日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十三回 帰蝶のはかりごと

 天文二十一年(1552年)。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、思い悩んでいました。土岐頼芸と一戦交えると宣言した斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)。その息子、斎藤高政(伊藤英明)は光秀にいっていました。
「わしは土岐様を守る。父上と戦う」
 そして共に道三を倒すことを光秀に求めてきていたのです。
 光秀は道三に会いに行き、述べます。
「頼芸様は美濃の守護。源氏の血を引く国の柱と、皆、うやもうて参りました。そのお方と戦えと命じられて、喜ぶ者はわずかでございます」
「それがどうした」
 と、道三が問います。
「私も、大いに迷うて困り果てております」そして光秀はいうのです。「土岐様に味方して、殿と一戦交えるべきかどうかを」
「わしと戦うのか」
 さすがの道三も顔をゆがませます。
「戦いたくはござりません。私の叔父、光安(西村まさ彦)は、まぎれもなく殿の味方ゆえ、私は叔父と戦うことにもなりましょう。思うだに恐ろしきいくさとなります。私だけではない。多くのなじみの国衆が、敵と味方に分かれ、殺し合うのです。どちらが勝っても、恨みは残り、美濃は決して、一つにはなりませぬ」
 道三は光秀にいうのです。
「いくさはせぬ。始めからいくさをするつもりなどない」道三は立ち上がります。「いくさはせぬがこの国は出て行ってもらう。そなたも存じておろう。尾張ではついに織田信秀が死によった。これから何が起きるかわかったものではない。美濃の守護などという役にもたたぬお守り札をさっさと捨てて、みずからの足で歩かねば、この先生き抜くことはできぬ。美濃の国衆にはその覚悟が足りん。それゆえ一戦交えると活を入れたまでじゃ」道三は話題を変えます。「実はそなたにやってもらいたいことがある。わしは鉄砲組をつくろうと思う。鉄砲を三十挺ほどそろえ、組の鉄砲指南をそなたに頼みたいのじゃ」
 その頃、鷺山の土岐頼芸の館では、すがすがしい笑顔で頼芸(尾美としのり)が空をながめていました。これから鷹狩りに出かけようとしている所でした。そこへ転がるように鷹匠がやってきます。
「お館様の鷹が」
 頼芸は鷹の飼育部屋に入っていきます。すべての鷹が殺されていたのです。そこへ道三の息子、斎藤高政がやってきます。高政は頼芸に述べます。
「恐れ多いことながら、わが父、利政(道三)が、お館様と一戦交えると申し、国衆を結集させんと企てております。われらは稲葉殿、安藤殿など有力な国衆と力を合わせ、お館様を総大将として仰ぎ、ここに陣をはるべく、はせ参じました」
 頼芸は力の抜けきった様子です。
「さようか。頼もしい限りじゃ。ここを我が城と思い、忠義を尽くせ」
 高政がさらに述べようとするのを聞かず、頼芸は歩き出します。そして独り言のようにいうのです。
「わしはここを出る」
 場面は変わり、夜。道三は高政の母である深芳野(南果歩)の部屋にいました。その戸を高政が勢いよく開けます。
「鷺山に行ったそうだな。しかしお館様はさっさと逃げていかれた。行き先は近江の六角殿の所と聞いておる」道三はからかうようにいいます。「そなたは置き去りにされた哀れな忠義者か」
「そうさせたのは」高政は叫びます。「お前ではないか」
「お前? 言葉は刃物ぞ。気をつけて使え」
「申し訳ござりませぬ」高政は部屋に入ってきます。「置き去りにされた忠義者ゆえ、正気を失うております」
「それしきのことで失うとは、ずいぶん安物の正気じゃな」
 高政は激高して叫びます。
「まことの父上を失うたのじゃ。この高政には、もはや父上がおらんのじゃ。その口惜しさが、おわかりになるまい」
 道三は笑い出します。
「異なことを申す」道三は立ち上がります。「まことの父はここにおるではないか。そなたの父は、わしじゃ」
「この高政のまことの父は」
 と、言いかけたところで、悲鳴を上げるように深芳野が制します。
「血迷うでない。そなたの父上はここにおわす利政様じゃ」深芳野は高政を叩きます。「謝るのじゃ。詫びるのじゃ。お父上に詫びるのじゃ」
「そろそろ家督を譲ろうかと思っておったが、暇出しじゃの」
 そう吐き捨てて道三は去って行くのです。
 三河、近江の国境付近では、医師の望月東庵(堺正章)とその助手の駒(門脇麦)が旅の疲れを癒やしていました。大金の入る当てがある駿河に向かおうとしていたのです。
 織田信秀の死を好機と捉えた駿河の今川は、尾張に攻め入らんと、浜名の湖畔を進軍していました。その行軍の様子を見守る東庵と駒。二人はおかしな男にであいます。
「これ、何と書いてあるのだ」
 と、本を見せて駒に訪ねるのです。それは藤吉郎、後の豊臣秀吉でした。駒は本を読んで聞かせるのです。文字は読めないものの、藤吉郎はその意味をたちまち理解してしまうのです。織田や今川の情勢もよく知っている様子でした。
 尾張那古野城織田信長染谷将太)が帰ってきます。清洲の城のまわりを焼き払ってきたと帰蝶川口春奈)に語ります。信秀が亡くなったと知るや、織田の身内たちがいくさを仕掛けてきていたのです。着替えて茶を喫する信長に、帰蝶は文(ふみ)を渡します。道三が信長に対面したいといってきていたのでした。信長は、殺されるかもしれないこの対面を断ろうとします。帰蝶が言います。
「断れば、臆したとみられ、和睦の義は消え失せまするぞ。私は美濃へ戻らねばなりませぬが、よろしゅうございますか」
 夜になります。信長は帰蝶の膝枕で横になっています。帰蝶は、信長から聞いていた旅芸人のことを確かめます。伊呂波太夫尾野真千子)のことでした。紀伊の根来(ねごろ)衆や、あちこちの国衆と縁が深いため、信長の父、信秀は兵が足りぬ時、太夫に雇い兵を集めさせていました。根来の雇い兵は、鉄砲を使う者もいます。
 翌日、帰蝶は伊呂波太夫を訪ねます。いくさのための兵をすぐに集めるすべを持っていることを確認します。高くつく、という太夫の前に、帰蝶は砂金の袋を次々と落としていくのでした。
 光秀は道三に呼び出されます。道三は信長に会いに行くとを話します。その供をすることを光秀に命じるのです。光秀が信長を知っているからです。
「万が一、別のものが参れば、ただちに見抜けよう」
 と、道三はいいます。実は光秀が来る前、信長の身内である清洲城の織田彦小五郎の家臣が来ていたのでした。道三と手を結びたい。それゆえ、信長を殺さぬかと、いってきていたのです。光秀が聞きます。
「殿は、どうお答えになりましたか」
「婿殿に、会(お)うてみてからじゃと」
 信長と道三の会う日がやってきました。決められた場所は聖徳寺です。信長は帰蝶が用意した衣装に着替えます。
「これで聖徳寺に行くのか。いつも通りではないか」
 帰蝶はいいます。
「これは、父上と私のいくさじゃ」
 道三は聖徳寺の近くで信長を待ち伏せしていました。光秀にいいます。信長の顔を見たら自分の肩を叩け。
「見て、つまらぬ奴だと思うたら、わしは寺に遅れて入る。連れてきた八百の兵に寺を取り囲ませ、信長の様子次第で事を決する」
 いよいよ織田勢がやってきます。道三は目を見開きます。三百もの鉄砲を持った兵が行列を作っていたのです。馬に乗った信長の姿が見えてきます。奇抜な身なりの、庶民の衣装を身に着けていたのです。

