日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

明治一五一年 第16回

明治一五一年 第16回

誰かの背中を
眺めている誰かの
背中を見詰める目の
内側に広がる荒野
はいまだに傷付いて
いく声の端の
踏み外す一瞬である
なら東征する
数えきれぬ足裏の
すでに忘却される一五一年
の記憶される土の香りの
畔から途切れなく
つづく面影の後に
発光する手足の
崩れていく背中を
崩れていく背中
が掬う柔らかさの
焼失する内臓と
街が見失われるすぐ
前に語る河川の
細分される一五一年
からなおも
取り残す一日の時の
重なる血肉が爛れ
ながくくすぶり続ける
歪な歩行の
絡まる色彩は海流
へと注ぎこみ点と点を
結ぶ無数の
駆け抜く背中の静けさに
駆け抜く背中が
映る交点の
孤独に刻み込まれる一五一
年の朽ちかけた掌の裏の
運ばれる陽陰まで
跋扈する閾域
へと南下する指先の
細細とした糸を
結い絡める
青空に刺さる途上の穴の
奥底から引き出される
切れ切れの影が
騒めく海溝の
踏みつける一五一
年の背中を踏みつける
別の背中の
足首は平坦になり
遥かな道筋を辿り
つづける嗚咽の
さらに抜け落ちる
散らばる魂
の破片が渦巻く動きの
裸形の中空に弾ける
失われた記憶の
淡淡と輝く先の
静かになる一五一年
の水が見渡す限り
広がる晴天の

『ひねもすのたり新刊書評』2020年8月号

ひねもすのたり新刊書評 2020年八月号

 新型コロナウイルスの脅威の中で、もともと羅針盤を持てない政治は、右往左往し、経済は深刻な打撃を受けつつある。人間が営々と築き上げてきたものの脆弱さが際立つばかりの今日この頃である。それでもすごいと思うのは、時代小説の新刊はコロナを忘れさせてくれる面白さに溢れていたと言う事である。

 先陣を切って紹介しておきたいのは、2020年「小説 野生時代 新人賞」を受賞した蝉谷めぐみ『化け物心中』(野生時代八月号掲載)。恐るべき才能を秘めた新人が登場してきた。三人の選考委員がこぞって評価したのは<個性> であった。つまり、作者にしか書けない世界が描かれていると言う事である。

小説 野性時代 第201号 2020年8月号 (KADOKAWA文芸MOOK 203)

小説 野性時代 第201号 2020年8月号 (KADOKAWA文芸MOOK 203)

  • 発売日: 2020/07/13
  • メディア: ムック
 

  時は文政、所は江戸、鳥屋を営んでいる藤九郎が元立女形の魚之助に呼び出され、中村屋をまとめている座元の所に向かう。二人は「鬼探し」という奇妙な依頼を受ける。これが物語の発端である。新作台本の前読みをしていた役者六人が車座で前読みをしていた時に、輪の真ん中に誰かの頭が転げ落ちてきた。ところが役者は六人のままである。この謎を解いて犯人を探し出せというのが依頼の内容だ。オドロオドロシイ出だしで掴みはばっちりである。

 作者の非凡さは探偵役の二人の人物造形にも見ることができる。藤九郎の人物造形に彫り込まれる鳥屋を始め、ものの観方は感覚的で突出している。この藤之助の視線が色調となっている。魚之助は芝居中に熱狂的な贔屓に足を切られその傷がもとで膝から下を失った。心に鬱積を抱え、悪態をつく。この二人のやり取りも凄味を帯びた会話のやり取りも見せ場の一つになっている。魚の助を何とか役者に戻したいというのが藤之助の思いだ。これが二人の絆となっている。この二人の空気感が物語を支配し、独特の世界を創り上げていく。二人は「鬼探し」の道行と洒落込むが、それは傾奇者たちが芸の道を究めるために鎬を削る地獄めぐりであった。
 余談だが、魚の助の造形を見て、舟橋聖一の『田之助紅』を想起した。江戸末期から明治初年にかけて一世を風靡した澤村田之助で、脱疽の為両足を失い、それでも舞台に立ったという伝説の女形である。山本昌代『江戸役者異聞』や皆川博子『花闇』でも取り上げられている。魚之助の造形のヒントかもしれないと感じた。
 まとめるとまず、語り口の巧さである。流暢で、饒舌、極彩色を帯びた筆勢は、読者を引き込む力を持っている。まかり間違えれば一本調子に陥りかねないリスクを抱えているのだが、それを跳ね返す力強い筆力と精神力を伺うことができる。第二は主役二人の考え抜かれた人物造形である。これが絡み合って、迫力に満ちたラストシーンを演出する。ラストシーンは泣けること請け合いの名場面となっている。
 第三は脇役陣も曲者ぞろいで楽しめる。そして何よりも心を動かされたのは、扉に掲載された『世事見聞録』の言葉である。「芝居が本となりて世の中が芝居の真似をするようになれり。」とある。つまり、これが作者のモチーフであり、物語が現実を超え、現実が物語の真似をするような物語を書きたいという作者の想いが本書を支えているのである。これを現代の戯作者魂という。作者にはこの魂を持ち続けて飛躍して欲しい。
 粗削りであるし、伏線の張り方や仕掛けの施し方には弱いところもある。というのは読者が途中で本を閉じてしまう危険性をはらんでいる作風であることをわかっててほしいと思うからだ。
 今年度ナンバーワンのベスト本である。
 単行本は10月28日刊行予定。

