いまする。父、信秀がよう申しておりました。織田家は、さしたる家柄ではない。もとは越前の片田舎で、神主をやっていたとか。柴家の家来であったとか。それが、尾張に出てきてのし上がった、成り上がり者じゃと。よろず、おのれであらたにつくるほかない。それをやった男が美濃にもおる。そういう男は手強いぞ、と。家柄も血筋もない。鉄砲は、百姓でも撃てる。その鉄砲は、金で買える。これからは、いくさも世の中もどんどん変わりましょう。われらも変わらねば」
 そういって信長をわずかに微笑むのです。道三はいいます。
「信長殿はたわけじゃが、見事なたわけじゃ」
 それは褒め言葉なのかと聞く信長に、帰って誰かに聞いたらいいという道三。場が和み、道三が笑い、信長が笑います。
 光秀は帰ってその顛末(てんまつ)を母の牧(石川さゆり)に報告します。妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)もやってきて、心配していたことを告げます。牧は織田といくさになって、帰蝶が帰ってきてこの家にやってきたら、大変なことになるといいだします。いぶかる光秀。妻の熙子が答えます。
帰蝶様は十兵衛(光秀)のことがお好きですからね。昔から妻木でもよく母が申していました。帰蝶様がいつも明智の荘においでになるのは、十兵衛様に会いたいからだと」
 光秀はしどろもどろになってしまいます。
 駿河の街に、医者の望月東庵(堺正章)と、その助手の駒(門脇麦)が歩いていました。当てにしていたお金がもらえなかったとこぼす駒。東庵は駒が薬を買い忘れたことを指摘します。慌てて薬を買いに戻る駒。駒はそこで菊丸(岡村隆史)に出会うのです。菊丸と歩いていると、荷物を背負った男が乱暴をされているのに行き会います。よそものがここで商売をしたいなら、それ相応のあいさつをしろ、といわれています。乱暴されていたのは、以前、駒が出会っていた藤吉郎(のちの豊臣秀吉)(佐々木蔵之介)でした。藤吉郎はいいます。
「どこへ行ってもああいうやからがいるんだ。場所代を払えだの、手間賃を納めろだの。人が働いた上前をはねてのうのうと暮らしてやがる。わしはな」と、藤吉郎は駒にいいます。「ああいう奴を許さん。いつかきっと懲らしめてやる。字を読めるようになって、出世して、このかたきをとってみせる。必ず」
 藤吉郎は駒に薬を塗ってもらうのでした。
 臨済寺では、望月東庵が今川義元の軍師である大原雪斎(伊吹吾郎)に治療を施していました。自分はどれほどもつかと東庵に訪ねる雪斎。自分をあと二年生かして欲しい、と頼みます。
「二年あれば、尾張の織田を討ち果たせる。織田信秀は消えたが、跡継ぎの信長は油断がならぬ。うつけ者と噂されたが、美濃の蝮(まむし)は娘を与えた。あれを滅ぼしておかねば、駿河の者は枕を高くして眠れん。織田を潰すのが、わしに課せられた仕事だ」
 今川軍は織田方の緒川城を攻略するため、その隣に村木砦を築きました。緒川城は孤立したため、信長の助けを求めました。信長は尾張の内紛のため、身動きがとれません。そこで斎藤道三に信長の居城である那古野城を守って欲しいと求めました。
 道三は稲葉山城に、光秀の叔父である明智光安(西村まさ彦)と光秀を呼んでいました。二人の前で道三は、那古野城に援軍を送ることを宣言します。そこへ道三の側室の子である、斎藤高政(伊藤英明)がやってきます。国衆の稲葉良通(村田雄浩)を従えていました。高政は道三を問い詰めます。
「うつけ者の信長を助け、今川と戦うおつもりですか」
 稲葉も同意しかねると発言します。道三はいいます。
「口惜しいが、信長を甘く見ると、そなたも稲葉も、皆、信長にひれ伏す時が来るぞ。今はまだ若い。しかし信長の若さの裏に、したたかで無垢(むく)で、底知れぬ野心が見える。まるで昔のわしを見るようだ」
 高政は目を伏せます。
「さほどに、信長を気に入られましたか」
 気に入ったと笑顔を見せる道三。
「援軍を送らねば、明らかに信長は不利になる。見殺しにせよと申すか」道三は立ち上がります。「敵は今川じゃ。その今川に、信長が立ち向かおうとしておる。放っておけるか。わしはやる。わしは誰がなんといおうと、援軍を出す」
 道三は光安と共に、その場を去るのです。稲葉が高政にいいます。
「もはやぐずぐずできません。高政様が家督を継ぎ、まつりごとを執(と)るべきじゃ。このままでは国衆が治まらぬ」
 高政がいいます。
「わしが家督を継げば、国衆はついてくるか」
「わしが請け負う」と、答える稲葉。「急ぎ国衆を集め、家督を譲れと殿に迫るほかない」
 村木砦の戦いにおいて、織田信長の鉄砲隊が、今川軍に向かって火を噴きます。信長がいくさで、初めて鉄砲を使いました。鉄砲を使い、用意周到に攻め込んだ信長の軍勢が、砦から、今川勢を一掃しました。
 高政が母の深芳野を訪ねてみると、その姿が見えません。手分けして母を探す高政。深芳野は川縁に倒れ、死んでいました。
 夜に道三は深芳野の遺体と対面します。嘆き悲しむ道三。
「わしは心の底から芳野を大事に思うて、慈しんできたのじゃ」
 それに対して高政が声を荒げます。
「では、なにゆえ母上の望みを絶たれた」
 高政は母が自分を守護代につくことを望んでいたといいます。
「わしは、そなたに継がせるつもりじゃと、芳野に申したはず」
 高政は道三に迫ります。では今、誓ってくれ。母の望みを叶えると。自分に家督を継がせると。道三はついにいいます。
「よかろう。家督を、そなたに」