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第十二回 十兵衛の嫁

 天文二十年(1551)。近江から帰った明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、気の晴れない様子で、薪を割っていました。苦しい立場に立つ、将軍足利義輝向井理)の言葉を思い出していたのです。
「この世に、誰も見たことのない麒麟という生き物がいる。わしは、その麒麟をまだ連れてくることができぬ。無念じゃ」
 光秀の叔父の明智光安(西村まさ彦)と光秀の母の薪(石川さゆり)は、光秀の嫁取りについて話していました。光安は息子の明智左馬助(間宮祥太郎)に、光秀を鷹狩りに連れ出すように命じます。妻木にも寄るようにと付け加えます。
 美濃の妻木では、光秀が馬から下りて休んでいました。鷹狩りに来た仲間とはぐれてしまったのです。そこへ幼なじみの熙子(ひろこ)(木村文乃)がやってきます。熙子は館に帰ろうとする光秀を送ってゆきます。その道中、光秀は切り出します。
「熙子殿、この十兵衛の嫁になりませぬか」
 幼い頃、光秀は熙子に、大きくなったらお嫁においで、といっていたのです。熙子もそれを覚えていました。今日は皆と、はぐれるべくしてはぐれた気もする、と光秀はいいます。
 尾張三河の国境(国境)で戦っていた織田信秀高橋克典)と、今川義元片岡愛之助)は、将軍足利義輝の仲立ちもあり、和議を結びました。その結果、今川方は、劣勢だった織田信秀から尾張に接した重要な拠点を手に入れます。
 尾張の末盛城。織田信秀の病は深くなっていました。信秀は織田信長染谷将太)とその弟の織田信勝木村了)の前でいいます。
「わしに万一のことがあったとき、この末盛城は、信勝に与える」
 信長にはこれまで通り、那古野城を任せる。力をつくせ、と告げます。信長は父、信秀に抗弁します。
那古野城でどう力をつくせとおおせですか。この末盛城ならば、三河に近く、今川をもにらみすえた城であり、力のつくし甲斐がございます。しかし那古野城は北の清洲城に近いというだけで、もはや主軸の城とはいいがたい」
 信秀は信長に、那古野城は大事な城だと告げます。そなたに家督を譲ろうと思って、大事な城を譲った、と述べます。信長は納得できません。信秀のもとから立ち去ります。
 信長は妻の帰蝶に話します。
「こは母上のたくらみぞ。いずれ家督も、わしではなく信勝に継がせようとする魂胆であろう。父上が病で気弱になっておられるのにつけ込んでのやり口じゃ」信長は座り込みます。「二年前、松平広忠の首を穫ったのも、こたび、今川との和議を平手にやらせたのもみな、父上がお喜びになると思うてやったのじゃ」信長は子供のようにすねた顔をします。「それを何一つお褒めにならぬ。ただただお叱りになるのじゃ。たわけとおおせられるのじゃ。なにゆえかわかるか。母上が不服を唱えられたからじゃ。父上は母上のいいなりじゃ」
 信長は声を上げて泣くのです。帰蝶は信長を置いて部屋を出ます。途中、廊下で信長の母、土田御前(壇れい)とすれ違います。土田御前は帰蝶にいいます。信秀が、医師の望月東庵(堺正章)を呼べといっている。双六がしたいそうだ。しかし帰蝶には呼び寄せることはできないであろうな。
 機長は寝込んでいる信秀の部屋を訪れます。信秀に呼びかけます。
「父上様の胸の内をお聞かせ願いたいのです。この織田家を継ぐのは、どちらのお子がふさわしいとお思いでしょうか。信長様と信勝様の、どちらでございますか」
 信秀は黙って首を振ります。帰蝶はあきらめません。
「お教え下さい。お教えくだされば、東庵先生を京から呼んで差し上げます。誰よりも早くお呼びいたします」
 帰蝶の言葉に微笑む信秀。帰蝶は信秀の枕元に進みます。