 泉ゆたか『江戸のおんな大工』 角川書店

江戸のおんな大工

江戸のおんな大工

  • 作者:泉 ゆたか
  • 発売日: 2020/07/29
  • メディア: 単行本
 

  著しい成長ぶりを見せた二作目『髪結百花』(日本歴史時代作家協会新人賞受賞)以降、『お江戸けもの医 毛玉堂』、『おっぱい先生』と、いずれの作品も平凡な中に非凡さが伺える着想と作風となっている。着実に力をつけてきた証拠だがそ んな作者の新作は、大工を目指す女性の話である。時代小説は題材の選定に成否の分かれ目があると言っても過言ではない。そのオリジナリティに作家としての着想の質が問われる。その点で作者は大見得を切るような題材を選んでくるわけではない。しかし、光っている。題材マーケティングの隙間を狙ってくるセンスの良さは抜群である。作風も決して華やかではない。それでいてホッとするような穏やかさに満ちている。これが作者のツボである。

 本書は、江戸小普請方の家に生まれ、幼き頃より父の背中を見て育った峰が主人公で、父が亡くなったことで人生の岐路に立たされる。頼りない弟の門作を尻目に、おんな大工として生きていくことを決意する、というのが物語の骨子となっている。こう書いてくると江戸のお仕事小説と思われるかもしれない。同書の良さは男社会や因習の厚い壁に押しつぶされまいと頑張ったり、男勝りの造形が施されたり、フェミニズム的な対応とは、全く無縁な世界を構築しているところにある。

 恐らく作者の狙いは、男と戦うという姿勢ではなく、大工という仕事に誇りを持ち、プロの腕を持っていた父のようになりたいという女性を造形するところにあったと思われる。作者の作家としての仕事ぶりもそのスタンスで貫かれているのであろう。この目線の高さはそのまま本書の目線の高さでもある。

 この目線の高さが上手く機能し、大工や施主の目線とマッチし、独特の雰囲気が現場に醸し出されている。一番印象的だったのは、大工というプロのスキルが要求される現場で、女性でなければ気が付かないデティールを、巧妙な仕掛けとして施したことである。それが竃の普請というエピソードで象徴的に扱われている。これが第一章で掴みの巧さも備わってきた。また各章の出だしに奇妙さを撒き餌とし、
 読者の気をそらさせない仕組みは作者の成長を物語っている。


伊多波碧『父のおともで文楽へ』(小学館文庫)

父のおともで文楽へ

父のおともで文楽へ

  • 作者:伊多波 碧
  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: 文庫
 

  目の前のモヤモヤがゆっくりと消えていくような爽やかな読後感が、本書の持ち味となっている。37歳でシングルマザー、おまけに派遣社員と来れば、現代の閉塞感に満ちた暗い世相では、三重苦を抱えた哀れな女性と思われかねない。これが本書の主人公・佐和子の境遇である。この女性の生き様が爽やかな読後感を与えるわけだから、生易しい作品ではない。と言って小難しい理屈が勝っている作品というわけでもない。力を抜いた文体で分かりやすく描いているというのが特徴で、本書の力となっている。
 その力の根源は佐和子の人物造形の巧さである。元夫との一人娘をめぐる葛藤、派遣先でのいざこざなど決して平穏な日常生活を送っているわけではない。時たまイライラしたり、生理的な嫌悪感に捕まって佇んだりする。これは自然現象みたいなものである。作者は力を込めて描かない。それがいい。
 もっといいのは父親の造形だ。無駄がない。それが佐和子に安らぎを送り込む。娘と父親の関係をこれほどすっきりした形を意識して描いたものは少ない。作者の資質から来るのかもしれない。
 物語は父親が観劇に誘ってくれた文楽を観たことから新たな進展を迎える。と言ってもこれにより物語が劇的に動いていくわけではない。文楽はゆっくり佐和子の内面に巣作りをしていく。この過程が実にいいのだ。文楽の台本が持つ倫理観や価値観を古いと思いつつも、時代を超えて語り継がれた力に飲み込まれていく。いつの間にか佐和子の生き様と撚り合わさって、絶妙な和音を奏でる。作者は前作『リスタート』から脱力を身につけ、新境地を開拓したようだ。これからの昨品から目が離せないぞ。


亀泉きょう『へんぶつ侍、江戸を走る』(小学館)

へんぶつ侍、江戸を走る

へんぶつ侍、江戸を走る

 

  時代小説というジャンルに、この作者のような前代未聞の感性と住所不定ともいえる独創性に満ちた着想を持った作家が、突然前触れもなく出現することがあるのでやめられない。
 主人公の人物造形が今風の若者言葉で言うとヤバいの一言に尽きる。なにしろ趣味は大首絵蒐集に下水巡りという変人。仕事と言えば将軍家重の冴えない御駕籠乃者。意表を衝く造形を狙ったととられかねないが、どっこい考え抜かれた仕掛けが施されているから驚かされる。まず、九代将軍家重を持ってきたことに留意する必要がある。家重は吉宗の長男で15年間、将軍職を務めたが、言語に障害があり、その言語を介したのは側用人大岡忠光のみであった。これが物語に幅を持たす役割を担っている。
物語は、主人公・明楽久兵衛が剣の腕は一級品。ところがアイドル好き。深川芸者の愛乃の大首絵の収集に血眼になっている。そんな愛乃が急死し、事態は一変する。その謎を追った久兵衛に幕閣の手が迫ってくるというもの。久兵衛は前代未聞の逃走劇をしながら謎に迫り、事件を解決する。