『映画に溺れて』第367~369回 ジュディ 虹の彼方に、他

第367回 ジュディ 虹の彼方に

令和二年三月(2020)
新宿歌舞伎町 TOHOシネマズ新宿

  ハリウッドのMGMスタジオで十代の無名の少女ジュディはプロデューサーのルイス・B・メイヤーに言われる。この壁の向こうに何があるか、わかるかね?
 そこには映画という別世界、完成したばかりの『オズの魔法使』のセットがあり、エメラルドの都があった。少女はドロシー役に抜擢され、一躍世界的な大スターとなる。
 三十年の月日が流れ、時代は一九六〇年代の後半、中年となったジュディ・ガーランドは酒と薬に溺れ、映画界での仕事を失い、子連れで細々とクラブを回って歌っている。が、わずかなギャラでは部屋代も満足に払えず、ホテルを転々とする。
 そんな彼女に舞い込んだのが、ロンドンでのショー。子供を元夫に預けて単身ロンドンへ。映画界から遠ざかっていても、スターとしての名声はまだまだ忘れられていない。
 このロンドンでのショーのステージが実に見事なのだ。
 薬で不安を抑え、スタッフをはらはらさせながら、長年のキャリアで培った実力がここぞとばかりに発揮される。が、トラウマのようにところどころ挿入される少女時代のハリウッドのエピソード。不眠不休、薬漬けでの撮影は重労働であり、ルイス・B・メイヤーの威圧的な目が常に光っていた。撮影所内でのミッキー・ルーニーとのデートやプラスチックの模造ケーキの誕生パーティは現実とはほど遠い。今のジュディはそれらの過去の積み重ねによって作られたスターでもあるのだ。
 ジュディ・ガーランドが憑依したかのごとき、レネー・ゼルウィガーの迫真の演技と熱唱。ゼルウィガーのガーランドぶりを見るだけでも、この映画は値打ちがある。
 名曲『虹の彼方に』はどこで歌われるのだろうかと待ち構えていたら、なるほど、うまい演出である。

ジュディ 虹の彼方に/Judy
2019 イギリス/公開2020
監督:ルパート・グールド
出演:レネー・ゼルウィガージェシー・バックリー、フィン・ウィットロック、ルーファス・シーウェルマイケル・ガンボン