「お願いでございます。私は、尾張に命を預けに参ったおなごでございます。預けるお方がいかなるお方か、なんとしても知りとうございます。父上様にとって、信長様がどれほどのお方か、お教え願いとうございます」
 信秀は何か声を出すのです。帰蝶はその口元に耳を寄せます。
 帰蝶は信長のいる部屋に帰ってきます。そして信長に告げるのです。
「父上様はこうおおせられました。信長はわしの若いころに瓜二つじゃ。まるでおのれをみているようじゃと。良いところも、悪いところも。それゆえかわいいと。そう伝えよと。最後にこうおおせられました。尾張を任せる。強くなれと」
 一方、京。東庵の庵には、多くのけが人が運び込まれていました。若い医師が慌ただしく指示を出します。駒(門脇麦)も忙しく働いていました。丹波から三好の軍が入ってきて、またいくさが起っていたのです。東庵はいくさで傷ついた者からは金を受け取りません。しかし手伝ってくれる医師たちにお礼をしなければならず、薬代もかかります。東庵は金の工面に出かけたのでした。
 しかし東庵は闘鶏で金を稼ごうとして、大金をすってしまっていました。駒は尾張から来た文(ふみ)を東庵に見せます。帰蝶から来たその手紙には、尾張に来てくれれば、謝礼は望むがまま、と記されていました。東庵は行くことを決意します。それまでのお金を旅芸人の伊呂波太夫尾野真千子)が肩代わりしてくれるというのです。ただしお願いがあると伊呂波太夫はいいます。尾張に行ったあとに、駿河に行って欲しい。そこに友野次郎兵衛という豪商がいる。その子が病弱で、京から名医を呼んで欲しいと言われている。それが叶えば、謝礼は百貫だす。東庵は旅立ちの準備をします。駒も一緒に行くといいます。途中、美濃に寄って確かめてみたいことがあるというのです。子供の頃、自分を助けてくれたのが、明智家の誰だったのか知っておきたい。
 美濃の稲葉山城では斎藤道三(この時は利政)(本木雅弘)が土岐頼芸尾美としのり)から贈られた鷹を受け取っていました。鷹が道三に襲いかかります。それを守って近習が鷹の爪にかかります。鷹の爪には毒が塗られていたのです。近習は倒れます。
 明智城では、光安が結婚した光秀と熙子に祝いの言葉を述べていました。その時、稲葉山城から、直ちに登城するようにとののろしが上がっていたのでした。
 稲葉山城には、古くから美濃にいる国衆たちも勢揃いしました。鷹の爪に塗られ毒によって死んだ道三の近習が横たえられています。鷹は頼芸から贈られたものと道三は皆に説明します。そし道三は叫ぶのです。
「なにゆえわしが殺されなければならんのだ。わしはこの美濃のために、命をかけて働いてきたのじゃ」
 道三はいいます。土岐の内輪もめを収め、国衆の領地が他国に荒らされぬよう戦ってきた。年貢を低くおさえ、川の水を引いて土地を豊かにした。
「わしは許さん。わしの家臣に手をかけた土岐様をもはや守護とは思わぬ。ただの鷹好きのたわけじゃ。さような者をこの美濃に遊ばせておくわけにはいかぬ。」道三は宣言します。「土岐様と一戦交えるまでじゃ」道三は国衆たちを見すえます。「土岐様を敵と見なすことに異論のある者は、今、この場から立ち去れ」立ち去る者は誰もいません。道三は声低くいいます。「ではよいな。皆、心は一つじゃな。今日から鷺山に近づく者は裏切り者として成敗いたす。いずれいくさになるやもしれぬ。おのおの覚悟せよ」
 皆が引き上げていきます。光秀は道三の子である斎藤高政(伊藤英明)に話しかけられます。
「わしは土岐様を守る。父上と戦う。わしが立てば、稲葉たち(国衆)も従うと申しておる。いっしょにやろう。共に父上を倒すのじゃ」
 光秀の返事を待たず、高政は去って行きます。
 尾張那古野城帰蝶のもとへ駒が来ていました。駒は帰蝶から、光秀が結婚したことを知らされます。
 末盛城では、織田信秀が、東庵と双六をしようと待っていました。しかし東庵が信秀の前に出てみると、信秀は死んでいたのです。