 素直な文章で読みやすいし、題材の選定も目の付け所がいい。それを物語として仕上げる能力も申し分ない。新人とは思えない力量を有している。おまけにこの事件を解決するための仕掛けが造形に施越すという達者さである。作者はかなりの曲者で緻密な計算が働いていることが読後わかってくる。
 ただ難もある。新人なのであえて書かせてもらう。久兵衛のへんぶつぶりをもっと密度濃く描けば興趣が盛り上がったと思う。一挙に解決という手法を採っているが、前半に解決につながる伏線を張っておけばもっと面白く読めたはずだ。特に家重の駕籠を担いでいた久兵衛にしか目に映らなかった家重像をエピソードの一つとすべきだったと思う。
 時代小説に新風を送り込める新人の登場である。

『映画に溺れて』第388回 ヤング・フランケンシュタイン

第388回 ヤング・フランケンシュタイン

昭和五十一年一月(1976)
大阪 千日前 大劇名画座

 

 小学生の頃、TVで毎週欠かさず観ていたのが『ザ・マンスターズ』というアメリカのコメディ。毎回マンスター家にちょっとした問題が持ち上がるというホームドラマ仕立てだが、一家の主人のハーマン・マンスターがボリス・カーロフそっくりのフランケンシュタインの怪物、妻は女吸血鬼、息子は狼男、おじいちゃんは天井にコウモリのようにぶら下がっているベラ・ルゴシ風の魔人ドラキュラといった具合。一家の苗字は小学生にもわかる初歩的なモンスターの洒落。このころから私はパロディが好きだったのだ。
 私が映画館で初めて観たフランケンシュタインのパロディはメル・ブルックス監督の『ヤング・フランケンシュタイン』である。
 現代のアメリカで外科医として暮らすフレッド。彼は自分の先祖が忌まわしい伝説のフランケンシュタイン男爵であることを恥じて隠している。トランシルバニアから使者が来て、結局のところ、先祖の地へ行き人造人間の創造を引き継ぐことに。
 ユニバーサル映画のオリジナルに即したストーリーがドタバタコメディ風に展開する。音楽も凝っていて、物悲しいヴァイオリンから、おどろおどろしいオープニングへと続くテーマ曲。そしてフレッドと怪物がアステア風に歌って踊るリッツ。
 フレッド・フランケンシュタインジーン・ワイルダー、怪物がピーター・ボイル、助手イゴールマーティ・フェルドマン、許婚がマデリン・カーン、森の隠者がジーン・ハックマン、家政婦がクロリス・リーチマン、若い女中がテリー・ガー。配役も最高だった。
 なにしろ、ピーター・ボイルはヒッピー殺しの『ジョー』だし、クロリス・リーチマンは『ラスト・ショー』のコーチの陰気な奥さん、マデリン・カーンは『ペーパー・ムーン』の色っぽい娼婦、ジーン・ハックマンは『フレンチ・コネクション』、当時馴染みの個性派俳優がそれぞれとんでもない役を演じていて、私はひたすらうれしかった。
 ジーン・ワイルダーフランケンシュタインの曾孫役のあとは、シャーロック・ホームズの弟で監督、主演する。こちらの共演はフェルドマンとマデリン・カーンだった。

 

ヤング・フランケンシュタイン/Young Frankenstein
1974 アメリカ/公開1975
監督:メル・ブルックス
出演:ジーン・ワイルダーピーター・ボイルマーティ・フェルドマン、マデリン・カーン、クロリス・リーチマ、テリー・ガー、ケネス・マース、ジーン・ハックマン

 

『映画に溺れて』第387回 フランケンシュタイン(1994)

第387回 フランケンシュタイン(1994)

平成七年二月(1995)
渋谷 渋東シネタワー1

 

 一九三一年のユニバーサル映画とは違い、メアリー・シェリーの原作にかなり忠実に作られ、時代考証もきちんとしているのが一九九四年、フランシス・フォード・コッポラ製作の『フランケンシュタイン』である。
 北極付近でロバート・ウォルトン船長が医師ヴィクター・フランケンシュタインに出あうという発端から原作そのまま。そこで語られるストーリーがこの映画なのだ。
 ヴィクター・フランケンシュタインはスイス人で、インゴルシュタットで医学を学んだ。彼が出会った老医師が生命創造を研究しており、ヴィクターは師事する。が、天然痘が町に流行った時、予防のための種痘を行おうとして、老医師は粗暴な船乗りに刺し殺される。医者殺しで船乗りは縛り首となる。
 師から生命の神秘を伝授されていたヴィクターは、この船乗りの真新しい死体に殺された老医師の脳を移植し人造人間を造る。
 が、それはおぞましい怪物であり、打ち捨てて故郷へ逃げ帰る。怪物は外見は醜い化け物だが、人並み優れた知能と体力の持ち主で、やがて言葉を覚え、自分を捨てた創造主に復讐するためにやって来る。怪物はヴィクターの幼い弟ウィリアムを殺し、無実の女中ジャスティンがウィリアム殺しで処刑される。
 怪物は自分の伴侶として女人造人間を望むが、ヴィクターに拒否され、その婚約者エリザベスを殺す。ヴィクターはエリザベスを生き返らせようと、ジャスティンの体にエリザベスの頭部を移植する。
 映画的に脚色されてはいるが、全体に原作通りなのがうれしい。しかも、怪物のロバート・デ・ニーロ他、配役が大物ぞろいで、見応えあり。監督のケネス・ブラナーフランケンシュタイン役を兼ねる。老医師がモンティ・パイソンジョン・クリーズ
 今までこれほどきちんとしたフランケンシュタイン映画があっただろうか。

 