第368回 オズの魔法使

昭和五十四年五月(1979)
新宿歌舞伎町 アートビレッジ

 私が映画『オズの魔法使』を最初に観たのはTV放映だが、その後、歌舞伎町の小さなスペースで『雨に唄えば』と二本立てで観ることができた。すばらしいミュージカルの組み合わせ、今でも忘れられない。
 最初の場面は白黒で始まる。あれ、カラーと思ったら、白黒映画だったのか。観ていると、竜巻でドロシーがオズの世界へ家ごと飛ばされて、マンチキンたちとの出会い。そこでいきなりカラーになるという演出。戦前の映画でカラーは『風と共に去りぬ』『スタア誕生』『ロビン・フッドの冒険』ぐらいしか私は観ていない。あとディズニーアニメもカラーだったか。
 主題歌の『虹の彼方に』は大好きだが、ドロシーがかかしとライオンとブリキのきこりを従えて、歌って踊りながらエメラルドの道を進む場面、今でもあの歌声が耳に残っている。
 頭の中身が藁屑なので、賢くなりたいかかし。臆病だから勇気が欲しいライオン。人間らしい感情を取り戻したいブリキのきこり。彼らの望みを叶えるオズの魔法使いの正体。空飛ぶ猿の軍団や悪い魔女との戦いも見せ場だった。
 ライマン・フランク・ボームの原作は映画を観るよりも前にハヤカワ文庫版で読んでいたが、映画はこれを忠実にミュージカル化していて、子供から大人まで万人に楽しめる作品になっている。
 ステュアート・カミンスキーの探偵小説、一九四〇年代のハリウッドを舞台にしたトビー・ピータースのシリーズは『ロビン・フッドに鉛の玉を』から『吸血鬼に手を出すな』まで五冊翻訳されている。毎回、撮影所で事件が起こり、依頼人は当時の映画人。スタイルはチャンドラーやハメットの小説に出てきそうなハードボイルド。このシリーズの第二作『虹の彼方の殺人』の依頼人が『オズの魔法使』で一躍スターになったジュディ・ガーランドという設定で、事件はまるで、オズの物語に重ねられたように展開するので、ミステリ好きの方はどうぞ。

オズの魔法使/The Wizard of Oz
1939 アメリカ/公開1954
監督:ヴィクター・フレミング
出演:ジュディ・ガーランド、フランク・モーガンレイ・ボルジャー、バート・ラア、ジャック・ハリイ、ビリー・バークマーガレット・ハミルトン


第369回 オズ はじまりの戦い

平成二十五年四月(2013)
吉祥寺 吉祥寺オデオン

 ライマン・フランク・ボームの児童文学『オズの魔法使』はベストセラーとなり、次々と続編が書かれた。映画もジュディ・ガーランド主演のあと、一九八五年に後日談の『オズ』がディズニーで作られたが、印象は薄かった。
 そして、ドロシーが竜巻に遭う以前のオズの物語を描いた『オズ はじまりの戦い』が再びディズニーで。
オズの魔法使』ではカンザスの農家の場面はモノクロ映像、ドロシーがオズの世界に入りこむと、当時はまだ珍しい総天然色の世界が広がったのだが。
 今回の主人公は、巡業サーカスの手品師。奇術の腕はまずまず、軽薄でうそつきで女たらし。発明王エジソンに憧れ、いつかそれらの技術を応用し、フーディニのような偉大な魔術師になりたいと口では言いながらも、冴えない日々を送っている。サーカスの怪力男の女房に手を出したのがばれ、血相変えた大男に追われて、飛び乗った気球が折からの竜巻に巻き込まれ。と、ここまでがスタンダードサイズのモノクロ映像。
 気球の落ちた場所は見たこともない不思議な世界。ここで画面がワイドになり、カラーとなり、さらに3Dとなって、魔法の世界を見せる、まさに映像の魔法。
 空から落ちてきた手品師は純情な魔女セオドラと出会う。ここオズの国では、王が悪い魔女に殺され、新しい王になるために空から偉大な魔法使いが舞い降りるという伝説があった。セオドラはこの手品師を王となるべき魔法使いと思い込み、エメラルドの都に案内する。王不在のオズの国を治めるセオドラの姉エヴァノラは、未知の空から来た手品師に頼むのだ。闇の森の悪い魔女グリンダを殺し、王になってほしいと。
 魔力を持たないただの三流手品師、彼はいかにして、悪い魔女を倒し、オズの大王になるのか。西の魔女や東の魔女となる彼女たちのちょっと悲しい運命も描かれている。とにかく映像はすごかった。さすがサム・ライミ監督。