『映画に溺れて』一年三百六十五本を終えて

『映画に溺れて』一年三百六十五本を終えて

 

 平成三十一年の四月、日本歴史時代作家協会が発足。それにともなって、公式ホームページを開設するにあたり、なにか映画のこと書いてみませんかとのお話があった。
 歴史時代小説の作家が中心の会なので、時代劇映画について書いてみようかと最初に考えた。好きな時代劇はたくさんある。名作時代劇とその原作小説の対比などを詳しく解説したらどうだろうか。いや、しかし、私には長い解説を書く根気がない。
 そこで思いついたのが、時代劇に限らず好きな映画のことをなんでもかんでも書く。映画は子供のころから観続けており、題材は無数にある。ジャンルにこだわらず、新作、旧作、名作、珍作、片っ端から筋書き、感想、出演者、原作、背景、観た映画館の思い出など、作品に関連して浮かんだことを書けばいい。八百字以内に設定すれば、毎日でも書ける。実際に続けてみると、それほど簡単にはいかず、けっこう苦心もしたが。
 もうひとつ縛りをつけたのが、すべて映画館で観た作品。今は映画館に足を運ばずとも、家でもどこでも手軽に映画が観られる世の中である。TV放送、レンタルDVD、インターネット、スマートホン、なんでもありである。DVDやインターネットで巻き戻したりストップしながら観た映画の感想を、SNSで丹念に書き綴る映画ファンも多い。だが便利な反面、安直に観た映画は、私の場合さほど心に残らない。
 時間をかけて映画館まで行き、大画面で見知らぬ観客と感動を共有する。情報誌片手に遠くの町まで電車で出かけ、映画館のある商店街で入った喫茶店や古本屋が鮮明に記憶に残っていたり。あるいは友人といっしょに観て、終了後にビールを飲みながら喧嘩ごしで意見を戦わせた思い出。結婚し子供が生まれ、家族で観たアニメーション。映画は単なる情報ではない。いつ、どの場所で、だれと観たかまでが含まれるのだ。私は映画ファンであると同時に映画館ファンでもある。

