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書評『明治零年』

書名『明治零年』
著者 加納則章
発売 H&I
発行年月日  2020年4月24日
定価  各 本体1800円(税別)

 

明治零年 サムライたちの天命

明治零年 サムライたちの天命

  • 作者:加納則章
  • 発売日: 2020/05/16
  • メディア: 単行本
 

 

 激動の幕末の諸藩。北陸の大藩である加賀藩も例外ではなく、尊王と佐幕で揺れた。元治元年の禁門の変に際しての退京事件で、攘夷派を粛清してしまった加賀藩は維新の波に乗れなかった。鳥羽伏見の戦いでは、幕軍として戦う予定で出兵するが、上京途中で幕軍の敗北を知り撤兵。慌てて新政府への恭順を表明すべく混迷した。
 幕末維新ものの歴史小説といえば薩長土肥などの藩を舞台とするのが常だが、百万石の雄藩であった加賀藩が主役になっているところがまず珍しい。
「昨年末に突然、王政復古が宣せられて、鳥羽伏見での幕軍敗北、つい先ごろの江戸城明け渡しと、この4カ月で徳川政権は完全に消滅した」ところが物語の時代背景である。
 西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(1828~1877)は江戸無血開城後の芝増上寺で、「加賀、越中能登の三州にて前田家が朝廷方、旧幕方に与せず、独立国の宣言をする」との噂を耳にする。
 加賀藩年寄で佐幕派の首領の長連(ちょう)恭(つらやす)は、前年の慶応3年10月14日に発せられた倒幕の密勅は偽勅であるとの証拠をつかみ、「薩長こそ天下の逆賊である」として割拠論を唱えていた。その長も口止めのため暗殺されたとの疑いがあるとの情報をも、西郷は掴んでいた。「三州割拠」の噂の真相をただすべく、西郷が行動を開始する物語のスタートはなにやらサスペンス推理小説の趣がある。

 慶応4年4月15日付、王政復古で誕生した新政府より加賀藩に「官軍へ加賀藩から兵を出すように」との命が下っているが、薩長側では、加賀藩はもしや奥羽越列藩と同盟を組むつもりかと疑っている。普通であれば、幕府が瓦解消滅した現在、加賀藩に官軍に敵対する力などないと見るのが常識であろう。
 幕末の西洋式軍隊としては河井継之(かわいつぐの)助(すけ)(1827~1868)の長岡藩が有名だが、加賀藩も、大規模な西洋式軍隊を有していたことはあまり知られていない。加賀藩主・前田慶(よし)寧(やす)(1830~1874)は慶応2年に襲封するや、自立割拠の方針の下、内治に励み、藩兵の西洋化に取り組み、将兵総数は1万人を超え、海軍も備えていたのである。
慶応4年4月29日、品川沖を出発する薩摩藩蒸気船豊瑞丸に、西郷隆盛長州藩士の山県(やまがた)有(あり)朋(とも)(1838~1922)を乗せている。東征大総督府参謀(参謀総長)の西郷は、4月23日に北陸道鎮撫総督兼会津征討総督参謀に就任したばかりの山県に向かって、「もし奥羽越列藩と官軍が本気の戦をしてしまえば、いたずらに侍が同士討ちになるだけ。そうなれば、この国が危うい」と語りかける。ここで語られる西郷の「侍(さむらい)」が本作のキーワードになっていることに先ず読者は留意することになろう。
 豊瑞丸にはもう一人の客が乗っている。「侍」斎藤弥九郎(さいとうやくろう)(1798~1871)である。
「不抜(ぬかず)の剣」を極意とする神道無念流幕末江戸三大道場と呼ばれた「練兵館」の斎藤弥九郎は単なる剣一筋の剣客「侍」ではない。徳川斉昭にみとめられ、高島秋帆に砲術を学び、品川沖お台場を建設した江川太郎左衛門英龍や藤田東湖渡辺崋山、桂(かつら)小五郎(こごろう)らといった幕末のキーマンと深く関わった人物である。
能登半島の付け根の越中国射水(いみず)郡仏生(ぶっしょう)寺(じ)村(現・富山県氷見市仏生寺)の郷士の家の長男として生まれた弥九郎は何十年も故郷に戻らなかったが、帰省するに際し、練兵館の塾頭であった愛弟子の桂小五郎(木戸孝允1833~1877)の口利きで豊瑞丸に乗船することができた。かくして、急に官軍の山県参謀と一緒に金沢に赴くことになるところは面白くかなりの脚色を施しているところである。まさに「三州割拠」の真相を探るに、加賀藩ゆかりの斎藤弥九郎ほどにうってつけの人物はいない。