フランケンシュタイン/Frankenstein
1994 アメリカ/公開1995
監督:ケネス・ブラナー
出演:ロバート・デ・ニーロケネス・ブラナー、トム・ハルス、ヘレナ・ボナム=カーター、ジョン・クリーズエイダン・クインイアン・ホルム、トレビン・マクドーウェル

 

書評『誰?』

書 名   『誰?』
著 者   明野照葉
発行所   徳間書店
発行年月日 2020年8月15日
定 価    ¥770E

誰? (徳間文庫)

誰? (徳間文庫)

 

 

 冒頭に断っておくが、本書は歴史時代小説ではない。昨2019年の梅雨の頃から、台風19号の去った10月頃までを背景とし、東京中野区を舞台として生きた一人の女を主人公とした小説である。当然、主人公は創作上の人物だが、凄まじき生の軌跡を追っているノンフィクションを読んでいるかのようで一気読みさせられた。
 読了した今、こうした「日常」に居場所のない女の典型を過去の歴史上に求めるとすれば「誰?」とは誰であろうかと、ひとり妄想している。
 この「誰」は平然と「弱き者」の仮面をかぶり、「女が男をカモにして、何が悪いの?」とばかりに狙った獲物をしとめるのだ。仮面を外した時、見える容貌はいかなるものか。ある意味、悪逆非道な鬼畜より、不気味で身の毛がよだつ。
 女は偶然の出会いを演出して、これまでに、多くの人の生命財産を脅かしてきたが、本書で女の餌食になるのは沢田隆(さわだたかし)、小林瑞枝(こばやしみずえ)、友野直也(とものなおや)の3人である。

 女の名は晴美(はるみ)。「第一章 歳上の男」において、彼女は東中野に住む武藤晴美(むとうはるみ)38歳として姿を現す。最初の鴨は7月末に71歳になった沢田隆。5年ほど前に一流企業を定年退職。妻を亡くしたが、息子がいるから、天涯孤独とは言えないが、息子は独立してこの家から出ていった。70過ぎの男の一人住まいである。一人で老いて、一人で惨めに死んでいくのかと、孤独感に苛まされて悶え苦しむ沢田が晴美と出会ったのは、近所の居酒屋だった。晴美との接点と縁は同じ東中野住まいだけだが、いわゆる独居老人の沢田は親子ほども年の離れた晴美に心奪われる。老いらくの恋、特に若い女には気を付けた方がいいと注意する人もいたが、沢田が心と体の単純ではない関係になっていくには、多くの時間を必要とはしなかった。

 「第二章 歳上の女」では、晴美は新井薬師に住み、工藤留美(くどうるみ)と名乗っている。晴美の新井薬師でのカモは、9月で59歳となる歳上の女・小林瑞枝(こばやしみずえ)。新井薬師在住、夫と二人暮らしの専業主婦。二人の子を育てるが、一人は結婚、一人は独立。やっと育て上げたと思ったら、当たり前のように家を出て行ってしまった。私の20数年はなんだったのだろうと孤独感にひたる毎日を過ごしている。
 留美が難儀な病気を抱え、生活保護を受けながら、新井薬師の小さなアパートで一人つましく健気に生きていると「不幸を絵に描いたような女」を演じているとも知らず、留美との出会いを運命的なものとする瑞枝は、留美は神が孤独な瑞枝に遣わしたエンジェルであり、その留美の世話を焼くことに生き甲斐を感じる女になっていく。

 一転して、「第三章 歳下の男」では33歳の編集者・友野直也がカモとなる。
東中野に住む直也に、晴美は沢田に接すると同様「武藤晴美38歳」と名乗り、「ペンネームは吉井順子のフリーライター。住まいは東中野のマンション。同じ業界で仕事をしている人間」として接近する。二人は急速に親しくなる。直也にとって晴美は直也に無償で肉体も提供してくれるありがたい存在だが、晴美にしてみれば、70過ぎの老人の萎れた一物を咥えこむセックスよりも、年下の若い男とのそれが愉しいことは当然で、晴美から体を直也に提供している。
 このようにして、晴美の前に、カモった相手として沢田隆、小林瑞枝、友野直也が現れ、釣り上げた魚と化す。晴美は人の孤独にとびきり鼻が利き、孤独にもがき苦しんでいる人が分かる。そうした人を物色し、「これ」と見定めた人物の情報を集めて、近づくのだ。決して、偶然の出会いではない。
 沢田も、瑞枝も、直也も皆、晴美の思惑通り、すんなり晴美の術中にはまる。実のところ彼らは晴美の身元、素性をよく知らない。晴美はあるときは「父は3歳の時に、母は25歳の時に亡くした。伯父はいるが兄弟姉妹もいない孤独の身の上」。ある時は、「6歳の時、両親 交通事故で亡くす。叔母病死。以降、天涯孤独」。あるいは
「4歳の時、父 首くくり。5歳から8歳まで、母佳子の再婚した相手にからだを弄ばされる」と身の上話を真に迫った嘘で偽造している。