 一年三百六十五日、なんとか続きました。毎日更新の手続きをしていただいた日本歴史時代作家協会ホームページ担当の響由布子さんには心より感謝いたします。
 好きな映画はまだまだたくさんあり、今後は毎日更新ではなく、思いついたときに週に一本でも二本でも、少しずつ書き足していければと。響さん、そのときはまた、よろしくお願いいたします。


                    日本歴史時代作家協会会員 飯島一次

 

作品リスト 第1回~第365回
 全部好きな作品である。
 この一年、この場をお借りして、いろんな映画を紹介してきた。子供の頃に祖母と観た映画から、つい最近試写室で観た映画まで。
 映画史上に残る名作、世紀の駄作、話題作やヒット作、まったく世間に知られていない無名の作品まで、好きな作品、気になる作品、個人的に忘れられない作品ばかり。
 年代も国籍も様々、戦前のものから先月公開の新作まで。コメディ、アクション、SF、時代劇、西部劇、ミュージカル、アニメーション、ドキュメンタリー、シネマ歌舞伎、短編特集、自主映画。
 そして、ひとつ自慢できるのは、これらをすべて映画館(公共ホールや地域の公民館、映画会社の試写室も含む)で観ていること。それゆえ何年の何月にどこで観たかも記しておいた。映画館は大切な思い出の場所でもあるから。ああ、今はもうなくなってしまった映画館のなんと多いことか。
 還暦過ぎて、私の映画鑑賞人生にいい思い出ができたと、素晴らしい機会を与えてくださった日本歴史時代作家協会に感謝する次第である。
 以下にこの一年間に紹介した作品のタイトルを列記する。どれをとっても、全部好きな一本である。

第1回 七人の侍
第2回 荒野の七人/The Magnificent Seven
第3回 椿三十郎
第4回 座頭市と用心棒
第5回 不知火検校
第6回 続・夕陽のガンマン/Il buono, il brutto, il cattivo
第7回 犬ヶ島/Isle of Dogs
第8回 さらば荒野/The Hunting Party
第9回 荒野の渡世人
第10回 シャンハイヌーン/Shanghai Noon
第11回 大魔人
第12回 キングコング対ゴジラ
第13回 ゴジラ
第14回 ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃
第15回 マタンゴ
第16回 キングコング/King Kong
第17回 シンクロナイズドモンスター/Colossal
第18回 花のお江戸の無責任
第19回 クレージーだよ奇想天外
第20回 森の石松鬼より恐い
第21回 グリーンブック/Green Book
第22回 夜の大捜査線/In the Heat of the Night
第23回 ブラックライダー/Buck and the Preacher
第24回 ジャンゴ 繋がれざる者Django Unchained
第25回 ヤコペッティの残酷大陸/Uncle Tom
第26回 男はつらいよ
第27回 男はつらいよ 寅次郎春の夢
第28回 運が良けりゃ
第29回 幕末太陽伝
第30回 羽織の大将

続きを読む

『映画に溺れて』第365回 ラスト・ショー/The Last Picture Show

第365回 ラスト・ショー/The Last Picture Show

昭和四十七年九月(1972)
大阪 難波 南街シネマ

 