 閏4月6日、弥九郎は官軍参謀補佐の肩書で山県とともに加賀に向かう。同行者は田邊伊兵衛なる弥九郎の従者と小川誠之助(京詰家老前田内蔵太の側近)である。 閏4月15日、前田慶寧金沢城二の丸御殿に官軍参謀山県を迎える。
「加州の正規軍を早く官軍に出していただきたい。奥州の戦が終わってしまう」との山県の要求を慶寧は拒否する。徳川慶喜大政奉還と同日に発せられた倒幕の密勅は偽勅であると知る慶寧は、北陸道の諸藩がすべて恭順しているとはいえ、自藩内の意見が恭順で統一できているわけではない現実を踏まえ、閏4月の現段階で、「恭順」とは本当に帝の意に従うということになるのかと疑っていた。「私欲のために朝廷を乗っ取ったような輩、そんな奴らの作る時代に本当の侍が生きていけるものか」と。ここに慶寧の「侍」の矜持がある。「三州割拠」を唱えるのはもはや新しい時代を築くという目的からではなくなっているのである。
 閏4月16日、談判決裂をやむなしとする山県は金沢を離れる。
 西郷の言葉を一応は胆に銘じた山県は「東北諸藩との戦争をできるだけ小さくしよう」とは考えていたが、避けられない戦争だと決めている。
 慶寧には、官軍参謀の要請を拒否したことへの後悔はなかった。

 物語の最終盤で、弥九郎の従者・田邊伊兵衛の素性が明らかになる。本名を皆井十蔵という彼は、「藩の命令でも朝廷の命令でもなく、今の時勢を作り上げてきた薩摩藩の大物」大久保(おおくぼ)利通(としみち)(1830~78)の企ててきた陰謀のためのみに動く大久保の密偵であった。皆井の自白により、慶寧は重大な事実を知る。大久保は「日本のため」ではなく、「自分(大久保)の頭の中にある新しい日本のため」のみを考えており、西郷の「侍」を全く否定している、と。同じ官軍でありながら、西郷と大久保の違いを知った慶寧は大久保の「侍」に異を唱えるべく、とりあえず「三州割拠」の旗を引き下ろす決断をする。そうさせたのは斎藤弥九郎の「不抜の剣」であった。西郷の「侍」に共鳴する弥九郎は、「藩主(慶寧)の無謀な決意」を翻意させたのである。ここに、一介の剣客として一人の人間として異色の人生を歩んだ斎藤弥九郎の〈真実〉があるといえよう。いうまでもなく、本作のクライマックスシーンである。
「西郷と大久保」の造形も秀逸である。明治維新を成し遂げた盟友だが、討幕後の明治新国家建設を巡って対立、大久保が西郷を死地に追いやるのは周知の如くであるが、戊辰戦争の前段で、すでに、大久保は西郷を見限っていたとする。
 山県が官軍の越後征伐の根拠地となっていた高田(榊原氏15万石)に到着した閏4月20日は、仙台藩士が世良修蔵を斬った日でもあった。これにより、戊辰戦争は引き返すことのできない悲惨な戦争へと突き進むことになる。
 5月3日には、東北諸藩による列藩同盟が成立。加賀藩は官軍の主力として北越戦争に出兵、多くの血を流した。
 慶応から明治への改元は、慶応4年の9月。よってこの時期は「明治零年」に当たるというのが、書名の由来である。
 あの時点で、前田家が薩長の主導する官軍に反旗を翻せば、天下の趨勢が逆転する可能性があったことは〈真実〉であろう。
 加賀百万石=日和見とのラベリングがなされてきたが、〈勝者の歴史〉に対する無条件降伏でもなく、〈勝者の歴史〉に対して〈敗者の美学〉でもって異を唱えるのでもない前田慶寧の〈真実〉があったことを知った。
 西郷、大久保、木戸、山県など明治の元勲たちの戊辰戦争時の群像劇としても刺激的で、以後の西南戦争までの明治の風景すら浮かび上がってくる。
 明治2年版籍奉還明治4年廃藩置県で、藩は消滅。明治9年廃刀令秩禄処分。新政府による士族すなわち「侍」締め付け政策が次々に施行され、「侍」の旧来の特権が奪われた。「侍」の多くは「侍」を置き去りにした西欧化を強行する新政府に強い不信感と裏切られた思いを抱くのであった。
 精密に練られた構図の中に見事に描き切った「明治零年」である。

            (令和2年4月25日  雨宮由希夫 記)