 ある日ある時、晴美にとって想定外のことがおこる。
 晴美がはじめて沢田の家に泊まりに来た翌日であった。東中野の駅前近くで、中年女性が晴美を馴れ馴れしく「ルミちゃん、ルミちゃん」と声をかける……。
 瑞枝は、ある時、たまたま出かけた東中野で、思いかけず留美と行き会う。傍らには留美とは不釣り合いの年恰好の男性が……。
 かくして、沢田も瑞枝も、晴美の嘘、演技、詐病、そのことに遅まきながら気が付き始めた。沢田は晴美を留美と呼ぶ中年女性の存在がどうにも気になって、重ねて晴美に尋ねてしまった。瑞枝も同様だ。そうした時、晴美はまるで文鳥のような顔と首の傾け方で「ふふっ」と笑う。苦笑交じりに小さく息をつくような仕種をみせつつ、何を訊いてもすらすらと答え、いろんなことをペラペラしゃべって、人を信用させるのだ。「あの人は、内科のお医者さん。代田橋内科クリニックの沢田隆先生」とは瑞枝に語った嘘である。沢田は医師にされてしまう。
 新井薬師東中野の部屋を借り、二つの土地を餌場にする晴美にとって、沢田も瑞枝も、晴美の撒いた餌に食らい付いてきたカモであって、仕掛けの最中の、まだ釣り上げた魚ではない。ここでしくじるわけにはいかない。
「言葉が喋れるようになったぐらいの頃から、嘘をついていた」晴美には虚無感溢れる独特の「哲学」がある。哲学要綱は二点に絞られる。
「どう頑張ってみたって、現実や日常なんてつまらないものだ。それこそ退屈な日常を自分の好きな舞台に変えたい」。「真実など、知ったところで意味はない。なぜなら真実というやつは、往々にして残酷なものだからだ。その先にあるのは、底のない闇みたいな暗い絶望だけなんだから」。
 加えて、晴美には、自らは夢と幸せを売る側の人間であるという自負心があった。そうした晴美から見れば、沢田らは夢を買う側の人間にすぎず、したがって、「お前らは黙って甘い夢を見ていればいい。私の現実や事実、真実なんて探らないことよ。にもかかわらず、みなもっと知ろうと踏み込んでくるのは何故」ということになる。
 瑞枝は留美を愛し留美に執着しているだけに、しつこく嗅ぎまわって晴美を追及してくる。少々ことを急がねば、と晴美は焦り出す。
 ついに、晴美が沢田に激しい性交を強要して、死に追いやる。一番旨味のある金蔓の沢田が「爺転がし」の名のもと、最初に始末される。「沢田さん、恨むならあの女、瑞枝さんを恨んで」。これが、この時の晴美の捨て台詞である。
 晴美は金だけが目当てではなかった。複数のキャラをうまく分け、演者としてパフォーマンスすることを楽しんでいるにすぎないのだ。

 終盤は「爺転がし」の果ての東中野からの脱出劇である。
 東中野の家で「孤独死」している沢田が発見される。沢田の死には謎と疑問があった。「謎の女性」がとりわけ大きな謎としてうかび、「30代後半の女性」の特定が急がれた。晴美は東中野新井薬師の部屋をたたんで、この土地を離れた方がいいと判断する。

「エピローグ」では、若くして死去したとされた晴美の父母は健在で、晴美は生年を5年も若く詐称して「永遠の38歳」を称したことが明らかになる。「嘘という革袋をすっかり焼き尽くされて骨となった晴美」に、「もっとすごい嘘がつきたかったな」と吐かせる。なんと凄まじいエピローグであることか。

 作家は猛女怪女と被害者たちの出会いの軌跡を物語に仕立て上げる。読者は尋常ならざる情景に刺激されていく。読み始めて間もなく、手のひらにじんわりと汗が滲み出て来るであろう。被害者たちと同様な、晴美の掌で踊らされることの元となる、身に覚えがあるあの感覚がよぎってくるのである。例えば、沢田と瑞枝に共通するのは、孤独なこと。背景には二世代すら同居できない現代日本の住宅事情がある。我が子に見捨てられた沢田と瑞枝のような「隣人」は東京に限らず、私たちの隣の、全国どこにも存在する。「誰?」とは、主人公晴美であろうが、こうした「隣人」のことでもあるか。現代日本の病根を抉る佳品である。

 明野(あけの)照葉(てるは) は1959年、 東京都中野区生まれ。1982年 東京女子大学文理学部社会学科卒業。1998年「雨女」で第37回オール讀物推理小説新人賞を受賞し、デビュー。2000年『輪(RINKAI)廻』で第7回松本清張賞を受賞。
           (令和2年8月17日  雨宮由希夫  記)

『映画に溺れて』第386回 フランケンシュタイン(1931)

第386回 フランケンシュタイン(1931)

平成三年九月(1991)
大泉 練馬区立勤労福祉会館

 

 フランケンシュタインを描いた映画はたくさんあるが、やはりボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタイン』が一番有名であろう。日本での初公開は昭和七年であり、戦後もたびたびTVで放映された。ドラキュラ、狼男と並ぶ三大怪奇キャラクターである。
 その後続々作られるフランケンシュタインものの映画、イラストやコミックなどでもカーロフ演じる怪物の造形が踏襲され、映画を観ていない人までもが、頭の平な醜いあの大男を見ただけでフランケンシュタインとわかるほどだ。
 それゆえ、怪物の名がフランケンシュタインと思われがちだが、正確には怪物には名前がない。怪物を作ったのがフランケンシュタイン博士、あるいはフランケンシュタイン男爵。フランケンシュタインは創造主の名前なのだ。あまりに広まりすぎて、創造主を無視し、怪物がフランケンシュタインの名で呼ばれることも多い。
 小高い丘の上の屋敷に住むフランケンシュタイン男爵は墓場から集めた死体をつなぎ合わせて、実験室の塔の上から雷の電流を取り込み、人造人間を完成させる。
 だが、その創造物はあまりに醜く、男爵は手に負えなくて捨ててしまう。怪物は自分を創って捨てた創造者に復讐する。
フランケンシュタイン」は手に負えない怪物を創ったために翻弄される創造主の代名詞でもあるのだ。
 ウィリアム・ホールデンオードリー・ヘップバーンが共演した『パリで一緒に』は、映画界を描いたコメディだが、ホールデンふんするスランプのシナリオライターが口述筆記に雇ったタイピストに言う。
マイ・フェア・レディフランケンシュタインは同じ話なんだ」
 するとタイピストのオードリー、びっくりして考え込み、はっとする。
「イライザが怪物なのね」
「そう。でもだれにも言わないでくれ。今度シナリオ創作法を書くときに使うから」