 一年三百六十五日、毎日一本好きな映画を書き続ける『映画に溺れて』もいよいよ今回が三百六十五日めとなった。だから『ラスト・ショー』である。
 時代背景は一九五〇年代、場所はテキサスの田舎町。ふたりの高校生、おとなしいソニーがティモシー・ボトムズ、やんちゃなデュエーンがジェフ・ブリッジス、これが不思議と馬が合い仲がいい。デュエーンのガールフレンド、ジェイシーがシビル・シェパード。プールのヌードパーティ場面ではどきどきした。ソニーとデュエーンは気まぐれなジェイシーに振り回されて殴り合う。
 ジェイシーの母親の金持ち夫人がエレン・バースティンで、まだまだ美しい中年女性であり、その昔の恋人が西部劇から抜け出たような老カウボーイ、サム。これがベン・ジョンソン
 時代の流れは田舎町をどんどんさびれさせ、映画館も閉館となる。そこで最後に上映されるのが『赤い河』だった。
 この映画でピーター・ボグダノヴィッチという監督の名前が鮮烈に焼きついた。
 実は私がこの映画を観たのが十八歳のときで、ちょうどふたりの主人公と同世代だったのだ。
 後年、『ラスト・ショー2』が公開されたとき、期待に胸をふくらませて日比谷シャンテシネに観に行った。あれから三十年後の一九八〇年代が舞台。若者たちは中年となり、ソニーは市長、デュエーンは実業家、ジェイシーは都会で女優になっている。期待が大きすぎたのか、あまり印象に残らなかった。ティモシー・ボトムズソニーが痛々しく、思えば私自身も中年になっていたのである。

 

ラスト・ショー/The Last Picture Show
1971 アメリカ/公開1972
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
出演:ティモシー・ボトムズジェフ・ブリッジスシビル・シェパードベン・ジョンソン、クロリス・リーチマン、エレン・バースティン、アイリーン・ブレナン、クルー・ギャラガー、サム・ボトムス、ランディ・クエイド

 

『映画に溺れて』第364回 私のように美しい娘

第364回 私のように美しい娘

昭和五十年二月(1975)
大阪 梅田 北野シネマ

 

 学生時代、私のトリュフォー初体験がこれ。タイトルで内容が想像できない。中身もかなり変だったが、ベルナデット・ラフォン演じるあばずれの毒婦にぞくぞくした。
 最初、書店の場面、ある女性客が『女性と犯罪』という新刊を探している。店主に尋ねると、その本は予告が出たのに結局出版されていないとのこと。店主は首をかしげる。どうして出版されなかったのか。
 犯罪心理学者の若い教授スタニスラスが女性犯罪者の心理を研究し論文にまとめるため、刑務所を訪れる。そこで看守から紹介された女囚がカミーユ。彼女は害虫駆除業者を塔から突き落として殺害した罪で服役中だが、無罪を主張している。スタニスラスは論文の材料としてカミーユを取材することに。
 少女時代、彼女は父親を事故死させて感化院に入所。父親が屋根の修理をしているとき、わざと梯子を外して墜落させたらしいのだ。彼女は偶然の事故だったと殺意を否定し、自分の不幸な生い立ちを語る。
 カミーユに魅了されたスタニスラスは刑務所に通い、彼女から聞かされる波乱万丈の人生をテープに録音し記録する。
 感化院を脱走して農夫と結婚、酒場の歌手と不倫、夫が事故で入院中に悪徳弁護士と不倫、害虫駆除業者も誘惑して利用する。夫の母親の家のオーブンに仕掛けをし母親が死ねば遺産が入るように仕組む。
 これらの話を聞いて、スタニスラスはますます彼女のとりことなり、無実を証明するため、害虫駆除業者の死が自殺であることを骨折って証明する。
 晴れて出獄し、歌手としてデビューするカミーユ。彼女に誘われ、罠に落ちるスタニスラス。毒婦の魅力に翻弄される男たち。おしゃれな犯罪コメディである。
 カミーユ役のベルナデット・ラフォン、輝くように美しい。

 

私のように美しい娘/Une Belle Fille Comme Moi
1972 フランス/公開1974
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ベルナデット・ラフォンアンドレ・デュソリエクロード・ブラッスール、シャルル・デネ、ギー・マルシャン

 