オズ はじまりの戦い/Oz: The Great and Powerful
2013 アメリカ/公開2013
監督:サム・ライミ
出演:ジェームズ・フランコミラ・クニスレイチェル・ワイズミシェル・ウィリアムズザック・ブラフ、ビル・コッブス、ジョーイ・キング、トニー・コックス、アビゲイル・スペンサー、ブルース・キャンベル

 

『映画に溺れて』第366回 生きる

第366回 生きる

昭和五十四年四月(1979)
池袋 テアトル池袋

 

 毎日休まず一年三百六十五日、好きな映画のことを書き綴った『映画に溺れて』も、今後は少し減速し、ゆるりゆるりと風の向くまま気の向くまま、思いついたときに。
 浜の真砂は尽きるとも世に映画のネタは尽きまじ。実生活でも映画に耽溺する人生、まだまだ続く。というわけで、さっそく三百六十六回めは黒澤明監督の『生きる』から。

 志村喬ふんする市役所の市民課長。勤続三十年、無遅刻無欠勤の記録。仕事は書類に判を押すだけ。どぶ川が悪臭を放ち大量の蚊が発生して困るので、なんとかしてほしいと陳情の地域住民。あっさりと、土木課へ行くよう指示する。いわゆるたらい回し。若い女性職員が課長につけたあだ名がミイラ。市役所で地位を守るためには、特別なことは何もしないのが一番なのだ。
 この渡辺課長がある日、自分が胃癌で余命半年と知る。さて、息子にも打ち明けられず、悩み、苦しみ、役所を無断欠勤。そしてあるきっかけから、自分にも、まだ何かできることがあるはずだと気づく。彼が決心する場面にたまたま学生たちの誕生パーティで流れる歌がハッピバースデイトゥーユー。ミイラのごとき渡辺課長がここで新しく生まれ変わったのだ。
 久しぶりに出勤して、自分の机の上に積み上げられた書類の山から一枚取り上げる。どぶ川に苦しむ地域住民の陳情書。これだっと飛び出して行く渡辺課長。
 そこでいきなりお通夜。課長のお通夜に集まる市役所の職員たち。どぶ川が立派な児童公園に再生されたのは、死んだ市民課長の奔走のおかげらしい。が、助役や公園課長ら幹部職員の手前、市民課の連中はだれも渡辺の功績を讃えられない。そこへ地域のおかみさんたちがお参りに来て、渡辺の遺影の前で泣き崩れる。しらけてそそくさと帰る助役以下、幹部たち。残った職員の間で、あの渡辺さんが、どうして急に人が変わって、どぶ川を公園にするために奮闘努力したのかが話題に出て、公園ができるまでの回想場面。
 この映画、何度観ても、うまいと唸ってしまう。見事な脚本の作り方。そして俳優たち。どの役の人も、ほんとうにひとりひとりリアル。
 主演の志村喬、市民課職員の藤原釜足千秋実田中春男、左卜伝、小田切みき日守新一、みんな市役所の職員そのものに見える。助役の中村伸郎、息子の金子信雄、兄の小堀誠、兄嫁の浦辺粂子、無頼作家の伊藤雄之助宮口精二加東大介がやくざの役でちらっと出ていたり、若い医者が木村功だったり。ああ、この人たちは七人の侍ではないか。どぶ川に苦しむ地域住民の若い主婦が菅井きん。出演者ひとりひとりを見ているだけでうれしくなる。

 

生きる
1952
監督:黒澤明
出演:志村喬小田切みき金子信雄、関京子、藤原釜足田中春男、左卜伝、千秋実日守新一中村伸郎伊藤雄之助宮口精二加東大介清水将夫木村功浦辺粂子、小堀誠、菅井きん南美江

 

頼迅庵の新書専門書レビュー11

『なぜ武士は生まれたのか』(本郷和人、文春文庫)

 

 本書はNHK放送で人気の「さかのぼり日本史」の四回分(2011年12月6日、13日、20日、27日)を文庫化したものです。それぞれ一回分が1章を成しており、

1. 足利義満日本国王」の権力 1392年(明徳3年)
2. 足利尊氏「京都」に挑む 1336年(建武3年)
3. 北条時頼万民等知への目覚め 1253年(建長5年)
4. 源頼朝「東国」が生んだ新時代 1180年(治承4年)