 

フランケンシュタイン/Frankenstein
1931 アメリカ/公開1932
監督:ジェームズ・ホエール
出演:コリン・クライブ、ボリス・カーロフ、メイ・クラーク

 

 

書評『大富豪同心 贋小判に流れ星』

書名『大富豪同心 贋小判に流れ星』
著者 幡 大介
発売 双葉社
発行年月日  2020年8月10日 
定価  ¥650E

大富豪同心(25)-贋の小判に流れ星 (双葉文庫)

大富豪同心(25)-贋の小判に流れ星 (双葉文庫)

  • 作者:幡 大介
  • 発売日: 2020/08/07
  • メディア: 文庫
 

 

「大富豪同心」シリーズはドラマ化され、2019年5月より(再放送は同年10月より)NHKBSプレミアムで連続10回にわたり放映され、大評判だった。
 本書は人気シリーズの第25巻目。シリーズものであるがゆえに、第1巻から読み始めるのがベストだが、その余裕がないという読者には、第23巻「影武者 八巻卯之吉」から読み始めることをお勧めする。なんとなれば、第23巻から、本シリーズは新たなステージに突入したといえるからである。

 「大富豪同心」シリーズは2010年1月にスタートした。第一巻の冒頭で「時は安永、十代将軍家治の御世。梅雨明け間近、江戸は日本橋室町を24歳の卯之吉が歩いている」とあるのだが、第23巻「影武者 八巻卯之吉」には「将軍の隠し子」が登場し、贋小判事件が発生するのである。バン(幡)ワールドの新たな展開といってよい。
 「江戸一番の切れ者と名高い」同心八巻卯之吉の正体こそ、江戸一番の札差、両替商・三国屋の若旦那で、放蕩遊びの延長で南町の同心を努めているにすぎないにもかかわらず、難事件を難なく解決してしまう。そこが絶妙で面白い。卯之吉の奇行。芸者たちが鉦と太鼓、三味線で伴奏する中、扇を取り出して、優美に舞い始める。クルクル、クネクネと自分の気が済むまで踊り、パチリと扇を閉じて茫洋とした風貌で満足そうに瞑目する。この主人公の不可思議なキャラクターを、テレビドラマでは歌舞伎役者の中村隼人が好演していたのは記憶に新しい。

 本物と見間違えるほどに精巧な贋小判が江戸市中に出回り、両替商が軒並み倒産させられてしまいかねない事態の発生。贋小判の横行を放置すれば、幕政の根幹がひっくり返る。何者かが贋小判を大量に持ち込んだのか、贋小判の大元を突き止めさえすれば、この騒動は収まるのだが。
 この騒動を動かしているそもそもの巨悪の元締めは、卯之吉の祖父・三国屋徳右衛門にとって代わろうとする豪商・住吉屋藤右衛門とその娘で上様御寵愛第一と評判の大奥中臈の富士島、の父娘であった。
 「上様の弟君の幸千代(ゆきちよ)君(ぎみ)を、江戸にお招きくださいませ」と病床に臥せる上様に言上したのは富士島だった(23巻11頁)が、いまでは他ならぬ富士島その人が「若君暗殺」の陰謀に加担している。幕閣の熾烈な権力闘争がからんでくるところが本シリーズの骨格であるが、かくして、このたびの闘争は「三国屋」VS「住吉屋」の構図となり、これに、「先代将軍のご落胤・幸千代君を推戴しようとする派」VS「御三家より将軍を迎えんとする派」の将軍家のお家騒動が絡む。住吉屋に肩入れする者は、幸千代を殺せば、尾張様か水戸様かわからないが、新しい上様が、自分達に目を掛けてくれるという口約束を信じて、住吉屋の掌で踊らされている。

 さて、卯之吉といえば、筆頭老中本多出雲守下屋敷で、幸千代君の替え玉、影武者をつとめている。卯之吉と幸千代君は鏡を見るようによく似ているのである。わけあって、甲斐の山中で隠し子として育てられた幸千代君は、「武芸者、剣術の達人」であるところが、唯一、卯之吉とは似つかないところである。
 幸千代君の身辺を護っているのは俗に甲府勤番“山流し”といわれた不逞の貧乏旗本御家人たちであった。また、甲府から江戸に戻ってきた甲府勤番で、白虎連と称し住吉屋の陰謀に加担している者達は、驚くほどの大金を持って暗躍している(23巻284頁)。ことほど左様に抗争をめぐる構図が複雑である。
 卯之吉が幸千代君の影武者をつとめているとき、幸千代君本人は八丁堀にある卯之吉の役宅にあって、八巻同心に扮している。卯之吉と幸千代は座敷を勝手に抜け出して入れ替わることがしばしばで、警固のものたちは目が離せない。「三国屋」側としては、卯之吉が幸千代の替え玉だと敵側に知られては困る。