『映画に溺れて』第363回 ショーシャンクの空に

第363回 ショーシャンクの空に

平成七年十一月(1995)
池袋 文芸坐

 これは大好きな作品で、映画館で四回観ている。原作はスティーブン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース
 泥酔したエリート銀行員アンディ・デュフレーンが銃を携え、妻の浮気現場であるプロゴルファーの家の前で自動車を停めている。
 妻とゴルファーは射殺され、アンディは無実を主張し、物的証拠がないまま有罪で終身刑となる。時代はリタ・ヘイワースがスターだった一九四〇年代。刑務所で新入りのアンディをじっと観察しているのが黒人の殺人犯で便利屋のレッド。これはレッドの視点から見たアンディについての物語である。
 所長は偽善者。冷酷な看守長は平気で囚人を殴り殺す。凶暴なゲイの囚人に襲われながらもアンディは耐えている。
 アンディの独房に貼られたセクシー女優のポスター、最初はリタ・ヘイワース。これがマリリン・モンローになり、最後には『恐竜百万年』のラクエル・ウェルチになる。それだけ長い期間、ずっと刑務所に入っているわけだ。終身刑だから。
 重労働に従事し、やがて銀行家としての才能を発揮し、看守や所長に優遇される。気取ったエリートのアンディを最初はバカにしていた他の囚人たちも、いつしか彼に一目置くようになる。この男は本当に有罪なのか、それとも無実なのか。
 アンディのティム・ロビンス、レッドのモーガン・フリーマンのふたりはもちろん、他の配役も凝っていて、偽善者の悪徳刑務所長がボブ・ガントン、鬼看守長がクランシー・ブラウン、図書係の老囚人がジェームズ・ホイットモア、陽気な囚人がウィリアム・サドラー、後に入ってくる若い囚人がギル・ベロウズ。
 囚人たちが娯楽として所内で映画を観る場面、上映される『ギルダ』がリタ・ヘイワースの主演作である。私は後に池袋の新文芸坐で観る機会を得た。

 

ショーシャンクの空に/The Shawshank Redemption
1994 アメリカ/公開1995
監督:フランク・ダラボン
出演:ティム・ロビンスモーガン・フリーマンウィリアム・サドラー、ボブ・ガントン、ジェームズ・ホイットモア、クランシー・ブラウン、ギル・ベロウズ

 

『映画に溺れて』第362回 スティング

第362回 スティング

昭和四十九年七月(1974)
大阪 曽根崎 梅田グランド

 

 詐欺師の映画というのは、主人公の詐欺師がカモを引っ掛けるトリックの面白さもあるが、実はもうひとつ、映画を観ている観客そのものも騙してしまう手口。わあ騙された、という快感を与えてくれる二重の楽しさがあるのだ。
 私が一番最初に騙されたのは『テキサスの五人の仲間』で、開拓時代の西部を舞台にしたもの。実はこの映画はTVの日曜洋画劇場で観て、大人になってからDVDで観ただけなので、このブログでは詳しい紹介はしない。ただし、未見の人は決してインターネットなどのあらすじを読まないように。
 詐欺師の映画もいろいろあるが、私はなんといっても『スティング』が一番好きだ。ロバート・レッドフォードの若造ジョニーが、相棒のルーサーと路上でカモを引っ掛けて大金をせしめる。それがギャングの賭博のあがりだったため、ロバート・ショーふんする大親分ロネガンの怒りにふれ、ルーサーは無残に殺さる。
 ジョニーはルーサーの親友ヘンリーを頼ってシカゴに逃亡。この詐欺の名人ヘンリーがポール・ニューマン。かつての詐欺師仲間を集め、ギャング相手にルーサーの敵討ち。
 その方法というのが競馬を利用した大掛かりな詐欺なのだ。時代背景は禁酒法時代のアメリカで、アンタッチャブルの世界。詐欺師とギャングの対決にジョニーを追う刑事や殺し屋やFBIが絡む。
 禁酒法時代のギャング映画というのは、歴史の浅いアメリカでは西部劇同様の一種の時代劇なのだろう。
 ポール・ニューマンロバート・レッドフォード、それに監督のジョージ・ロイ・ヒルは、この映画の前に『明日に向かって撃て』を作っており、そっちを先に観た人は『スティング』にはさらに騙されやすい仕掛けになっている。

 

スティング/The Sting
1973 アメリカ/公開1974
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
出演:ポール・ニューマンロバート・レッドフォードロバート・ショウチャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン、アイリーン・ブレナン、ロバート・アール・ジョーンズ