の4章に分かれています。

 始めタイトルを読んで、私は誤解してしまいました。そのタイトルのように、武士の発生について書かれたものだと思ったのです。ですが、4章のタイトルを見れば分かるように違いました。
 あるいは、「さかのぼり日本史」と銘打っていますので、最後は武士の発生に行き着くのかも知れません。武士の発生は、未だに謎の部分が多く、よく分かっていませんので、著者の見解に注目したいところです。

 本書は、それぞれ時代のターニングポイントとなった時点を取り上げており、第1章の明徳3年という年は、南北朝の合一が成った年です。
 なぜ、この年がターニングポイントかというと、これによって足利義満が「天皇という存在を初めて乗りこえることに成功した武士」だからです、これによって、「日本の実際の政治権力は、この義満の時代から明治維新にいたるまでの約五百年間、武士が握ることになります。」(14ページ)
 天皇家が二つに割れることにより相対的にその権威が低下し、それにより各地で武士たちが、納税を拒否したり、公家の土地を収奪したりするようになります。公家は貧しくなり、その地位も低下し、公家と武士の地位の逆転が起きてきます。
 武士の頂点である征夷大将軍足利義満は、そんな公家たちを庇護するようになります。それはなぜかというと、義満は「当時の国家秩序を守るという意識があった」からだと著者はいいます。(19ページ)
 義満は武家のトップである征夷大将軍ですが、公家の世界においてもトップを目指します。そのような将軍は今までいませんでした。今までは朝廷や公家とは一定の距離を保ってきたのです。

 では義満は、どのようにして公家のトップを目指したのでしょうか。本書からその流れを見てみましょう。
 応安6年(1373) 従四位下、参議・左中将 義満16歳で公卿の仲間入り
(公卿の位階は三位以上ですが、官職は参議以上です。)

永和元年(1375) 従三位 義満18歳
永和4年(1379) 従二位、権大納言 義満21歳
康暦2年(1380) 従一位
永徳元年(1381) 内大臣
永徳2年(1382) 左大臣
永徳3年(1383) 准三后宣下(太皇太后、皇太后、皇后に准ずる意の称号、皇族と
同待遇になったということになります。)

 以後義満は、それまでの公家のトップである摂関家儀礼に準じた行動を取るよ
うになります。
 この頃から、公家は義満を主君に対するように接していくようになり、公武の両
権力を統一的に支配する最高権力者=「室町殿」と呼ぶようになります。(25ページ)
 そして、応永元年(1394)には、太政大臣となって位人臣を極めることとなるので
す。

 また、義満は天皇の「祭祀権」「課税権」を自らのものとします。(26~28ページ)
 そして義満は、南北朝の合一を成し遂げることによって、「改めて朝廷や天皇を凌駕する権力への高みへと到達した」(30ページ)のです。
 さらに「日本国王」と名乗って明へ朝貢したということは、「外交権」についても天皇から奪ったということになります。(34ページ)

 さて、ここまできて、一頃話題に上った義満の皇位簒奪計画説(自分は太上天皇となり子の義嗣を皇位に就けようとしていたという田中義成説、義満自らが天皇になろうとしたという説)を著者は否定します。(36~38ページ)
 義満が天皇を廃して自らが天皇になった場合、「全国の武士が果たしてどういう行動に出たか、全く読めない」、要するにそんな危険なことをするわけがないというのです。(38ページ)
 では、どうしたか。武士は「政権を担当(独占)し、天皇を実質的に上回る権力を保持して」おり「それは、戦国時代から江戸時代を通じて変わ」らず、「近現代に至っても、その構造は変わっていない」。(38ページ)
 つまり「象徴天皇制」を形成したのが義満だという著者の結論です。
 そして、なぜ武士がそこまでになったのか、その経緯を足利尊氏、北条時賴、源頼朝という順に遡りながら見ていくのが本書のテーマといえるでしょう。

 全体で144ページほどの文庫本です。文章は読みやすく、論旨の展開も平易で分かりやすいです。特別な知識もいりません。思わず歴史って面白いなあ、中世の歴史って興味深いなあ、と感じていただける本だと思います。