 幸千代の愛しい許婚の真琴(まこと)姫(ひめ)は本多出雲守の下屋敷の一棟を住居とし、行方をくらませている幸千代を探している。卯之吉にほれ込んでいる女剣士・溝口美鈴は江戸の下谷通新町に道場を構える剣豪・鞍馬流溝口左門の一人娘だが、真琴姫の警護で同じく本多出雲守の下屋敷につめている。二組のカップルの、卯之吉と幸千代の入れ違いによるすれ違いが面白い。同じく江戸では出雲守の保護下に置かれている大井(おおい)御前(ごぜん)は幸千代の乳母。武田信玄の血を引く老婆で、甲斐国内では生き神のように崇められているその存在感がたのもしい。
 いよいよもって、幸千代君の毒殺が実行されたのは第24巻「昏き道行き」。
本所小梅村に工房を持つ塗師、名人・治左ヱ門は「お前の毒で、上様の弟君・幸千代を殺せ」と住吉屋に迫られるが、治左ヱ門が造った葵の御紋入りのお椀で殺されたのは他ならぬ治左ヱ門であった。いかなる手立てをもって、幸千代君のお椀に毒を仕込んだのか、その謎解きや如何に。それは第24巻を紐解き味わってほしい。

 はじめて「大富豪同心」を御目見得される読者諸兄のために、“常連さん”を簡単に紹介しよう。
 卯之吉の周囲は皆一風変わった者ばかりだが、その代表的登場人物は江戸の侠客で暗黒街の顔役・荒海ノ三右衛門である。卯之吉の「一の子分」を自任する三右衛門は卯之吉のことを、本巻でも、切れ者の同心と信じ込んでいる。
 深川一の売れっ子芸者で江戸中の男の憧れの菊野(TVドラマでは稲森いずみが好演)は卯之吉に惚れ込んでいるが表には出さない、姉のような恋人のような存在だが、本巻では実は小太刀の使い手であると知れた。
 幇間の銀八は岡っ引きとして卯之吉の身の回りの世話から事件の捜査まで行うが、卯之吉が「剣豪同心ではない」ことを知っているが、全くの野暮天で恋愛の機微に鈍感な「相棒」。 
 水谷弥五郎は三国屋の徳右衛門から、卯之吉の警護のために雇われた人斬り稼業の浪人。借金を返すために、八巻同心の手下か密偵のように走り回って、何度も危険な目に遭いながらも、卯之吉という金持ちから離れられない貧乏人。
 第24巻の「昏き道行き」では弥五郎の素性が明らかになった。「生き別れの子がいた」とする人情噺からつむぎだされる「人として大切なもの」に読者は惹きつけられることだろう。
 本業は歌舞伎役者の由利之丞は歌も踊りも芝居も下手で売れない役者。弥五郎同様、八巻の手下か密偵のように走り回り、時にニセ同心・八巻卯之吉をも演じる。
 村田銕三郎(てつさぶろう)は南町奉行所筆頭同心。卯之吉の同僚にして先輩同心。南町一の同心でありながら、卯之吉のせいで散々な目に合わされている。本来定町廻りながら、今回は隠密回りの役儀でうらぶれた姿に変装し甲斐国に潜入する。
さて、贋小判の出所は掴めたのか?
 住吉屋は甲州金座の家柄だったことが明らかになった。(本巻10頁)。住吉屋は娘を使って将軍を操り、「日本一の商人」となって天下の商業を我が物にしようとする。米相場への投機で暴利を得、三国屋と持ちつ持たれつの関係の本多出雲守を追い落とし、三国屋を破産させようと画策する。
 若君様をお守りする勤番の中に裏切者がいたことは第23巻でわかっていたが、「悪事の親玉は大奥のお中臈様だったのか」と卯之吉。ついに、本巻で卯之吉は若君が甲斐から江戸入りした時期と、贋小判が市中に出回り出した時期とが、ちょうど重なることを突き止めるのである。
 今回も、「辣腕同心」、「人斬り同心」の虚飾がはがれて、放蕩者卯之吉の本性を見抜かれることなく、事件はひとまず「解決」するのだが……。
 抱腹絶倒、軽快な魅力が堪能できるだけではない。書下ろし時代小説花盛りの今、幡大介のそれは奥深さが一味も二味も違う。 


          (令和2年8月15日 雨宮由希夫 記)

 

『映画に溺れて』第385回 ゴッド・アンド・モンスター

第385回 ゴッド・アンド・モンスター

平成十四年二月(2002)
池袋 新文芸坐

 一九三一年のユニバーサル映画『フランケンシュタイン』はボリス・カーロフ演じる怪物で有名だが、それを監督したのが英国生まれのジェームズ・ホエール。引退後、一九五七年五月にハリウッドの自宅プールで溺死した。いったいなにがあったのか。
 老いたホエールは新しい庭師のブーンに目をつけ、絵のモデルになってもらう。
 ブーンは高名な監督と親しくなれて、単純に喜んでいる。が、ホエールにゲイだと打ち明けられ、いったんは激怒して逃げ出すも、また戻ってくる。
 ホエールはジョージ・キューカーのパーティにブーン同伴で出席する。主賓のマーガレット王女はホエールを雇われカメラマンと間違える。上流界や芸能界と無縁の庭師ブーンはパーティで場違いだが、引退した映画監督もまた居場所がなかったのだ。
 この夜、家政婦が外出していて、ホエールはブーンを口説くが拒否される。ホエールの幻影の中で、ブーンがフランケンシュタインの怪物のように現れる。朝、庭師が目覚めると、老いた監督はプールに浮いていた。
 時が流れ、ホエール監督の『フランケンシュタイン』がTVで放映されている。居間でTVの前の子供が目を輝かせている。子供は怪奇映画が好きなのだ。いっしょに見ている父親はブーンである。妻が食器を洗っている。小市民の食後の団欒。
「この映画の監督と友達だったんだ」とブーンが子供に言う。
「また、お父さんのホラが始まったわ」と妻。 彼は妻に隠れてそっと一枚の絵を取り出す。怪物を描いたホエール監督直筆のスケッチ。ブーンの名があり、「友より」とのサイン。
 家庭を持ち、妻と子供とささやかに暮らしているブーン。ゴミを捨てに表に出て、ふと夜空を見上げる。そこに『フランケンシュタイン』を模したエンドクレジットが流れる。
 ホエール監督を演じたイアン・マッケランもまた、同性愛者であることを公表している。