明治一五一年 第11回

明治一五一年 第11回

森川雅美


途切れる記憶の内側を
過ぎていくのは誰の瞳かと
いくつもの軽くなる足音たち
多くの人がまた亡くなりました
が踏み締めるままに
哀しみの破片なのだと
越えていく掌の浅い窪みへ
あれは境界に触れる足でした
散在する傷口の内側
からの死者たちが静かに集う
喉元までの裂け目が
多くの人がまた亡くなりました
埋もれる側からの開く眺めは
もっと眩しい光が
射していた忘れかけた安らぎと
ひとつずつ消えていきました
途切れる囁きは静かな脊髄
に弱る震えと共に届き
失われた心音の痛みを見出す
多くの人がまた亡くなりました
記録の淀みの狭間へ
割れる暗さに曝される
時代の傾きは足裏に留める
帰れず沈みました
水もまた重さを持つ
のだから体の中心に傾くのは
幾重もの吐息に似た言葉の
多くの人がまた亡くなりました
ぶれに訪れる古い声と
途切れるもう会えない人人
の眼に光るために綴り
何度も亡くなっていきました
違う切り傷になる
片割れに会う踏みだせない端へ
傾き見られているなら
多くの人がまた亡くなりました
かたちになるより早く満つ
散らばる名残を結びながらも
追われていく背中は
いつまでも張り付いていました
ごく小さな波紋になるまで
繰り返し拡がりいくと
途切れる命の連鎖を
多くの人がまた亡くなりました
紡ぐためささやかな空を放ち
はるか遠い彼方に連なりいく
ながい列の始まりへ
まだ戻っていいですか
目を凝らしゆっくり歩調を
整えながら種子を包む
額とは大きな影だから歪に
多くの人がまた亡くなりました
伸びる言の葉の裏側は
ざらつく荒れ野の
ままに燃えない熱い火を放てと
いつか振り返りました
途切れる記憶のさらに奥に人
の現在の予感は兆し
また違う眼の内側に芽生える
多くの人がまた亡くなりました
澄んだ残響の結晶へ
つぶやく傷ついたいくつもの
古い声たちを結わく
留まり続けました
新しい営みの始まりに
繁茂する葉影が揺れ一瞬は
まだ止まらずに眩い
多くの人がまた亡くなりました
骨片が延々と降る野を行くと

『映画に溺れて』第361回 壁女

第361回 壁女

平成二十三年九月(2011)
西東京 保谷こもれびホール

 西東京市で毎年開催されている西東京市民映画祭自主制作映画コンペティションの審査員を、第一回より何年か続けてやらせていただいた。全国から寄せられた短編作品の中から各賞を選ぶのだが、プロと見紛う達者な作品、アイディア勝負の個性派、手間暇かけて作った労作。印象的なたくさんの作品に出会うことができた。
 中でも忘れられない作品のひとつが『壁女』である。タイトルだけで、どんな内容だろうと想像をふくらませた。壁女という妖怪の出てくる怪談だろうか。
 予想は見事に外れた。
 休日に河川敷などに出かけ、壁にべったりと張り付き、自動タイマーで撮った写真をブログに掲載するのが趣味というOLの話。
 一人暮らしのアパートは散らかり放題の汚さ、食事は毎度カップ麺、職場ではいつも遅刻して叱られている。そんな彼女が恋をする。そのいじらしい恋の顛末を描いた異色コメディで、十七分の短編ながら伏線を張り巡らした密度の濃い内容、大変味わい深かった。
 監督は原田裕司、主演は仁後亜由美。
 翌平成二十四年、下北沢トリウッドで原田裕司監督特集があり、再び『壁女』を観た。同時上映が『コーヒー』『苦顔』『冬のアルパカ』、四本全部合わせて八十七分。トリウッドは短編を中心に上映するミニシアターで、下北沢の南口商店街を抜けた小さな雑居ビルの二階にある。初めてここへ来たときは、見つからなくて探し回り、さんざん迷ったあげく郵便局で尋ねてようやくたどり着いたのだった。
『コーヒー』と『苦顔』はどちらも個性の強い主人公の生き方を描いたラジカルできわどい作品。『冬のアルパカ』は『壁女』の仁後亜由美主演で、アルパカを飼う女と、彼女に金を貸しているローン会社の取立て屋との奇妙な交流。アルパカと雪国と変な人たち。
 自主映画の中には、商業映画よりも面白い作品が実はたくさんある。自主製作映画コンペティションの審査に毎年予選から参加して、夏の間に数えきれないほどの短編を見続けたこと、いい経験だったと今でも思っている。

 

壁女
2011
監督:原田祐司
出演:仁後亜由美、朝倉亮子、阪東正隆、伊藤公一、香取剛、後藤慧、鈴木敬子、竹田尚弘