書評『大一揆』

署名「大一揆
著者 平谷(ひらや)美樹(よしき)
発売 株式会社KADOKAWA
発行年月日  2020年3月28日
定価   本体1800円(税別)

大一揆

大一揆

  • 作者:平谷 美樹
  • 発売日: 2020/03/28
  • メディア: 単行本
 

  嘉永6年(1853)の三閉伊(さんへい)一揆(いっき)(いわゆる仙台越訴(おっそ))は陸奥国盛岡藩(南部氏(なんぶし))、20万石)の三閉伊地方(三陸沿岸の野田通(のだどおり)、宮古通(みやこどおり)、大槌通(おおつちとおり))の農民、漁民らが蜂起、先祖伝来の土地を捨て、隣国仙台藩伊達氏領(だてしりょう)へ越境、逃散。年貢米減免などといった単純なものではなく、全領民が一致して藩政改革を要求し、それが実行されたという稀有な一揆、まさしく大一揆であった。

 著者にはすでに、この一揆を主題のひとつとした歴史小説『柳は萌ゆる』(実業之日本社 2018年)がある。『柳は萌ゆる』が維新の動乱に敢然と立ち向かった盛岡藩の若き加判役(家老)・楢山(ならやま)佐渡(さど)(1831~1869)を主人公とし、武士の立場からこの一揆を描いているのに対し、本書はこの一揆で、45人の頭人(とうにん)(指導者)のひとりとして活躍した大槌通(おおつちとおり)栗林村(くりばやしむら)(現釜石市栗林)の三浦命助(めいすけ)(1820~1864)を主人公とし、一揆収束に至るまでを描いた歴史小説である。
 命助は栗林村の肝煎の家に生まれ、荷駄商いを主生業としていた。一揆嘉永6年3月、北方の野田通から始まるが、34歳の命助は当初からの参加者ではなく、「百姓が勝つ一揆をおこさなければ、三閉伊はいつまでも藩の食い物にされ続ける」と一揆衆と距離を置いていた。

 幕末の盛岡藩天明以来度重なる凶作、飢饉に見舞われた上に、蝦夷地警備の役を幕命にて課せられ、藩財政は窮乏。時の藩主南部(なんぶ)利済(としただ)(38代 信濃守)は過重な農民収奪を行った。貧困と重税に不満を爆発させた百姓は頻繁に一揆をおこし、藩はその都度その要求を呑むものの簡単に反故にすることを繰り返していた。天保7年(1836)の盛岡南方一揆(仙台越訴)や弘化4年(1847)の南部三閉伊一揆 (遠野強訴)の苦い経験を踏まえ、過去の失敗の轍を踏まないことを命助は念じていた。
 嘉永6年の一揆衆は「小○」(困る=我々は困っている、の意味)と書いた幟(のぼり)旗を押し立て、三陸海岸筋を南下、日ごとにその数を増し、6月5日に釜石に集合した一揆の人数は約1万6千余人にも達した。命助の姿は大群の動きのなかに没入していて容易には浮かんでこないのだが、作家は、意を決して一揆衆に加わるや、「小本(おもと)の親爺(おどう)」こと弥五兵衛(やごへえ)(遠野強訴の総指揮者)の遺志を継ぎ、野田通の田野畑村の多助(たすけ)(畠山太助)らと共に、一揆成功のために知力の限りを尽くした命助の立つ位置を巧みに描き出している。
 惣代45人の一人になる以前の命助の動きは権之助(けんのすけ)との確執を通じて、活写される。野田通朽木村(くつきむら)の肝煎(きもいり)・権之助は命助を軽んじ新参者扱いとし、時には藩の密偵ではないかとさえ疑い、「おれに命じられたことだけをやっていればいい」と嘯く。
 栗林村の中でさえ第一人者とはいえなかった命助が大槌通の第一人者となり三閉伊一揆の重立頭人(おもだつとうにん)のひとりに一挙に浮上してくるのは、篠倉峠(ささくらとうげ)を越えて仙台領最北の村・唐丹(とうに)(現釜石市唐丹町)に着いた時である。命助は権之助の命令を無視して「我らは、三閉伊を仙台領にしていただきたく存じます」と突如言い出すのである。三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を仙台領か、もしできなければ幕府直轄地にしてほしいとの要求は元々、仙台藩を動かすための口実に過ぎなかったが、領土拡大という餌をぶら下げて、仙台藩を一気に巻き込もうという目論見であった。