 

ゴッド・アンド・モンスター/Gods and Monsters
1998 アメリカ/公開2000
監督:ビル・コンドン
出演:イアン・マッケランブレンダン・フレイザー、リン・レッドグレイヴ、ケヴィン・J・オコナー、ロリータ・ダヴィドヴィッチ、デヴィッド・デュークス

 

『映画に溺れて』第384回 グッドライアー 偽りのゲーム

第384回 グッドライアー 偽りのゲーム

令和二年二月(2020)
日比谷 TOHOシネマズ日比谷

 

 ヘレン・ミレンイアン・マッケラン、どちらもイギリスのシェイクスピア俳優にしてベテランの名優、映画に主演もすれば脇役も多い。
 デイムの称号のあるヘレン・ミレン。私が最初に記憶しているのは『天才悪魔フー・マンチュー』のヒロインだった。その後『エクスカリバー』の魔女モルガナの妖艶さ。最近ではヒッチコックの妻になったり、エリザベス女王になったり、大活躍である。
 一方、サーの称号のあるイアン・マッケラン。『X-メン』のマグニートーと『ロード・オブ・ザ・リング』の魔法使いガンダルフ、このふたつの役が特に印象深いが、『ゴッド・アンド・モンスター』でジェームズ・ホエール監督役、『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』では老いたシャーロック・ホームズも演じている。
 デイム・ヘレンとサー・イアン、この燻し銀のような二人が共演、しかも騙し合うというのだから外れはない。
 資産家の未亡人ベティは上品な老婦人。ロイは温厚で品のある老紳士。ロンドンに住むベティはインターネットの出会い系サイトでロイと知り合い、デートする。ふたりは意気投合し、親しくなる。
 実はロイは名うての詐欺師で、金持ちのベティに目をつけ、取り入ることに成功する。うまい投資話を持ちかけて、全財産を奪うのがいつもの手口。
 ロイはエレベーターのないアパートの最上階に住んでいるのだが、膝が痛くてつらいと同情を引き、とうとうベティの家に居候するまでになる。
 ベティの孫が現れ、ロイを疑うが、ベティは気にしない様子である。さて、このままベティは簡単に騙されてしまうのか。
 ところが、どうもベティもあやしいのだ。ただの人のいい老婦人ではなさそう。なにか企んでいるようだ。配役からして癖のあるヘレン・ミレン、お人好しの未亡人で終わるわけがない。さて、ふたりの騙し合い、どう展開するか。

 

グッドライアー 偽りのゲーム/The Good Liar
2019 アメリカ/公開2020
監督:ビル・コンドン
出演:ヘレン・ミレンイアン・マッケランラッセル・トーヴィー、ジム・カーター

 

『幽霊画展』開催のお知らせ

『幽霊画展』開催のお知らせ

落語中興の祖・三遊亭圓朝ゆかりの「幽霊画展」 全生庵で開催中(8/1~8/31)

http://www.theway.jp/zen/event/yureiga2020.pdf

江戸末期から明治にかけて活躍し、「牡丹燈籠」「真景累ケ淵」「死神」など、多くの名作落語を創作した落語中興の祖・三遊亭圓朝は、怪談創作の参考に数多くの幽霊画を収集していました。伝・円山応挙というものから、柴田是真、伊藤晴雨河鍋暁斎など、著名な画家たちが描いたさまざまな幽霊たち。現在は、圓朝墓所がある全生庵でこれらのユニークな幽霊画を所蔵しており、毎年八月の1ヶ月間のみ特別公開しています。(写真:左から、伊藤晴雨怪談乳房榎図」、池田綾岡「皿屋敷」、鰭崎英朋「蚊帳の前の幽霊」。 すべて全生庵所蔵。)

【開催概要】
全生庵 幽霊画展
・場所:全生庵(東京都台東区谷中5-4-7)
・期間 :2020年8月1日(土)~2020年8月31日(月) ※土日祝祭日も開催
・開館時間:10:00~17:00(最終入場16:30)
・拝観料 :500円
・アクセス:JR線京成電鉄 日暮里駅 徒歩10分/東京メトロ千代田線 千駄木駅(団子坂下出口)徒歩5分
・尚、新型コロナウィルス感染症予防策を講じ入場制限を行う事が御座いますので予めご了承下さい

三遊亭円朝(一八三九~一九〇〇)は幕末から明治にかけて落語界の大看板であると共に、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られております。そして、今なお落語界はもとより歌舞伎をはじめ、演芸界全般に多大な影響を与え続けています。また人格面においても、全生庵開基・山岡鉄舟の導きにより禅をよく修し、その淵源を極め、京都天竜寺の滴水禅師より「無舌居士」の号を付与され「芸禅一如」の境涯に達した人物でもあります。全生庵に所蔵している円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈されました。

是非この機会に御賢覧ください。