 かくして、公儀と仙台藩の関与と監視を引き出すとともに、盛岡藩に対して、在地駐在の役人ではなく、「交渉のできる方」すなわち盛岡藩の正式な交渉役を引き出そうとした。命助が望んだのは民百姓も侍も共に身を削って財政難を乗り切るという考え方を持つ、南部弥六郎(なんぶやろくろう)と楢山佐渡(ならやまさど)であったが、両者とも利済に罷免され謹慎中であった(『柳は萌ゆる』には、謹慎中の楢山佐渡が命助を訪ねるシーンがある)。
 一揆衆の要求には南部利(とし)義(とも)(39代 甲斐守)の復位も要求された。このように、盛岡藩を根本から否定する要求を行いつつ、一揆衆が役人らと膝を交えて盛岡藩の藩政の改革を話し合う場を作り上げようとした命助ら越境した一揆の指導者のとった戦術は巧みであった。彼らは仙台藩に強要されたとはいえ惣代45人を選出し、唐丹村に残留させて、一揆百姓らを帰国させる。命助ら45人の惣代は百数十日の間、仙台領にとどまり、仙台藩を介して、領民の窮状を訴え続けたのである。

 この時期がもっともつらい時期ではなかったか。盛岡藩の正式な交渉役の登場もなく、三閉伊の一揆衆は心を一つにしなければならない時期に、彼らは一枚岩ではなかった。命助は思う。「古の陸奥の国、各地の豪族が一枚岩となれなかったために、中央の攻勢に耐えきれず、滅ぼされてしまった。陸奥の国には何か呪い、為政者が巧妙に陸奥の国の人々の結束を壊す仕掛けでもあるのか」と。この場面は岩手出身の作家平谷美樹の本領がさりげなくにじみ出る感動のシーンである。『火怨』や『炎立つ』など阿弖流為(あてるい)や安倍氏(あべし)、奥州藤原氏らを主人公とした東北のクロニクルを歴史小説としている高橋克彦の小説作法の伝統が脈々と息づいている。

 命助の立つ位置を明らかにさせるべく、作家は「小野新十郎」と「たせ」の二人の人物を造形しているところも読みどころである(「権之助」も想像の人物であろう)。
一揆の指揮者の中には、農民の抵抗に共鳴するだけでなく、一揆に参加する武士らしき姿も見えたという。小野新十郎(おのしんじゅうろう)は盛岡藩の元勘定方で、利済に諫言(かんげん)し疎まれ出奔した武士という造形である。
 一揆衆は数に物を言わせて、村々を騒がせ、各家を廻って強引に一揆衆を増やしていった。男手のない家でも容赦せず、女子供や年寄りまで無理やりに引き込んだ。田野畑村のたせは去年夫を亡くしたばかりの寡婦であり、やむなく一揆に加わり、飯炊き女として45人に付き従う。烏合の衆に堕しがちな一揆衆の姿を冷静に目つめ、時には歯に衣着せずに命助に文句を言う姿は爽やかである。

 物語は10月20日、南部藩が利義の復帰以外の一揆の要求すべてを受け入れ、また一揆指導者一切咎無しの一札を下したところで終わっている。
 11月に帰村した三浦命助は一揆の指導者として断罪されることはなかったが、翌安政元年(1854)7月、村方騒動にまきこまれて出奔するも捕らえられ、文久4年(1864)3月獄死している。悲劇的な死を遂げた命助のその後は本書では語られず、『柳は萌ゆる』にて語られている。
 嘉永6年(1853)といえば、まさしくペリー来航の年。かつて大佛(おさらぎ)次郎(じろう)は『天皇の世紀』第1巻(朝日新聞社 1969年)「黒船渡来」の章に、「ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起こっていた」と記している。幕藩体制の崩壊は外圧ばかりでなく、土地に根差した民百姓の地底から湧き上がる力によったことを、平谷美樹の『大一揆』を紐解くことで味わいたい。


            (令和2年4月12日  雨宮由希夫 記)